古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。







(貼り付けはじめ)


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2013年12月5日 読売新聞

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20131202-OYT8T00705.htm



フランシス・フクヤマ氏 ロングインタビュー



政治の起源が照らす劣化



 世界的な反響を巻き起こした『歴史の終わり』(1992年)で有名なアメリカの政治哲学者フランシス・フクヤマ氏。



 その2011年の大著『政治の起源』が邦訳された(会田弘継訳、上巻は既刊、下巻は12月下旬発売、講談社)。人類の始原からフランス革命に至るまで、中国、インド、イスラム圏を含む世界の政治の成り立ちや展開を掘り起こし、「政治制度の発展と衰退のメカニズム」を探る。壮大な試みから何が浮かび上がるのか、来日した氏に聞いた。



人間は社会的動物



 『政治の起源』は、刊行を準備する続編『政治の秩序と衰退』(仮題)と合わせ、政治制度を根本から問うという意味で『歴史の終わり』以来の重要著作になる。なぜ、「起源」に焦点を当てたのだろうか。



 実際的な関心からです。9・11テロの後、米政府はイラクやアフガニスタンに機能的な政府を作ろうとして苦労した。サダム・フセインのような独裁者を倒せば民主主義が実現すると考えるミスを犯しました。「強い政治制度はどうしたら生まれるか」ということへの理解不足だったのです。



 また9・11後に私が訪ねたパプアニューギニアなどメラネシアの島々は、まだ部族社会でした。国家制度を作ろうとしてもうまくいかない。どうしたら部族社会が国家に移行するかを考え始め、それが本を書くきっかけになりました。



 人類の始原からたどることで、氏は政治思想の見直しを迫る。人間の自然状態を「孤立した個人」と捉えたホッブズ、ロック、ルソーに対し、人間は始めから社会的存在だったとする。共同体的本性を持ち、制度を作る自然な傾向を持つ一方、暴力を振るう性向があると指摘。そして暴力の使用を集中させ、「国家」「法の支配」「民主的説明責任」の3要素を発展・均衡させることで政治制度は発展したと見る。



 近代の政治理論は、まず合理的な個人があって、自分の効用を最大化させるために行動するという前提で考えます。経済学もそうですが、これは偏った先入観です。生物学的にみて人間はもともと社会的動物です。ただ社会性はあるが、家族や友人を優遇する性質があり、政治もそこから見ていくべきだと考えます。



 「国家」以下の3要素は比較政治学者の多くが認めていることで、私のオリジナルではありません。私はこの学術的概念を一般に広げて書いたわけです。



中国法治の行方



 視野を広げることで、氏は新たな知見を提供する。例えば、「近代国家」は紀元前3世紀、中国に秦が成立して初めて出現したとする。西欧の「法の支配」確立には、11世紀にカトリック教会が皇帝に対し、聖職叙任権闘争で勝利したことが大きく影響したという。



 偏見を正してみれば分かることです。(世襲的・家産的ではない、能力主義の)官僚主義国家は中国で作られたのです。だが中国は「法の支配」「説明責任」に欠け、資本主義が2000年間発展しなかったため、国家のいち早い成立が正しく評価されなかったのです。



 「法の支配」確立には国家権力を抑制する対抗勢力の存在が重要ですが、カトリック教会はその役割を果たしました。同教会は部族が財産を世襲する慣習を破り、個人財産権を認めた点で、ヨーロッパの個人主義の始まりを作ったということもできます。



 最近は現代中国に「法の支配」が確立するかが問われていますが、法なしに経済成長できない状況や、薄煕来ボーシーライのような政治ライバルの動きを適切に管理する必要から、法治が採用される可能性はあると思います。



 政治制度の起源と展開を探ることで、逆に見えてくるのが政治の劣化だ。氏はその要因として制度の「硬直性」と「再世襲化」を指摘。制度が一度作られると変更困難になり新たな環境に対応できないことや、一族や利益集団が権益を世襲的に確保していくことで、制度が弱体化するという。



 政治の劣化は日米で見られます。金融危機が起きてもウォール街のロビー活動が強力で、適正な規制ができないといったことです。日本でも小さな業界の利益団体が政党と結びつき、規模に合わないほど大きな力を行使しています。



 ただ、民主主義にはこのゆがみを是正する仕組みがある。強力な利益集団に対し、国民が歯止めをかけることはできるのです。



共同体への責務



 ところで『歴史の終わり』では、人類の政治制度はリベラル民主主義に収斂しゅうれんしていくことで理念的に決着した、と氏は論じていた。今も近代民主主義社会こそが望ましいと考えるのか。



 実は二つの感情を抱いています。近代社会は、生活水準を上げ、健康を促進し、子供に多様な機会を与えるという意味で肯定できる一方、個人や共同体の存在価値や道徳的価値を失わせるため、いいことばかりではない。メラネシアの部族が伝統社会を捨てて近代社会に入った方がいいとは言い切れません。アメリカは個人主義が行き過ぎましたが、日本や欧州には共同体への責務の感覚が残っている。グローバル化にのみ込まれず、伝統的な生活を保持しながら近代社会をつくることはできると思います。(聞き手・文化部 植田滋)






アメリカ 衰退への憂慮



 【寸言】 原始人どころか類人猿の社会から説き起こし、政治制度の全人類的な展開をたどるフクヤマ氏の試みに、まずは圧倒される。各分野の専門家からすれば異論はあるだろうが、これほど広い視野からの叙述はなかなかあるまい。



 その展開は決して単線的・直線的ではなく、政治の劣化や、「国家」「法の支配」「説明責任」の不均衡の問題も描かれている。氏が近代社会の必然的な実現を信じる単純な進歩主義者ではないことは明らかだ。



 著作全体から感じ取れるのが、現代中国の台頭をどう見るかということと、アメリカ衰退への憂慮だ。来年、原著が出るという続編ではフランス革命から現代までをたどり、さらに政治の衰退を描くという。より精緻な衰退メカニズムの解明に期待したい。(植田)



フランシス・フクヤマ



 1952年、米シカゴ生まれ。論文「歴史の終わり?」(1989年)が世界的な大反響を呼び、著書となった『歴史の終わり』はベストセラーとなった。他の著書に『「大崩壊」の時代』『アメリカの終わり』など。





(貼り付け終わり)







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 古村治彦です。



 昨日、私は、オバマ大統領の自分撮り(selfie)について書きました。AFP通信が流した一枚の写真によれば、バラク・オバマ米大統領がデンマークのトーニング=シュミット首相とイギリスのデイヴィッド・キャメロン首相と並んで座り、スマートフォン(誰の所有物かは不明です)で、笑顔で自分たちを撮影していて、この時、ミシェル・オバマ夫人は憮然とした表情をしていました。



 これに対して批判が起こりました。それに対して、この写真を撮影した人物を登場させて、「ミシェルも周囲と笑顔で冗談を言っていた(笑顔は事実ですが、冗談を言っていたのかどうかは分かりません)」と発言させたのがワシントン・ポスト紙(Roberto Schmidt, POTUS selfie photographer, weighs in on reactions to Michelle Obama http://www.washingtonpost.com/lifestyle/style/2013/12/11/e9a5adec-6289-11e3-aa81-e1dab1360323_story.html)です。「世界の指導者たちは人間らしく行動していた」と言わせています。



 私は何も笑うなとは言いません。冗談を言うなとも言いません。知り合いと会って、笑顔で挨拶をする、軽く冗談を言い合う、結構なことです。人間らしいことです。ホワイトハウスの写真には、エアフォースワンの中で、笑顔でジョージ・W・ブッシュ前大統領やヒラリー・クリントン前国務長官(元ファーストレディー)と笑顔で歓談している写真が掲載されていますが、それを悪いとは言いません。



 問題は、不適切な場所での自分撮りという行為だと思います。自分撮りという行為自体が悪い訳ではありません。しかし、それも適切な場所や時間での行為であるべきです。追悼式という場所であの行為が適切であったのかどうか。私は個人の考えとしてあれは間違っていると思います。一国を代表する指導者であるという自覚があれば、マスコミに一挙一投足を見られている公の場であのような行為をすることが適切でしょうか。いや、人間として適切でしょうか。「適切だ」とお考えになる方もたくさんおられるでしょう。そうお考えになることには反対しません。しかし、私個人はあれは適切ではなかったと思います。



 そして、上記のような見解がワシントン・ポスト紙に件の写真の撮影者の意見が掲載されましたが、私は考えたことを変えるつもりはありません。しかし、その人物の見解にある「人間らしさ」という点について、「人間は完璧ではなく、間違ったことをする」と言い換えるならば、それは全くその通りだと思います。オバマ大統領をはじめ、自分撮りに参加した指導者たちもまた人間であると言えるのであり、「人間らしさ」が出た一枚であると私は考えます。



(終わり)

アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




 



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 古村治彦です。

 2013年12月10日、南アフリカのネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)元大統領の追悼式が行われ、世界各国から現職の指導者たちが参加しました。アメリカからはオバマ大統領をはじめ3人の元大統領、日本からは、皇太子殿下、福田康夫元首相が出席しました。アフリカでは現在、欧米と中国による経済面での勢力争いが行われており、また南アフリカの鉱物資源を巡っても綱引きが行われており、各国の現職指導者が続々と訪問する中、日本の安倍晋三首相は、国会審議における当て振りでお疲れになったようで、南アフリカまでおいでになることはありませんでした。そんなことをしても日本の国益に資することはないとお考えになったのでしょう。

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 この追悼式の最中、オバマ大統領、イギリスのデイヴィッド・キャメロン首相、そして、デンマークのヘレ・トーニング=シュミット首相がスマートフォンで自分たちを自分撮り(英語ではselfieと言います)する姿が見られ、世界中で話題になっています。三人は笑顔でスマートフォンに向かい、写真を撮っていました。オバマ大統領の隣にはミシェル・オバマ大統領夫人(ファーストレディ)が座っていましたが、憮然とした表情をしているのとは好対照でした。以下の新聞記事に詳しい状況が描写されていますのでお読みください。



(新聞記事転載貼り付けはじめ)



●「オバマ氏ら3首脳、マンデラ氏追悼式で「自分撮り」 不適切との声も」



2013年12月11日 MSN産経ニュース

http://topics.jp.msn.com/world/general/article.aspx?articleid=2555050



AFP=時事】米国のバラク・オバマ(Barack Obama)大統領は10日、南アフリカのソウェト(Soweto)で執り行われたネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)元大統領の追悼式に出席し、多数の参列者の心を揺り動かす弔辞を述べたが、同日ソーシャルネットワークをにぎわせたのは、オバマ氏がデンマーク、英国の首相と笑顔で撮った「セルフィー(自分撮り写真)」だった――。



 オバマ氏と共にこのセルフィーに収まったのは、デンマークのヘレ・トーニングシュミット(Helle Thorning-Schmidt)、英国のデービッド・キャメロン(David Cameron)の両首相。3首脳は追悼式の会場となった2010年サッカーW杯南アフリカ大会(2010 World Cup)の決勝戦が開催されたスタジアムで並んで腰を下ろし、シュミット首相が中央で自分のスマートフォンを掲げ、オバマ氏がそれを横から支えるようなしぐさで3人そろってにっこりと笑顔を見せている。



 これとは対照的に、オバマ氏の左横に座るミシェル・オバマ(Michelle Obama)米大統領夫人は打ち解けた様子の3首脳には加わらず、5日に95歳で死去した南アフリカの反アパルトヘイトの英雄であるマンデラ元大統領に対し世界の指導者らが追悼の言葉を捧げる演壇の方をじっと見つめていた。



 3首脳がセルフィーを撮る写真を大手国際メディアが紹介すると、すぐさまソーシャルメディア上に広がり、多くの利用者からはこの楽しそうな様子は追悼式の場には不適切ではないかと疑問視する声が上がった。これについて3か国の政府からはコメントは出されていない。



 このセルフィー撮影の瞬間を捉えたAFPのロベルト・シュミット(Roberto Schmidt)カメラマンは、普段非常に管理された環境下でしか目にすることのない政治家の人間らしい姿を見ることは興味深かったとしながらも、この写真が世界にインパクトを与えたために類まれな偉人の功績をたたえる式典の印象がかすんでしまうことを危惧した。



AFP取材班は、父と慕う人物を失った南アフリカ国民の様子を報じようと尽力した。国民の心からの感情を伝えようと約500枚の写真を配信したが、取るに足らないと思われた写真が他のあらゆる写真よりも目立ってしまった」として、「これは、われわれが時に社会全体として、日々の何でもない出来事の方に目を奪われてしまうという残念な事実の反映という気がする」と同カメラマンは語った。



【翻訳編集】AFPBB News



(新聞記事転載貼り付け終わり)



私は、この写真を見て、記事を読んでいくつかのことを考えました。まず、私は、ミシェル・オバマという人物は、夫のバラク・オバマよりも数段立派な人間であるということが分かりました。そして、彼女は黒人女性として、アメリカ社会の偏見と差別に真摯に向き合ってきたのだろうと思いました。



バラク・オバマ大統領はケニアからの留学生である父と、後に人類学者となった白人女性の母の間に生まれました。そして、アメリカ国内では比較的差別が少ないハワイや、外国のインドネシアで育ち、大学も2年生まではカリフォルニア州にあるオキシデンタルカレッジというお坊ちゃん学校でした。バラク・オバマ大統領は、コロンビア大学卒業後、シカゴのサウスサイドで黒人の地位向上のために働いていたということですが、この経歴に嘘はないにしても、その動機は不純なものだったのではないかと疑いたくなります。ハーヴァード大学ロースクールに進学するための手段として考えていたのではとさえ思ってしまいます。



 ミシェル・オバマは、シカゴのサウスサイドに生まれ、父親はシカゴ市の水道局の幹部という家に育ちました。プリンストン大学、ハーヴァード大学ロースクールを卒業し、弁護士となり、バラク・オバマとは彼が法律事務所にインターンとして来たときに、指導教官(メンター)として出会っています。これだけ書くと素っ気ないものですが、シカゴのサウスサイド(貧困と犯罪が占める地域です)に育ちながら、そこからアイヴィーリーグに進学する、しかも女性がということになると、大変なことなのです。そして、ハーヴァード大学のロースクールに進学するとなると、プリンストン大学は、ほぼ「全優」の成績で卒業しなくてはいけません。



 ミシェル・オバマは、自分の夫が、黒人解放の父とも言うべき人物の追悼式で、白人たちと楽しそうに写真を撮っている時、背筋を伸ばし、憮然とした態度で前を向いていました。この態度こそが真剣に黒人差別と向き合ってきた、立派なそして誇り高いアメリカの黒人の態度です。苦労を重ねて、自分の力で這い上がってきた人の姿です。ミシェルはそしてこう思ったでしょう。「なんでこんなバカと結婚してしまったんだろう」と。



 このミシェルの嘆きはおそらくヒラリー・クリントンにも共通するものでしょう。ヒラリーに関するジョークで秀逸なものはやはり、「ある日、クリントン大統領夫妻が車に乗っていた。あるガソリンスタンドを見ると、そこには昔ヒラリーが交際していた男性が働いていた。ビルが、“君がもしあの男と結婚していたら今頃はガソリンスタンドの店員の妻になっていただろうね”と言うと、ヒラリーは“あら、もし私があの人と結婚していたら、今頃、あの人が合衆国大統領になっているわ”と言った」というものです。バラク・オバマが大統領になったのもやはりミシェルの力が大きかったのだろうと思います。



 バラク・オバマ大統領は頭の中で自分のことを「白人」だと思っているのではないかと思います。彼の出自を見ても明らかなように、彼は黒人と白人のハーフであり、差別もそこまで受けなかったであろうし、家も裕福でありました。そこまで社会の矛盾や厳しい差別に直面しなかった人物でありましょう。そして、そうした環境下で育ったために、黒人としてのアイデンティティを育むこともなかったでしょう。そして、高等教育だけは受けているので、頭の中身は白人になったのだと思います。黒人解放の指導者の追悼式で、白人とあのような態度を取ることは、黒人のアイデンティティがあればとてもできないことです。人種のことを今とやかく言うのは時代遅れで、時代錯誤であると思われる方もいると思いますが、そのような意識が持てるところまで時代を進めた偉大な人物の追悼式で、あのような態度を取ることはできないはずです。



 今回の自分撮りで分かったのは、オバマもやはり頭の軽い人物であり、周囲のおぜん立てがなければダメな人物であり、その点ではジョージ・W・ブッシュ前大統領と変わらないと思います。しかし、問題は彼らだけでなく、世界中で(日本も例外ではなく)、人々によって選ばれる指導者たちの質の劣化が進んでいるのではないかということです。彼らは見た目が良く、経歴の立派で、演説も上手です。オバマ大統領のマンデラ氏に対する追悼演説は大きな感動を呼びました。しかし、ただそれだけの人物で、矜持も哲学も持ち合わせていない、操り人形に適した人々であるのだと思います。そして、周囲のおぜん立てでうまくやっているように見せているだけのことなのだと思います。この周囲には経済界、財界、そして官界が含まれます。



 そして、最後にオバマ大統領の自分撮りは、アメリカの劣化と終わりの始まりを端的に示していると考えます。追悼式であのような態度を取るというのは政治指導者や人種と言う以前に、人間としてやってはいけないことです。しかし、そのような判断ができないほどに劣化した人物が大統領になる、というのはアメリカの劣化を示していると私は考えます。そして、そのような人間の道に反したことが行われるのは既にその国が衰退の道に踏み込んだためであろうと私は考えています。



(終わり)

アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




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