古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12


野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 

 古村治彦です。

 


 本日は『巨魁』(清武英利著、ワック、2012年)を皆様にご紹介いたします。清武英利氏(1950年~)は、プロ野球セントラル・リーグに所属する日本最古のプロ野球球団である読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の球団代表、ジェネラル・マネージャー(
GM)、オーナー代行などを務めた人物です。球団代表、GM、オーナー代行などといった職務は、「フロント」と呼ばれ、球団の運営を行っています。

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渡邉恒雄(左)と清武英利

 

 清武氏は読売新聞社会部記者を長年務め、2004年に読売巨人軍球団代表兼編成本部長に就任しました。清武氏が球団代表に就任した2004年、読売ジャイアンツは堀内恒夫監督(現役時代は巨人のエース背番号18番を背負い、通算203勝を挙げたV9時代の大エース)が率いながら優勝を逃し、シーズン中に大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの合併が発表され、球界再編の嵐が引き荒れた動乱の年でした。

 

 新聞記者からプロ野球空団のフロント幹部に転身した清武氏は、何も知らない状況で球界再編に直面しつつ、巨人軍の強化と覇権奪還(セ・リーグ制覇、日本一)を目指すことになりました。また、彼の上司になる渡邉恒雄(1926年~)にも対応しなければなりませんでした。渡邉恒雄と言えば、プロ野球好きには、「ナベツネ」の愛称でよく知られた人物です。巨人軍のオーナーで、辛辣で率直な物言いで巨人ファン、アンチ巨人ファンの心を騒がせる人物です。渡邉恒雄は、読売新聞の世界最大の発行部数「1000万部」を守り、発展させるために巨人軍があるという考えで、そのためには巨人軍が常勝球団でなければならない、そのためには大金を投じて補強をしなければならなないという考えでした。これは今も変わっていないでしょう。

 

 清武氏は、スター軍団であるだけでは巨人は強くならない、自前の選手を球団で育ててスターにすること、そして、若者たちがプロ野球に挑戦しやすくし、「一芸に秀でた」「異能」の選手をプロ野球に迎えるために「育成選手制度」を導入しました。この育成制度によってプロとなり、活躍している代表例が巨人軍の山口鉄也投手と松本哲也外野手で、2人とも新人王に選ばれました。また、スカウト制度や選手評価を近代化するために、大リーグのニューヨーク・ヤンキースで研修を行い、ベースボール・オペレーション・システム(Baseball Operation System)を導入しています。また、2011年には野村克也監督時代にヤクルトで活躍し、その後、野村氏が東北楽天ゴールデンイーグルス監督時代にはコーチとなった橋上秀樹を戦略担当コーチとして招聘しています。結果、2007年から2009年までセ・リーグ3連覇を達成していますし、2012年、2013年も連覇しています。清武氏の改革が巨人軍の強さを取り戻したということが言えます。

 

 清武氏がこのような改革を進める中で、その対処に一番困ったのが渡邉恒雄です。「二塁手と遊撃手でどちらが一塁に近いのか」ということを知らないほどの野球音痴の人物が巨人軍の最高意志決定者、独裁者であるために、様々なことが起こります。また、選手の衰えが見えると途端に悪口雑言を投げかけ、球団から追い出そうとする人物であるということも清武氏は書いています。

 

 清武氏が渡邉氏に最終的に反抗したのは、巨人の次のシーズンのコーチ陣の陣容が決まった段階で、それを鶴の一声で覆し、岡崎郁ヘッドコーチがいながら、江川卓氏をヘッドコーチとして招聘するということを勝手に決めたことが理由となっています。清武氏は、巨人軍内部のコンプライアンスを守るために、敢えてこのことを記者会見で発表することで、渡邉氏に反抗し、巨人軍から、そして読売全体から追い出されることになりました。

 

 本書『巨魁』は、読売巨人軍の改革、渡邉恒雄の独裁者ぶり、読売新聞内部にある政治部と社会部の対立といったことも分かって大変面白い内容です。また、現場の指揮官である原辰徳監督の話はあまり出てきませんが、清武氏と原監督との間に遭った不和といったことも読み取ることができます。

 

 清武氏は、本書のあとがきの中で、37歳で急逝した、宮崎県立宮崎南高校の後輩であった木村拓也コーチのことを書いています。木村拓也は投手以外のどのポジションでもこなせるユーティリティー・プレイヤーとして、日本ハムファイターズ、広島東洋カープ、読売ジャイアンツでプレーしました。2009年に現役引退後、一軍守備内やコーチに就任しましたが、2010年4月2日に広島での試合前にノックを打っている途中に脳内出血で倒れ、意識不明となり、4月7日に亡くなりました。

 

木村拓也はドラフト外(練習生扱い)で進学校である宮崎南高校から日本ハムに入団し、広島に移籍してから才能が開花し、巨人でも活躍しました。通算で1500試合に出場し、1000本以上の安打を記録した、一流選手でもありました。また、広島時代の2000年にはアテネオリンピックに野球日本代表として出場し、銅メダルを獲得しました。

 

 清武氏は、野球エリート出身ではない木村選手のようなたくましい選手を巨人に生み出そうとして、選手の育成やスカウトの改革を行ったと書いています。清武氏も立命館大学を学生運動に関わったせいで5年かけて卒業し、読売新聞にも本社採用ではない記者としてエリートではない道を進んだということです。また、読売新聞社会部に所属し、巨悪と戦うという生活をしていたということもあって、反骨精神が宿っている人物であるということが分かります。

 

 面白いのは、清武氏も彼が闘うことになった渡邉恒雄氏も共に学生運動出身であるという点です。清武氏ははっきりとは書いていませんが、立命館大学で学生運動の組織に入っていたかのような書きぶりです。一方、渡邉恒雄氏は、セゾングループの故堤清二、日本テレビ社長の故氏家斉一郎といった人々と東大時代に共産党細胞として活動していたことは有名な話です。

 

 彼らの動きを見ていると、学生運動を通じてに培ったであろう正義感と反骨心、そして人々を動かすマキャベリズムいったものが見て取れます。

 現在、野球人気は低下していると言われています。巨人と言うと、今の小学生たちはアニメの「進撃の巨人」の巨人を思い出すとさえ言われています。野球の人気復活には巨人の人気復活が不可欠だとも言われています。しかし、V9だ、読売の1000万部確保のための尖兵だといった感覚で巨人軍が運営されている限り、それは難しいのではないかと私は考えています。 

 

(終わり)









 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




 古村治彦です。

 今回は、副島隆彦先生の講演会のご案内を申し上げます。

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20140726seminar002 (2)

20140726seminar002 (1)

 
「『金融市場を操られる絶望国家・日本』発刊記念講演会―副島隆彦の”予言者”金融セミナー第8回」

開催日:2014年7月26日(土)
開演:11時(開場・受付10時)途中、休憩あり
終了:17時30分(予定)
受講料:15,000円(税込)/(指定席と自由席)
会場:ヤクルトホール
    東京都港区東新橋1-1-19 ヤクルト本社ビル
アクセス:新橋駅(JR,東京メトロ銀座線)

お問い合わせ:101-0051 東京都千代田区神田神保町1-42
          (03)3292-8401(平日10:00~18:00)
          (050)3156-3040(FAX)
          seminar@seikoshobo.co.jp

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 古村治彦です。

 

 先日、話題になっている明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社、2014年)を読みました。私の師である副島隆彦先生、仲間の多くも本書を読んで色々と話をしていたので、乗り遅れないためにも読みました。読んでみたら大変面白い内容でした。


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 著者の明智憲三郎氏は、本能寺の変(1582年)で主人公、明智光秀の子孫で、長年大手電機メーカーに勤務しながら、本能寺の変やその周辺時代のことを独自に研究されてきたそうです。そして、その研究の成果がこの『本能寺の変 431年目の真実』ということになります。著者の明智氏は、自分の研究手法を「歴史捜査」と名付け、資料に徹底的に当たりながら、矛盾点や解釈のおかしな点を洗い出し、より自然な史料解釈を行っています。

 

 本能寺の変と言えば、天下統一に向けてまい進していた織田信長が重臣の一人だった明智光秀に滞在先の京都の本能寺を急襲され殺害された事件です。その後、当時、中国地方の雄・毛利氏攻めをしていた羽柴(豊臣)秀吉が「中国大返し」と呼ばれる、短期間での帰還を果たし、山崎の戦で明智軍を撃破し、明智光秀は居城の坂本城への退却途中に、落ち武者狩りの農民に殺害されました。

 

 「三日天下」という言葉や、信長が最後に「敦盛」を舞って自害するというドラマのシーンを通じて本能寺の変は日本人の多くに知られている事件であると思います。この事件で天下統一の主導権は羽柴秀吉に移った訳ですが、「本能寺の変が起こらなかった、もしくは失敗していたら、織田信長はどのように天下統一を果たし、日本をどんな国にしたのだろうか」ということを歴史好きの方々は空想を巡らせたことがあるのではないかと思います。

 

 私は師である副島隆彦先生と電話で話している時に、本能寺の変について知っていることを話してみるように言われ、知っていること、覚えている限りのことを話したところ、「良く知っている方じゃないか」と言われました。後で、この『本能寺の変 431年目の真実』を読んでみたところ、明智氏が挙げている「定説」を副島先生に話していたことが分かりました。

 

 明智氏はこの「定説」に挑戦しています。詳しくは是非読んでいただきたいと思います。このブログでは、私が気になった点を幾つかご紹介したいと思います。

 

 乱暴に大づかみなことを言うと、「織田信長は武田勝頼を滅ぼし、信濃と甲斐まで勢力を伸ばした。この機に乗じて、これからの天下統一、そして織田家政権の存続にとって邪魔になるであろう徳川家康を暗殺しようとした。その企てに明智光秀を引きいれた。しかし、明智光秀はこの機会を逆に利用して、信長を暗殺しようとした。その理由は深いつながりがある四国の長宗我部を助けること、そして、信長がイエズス会から聞いたスペインによるコンキスタドーレに感化されて温めていた、唐入りを阻止することであった」というのが、本書の主張となります。

 

私がまず驚いたのは以下の点です。明智光秀の重臣・斎藤利三(大奥制度を整備し、三代将軍徳川家光の養育係となった春日局・ふくの父親)と四国の英雄・長宗我部氏のとの間に深い宴席関係があったことは初耳でした。そして、信長の長宗我部討伐の意向が、明智光秀(長宗我部と信長をつなぐ「取次」役)と長宗我部に大きな危機感を与えたことが、信長に対する謀反を決行する一つの理由になったと著者の明智氏はしています。

 

次に驚いたのは、織田信長は、イエズス会からスペインのコンキスタドールの話を聞いて、「唐入り(朝鮮半島と中国への侵略)」を思いついたと明智氏という主張です。この唐入りという途方もない、そして成功の確率が低い作戦に明智光秀は「ついていけない」と考えたのは自然だと思います。自分が属する、土岐氏の栄光を復活させ、平和に暮らしたい、そのために織田信長に人生を賭けてそれが成功しつつあるというのに、そこからもっと苦しく、恐らく無残な失敗に終わるであろう(慶長・文禄の役でそれは証明されました)唐入りなんてさせられたら、と思えば絶望感が襲ってきたことでしょう。なるほどと思わされた主張です。

 

 著者の明智氏は、織田信長がイエズス会に好意的であったために、日本にいるイエズス会側も織田信長に対して好意的であったという主張をしています。イエズス会は、信長にアフリカから連れて来られた黒人奴隷(黒坊主という記述もあり、使役されるだけの奴隷ではないと思います)を献上しています。信長はこの奴隷を気に入り、彌助と名付けて、小姓として自分の身辺に置いています。彌助は本能寺の変にも遭遇し、本能寺から脱出を許され、二条城に行き、信長の長男。信忠のために奮戦しているところを明智軍に捕えられましたが、南蛮寺に送られたということになっています。この彌助が証言したことで、信長の最期の様子が伝っているのです。その後の行方は分かっていません。

 

 この彌助(黒坊主とも呼ばれているのでもしかしたらイエズス会の会士であったかもしれません)の存在がどうも重要だと思われます。彌助は日本語もできたそうですし、信長の身辺にいつもいた訳ですから、様々な最高機密情報をイエズス会にもたらしていたでしょうし、信長にも色々な情報をもたらしていたと思います。彌助を使えば、信長をある方向に誘導することは可能なのではないかと考えます。

 

 ついでに、明智光秀と細川藤孝(細川幽斉)の関係も重要だと思います。明智光秀が細川藤孝の足軽から身を興したこと、細川藤孝の息子・忠興と明智光秀の娘・珠(ガラシャ)が結婚していることから、明智と細川は深い関係にあったと言えます。しかし、細川は本能寺の変後、明智光秀に従っていません。これはどうしたことでしょうか。織田政権では、細川と明智は身分として逆転しています。昔の主人であった細川が明智の下風に立つという感じになっています。ここのところが一つの原因でしょうか。

 

 また、細川氏とイエズス会の関係も気になるところです。細川ガラシャの存在が重要なのだろうとは思います。ここのところはまだ考えがうまくまとまっていません。

 

 本書『本能寺の変 431年目の真実』を読んで色々なことを考え、また空想を巡らせることができました。それは個人としては大変楽しい経験でありました。

 

 「日本は国土が狭く、地形的に守りにくい」ということに初めて気づいたのが織田信長なのではないかと私は考えます。ポルトガルやスペインの戦艦を見て、「こんな船ができてしまって、それに大砲まで備え付けられている。これでは沿岸部を守ることはできない。そして、こんな優勢な武器を持っている敵にひとたび上陸を許せば、国土全部を制圧されないにしても、貿易に必要な港湾は全て押さえられてしまう。それでは国が立ちいかない」と考えたのではないかと思います。そこで「攻撃は最大の防御」ということに思い至ったのではないかと考えます。

 

 織田信長を取り扱った小説を読みと、父・信秀の教えとして「国境を一歩でも踏み出て戦をすべし」ということを守り、桶狭間の戦いのときに籠城論を唱える重臣たちをこの教えを持って叱正しています。織田信長は「攻撃は最大の防御」という考えを堅持していたと言えます。そこに、イエズス会からコンキスタドーレの話を聞いたとなると、「狭い日本にいても仕方がない、もっと広い大陸に出なくては。今の日本の軍事力(武器を洗練させ、訓練も多く積んでいる)ならいけるのではないか」と考えたのだろうと思います。

 

 しかし、周囲はついていけなかった。日本国内の天下統一で良しとしましょうという雰囲気があったのではないかと思います。また、イエズス会は信長を利用しようとしたのではないかと思います。その当時の中国は世界最高の国であって、恐らくヨーロッパの軍事力をもってしても征服などということはできないということは分かっていたと思います。そこで、中国の力がどれほどのものか、その実力を測定するために、信長にコンキスタドーレの話をし、唐入りを着想させたのではないかなんて考えてしまいます。

 

 夏休みの読書計画の中に加えても損はしない一冊です。

 

(終わり)












 

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