古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12

 

古村治彦です。

 

 4月末から5月初めにかけて大型連休(ゴールデンウィーク)がありました。5月末に刊行される『野望の中国近現代史 帝国は復活する』(オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著、古村治彦訳、ビジネス社、2014年)の仕事が一段落し、かねて関心を持っていた憲法問題、改憲について自分なりに勉強しようと思い(憲法記念日もありましたので)、以下に挙げた参考文献を読みました。憲法の授業は大学学部時代に受講したのですが、中身は全く覚えていません。熱心な学生でもなく、何とかお情けで単位を貰えたくらいでしたので、大学時代の先生はきちんと教えて下さったと思いますが、改めて勉強することにしました。「若い時にきちんと勉強しておけばよかったな」という後悔もありますが、年齢を重ねたことで理解力は増しただろう(記憶力は減退したのは確実ですが)、ということを頼りに勉強しました。

 

 私が選んだ文献は筆者が偏っていると思われるかもしれません。ですから、私の理解は一面的な、「偏った」ものかもしれませんが、しかし、個人の考えは不可避的に「偏る」ものであり、全く同じということもないのですから、それは自然であり、当然であると考えます。前置きが長くなりましたが、私が納得し、納得したことを基にして考えたことを以下に書いていきます。

 

 自民党の憲法改正草案というものが2012年に発表されています。私が読んだ本の著者たちはこの自民党の憲法改正草案を叩き台にして

 

①立憲主義(Constitutionalism

 

 どの本の筆者もまず掲げているのがこの「立憲主義」という言葉です。この言葉について、それぞれの筆者が分かりやすく言い換えていますが、立憲主義とは「人々の人権を最大限擁護し、国家が暴走しないように憲法で国家を縛る」ということです。憲法擁護遵守義務が公務員にのみ課せられているのはこのためです。憲法は国民が国家に与える縛りということです。国家が国民を縛るものではありません。他の法律は国民を縛るものです(国民の代表である政治家が主権者である国民を縛る法律を作ります)。ですから、憲法に国民が果たすべき義務というのは少ないのも当然です。現在の日本国憲法では、「納税、勤労、教育を子女に受けさせる」の3つが国民の義務となっています。ただ、人権に関しては、濫用しないように、「公共の福祉に反しないように」という条文があります。

 

②義務と権利

 

 「近頃の日本人は過度の個人主義と行き過ぎた権利意識のためにダメになっている。それが社会に反映されている」という主張があります。自民党の憲法改正草案作りにもそうした考えが反映されているようです。「権利と義務は表裏一体だから、責任感を持て」という主張をする人々もいます。そして、自民党の改憲草案には国民の義務規定がたくさん入っています。しかし、小林節教授も伊藤真氏もこの点について、「それは違う」と指摘しています。ある個人が権利と義務を一体として持たない場合はいくらでもあるということ、そして、憲法は国を縛ること、国に義務を課すことが目的で作られたものであり、国民に義務を課すためのものではないと指摘しています。この点は良く議論されるところですが、両氏の指摘は大変に説得力がありました。

 

③愛国心のような心情、信条の問題

 

 自民党は2005年にも憲法改正案を出しているのだそうです。この時は「愛国心」を持つことを義務化するような条文もあったそうですが、小林節教授、伊藤真氏は「心」の問題に憲法が踏む込むべきではないとしています。国民が国を愛する心を持つのは強制ではなく、自発的であるべきで、政治家はそのために努力をしなければならないのに、憲法に書いて強制するという愚挙を行うのは大きな間違いだと両氏は指摘しています。また、どうしても愛国心を持てない人々が少数派になってしまう場合もあります。そうなると、憲法を基にしてそうした人々を弾圧することも可能となります。人権尊重を重要な要素とする憲法が人々を弾圧する道具になってしまうのはおかしなことです。また、そのような危険性は低いとなっても、そうした可能性はできるだけ排除しておくことが必要ではないかと思います。

 

④「公益及び公の秩序」という言葉

 

 自民党の改憲草案には「公益及び公の秩序」という言葉が多く出てきます。伊藤真氏はこの点を警告的に指摘しています。これに反する表現の自由も結社の自由も認められないということになります。ここで出てくる「公」という言葉がなかなか曲者です。英語ではpublicがその意味になると思いますが、私はこれを「人々の」と訳したいと思います。しかし、自民党的な使い方では、state-centeredgovernment-orientedになるのではないかと思います。国家や政府の利益、それらにとって好ましい秩序ということになるのではないかと危惧します。

 

⑤自衛権

 

 自民党の改憲草案には、自衛権が明記されています。そして、自民党の説明では、「自衛権という言葉には、個別的自衛権と集団的自衛権が両方含まれており、それは自明のことである」としています。ここまでは分かりますが、自民党は、「集団的自衛権を日本は持っているのだから、それに制限をつけて行使することは何も問題はない」という姿勢です。国民の1人として、「自衛権には、個別的自衛権と集団的自衛権が含まれていて、それらは全く別のもので、集団的自衛権は行使しないという今の立場を維持すべきだ」と私は考えます。その理由については、このブログで自衛権について考えたことを書きましたので、そちらを参照していただければと思います。

 

⑥その他に興味深かったこと

 

伊藤真氏は、自民党の憲法改正草案の中で、「個人」という言葉ではなく、「人」という言葉を使っている点を指摘しています。これはそれぞれ全く違う、同じ人はこの世に2人といない個人を大切にするという考えから、人という一括りの言葉にすることで、個性や個人の人権を軽視するための言葉遣いではないかと伊藤氏は指摘しています。「そんなの考え過ぎじゃないの」と言う方もおられると思いますが、それならば、自民党は、個人の人権を尊重する立場を明確にし、「個人」という言葉を使えば済むだけの話です。こうして、微妙な言葉遣いの中に色々と落とし穴を仕掛けているのが、自民党の改憲草案だなという印象を持ちました。そして、少し考え過ぎるくらいに慎重にそして批判的に見ていかねば、そうした落とし穴に嵌ってしまうのだろうなと感じました。

 

また、伊藤氏は、住民投票について、レファレンダムとプレシビットとの違いを指摘しています。レファレンダムとは、憲法改正や国の重要な政策を対象とした国民投票のことを指し、プレビシットとは、執権者に対する信任を問う、国民投票のことを指します。フランスではドゴール大統領時代にプレシビットがあったそうです。ドゴール大統領が政策を提案し、それについての国民投票が行われたそうなのですが、実質的にはドゴール台帳量を支持するかどうかが争点になったのだそうです。このプレシビットになってしまうと、

 

日本国憲法は「硬性憲法(改正のための要件が厳しい)」で改正しにくいという主張があります。自民党もこの点を強調し、「国民の意思が反映されにくい、だから発議要件を3分の2から過半数にするべきだ」と主張しています。私も「衆議院、参議院で国会議員の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票というのは確かにハードルが高いよな」と思ってきました。しかし、こうした主張はただの誇張に過ぎません。小林節教授も伊藤真氏も指摘していますが、他の先進諸国の場合、憲法改正の要件が日本よりも厳しい国がいくつもありますが、それらの国々では憲法改正が行われています。小林、伊藤両氏は、「憲法とは基本的に硬性であること、そして、日本の場合、国民が憲法改正の必要性を感じることがなかったので憲法改正が行われなかったのだ」と指摘しています。私には、両氏の主張には、目から鱗が落ちるような感じを覚え、説得力があると感じました。

(つづく)





 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12





 古村治彦です。

 今回は、拙い考えですがという前置きを置いて、国の自衛権について考えてみました。私は学部の時は社会史、大学院の時は政治思想や政治学を専攻しましたが、法律の専門教育を受けていません。しかし、日本国民である以上、自衛権について考えてみなければならないと考えました。

 国家に当然備わっている「自然権」として自衛権は存在するという表現がよく見られますが、自然権は個人に使われる表現ではないかと思いますが、そこの点はそのままにして進めていきたいと思います。 

 日本は憲法9条で国際紛争を解決する手段として戦争を放棄し、そのための戦力を持たないと決めています(平和主義)。ですから、領土争いのような問題が起きた時、戦争をすることはできません。戦争をして問題を解決することはできません。日本の防衛(自衛権)は、国境(線)を軍隊で踏み越えて来られたら押し返す、国境線まで相手を追い返すということです。そして、国境線から踏み出すことはできません。そのまま国境線を踏み越えて、他国に侵攻することはできません。

 日本は島国であるために、海で国境を接していますが、海は公海と領海(経済的排他水域もその中には含まれると思いますが)に分かれています。他国の領海に侵入することはできないのは当然として、公海上で戦闘行為をすることは可能なのかどうか、ここは考えや学説が分かれるところではないかと思います。私は、「領土、領空、領海を踏み越えて武力行使をすることは憲法違反」だと考えますので、公海上での武力行使は行うべきではないと考えます。従って、集団的自衛権の名の下にアメリカと共同で他国を攻撃することはできないし、してはならないと考えます。 

 一方、わが日本が安全保障条約を結んでいる同盟国アメリカの防衛、自衛権は、「脅威だと感じたら、国境線を踏み越えられる、踏み越えられない関係なく、他国にまで攻め入ってその国の政府や政治体制を改造する」というものです。国境を踏み越えてきた敵対勢力を追い払うだけでなく、その殲滅までを含めています。このアメリカのパターンの最たる例が太平洋戦争における日本です。また、2001年9月11日の同時多発テロ事件以降の対応でも、同じ事です。アフガニスタンとイラクはアメリカの自衛に加えて、アメリカのおせっかいである「民主国家建設」も行われました。

 現在、多くの議論がなされている集団的自衛権について考えます。アメリカが「危機に感じた、攻撃された、助けてください」となれば、日本はアメリカの防衛に「付き合わねばならない」ということになります。

 古来、侵略的意図を国防、民族の自尊、解放などの美名に隠して行われた戦争は数知れません。私が好きな山本夏彦翁は、「春秋に義戦なし」という言葉を紹介しています。戦前の日本について考えてみれば、日清、日露、第一次世界大戦、ロシア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争は全て、日本側から見れば、「正義の戦争」「やむにやまれず」「自衛」の戦争でした。しかし、戦争は常に正義が衝突するものです。

 アメリカの自衛権に「付き合う」ことになると、他国への侵攻を覚悟せねばなりません。今までのアメリカの自衛権行使のパターンを見れば、外敵を自国の領土から追い出す以上のことをやっています。そして、これからもそうするでしょう。「侵攻」と言えばまだ聞こえは良いですが、相手側から見れば「侵略」です。どちらもinvasionということになります。日本は今までのところ、戦闘行為には関与せず、後方支援や戦後の民生支援ですから、そこまで恨みを買ってと思いますが、もしアメリカ軍と一緒になって、「自衛」の名の下に「侵攻(=侵略)」したらどうでしょう。これはアメリカと同じくらいの恨みを買います。アメリカは常にテロに怯えねばならない国となりました。日本もまたそうなる可能性があると私は思います。

 他国へ侵攻することは、卑近な例で考えると、警察官が個人の家や建物に入ってくることと同じです。これは大変なことです。私たちにひきつけて考えてみると、裁判所の発行した令状がなければ入ってくることはできません。しかし、国家以上の統治機関がない国際社会においては、令状を発行する裁判所は存在しません。だからと言って、入り放題では国際社会は崩壊してしまいます。今のところ、国際連合安全保障理事会のお墨付き(決議)がある場合は、他国への侵攻は許容されます。しかし、アメリカはそうしたものはお構いなしです。そうなると、日本が集団的自衛権なるものを行使するとなると、アメリカにお付き合いするのですから、令状もなしに他国に侵攻するということに加担することになります。これは明らかに日本国憲法違反になると私は考えます。

 「外国が攻めてきたらどうするのか」という主張があります。具体的には北朝鮮や中国が攻めてきたら、という話です。確かに可能性(possiblity)で言えば、それはゼロではありません。しかし、それは「ウガンダが攻めてくる」とか「アメリカが攻めてくる」という話とあまり変わりません。蓋然性(probability)で言えば、高い、低いの話となりますので、アフリカ大陸にあるウガンダや同盟国であるアメリカが日本を攻める蓋然性と、近隣にあり、関係も良くない北朝鮮や中国が日本に攻め込んでくる蓋然性は違いますし、後者の方が蓋然性が高いと言わざるを得ません。しかし、その蓋然性もまたかなり低いと言わざるを得ません。

 中国や北朝鮮が日本を攻めて何が得られるのでしょうか。戦争は何か目的があってなされるものです。この両国が日本に攻め込む、もしくはミサイルを撃ち込むことで一体どんな利益が得られるのでしょうか。まず国際社会からは経済制裁以上の制裁を科されることは間違いありません。それだけで北朝鮮などは体制が崩壊してしまうでしょう。この両国に近い諸国も何もしていない日本を攻撃したとなれば、強い非難をすることになります。中国は世界との交易で経済成長を行っているのに、それができなくなることで、経済成長は止まり、中国共産党の正統性は失われ体制が崩壊してしまいます。そのような危険性が高いのに日本を攻める必要はありません。

 尖閣諸島、竹島、北方四島の国境地帯をめぐる問題でそれぞれ、中国、韓国、ロシアに対する脅威を言い立てる、危機を煽り立てる言論が多くなされます。私は、現在の状況を確定させ、そこから後退しないという姿勢を示すことが重要だと考えます。そして、こういった書き方は不快に思われる方々が多くおられると思いますが、経済的コストも加味して、どこまで相手に求めることができて、こちらも譲ることができるのかということを考えるべきです。日本は暴力(軍事力)を使って国際問題を解決しないと日本国憲法で宣言している国です。 そうした姿勢を貫きながら、多くの要素を加味して、話をするという姿勢を示し続けること、更に現状から後退しないという姿勢を示し続けることが重要であると考えます。

 危機を煽るというのは戦前もありました。ロシアが攻めてくる、ロシアに備えるために朝鮮半島を満州をそして中国北部を手に入れなければならない、もしくは、南進をしなければならない、と軍部は危機を煽り立て、自分たちが煽った危機に自分たちが酔ってしまい、守るべき国民を大量に死なせて戦争は終わりました。今の自衛隊の幹部はどうか分かりませんが、一部の自衛隊幹部出身の政治家や評論家たちの言動を見ていると、そういう要素が完全に消え去ってはいない、連綿として残っているということが分かります。そうした要素の復活を許さないためにも改憲も解釈改憲も必要ないと考えます。

 日本は日本国憲法で戦争をすることはできないのですから、こちらから手を出すことはできません(こちらから手を出したいと思っている方々は多くいるみたいですが)。国連のPKO活動(2003年から2009年までの自衛隊のイラク派遣は除きます)で外国に自衛隊を派遣できますが、戦闘行為は行いません。これは大きな事であるし、この線をこれからも堅持すべきだと私は考えます。

 勇ましい言論、愛国心を煽る言論、日本の特殊性をことさらに称揚する言論が日本を席巻しています。それに呼応するかのように、様々な内容の嫌中、嫌韓本が山積みになっています。そうした状況下で、自衛権について冷静に議論をして決定できるとは思いません。現在の自民党は、不要不急の解釈改憲にご執心ですが、国民生活の改善と安定に同じように熱心に取り組んでいるでしょうか。私にはそう思えません。彼らには国民生活が第一であるという政治の根本要素への理解が全くありません。そこに日本の不幸があると思います。

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12






 中央国家安全委員会と同じく、中央全面深化改革領導小組は、習近平の行政スタイルが持つ2つの特徴を示している。1つ目の特徴は、情報公開がほとんどなされない党機関が国務院を超えて大きな責任を持つというものである。第18期中国共産党大会が開催されるまでは、経済改革といった主要な政策の立案と実行において国務院は主要な役割を果たした。更に言うと、習近平の指示は12以上の党と政府の各部に対して、習近平に忠実な王滬寧によって調整される。結果、習近平は個人の権力を更にふるうことができるようになり、集団指導体制において同僚たちからの監督を受けなくなるということも起きるだろう。中央国家安全委員会をはじめとし、改革グループの構造はトップダウンになっており、官僚の複層的な各段階を通じて命令が下される。(
“Xi’s Power Grab Towers over Market Reforms,” China Brief, November 20, 2013を参照のこと)

 

 中央互聯網安全情報化改革領導小組は習近平によって設置された最新の超機関であるが、詳細な情報はほとんど公表されていない。このグループはインターネット上の安全保障の強化と中国のIT産業の育成発展を目的としている。このグループの主席は習近平で、副主席は国務院総理の李克強と中国共産党中央精神文明建設指導委員会主任の劉雲山の2人である。総書記は、国家互聯網情報センター(State Internet Information CenterSIIC)の主任である魯煒(Lu Wei、ろい、1960年~)だ。国家互聯網情報センターは、国務院公安部の互聯網(インターネット)局と共に、その主要な責務として「インターネット上から“不安定要素”を取り除くこと」を掲げている。国家互聯網情報センター主任に任命される前、魯煒は新華社通信常務副社長と国務院情報室主任を務めた。中央互聯網安全情報化改革領導小組に参画している党と政府の諸機関には、国務院公安部、国務院酷寒安全部、国家情報室、国家互聯網情報センター、国務院工業情報化部(Ministry of Industry and Information Technology)、党中央宣伝部である。(新華社通信、2014年2月28日;Guancha.cn、2014年2月28日;民報、2014年3月28日)

 

 これら3つの高位の意思決定・調整機関の設置は、習近平が改革手法の「トップレベルでのデザイン」作りに没頭していることを示している。 しかし、こうしたトップダウン式の改革手法にはリスクが伴う。国家情報センターのジャン・ジーヨンは次のように指摘している。「現在の改革の動きは党の最高部から出てきている。トップが主導権を握り、命令が中央と地方の行政部の各レベルで実行されるようになっている。」ジャンはまた次のように語っている。「中位のそして下位の幹部たちはこうしたトップダウン方式に関しては対処法をよく分かっているので、新しい改革はスピード感のない官僚たちによって遅滞させられることになるだろう。地方幹部の典型的な戦略は命令を丸投げして何もしないというものとなるだろう」(人民日報フォーラム、2014年3月25日;大公報、2014年3月17日)

 

習近平が直接タッチしていない党と国家の主要な機関は、腐敗に対処する機関である、中国共産党中央規律検査委員会(Central Commission for Disciplinary InspectionCCDI)と国務院監察部(Ministry of SupervisionMOS)だけだという事実は重要だ。これら2つの機関はウェブサイトを共有し、「1つの事務室に2つの看板」システムの下で運営されている。中央規律検査委員会書記の王岐山(Wang Qishan、おうきざん、1948年~)は、中央国家安全委員会と中央全面深化改革領導小組に関与していない中央政治局常務委員2名のうちの1人である。2012年末に中央規律検査委員会書記に就任して以降、王岐山は中国共産党の反腐敗闘争の規模を拡大し、その先頭に立って活動している。それぞれが一定数の党と政府機関(中央と地方)を担当する規律検査室の数は10から12に増やされた。王岐山は太子党で、国務院副総理を務めた人物であり、習近平とは深い関係にあると見られている。王岐山は中央規律検査委員会と国務院監察部のスタッフを監察するための事務室を新設した。王岐山は地方レベルの腐敗を根絶するために定期的に地方を巡回させる監察グループを拡充した。この事実もまた重要である。(大公報、2014年3月18日;チャイナ・デイリー、2014年1月15日)王岐山が書記に就任して以降、中央規律検査委員会は、20名以上の国務院副部長級以上の高級幹部を摘発してきた。そのうちの少なくとも半分の「虎たち」は、中央政治局常務員であった周永康(Zhou Yongkang、しゅうえいこう、1942年~)につながりがある人々である。周永康は習近平の政敵の1人である。習近平は、「反腐敗カード」を使って政敵を攻撃している。加えて、中央規律検査委員会は監察能力を高め、トップからの命令を効率良く実行できない地方幹部たちを摘発している。(聯合報[台北]、2014年2月10日;BBC中国語放送、2013年11月4日)

 

 習近平の支配哲学は、鄧小平の定めた集団指導体制という原理に挑戦しているだけでなく、鄧小平が定めた他の2つの原理にも反している。それらの原理は、①党と政府の分離(separation of party and government)、そして、②「五湖四海(five lakes and four seas)」である。(新華フォーラム、2011年7月2日;人民日報、2010年9月3日)党と政府の分離は1987年の第13期中国共産党大会政治報告で明確に規定されたもので、中国共産党は長期にわたる計画のような大きな問題に集中し、国家における日常の行政は政府に任せて処理させるというものである。「五湖四海」原理とは、高級幹部は、「5つの湖、4つの海」、つまりあらゆる場所から登用しなくてはならないとするものだ。そして、この原理は、様々に異なる経歴やつながりを持つ幹部たちをバランスよく登用するというものでもある。しかし、習近平に直属する高位グループが設置されたことは、習近平が毛沢東流の権力集中主義を志向していることを示している。習近平は、監督やチェック&バランス機能を導入せずに、個人のネットワークを基にしてこれらのグループを立ち上げた。こうした劇的な権力の集中化が習近平の掲げる「中国夢(チャイニーズ・ドリーム)」の実現を加速するか、失速させるか、これからも観察し続ける必要がある。

 

(終わり)





 

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