古村治彦です。


 今週は、1月に出版される本の校正にかかりきりになっており、新聞も満足に読めない状況です。今回は趣向を変えまして、いえ、だいぶ変えまして、スポーツの話題を。かなり浮世離れした話題となります。本のことでいっぱいいっぱいになってしまって、ちょっと気分転換的な要素の強い文章となってしまいました。かなり古臭い話になります。ご容赦くださいませ。


 私はスポーツ観戦とスポーツ関係の書籍の読書を趣味にしています。特に野球に関しては子供の頃から好きでした。その度合いは大人になっても衰えるどころか、ますます盛んになっております。師である副島隆彦先生からも「スポーツなんてどこが面白いの?まぁ君には面白いんだろうな。退屈しなくて良いなぁ」と呆れられているほどです。

 私のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サーヴィス)のプロフィールのアイコン写真は、今はもう存在しないプロ野球球団である南海ホークスのマークを掲載しています。このことについて、よく質問を受けます。「どうして南海ホークスのマークなんですか?」と。ツイッター上では、民主党所属の某国会議員に質問されました。また、2013年6月に渋谷で開催されました、「副島隆彦を囲む会」主催の会員交流会でも複数の方々にこの質問を受けました。


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南海ホークスのマーク


 私は子供の頃から阪神タイガースファンです。私の生まれ育った鹿児島は、今はどうか分かりませんが、子どもの頃は読売ジャイアンツファンが多かったです。私が高校に入学し、入学式の後、各クラスに分かれて初めて顔合わせをし、自己紹介をした時、「阪神ファンです」と言ったところ、クラスメイトの一人が舌打ちをしたことを覚えています。ですから、私の友人たちもまた「どうして南海ホークスのマークを使っているんだよ?」と不思議がっています。



 前置きが長くなりました。さて、どうして私が南海ホークスのマークを使っているのか、ということですが、それは「カッコいい」からです。「なんじゃそりゃ」と言われそうですが、これは仕方がないことです。昔の球団ユニフォームや球団旗を見てみると、その斬新さと現代性、モダンさを改めて感じることができます。



私が物心ついた時、南海ホークスは人気のないパシフィック・リーグのお荷物球団に成り果てていました。冴えないグリーンのユニフォームや覇気がない選手たち、スポーツニュースのダイジェストでしか見ることができませんでしたが、いつも負けているという印象しかありませんでした。私の中では古臭い昭和を象徴していたのが南海ホークスでした。そして、その南海ホークスが後から振り返ってみれば昭和時代と共に消え去ることになったのは何とも象徴的であったと考えます。



 1988(昭和63)年にホークスが南海からダイエーへの売却されました。鹿児島に住む少年にとって福岡という場所もまた遠い都会でしたが、その都会に球団がやって来る、ライオズンが出て行って以来、球団が帰ってくるというのは嬉しいニュースでしたが、「よりによってホークスか」という気持ちでした。「それだったらブレーブスが来てくれたら良かったのに」というのが、その当時の多くの人々の正直な感想ではなかったかと思います。



 そして、ホークスが九州にやってきました。フランチャイズが変わったからといって、チームが急に強くなるということもなく、相変わらずお荷物という感じでしたが、若田部投手をドラフトで活躍したあたりから、「チームは本格的に強化を図っている」ということが周囲にも伝わってきました。その後、積極的な強化策を取りながらなかなか成績が上昇しませんでしたが、1999年、ホークスはついにパリーグを制しました。



 私は取り立ててホークスのファンではなかったのですが、昔福岡に住んでいて、平和台球場での南海ホークス対西鉄ライオンズがいかに黄金カードであったかという話を聞いていました。そして、「一体どんな感じだったんだろう」という興味を持ち始めたのが大学時代です。そこからいろいろな本を読みながら、自分の中で想像を膨らませてきました。



 球団創設50周年で姿を消した南海ホークス。1940年代から60年代にかけてパリーグの強豪チームでありながら、やがて凋落していく。名門の栄枯盛衰。この南海ホークスという響きに私はフラジャイル(fragile)、はかなさを感じるのです。そして、私の頭の中では、はかない南海ホークスが息づいています。



 私は政治学を専攻し、政治の事象に大きな興味関心を持っています。私は、プロ野球と政治ということも十分に大きなテーマになると考えています。来年はそのテーマについて文章を書いていければと考えています。



(終わり)


南海ホークスの歌

さよなら大阪球場