古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。

 古村治彦です。

 

 昨日はある会からお招きを受けて、横須賀市に行きました。そこで、2時間半ほどの講演会でお話しする機会をいただきました。アメリカの日本管理・支配体制の確立、アメリカの外交政策の潮流、アメリカ大統領選挙とトランプ新政権についてお話をしました。

 

 私は翻訳本を数冊出版しています。このブログでも紹介しましたが、丸山真男と加藤周一やベネディクト・アンダーソンも述べているように、翻訳というのは大変重要な作業でありますが、同時に大変難しい作業で、日本語にない言葉をどのように日本語と分かるものに置き換えるかという点はいつも苦労します。また逆に、既に辞書に載っている、もしくは日常的に使われている言葉があっても、それが英語の意味を正しく反映していない場合にそれをいかに使わないか、修正していくかについても苦労します。

 

 2016年のアメリカ大統領選挙をめぐる報道では、「アメリカ・ファースト!」「アイソレーショニズム」といった言葉が誤解されやすい形で紹介されていました。

 

 アイソレーショニズムを「孤立主義」と訳すのは間違いです。世界最大の経済力と軍事力を持つアメリカが世界から孤立することはあり得ません。貿易や人々の流れを完全に遮断することは不可能です。日本の鎖国の時だって、日本は世界から孤立していた訳ではありません。

 

 アイソレーショニズムとは「アメリカ国内に存在する多くの問題の解決を優先する、外国のことにあれやこれやと介入しない」という意味であって「国内問題解決優先主義」と訳すべきです。

 

 そして、「アメリカ・ファースト!」は第二次世界大戦でアメリカが参戦する前、空の英雄チャールズ・リンドバーグが、アメリカの参戦に反対する主張の中で使った言葉です。これは「アメリカが一番だ!」とか「アメリカが世界でもっとも偉大な国なのだ!」ということを言っているのではありません。

 

 「アメリカ・ファースト!」は、「アメリカ国内のこと、アメリカ人のことを最優先で考えよう」ということです。日本では、面白おかしく「じゃぁ、日本は何番目なんですか」などと、浮気された人のようなことを言っているメディアもありましたが、そういうことではありません。「アメリカ・ファースト!」という言葉は、アイソレーショニズムから出てきた言葉で、アメリカが外国のことにまで要らぬくちばしをさしはさんだり、おっとり刀で首を突っ込んだりすべきではない、ということを言っています。

 

 私は昨日の講演の中で、この「アメリカ・ファースト!」という言葉は、日本人にも実はわかりやすい、なじみのある言葉と共通しているのです、ということを申し上げました。それは、2009年の総選挙で民主党が圧勝した時に掲げたスローガンである「国民の生活が第一」という言葉です。「アメリカ・ファースト!」という言葉を実感で分かるには、「国民の生活が第一」という言葉と同じことを言っているのだということが分かれば良いのです、と私は講演の参加者の皆さんに申しあげました。

 

 今はなんにでもファーストをつけるのが流行っているようです。都民ファースト、カスタマー・ファーストなどなど。その本家本元である「アメリカ・ファースト!」という言葉を日本に置き換えたら、「国民の生活が第一」ということになります。

 

私は、次の選挙で、今はバラバラになっている野党勢力が国民の生活が第一という理念のもとにまとまって欲しいものだと思います。「誰がこれを言い出した」とか「自分たちが言い出した言葉ではない」とかそんな些末なことでまとまりを欠くようであれば、それは国民に対する裏切りになると考えます。

 

(終わり)







アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22
 

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 古村治彦です。

 

 今回はちょっとまとまりのない、分かりにくい日本関連の記事をご紹介します。

 

 今回の記事では、日本が初めて軍事衛星を打ち上げたことで、「日本の積極的平和主義」は進められているということを述べています。記事には、ワシントンにあるCSIS(戦略国際問題研究所)の日本部長ザック・クーパーが登場しています。クーパーは、スタンフォード大学卒、修士号と博士号はプリンストン大学というエリートです。日本部長をしていますが、博士論文(“Tides of Fortune: The Rise and Decline of Great Militaries”)の指導教授はアーロン・フリードバーグです。CSISの日本部長ということで、マイケル・グリーンCSIS副理事長の部下ということになります。クーパーは、「日本が積極的な平和主義を追求しているのは、平和主義的な姿勢を維持するためである。また、日本は“普通の国”になろうとしているのだ」と説明しています。

 

 日本では大きすぎる問題のためにかえって論じられることがはばかられてしまう天皇の退位と譲位についてですが、今上天皇の姿勢を「積極的平和主義」と対比させて描いているところは、外側からの目の方が重要な点を掴みやすいものなのだと感じました。

 

(貼りつけはじめ)

 

日本にとって、新しい軍事衛星が後になって新しい天皇になるかもしれない(For Japan, a New Military Satellite and, Maybe Later, a New Emperor

 

エミリー・タムキン筆

2017年1月24日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2017/01/24/for-japan-a-new-military-satellite-and-maybe-later-a-new-emperor/

 

日本の戦後の平和主義のゆっくりとしたしかし確固とした変化が火曜日に促進された。この日、日本政府は初めての軍事通信衛星を打ち上げた。

 

現在、日本の自衛隊が使用している非軍事用の衛星に代わる3つの軍事衛星の最初の衛星であるきらめき2号が打ち上げられた。新しい衛星は、高速の高性能の通信能力を持ち、自然災害に対してより効果的にかつ効率的に監視を行えるようになるが、それは同時に増大しつつある安全保障上の挑戦に対する対応もできるようになる。

 

アジア地域のアメリカの同盟諸国はアメリカの後退について懸念を持っている。一方、日本の政治家たちは、南シナ海と東シナ海における中国の攻撃的な姿勢と核兵器10発を製作できるだけのプルトニウムを持つと考えられている北朝鮮に備えようとしている。より良い通信能力を獲得することで、日本の軍事力は増強されることになるだろう。日本の自衛隊は現在海外での活動を認められているが、軍事衛星によって海外における平和維持活動に貢献することになる。

 

CSISの日本部長であるザック・クーパーは、新しい衛星群は再軍備を意味するものではないと本誌の取材に対して述べている。クーパーは、「日本は、憲法が認めた、積極的な平和主義を追求しているのであって、攻撃的な軍事増強を行っているのではない。日本はより“普通の国”に戻ろうとしているのだ」と語っている。

 

日本の安倍晋三首相が行っている積極的平和主義に向けた動きはこれだけに留まらない。2016年12月、日本政府は海上保安庁の予算を2100億円(18億ドル)に増額し、新たに5隻の巡視船と200名以上の要員の増加を決めた。また同時期、日本は5年連続で防衛予算を増加させ、総額は440億ドルに達している。

 

クーパーは、「アジア各国、特に中国が防衛予算を増額させることで、日本の防衛力の増大も阻害されている」と語った。火曜日、高分3号SAR衛星が実働を始めた。この衛星によって、領土紛争が起きている地域での様々な活動を監視することができる。クーパーは、「数隻の巡視船の投入と予算の微増は、周辺地域の安定が危機に直面している中で、平和主義的な姿勢を維持し続けるための方策に過ぎない」と述べた。

 

実際のところ、東シナ海で日本と領有権を争っている岩礁である尖閣諸島(中国では魚釣島)を包囲している。中国政府は南シナ海の大部分の領有を主張している。 ドナルド・トランプ米大統領とレックス・ティラーソン国務長官は、もし必要となれば武力を使ってでもこれらの地域のアメリカの国益を守るという強迫的な言辞を使って、中国に対して強硬姿勢を取っている。トランプ政権の強硬な姿勢について、日本では紛争に巻き込まれるのではないかという懸念を持つ人々が出ている。

 

トランプ政権は日本と協力することに特に関心を持っていないのではないかという懸念を持っている人々がいる。大統領になっての最初の行動として、トランプはアメリカのTPPからの脱退に署名した。TPPは多国間の貿易協定で、日本の安倍首相とアメリカのバラク・オバマ前大統領が主導してきた。

 

日本では政治の面で大きな変化が起きる可能性がある。月曜日、政府の審議会は、日本の国会に対して、今上天皇の退位を認める答申を出した。現在83歳になる今上天皇が息子である56歳の皇太子徳仁親王に天皇の地位を譲ることになる。現在までの2世紀の中で、日本の天皇が上位を行うのは初めてとなる。

 

付言すると、クェーカー教徒によって教育された今上天皇の天皇在位期間は、1989年に始まったのだが、この期間の多くの期間で、激戦地や戦争の爪痕を残す場所を訪問することで特徴づけられている。今上天皇はアジアにおける戦禍を目撃し続けてきた。日本の軍事力を整備した平和主義が追求されているが、皇太子がこの立場を取らねばならないということではない。

 

(貼りつけ終わり)

 

(終わり)








アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22


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 古村治彦です。

 
『元老―近代日本の真の指導者たち』(伊藤之雄著、中公新書、2016年)を皆さまにご紹介します。 


 日本の戦前の政治において、重要な役割を果たしたのが元老(げんろう)です。主に内閣総辞職後の後継総理大臣に関して天皇から諮問を受けて、候補者を奉奏するという役割を果たしました。また、国家にとって重要な決定にも参画しました。

 

 この元老は大日本帝国憲法にもまた法律にも規定がない「地位」でした。元老と考えられているのは、伊藤博文(長州、総理大臣)、黒田清隆(薩摩、総理大臣)、山縣有朋(長州、総理大臣)、松方正義(薩摩、総理大臣)、井上馨(長州、外務卿・内務大臣)、西郷従道(薩摩、海軍元帥・海軍大臣)、大山巌(薩摩、陸軍元帥・陸軍大臣)、西園寺公望(公家、総理大臣)です。明治維新をけん引した「元勲」の中でも、第1世代である、維新の三傑である西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充以外の、第1.5世代、第2世代が元老となっています。元勲と元老は重なっていますが、元勲が全て元老になっていません。

 

 私は出身が早稲田大学で、どうしても身びいきで大隈重信は元老であったのかどうか、が気になります。維新直後、大隈が築地に構えた屋敷に居候した井上馨、隣に住んで朝食のたびに大隈家に来ていた伊藤博文は、大久保利通系で、大隈が兄貴分でありました。しかし、明治14年の政変で大隈は失脚(それまで筆頭参議兼大蔵卿として日本の最高実力者でした)してしまい、それ以降は在野の政治家として立憲改進党から憲政党まで、英国流の立憲君主制を主張しました。大隈は明治の元勲たる資格(明治維新に参加、薩長土肥の一角である肥前のリーダー、大蔵卿として通貨「圓」の導入など)はあると思いますが、元老とはなっていません。

 


 元老とは、時代別には伊藤博文、山県有朋、西園寺公望といった有力者が他の有力者を選び出して、元老として遇し、内閣総辞職後の後継内閣の総理大臣について天皇から下問され、それに対して適任者を奉答するという役割を果たしました。大隈は2回目の総理大臣退任後に天皇から詔勅を受けてはいますが、他の元老とは異なった文面の詔勅であり、かつそれ以降、後継総理の奉答に加わっていないために、元老とは言えないようです。大隈は更に、自分が総理大臣を退任するに当たり、後継として加藤高明を推薦し、その実現を通して元老に対して挑戦しようとしましたが、この企ては成功しませんでした。

 

 元老たちはやがて年齢を重ね、次々と鬼籍に入っていきました。その間に、日本は弱小国から国際連盟の常任理事国となり、軍事力の面でも英米から警戒され、軍縮会議では3巨頭国の1国となりました。内政面では、政党政治が整備され、政友会と民政党の二大政党が議会での多数を争い、内閣を組織するようになりました。憲政の常道という状態が出てきました。こうなると元老の仕事はないようなものです。多数党の代表者を総理大臣にするだけのことですから、何もあれこれ悩む必要もないのです。

 

 最後の元老となった西園寺は元老を補充するのではなく、天皇の側近くに仕える内大臣と枢密院議長などが話し合って天皇に総理大臣の候補者を推薦するという非公式な制度、更には前官礼遇を受ける総理大臣経験者や枢密院議長経験者たちといった「重臣」が話し合って決める制度を作りました。政党政治が機能していれば、このような制度は必要はないですし、二大政党制が日本でも定着して発展していくと西園寺は考えていたのではないかと思います。

  


 憲法に規定がない、非公式な、「非立憲的な」存在である元老が、「憲政の常道」に従った政治の運用を行い、政党政治が確立するまでの時間を稼ぎ、橋渡しをしようとしたというのが、著者伊藤教授の主張です。更に言うと、元老は、天皇が立憲君主制下の君主として行動する際の指針を示し、必要な場合には、歯止めとなってきました。

 

 しかし、1930年代の危機の時代に入り、西園寺が期待をかけた政党政治は自滅の途を進みます。民政党は金解禁で日本経済を失速させ、政友会は陸軍に癒着してファシズムの進行に手を貸しました。五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、衆議院の多数党が内閣を組織するという政党政治(憲政の常道)は終わりました。その後、斎藤実、岡田啓介と穏健な海軍大将が政党によらない内閣を組織しました。政友会、民政党両党ともに、ライヴァルに選挙で勝利するために、それぞれ、岡田内閣の内閣審議会に参加して与党化する(民政党)、天皇機関説攻撃と憲政の常道違反で岡田内閣倒閣と民政党攻撃する(政友会)ということを行い、結局、政党政治の途を閉ざすことになりました。


 こうした姿を最晩年の西園寺は病を抱えながら、無力感を持って眺めていたことでしょう。『元老』で伊藤教授は、1937年の段階で、西園寺は老齢などを理由にして元老としての責務を果たすことを放棄したようだと述べています。そして、フランスでの留学生活以降、彼が確信していた国際協調、世界の流れとしてのデモクラシー、政党政治、議会政治が日本で定着するように細心の注意を払いながら行ってきた努力が水泡に帰す様子を眺めながら、最後の元老としてこの世を去ることになることに無常を感じたのではないかと思います。私は、西園寺が目指した「上からの民主化」路線はやはり不自然であったのではないかと思います。しかし、大正デモクラシーからの政党政治の経験が戦後に活かされたという見方も出来ると思います。

 

 元老は憲政と国際協調という2つの原理を日本政治に植え付けるための存在であり、そうした存在が亡くなった時点で戦前の日本は失敗を犯しました。現在、元老のような存在はありません。日本が再び失敗を犯さないようにするためには、私たち自身が賢くならねばなりません。

 

(終わり)


 
アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22




 

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