古村治彦です。
本日、2015年9月17日、参議院平和安全法制特別委員会で安保法制の採決が行われ、自民、公明、次世代などの賛成多数で可決されました。現在、参議院本会議が開催されています。
私は70年という数字と翼賛会政治体制ということについて考えてみたいと思います。私は昨日、吉田茂の言葉を借りながら、昭和10年代と平成20年代は、日本政治における「変調」の時期だと書きました。それは国の基礎となる憲法が死文化させられるという現象(天皇機関説排撃と安保法制)によって出現していると主張しました。
私は本日その考えを更に進めてみたいと思います。私はこの2つの変調の時期はそれぞれ大きな革命的変化が起きてそれぞれ約70年経って起きていること、そして、それぞれ憲法の死文化(前回は天皇機関説排撃を取り上げましたが、今回は統帥権干犯を取り上げます)が進んだことで、翼賛政治体制が確立することをそれぞれ指摘したいと思います。
戦前について考えてみたいと思います。戦前、軍は統帥部と軍政部に分かれていました。統帥部(参謀本部・軍令部)を率いるのが参謀総長・軍令部長、軍政部(陸軍省・海軍省)を率いるのが陸軍大臣・海軍大臣でした。統帥とは簡単に言えば作戦、軍政とは軍の予算や編成を司る者でした。この2つを総べるのが統帥権で、統帥権は天皇に属するもので、天皇は参謀総長・軍令部長、陸軍大臣・海軍大臣の輔弼を受けて統帥権を遂行することになっていました。
ここで難しいのは、軍の予算は国家予算の一部として内閣が議会に提案して、議会の協賛を得る必要があったということです。統帥部が何がどれだけ欲しいと思っていても、陸軍省と一緒になって交渉した訳ですが、大蔵省の反対や議会の反対があれば実現することはありませんでした。しかし、海軍軍縮のためのロンドン会議あたりから、当時野党の政友会の鳩山一郎議員などによる「統帥権干犯」という言葉が生み出されてしまいました。この魔法の言葉によって、たとえば内閣の外務大臣や大蔵大臣、総理大臣が軍事上のことを尋ねても「統帥権干犯!」の一言で、統帥部が答えを拒否できるようになってしまいました。
中国大陸での軍事侵略の時でも、出先の日本の領事館などが平和解決のために日本軍に出向いて話をしようとしても、「統帥権干犯!」として話し合いを拒否されるということもありました。開戦直前でも、軍部はいつ作戦実行するつもりなのか、と東郷茂徳外務大臣が尋ねても、統帥権干犯を楯にして教えることを拒否しながら、それではあまりにかわいそうだと思ったのか、「それじゃぁ教えてやろう、12月8日だ」と軍部は答えました。
統帥権干犯の一言で軍部は政治への介入を強めました。また、近衛文麿がドイツに影響されて一国一党運動を唱えたのに乗っ取り、大政翼賛会を作り、帝国議会を軍部による政治の協賛機関とすることに成功しました。大政翼賛会とは軍部政治翼賛会でした。そして、日本の政党政治と議会は死んでしまったのです。それは明治維新から約70年後のことでした。
現在について考えてみたいと思います。私は安倍政権発足時からこの自公、そして橋本氏率いる維新の党大阪ウイングは米政翼賛会だと主張してきました。アメリカの利益最優先の政治を行う体制になっていると私は指摘しました。
今回の安保法制は無理に無理を重ねた憲法解釈で集団的自衛権を合憲として、安保法制の根幹に据えました。それは何の為でしょう。それは日本がアメリカのお先棒を担ぐためです。このブログでは2015年7月17日に掲載しましたし、山本太郎参議院議員が何度も取り上げた『フォーリン・ポリシー』誌の記事でも書かれていましたが、この安保法制はアメリカにとって「グッドニュース」なのです。何がグッドニュースなのか、それは財政が苦しいアメリカ軍の一部を日本の自衛隊がしてくれること(もちろん日本人の払った税金で)、日本が自衛隊の海外派兵のための装備を揃える際にアメリカの軍需産業の製品を大量に購入すること(もちろん日本人の払った税金で)ということです。
このアメリカ(の一部)の意向を受けての安保法制なのです。だから、日本国憲法を無理やりに解釈し、いわば死文化させ、この法律を通さねばならないのです。このアメリカの意向はアンタッチャブルで誰も抵抗のできないものです。アメリカの意向は現代版の「統帥権干犯」なのです。アメリカの意向に疑義を唱えることや反対を唱えることは「統帥権干犯!」ということになります。そして、本日、日本の国家は大政翼賛会体制ならぬ米政翼賛会に堕し、アメリカの協賛機関に転落してしまったのです。そして、今年は敗戦という革命的な大事件から70年目なのです。
山本太郎参議院議員は「自民党が死んだ日」としても服を着用してるということですが、私はそんなちいさなものではなく、「戦後日本が死んだ日」と言いたいと思います。
更に言うならば、戦前の軍部も現在のアメリカ(の一部)も元々はそんなに無理なことは求めてこなかったのです。驕慢さが募りに募って、変質してしまったというところも類似していると思います。これは余談になりますが。
今回の文章は昨日の続きで、更に考えてみた結果です。日本近代史上における2度目の変調の時期を現在は迎えている訳ですが、その先に待っているのが1度目のような悲惨な結果にならないことをただただ祈るのみです。
(終わり)