古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。







 古村治彦です。



 2013年12月19日、猪瀬直樹東京都知事が辞職を表明しました。これを受けて、今後行われる都知事選挙の候補者の名前が多く報道されています。「橋本聖子参議院議員(自民党)、小池百合子代議士(自民党)菅直人代議士・元首相(民主党)、蓮舫参議院議員(民主党)舛添要一元厚労相(民主党からの擁立の可能性)下村博文代議士・文部科学相(自民党)、丸川珠代参院議員(自民党)、片山さつき参院議員(自民党)、東国原英夫

代議士(日本維新の会を離党・辞職予定)、川淵三郎(首都大学東京理事長・日本サッカー協会最高顧問)」の名前が挙げられています。



 これから選挙が近づいていくにつれて、どんどん候補者が絞られていくでしょう。今まで挙げられた人々の多くが現職の国会議員や大臣であることを考えると、それらの職を擲って、都知事選挙に挑むとは考えにくいです。もし選挙に敗れたら無色になってしまうのですから。そこで、注目されるのは、川淵三郎氏です。川淵氏はサッカーのプロリーグであるJリーグの創設に関わり、チェアマンとなりました。チーム名に企業名をつけることを認めない姿勢を貫き、読売の渡邉恒雄氏(読売ヴェルディを認めるように主張しました)と対立しました。2002年から2008年まで日本サッカー協会日本サッカー協会会長(キャプテンと自称しました)を務めました。日本サッカーのプロ化、日本代表チームの強化(1998年のワールドカップ初出場から連続して本大会に出場できるほどになりました)に功績があった人物です。



 川淵氏は、猪瀬直樹氏の都知事選挙の選対本部長(実務に携わっていないでしょう)ということで、安倍晋三首相と石原慎太郎代議士(前東京都知事)との間で、有力な候補者であることが確認されています。川淵氏は、日本サッカー協会の重鎮であること、早稲田大学出身で文教族の大物政治家たち(森喜朗元首相や下村博文文科相など。早大雄弁会系は文教族になる人が多かった)との関係も深いこと、スポーツ関係に幅広い人脈がることなどから、東京オリンピックの開催準備には適した人物ということになると思います。



 2020年東京オリンピックの招致に関しては、内閣官房参与の平田竹男・早稲田大学スポーツ科学研究科教授がキーマンとなっています。平田教授は、1982年に横浜国立大学から通産省に入省し(同期に安倍晋三首相の政務秘書官である今井尚哉)、エネルギー畑を歩いた人物ですが、途中、日本サッカーのプロ化にかかわり、2002年には日本サッカー協会に転職し、専務理事となりました。そして、2006年からは早稲田大学教授となりました。平田氏の持つサッカー人脈(高円宮妃久子さまの招致活動への参加がその最たる例です)、エネルギー外交人脈が東京オリンピック誘致に貢献したことは自明のことですが、それが東京都知事の候補者にも及ぼうとしているのだろうと私は考えます。


 ここら辺の人脈関係については、来年1月に出版する『ハーヴァード大学の秘密』(PHP研究所)に書いております。

 川淵氏は権力志向が強い人物という評価があるところから、都知事という地位には興味があるのではないかと思います。川淵氏が自公の候補者ということになると、他の勢力には大きな脅威になることは間違いありません。川淵氏より知名度や実績が上の人物となるとなかなかいないのですから。



(新聞記事転載貼り付けはじめ)



●「川淵三郎氏で候補一致か 安倍首相と石原前都知事 都知事選で意見交換」



DAILY NOBORDER 1219()2253分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131219-00010003-noborder-pol&pos=1



猪瀬都知事が辞職を表明したことを受けて、各党・各会派は早速、次の都知事候補選びに入った。



「猪瀬都知事を作った人物に責任を取ってもらうのがいい」(自民党幹部)



党内のこうした声を受けて、自民幹部の一人は安倍首相の元を訪れ、石原慎太郎前都知事との接触を求めていたという。



実際に、猪瀬知事辞職の前日(18日)、安倍首相は、「日本維新の会」の石原代表らと官邸で昼食を取りながら後継知事について意見を交わしていた。



首相と前知事の二人が、次期都知事候補として意見を一致させたのが、猪瀬知事の選対本部長でもあった首都大学東京理事長で、日本サッカー協会最高顧問の川淵三郎氏だった。



確かに、元Jリーグチェアマンでオリンピックを控える国際都市「東京の顔」としても申し分ない。



だが、不安も除去できなかったという。



「猪瀬知事が、行政経験のない政治のアマチュアだったということが今回の辞職劇ではっきりした。川淵氏も同じではないかという不安は拭えない。仮にそうなったとしても党として推すのは難しいのではないか」(同自民党幹部)



自民党内では他にも、橋本聖子参議院議員、小池百合子衆議院議員など女性議員を推す声も上がっている。



石破茂幹事長は、都知事選のタイムスケジュールを考えると「今年中の候補者決定が望ましい」と答えた。



時間はない。果たして、安倍政権は新しい「東京の顔」に意中の人物を据えられるのだろうか?



●「都知事選 民主に舛添氏擁立論、浮上 菅元首相や蓮舫氏…人材難深刻」



産経新聞 1220()755分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131220-00000115-san-pol



東京都知事選をめぐり、候補者探しに苦しんでいるのは民主党も一緒だ。浮上してくるのは菅直人元首相や蓮舫元行政刷新担当相といった毎度おなじみの顔ぶれで、人材難は深刻。こうした中、党内からは舛添要一元厚生労働相の擁立を求める声がにわかに浮上してきた。



「厚労相としての経験も十分ある。舛添さんにする可能性はある」



民主党都連幹部は19日、産経新聞の取材にこう語った。党勢が低迷し、かつこれ以上国会議員を減らすわけにはいかない党執行部は、党所属国会議員を擁立するのには否定的。党内で名前が取り沙汰される菅氏も同日、国会内で記者団に「地球が逆さに回ってもない」と出馬を否定した。



そこで白羽の矢が立ったのが知名度の高い舛添氏だ。19日に開いた幹部会では舛添氏に関し「特定秘密保護法についてはうちと近い」などの声が出た。



当の舛添氏は19日、都内で記者団に「いま充電中。何も決めていない。何も考えていない」と肯定も否定もせず、けむに巻いた。その上でエールを送った先は新党「結いの党」。「新党がいかに難しいかは、苦労したから分かる。15人いるなら頑張れば何かやれるかもしれない」と語り、民主党については「もっとしっかりしてもらわないと。ひどすぎる」とこき下ろした。



相思相愛にならない民主党と舛添氏。実は民主党は昨年12月の都知事選の際も舛添氏に出馬を要請したが、断られている。



「候補者を担ぐというより、そっと背中を押す程度になるだろう」と語るのはある幹部。無党派層がカギを握る「首都決戦」で、信頼を回復できていない民主党が前面に出るのは避けたい-。これこそが執行部の本音にほかならない。(坂井広志)



●「<都知事選>女性議員や閣僚浮上 候補選び本格化」



毎日新聞 1219()2341分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131219-00000150-mai-pol



東京都の猪瀬直樹知事の辞職表明を受け、与野党は19日、知事選へ候補者選定を本格化した。安倍晋三首相は自民党の石破茂幹事長に「行政手腕があり、勝てる候補」の人選を急ぐよう指示。民主党は、自公民3党の「相乗り」は困難との認識が大勢だ。政府・与党内では、複数の女性国会議員や現職閣僚らが浮上。ただ、最後に名乗りを上げる「後出しじゃんけん」が有利との見方もあり、情勢は混沌(こんとん)としている。【高橋恵子、飼手勇介、光田宗義】



自民党は都知事選の告示まで約1カ月という短期間で有権者への浸透を図ろうと、年内にも候補の人選を終えるのが基本戦略だ。都連会長の石原伸晃環境相は19日、河村建夫選対委員長と党本部で会談。都連は20日の役員会で人選を協議する。政府・自民党は今週末以降に、名前が取りざたされている「候補者候補」について独自の電話調査を行い、都民の志向を見極めたい考えだ。



自民都連や五輪関係者からは、東京五輪の準備を急ピッチで進める必要から、冬季五輪メダリストの橋本聖子参院議員(49)や、スポーツ担当の下村博文文部科学相(59)に出馬を求める動きがある。



金銭受領問題で傷ついた都のイメージ回復のため、首相官邸や都連幹部には「後任は女性がいい」との意見が多く、東京選出の丸川珠代参院議員(42)を推す声もある。小池百合子元防衛相(61)、片山さつき参院議員(54)らも取りざたされているが、19日に名乗りを上げた人はいなかった。



野党は、安倍政権の支持率が急落したことを踏まえ、都知事選を巻き返しの第一歩にしようと狙う。来年の通常国会で特定秘密保護法の廃止法案を提出する民主党は、19日午後に幹部が都知事選への対応を協議。大畠章宏幹事長は記者会見で「自公民3党で1人の候補を推すことは難しい」と相乗りを否定し、人選を急ぐ考えを示した。共産党は独自候補を擁立する構えだ。ただ、秘密保護法の国会審議などで内部が揺れた日本維新の会、みんなの党、結いの党などの対応は未定で、野党内の思惑は定まっていない。



過去の都知事選では知名度の高いタレント候補らに与野党の候補がたびたび敗れており、▽日本維新の会を離党した東国原英夫前衆院議員(56)▽7月に議員を引退した舛添要一元厚生労働相(65)--の動向に、各党は神経をとがらせている。東国原氏は19日、「現時点で(出馬の)計画はない」と述べるにとどめた。与党内では舛添氏を推す声があるほか、「勝てる候補に乗るべきだ」との声も漏れる。民主党幹部は「うちはいつも後出しじゃんけんでやられる」と警戒した。



(新聞記事転載貼り付け終わり)



(終わり)


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 古村治彦です。

 今回は、2013年11月、12月に刊行されましたフランシス・フクヤマ著『政治の起源(上・下)』(会田弘継訳、講談社)の欧米の一流メディアに紹介された書評の翻訳(2013年10月29日に旧版ブログに掲載したもの)を再掲いたします。年末年始の読書計画に是非お加えいただければ幸いです。

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①エコノミスト誌 2011年5月31日

http://www.economist.com/node/18483257

「歴史に関する諸理論」

11世紀にカトリックは聖職者に対して禁欲を強制したが、これが他の地域に先駆けてヨーロッパに法の支配を生み出した。その理由は何か?この疑問に対する答えは、フランシス・フクヤマの刺激的な新刊の中にある。禁欲主義はローマ法王グレゴリー七世によって制度化された重要な改革の一つであった。禁欲主義によって、教会法は発達し、王と言えど協会法には従わねばならないという考えが生み出されたのだ。グレゴリー七世は、神聖ローマ皇帝ヘンリー四世を屈服させたことで名前が残っている。カノッサにおいてヨーロッパで最強の人物ヘンリー四世を自分の前で跪かせて懺悔させたのだ。

禁欲主義は、カトリック教会名部の腐敗とタダ乗りに対する戦いにおいて重要であった。この2つは世襲では必ず起こるものであった。禁欲主義改革はカトリック教会が「近代的で、階層的、官僚的で法に支配された機関」と呼ぶものへと進化するための道徳的進歩をもたらした。この「近代的で、階層的、官僚的で法に支配された機関」は、精神面での権威を確立した。これが世俗国家の確立のための土台となるルールを生み出すことになった。

サミュエル・ハンチントンは40年以上前に政治秩序に関する古典的名作を書いた。フクヤマはハンチントンの生徒だった。フクヤマは、政治秩序起源の研究を小規模の狩猟グループから部族への変化の研究から始めた。それがやがて「リバイアサンの登場」、つまり強制力を持つ国家へと変化していった。農業を基礎とする社会の複雑さが増す中で国家は登場した。更には、規模が拡大し続けていった戦争を遂行するために組織の面の必要性からも国家は生まれたのだ。

フクヤマの知識の豊富さには目を見張るものがある。加えて、彼は中国、インド、イスラム世界、ヨーロッパ各国を旅し、良い政治秩序の主要な構成要素を探し求め、それぞれの地域でどのようにして、そしてどうして政治秩序が生まれ、消えていったかを調査した。
フクヤマは、政治秩序の重要な3つの要素として、強力な国家、社会全体に対する法の支配、支配者の行動を制限する説明責任を挙げている。

フクヤマは史上初の近代国家は、紀元前221年に成立した中国の秦であると確信している。秦が生み出した多くの管理メカニズムはそれから500年間を通じて発達した。中国全土が小国に分立し、それぞれが相争いながらも合従連衡をするという東周時代まで続いた。このような管理メカニズムには、徴兵された軍隊とそれを率いる実力主義で昇進した(貴族中心ではない)指揮官、洗練された徴税システム、そして家族のつながりではなく才能を重視して採用される官僚たちが行政を司るといったことが含まれていた。秦は更に改革を勧め、全体主義に近い、その前身とも言うべき独裁政治制度を確立しようとして、社会の全ての部門に非情な変革を強制した。

秦の急進主義は結局のところ、秦の滅亡を誘発し、その後、漢王朝が取って代わった。韓王朝は秦よりも長く続いた。漢は貴族エリートたちと妥協し、復活した儒教の正当性を認めた。漢は400年以上続いた。しかし、フクヤマが「悪帝問題」と呼ぶ問題と人間の思考傾向そのものによって滅んだ。富、力、地位を与える基準に親族関係を据えたことで漢は滅んだのである。フクヤマは次のよう書いている。「中央集権的な国家の強さと家族主義のグループの強さとの間には負の相関関係がある。部族主義は、近代国家が生み出された後でも、政治組織の決まった形として存続した」

本書の大部分のページで描かれているのは、強力な統一国家を目指す世界各地の支配者たちの間の争い(軍事的な支配がこの当時の支配者たちの目的であった。それは技術の発達よりも征服ことが豊かになる方法であったからだ)と、支配者たちと親族集団との間の争いのことである。親族集団は支配者たちが目指す統一国家を崩壊させる力を持っていた。中国の歴代皇帝たちは、宦官を高い地位に就けることを好んだ。8世紀のアッバース朝からエジプトのマムルーク朝とオスマントルコまで、イスラムの歴代支配者たちは身内優先の贔屓と部族間の争いを減らすために軍事奴隷制度を確立した。

マムルークは一代限りの貴族で、スルタンにだけ忠誠を誓った。ジャニサリーはオスマントルコ帝国の軍事奴隷の中のエリート部隊であったが、結婚は認められなかった。しかし、2つの制度とも空洞化していった。それはマムルークもジャニサリーも利益団体に変質し、彼らがそれを守ることを目的にして創設されたはずの中央集権化した国家を滅亡させるだけの力を蓄える結果となった。縁故主義が再び姿を現したのである。

フクヤマは、そこまでの絶対王制ではなかった一七世紀のフランスと内戦と1688年に名誉革命が起きたイギリスとの間で興味深い比較研究を行った。イギリスは世界で最初の望ましい政治秩序の構成要素が結合した場所である。デンマークがそれに続いた。政治秩序の構成要素とは、強力な国家、法の支配、そして説明責任の三つである。フランスが抱えていた問題は、王が貴族たちの法的特権に挑戦する自信を十分に持っていなかったことであった。しかし、王も貴族も農民たちと勃興しつつあった商人たちに対する法の支配の適用は拒絶する点で一致していた。農民も商人も徴税を通じて国王が戦争に必要としていた資金を提供していた。その当時のイギリスは民主政治体制と言えるものではなかったが、慣習法の発達、立憲君主制のための政治的条件の確立、経済発展によって社会全体で説明責任が確立されていた。

この第一巻目はフランス革命までを取り上げたものだ。第二巻目はそれから現在までを取り上げるもので執筆中だそうだ。この一巻目の内容は、私たちの近代国家と近代国家の成り立ちの理解にとって重要なものを提供してくれる。例えば、中国には中央集権化した賢明な官僚たちが存在するが、法の支配はまだ弱く、説明責任という考え方もない。フクヤマは、毛沢東という存在が、中国は未だに「悪帝」問題から免れられないでいることを示していると主張している。一方、インドの国家は弱体であるが、中国に比べて説明責任は確立され、法律も整備されている。

フクヤマはまたわたしたちにこの春に起きたアラブの春が政治秩序に関する、彼の3つの試験に合格しているかどうかの尺度を与えてくれる。テストの成績は良くはなかったが、落第というものではなかった。フクヤマは今でも私たちに俯瞰図を与えてくれる人物である。彼は私たちに「歴史の終わり」という大きな考えを提示した。しかし、彼は同時に細かい点にも目配りをしている。政治理論の本というととかく難しくて読み進めるのも大変だが、この本はそうではない。

(終わり)

②ガーディアン紙 2011年5月12日

http://www.theguardian.com/books/2011/may/12/origins-political-order-francis-fukuyama-review

「書評:フランシス・フクヤマ著『政治の起源』」

デイヴィッド・ランシマン(David Runciman)筆

秩序だった、活発な活動を行う社会を形作るのは要素とは何か?フクヤマはこの問いに答えを持っているのか?

フランシス・フクヤマはこれからも常に『歴史の終わり』の著者として知られていくだろう。『歴史の終わり』という本を書いたことで、フクヤマには政治的な楽観主義者という評判が付いて回る。「フクヤマは、歴史がその辿るべきコースを辿っていけば全てが民主政体にたどり着くと確信しているのだ」というのである。実際のところ、フクヤマは皆さんが考えているよりもずっと悲観的な思想家である。常に何か悪い方向に行くのではないかと考えている。『歴史の終わり』は1992年に出版された。綺麗な装丁の本ではあったが、1989年に出された「歴史の終わり?」論文よりもだいぶ中身が暗いものになっていた。『歴史の終わり』は、フクヤマの師の一人で、シカゴ大学の哲学教授で保守派のアラン・ブルームの影響を色濃く反映していた。ブルームは、アメリカ社会が知的な相対主義とポップカルチャーの海に沈みつつあるとかなえた。そして、フクヤマは、1989年以降の民主政体の勝利もまたそれらによって脅かされると考えた。イデオロギー上の激しい戦いがなくなったことで、人々にとって政治は関心事ではなくなるだろうというのであった

フクヤマの新刊は彼のもう一人の師である、ハーヴァード大学の保守的な政治学者であったサミュエル・ハンチントンの影響を強く受けている。ハンチントンは『文明の衝突』によって世界的に知られている。しかし、彼の主要な関心は政治秩序にあった。政治秩序はどのように構築され、どのように崩壊するのかということに彼は関心を持った。ハンチントンは、より良い秩序を持つ社会に至る道筋には2つの危険なものが存在すると考えていた。より良い秩序に到達できない理由は、社会が血なまぐさい闘争と内戦が起きる条件を超越できないことと、ある型に固執して、新たな脅威や挑戦に対処できないことである。フクヤマはこの枠組みを民主的な秩序に関する問題に適用している。いくつかの社会では民主的で安定した秩序に到達できるのに、貴族政に留まる社会があるのはどうしてだろうか?そして、民主政治体制は直面する新たな脅威や挑戦に対処できるのであろうか?

最初の質問に答えるために、フクヤマは人間社会の起源にまで遡る。これを人類以前の歴史と呼ぶのはやり過ぎだと思われる。最初の数ページは猿のことが書かれ、それから初期人類の物語が書かれている。人類は常に緊密な関係を持つグループに組織化されている。ルソー流のパラダイスなど存在しなかった。精神的に自由な個人が原始的な森の中で自由に暮らしているなどと言うことはなかった。問題は最初の人類社会が人々の緊密過ぎる関係の上に成り立っていたということである。これらは基本的に親族関係を基にしたグループであり、フクヤマが「いとこたちの暴政」と呼ぶ状態を生み出した。人間は親族のためなら大体のことをやる。そして、親族でない人間に対してもたいていのことをやる(レイプ、強盗、殺人)。これが世界でいつも起きている争いから、大量の人間が死亡する規模な戦争までに共通する理由となる。

親族関係の陥る罠から抜け出す方法は国家(フクヤマは中央集権化した政治的権威と呼んだ)を作ることである。これには家族のしがらみを打ち破る必要があった。国家はフクヤマが考える政治秩序の基礎となる3つの柱の一つである。政治秩序にとって強力な国家だけでは十分ではない理由は、政治的な権力だけでは親族関係がもたらす問題を解決できないからだ。それどころか、政治権力が親族関係の利益のために使われてしまうことになる。
強力な支配者は自分の力を親族の利益のために使用する。このような現象は古代世界から現在のリビアまでを考えてみれば理解しやすい。従って、国家の統治には法の支配が必要となる。法の支配によって政治権力と腐敗には制限が加えられる。しかし、法の支配自体が政治秩序を不安定化させることもある。それは必要な時に国家が決定的な行動を取る能力を削いでしまうこともあるし、非国家組織に過度の自由裁量を与えてしまうこともあるからだ。よって、第三の原理である説明責任を負う政府が必要となるのだ。これは私たちが民主政治と呼んでいるものだ。民主政体では強力な国家は維持されるが、人々は支配者が間違いを犯した場合に彼らを交代させることができる。

フクヤマは私たちが政治秩序の3つの原理をそれぞれ別のものであり、別々に機能を果たすことができるものとして扱い過ぎていると考えている。もしくは、私たちは民主政体を賞賛するが法の支配がなければ社会の分裂を深めるだけだということを忘れている。また、私たちは法の支配を賞賛するが強力な国家がなければ政治的な不安定をもたらすことになることを忘れている。しかし、フクヤマは社会全体が同じ間違いを犯すとも考えている。フクヤマは良い政治秩序と「まあまあ良い」政治秩序との間を区別している。「まあまあ良い」政治秩序は政治秩序の3つの原理のうちの1つか2つが実現し、安全であるという幻想が存在する時に成立する。例えば、古代中国で強力な、中央集権的な国家が誕生したのは、西洋よりも早かった。国家が成立した理由は、長年にわたって続く内戦問題と戦うためであった。しかし、中国に誕生した国家は強力過ぎた。国家は領主を打ち倒したが、同時に初期市民社会や説明責任という考えを壊してしまった。従って中国は政治秩序確立に関しては西洋に先行していたが、それがまた遅れを生み出したのだ。それは、強力過ぎる権力はすぐに集権化した。そして、フクヤマはこれが現在の中国政治の独裁的な側面の理由であると確信している。


もう一つの国家はうまくいった部分とうまくいかなった部分があった。その国はハンガリーである。13世紀、イギリスでマグナカルタが成立して7年後、ハンガリーにも独自のマグナカルタ制定の時期が到来した(これは「黄金の雄牛」と呼ばれる)。貴族たちが王の示威的な権力に対して法的な制限を加えることができた。それでは、どうしてハンガリーは、イギリスのように自由と憲法に則った統治を確立できなかったのだろうか?それは、貴族たちが余りにも多くのものを手にしたからだ。彼らは王を弱体化させ過ぎ、自分たちが望むものは何でも手に入れることができ、何でもできるようになったからだ。これは、貴族たちが自分たちの親族を富ますために農民を搾取することができたということである。国家の力を無力化させてしまったために、ハンガリーの貴族たちは安定した政治秩序構築の機会を失い、自分たちの力を強大化させるだけにとどまったのだ。

フクヤマは、人類社会が政治秩序の構築に成功する方法よりも政治秩序の構築に失敗することの方に興味を持っている。彼が本当に答えたいと思っている疑問は、ハンガリーがどうしてイギリスのようにならなかったのかというものではなくて、イギリスがどうしてハンガリーのようにならなかったのかというものだ。彼の答えは基本的に幸運に恵まれるかどうかというものである。西ヨーロッパの端にあるイギリスで政治秩序の構築に成功したのは、いくつかの偶然が重なったためである。宗教、法律面での改革、才能に恵まれた行政官がうまくミックスされ、それに17世紀に起きた内戦と疫病によって人々は、そうした好条件をバラバラにしてしまうのは得策ではないと考えるようになった。

フクヤマは私たちに対して、良い政治社会というものは実現が難しく、多く尾条件が揃なければならないものであることを記憶して欲しいと思っている。しかし、彼はこのことからポジティヴなメッセージを導き出している。政治秩序を構築することは偶然の要素が多いということは、そこに行きつくまでには様々な経路が存在する。必ず政治秩序を構築できるという保証がある社会など存在しない。しかし、だからと言って、絶対に構築できないという社会も存在しない。中国であってもそうだ。このような積極的なメッセージには納得できないものも含まれているが、本書『政治の起源』全体の内容は興味深いものだ。フクヤマはどっちつかずの議論を行うことがよくある。政治秩序は基本的に、数世紀にもわたる政治闘争の結果生まれた偶然の産物である。しかし、そのことを知れば政治秩序を確立することはより容易になる。それはどのようにしたら可能か?それには、自分の運を良くすることしかない。更に言えば、政治秩序の話は、「ニワトリが先か、卵が先か」の話に集約される。イギリスは1688年に名誉革命を達成したが、それは、イギリスが比較的秩序が整った社会であったからだ。そして、私たちは、名誉革命によってイギリス社会が秩序だった社会になったと教えられる。

もう一つの問題は、フクヤマガ最初に提示した2番目の疑問に対して答えを提示していないことだ。安定した民主社会が一つの様式に陥ることを止めるものは何か?政治秩序は安易な自己満足と安全を生み出す。フクヤマはこれもまた3つの原理の上に成り立っている社会にとっても問題であることは認識している。しかし、3番目の原理が希望を与えてくれると主張している。政治的な説明責任の意味するところは、政府が失敗すれば、私が政府を変えることができるということである。しかし、これは上辺だけのことで建前であり、誰も信用していない。これはまるで政府が交代するということは、根本的な変化(気候変動、債務、中国の台頭)が起きている時に、デッキチェアを動かすくらいのことのように見える。『政治の起源』は2巻出るシリーズの1巻目である。そして、フクヤマによると、2巻目は、フランス革命から現代までを網羅した内容になるということである。1巻目はフランス革命までで終わっている。 しかし、このような野心的な本にはありがちだが、解決したいと思っている基本的な問題に対して、十分な回答を出せていない。フクヤマは現代の社会科学の言葉を借りて彼が本当に興味を持っていることを説明している。彼が興味を持っているのは、どのようにすればデンマークのような国にまで到達できるのか。つまり、安定していて、反映していて、現在世界最高のレストランがある国になるにはどうしたら良いのかということである。しかし、フクヤマが本書で描写している歴史はこの疑問に対する答えとはならない。王子の出てこない『ハムレット』のようなものなのである。

(終わり)


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 古村治彦です。



 今回は、副島隆彦著『闇に葬られた歴史』(PHP研究所、2013年)を皆様にご紹介いたします。この本は、歴史上の定説に対して異議申し立てをしている、正統派(オーソドキシー、orthodoxy)から排除された修正主義派(リヴィジョニスト、revisionist)の言説を取り上げて検討を加えた本です。大きく、第一部「戦国・江戸時代編」と第二部「古代編」とに分けられており、第一部には、第一章「信長殺しの真実」、第二章「家康のすり替わり説」、第三章「戦場の真実」、第四章「松尾芭蕉忍者(公儀隠密)説」が収められ、第二部には第五章「天皇とは北極星のことである」、第六章「日本建国は六八八年のことで、華僑が作った」、第七章「聖徳太子は蘇我入鹿である」がそれぞれ収められています。



 それぞれの章では、正統とされる歴史の定説に異議申し立てをした先達の業績が紹介され、それに副島先生の検討や分析が加えられています。先生の検討や分析の基礎となっているのは「覇権国―属国関係理論」であり、「世界規模の政治の動きから日本史を見る」ということです。日本はアジアの東の端にあり、世界から隔絶していたと考えられがちですが、国際政治の動きに無縁であったのではなく、大きな動きに合わせて歴史も動いていたと考えると、不自然なことが出てくる、それが本書で取り上げられている「修正主義的」な言説の数々です。詳しくは是非、『闇に葬られた歴史』を手にとってお読みください。



 政治学や国際関係論を専攻した私にとって特に気になった部分は、国際関係と絡めた主張です。例えば、第一章では、イエズス会が信長殺しを行ったという主張の部分です。ここにはポルトガルとスペインの勢力争い、イエズス会による日本の植民地化の動き、そして「天正少年遣欧使節」がローマ法王による「日本国王」の「オーディション」であったということです。そして、第四章で出てくる間宮海峡の地政学意味の部分です。樺太が半島であるか、島であるかはヨーロッパ各国をも巻き込む地政学上の重要なポイントであって、間宮海峡を日本側(公儀隠密であった間宮林蔵によって)が「発見」されたことが重要であって、その後、ロシアと日本側で樺太の辺りは「触らない」ということになったということには驚かされます。



 国際関係論は徳に歴史学の影響が強い分野です。歴史の事例研究が国際関係論の理論構築の基礎にあると言って良いでしょう。国際関係論という学問分野では、ツキティディスの『戦史』が必読文献になったり、中国の五胡十六国時代がケーススタディの対象になったりしています。歴史をよく知ることが国際関係において、最も間違いの少ない選択をすることができると言うことができます。



 そして、同時に国際関係をよく理解することが、歴史の解釈に対して大きな貢献ができると言うことができます。現在では、従来の欧米偏重の「ワールド・ヒストリー」から「グローバル・ヒストリー」へと重臣が少しずつ変化していますが、これは経済力や軍事力といった国際関係論で重視される要素を歴史学に加味していく作業でもあります。歴史は、特に一国の歴史となると、権力者によって都合の良いように書き換えられます。建国物語が公認の歴史ということになりますが、これは現実を無視した「物語」です。これに対して、異議申し立てを行う際に有力な武器となるのが国際関係の理論や知識です。



 本書『闇に葬られた歴史』の著者である副島先生は、歴史家ではありませんが、政治や国際関係の専門家であり、その観点から歴史を見て、検討や分析を加えています。歴史に関して異議申し立てを歴史家からの視点だけで行うのはどうしても限界があるはずです。現在は、どの学問分野でも「学際的(interdisciplinary)」の重要性が指摘されています。他の分野からの知見の導入が図られています。社会科学の中でも後発の政治学には、経済学、社会学、心理学の業績が導入されています。



 本書『闇に葬られた歴史』を素人による素人考えと切って捨てるのはこうした学問の大きな流れに逆行することであると私は考えます。



 副島隆彦著『闇に葬られた歴史』(PHP研究所、二〇一三年)を是非年末年始の読書計画にお加えいただければと思います。



(終わり)


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