古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

2018年03月

 古村治彦です。

 

 2018年3月22日、アメリカのドナルド・トランプ大統領が4月9日付で、大統領国家安全保障問題担当補佐官にジョン・ボルトンを任命すると発表しました。現在のハーバート・R・マクマスター補佐官は辞任となります。マクマスター補佐官は現役の陸軍中将ですが、辞任に伴い、陸軍からも退役するということです。

johnbolton015

ジョン・ボルトン
 
hrmcmaster005
ハーバート・R・マクマスター

 2018年3月6日、ゲイリー・コーン国家経済会議委員長が辞任を発表しました。この時にメディアでは同じ日に、ジョン・ボルトンがホワイトハウスの大統領執務室でトランプ大統領と会談したというニュースも流れました。この時に既に今回のことは決まっていた可能性があります。

 

 ジョン・ボルトンはジョージ・W・ブッシュ政権時代に政権内の外交と軍事を牛耳ったネオコン派の一人です。トランプ大統領はブッシュ時代のイラク攻撃を批判していましたが、マイク・ポンぺオ国務長官、ジョン・ボルトン大統領国家安全保障問題担当補佐官という陣容を組みました。ポンぺオもまたネオコンに近い人物です。

 

 トランプ大統領はジェローム・パウエルFRB議長を起用し、アメリカ経済の引き締めを行おうとしています。その結果として過熱していた株価は調整され下がっていくことになるでしょう。実際にFFレートの利上げが発表され、NYダウは大幅に下げました。トランプ景気をひと段落させるにあたり、募る不満を対外関係に逸らせるということをトランプ大統領は考えているかもしれません。

 

 ポンぺオ国務長官、ボルトン大東両国家安全保障問題担当補佐官という布陣は北朝鮮に対して強硬な姿勢を取るということを鮮明に示しています。米軍による北朝鮮攻撃の可能性が高まりました。ジェイムズ・マティス国防長官は、北朝鮮攻撃と決まれば反対はしないでしょう。次はジョン・ケリー大統領首席補佐官の動向が注目されるところです。

 

(貼り付けはじめ)

 

諸問題についてのジョン・ボルトンの発言(John R. Bolton on the Issues

 

アシシュ・クマー・セン筆

2018年3月22日

「アトランティック・カウンシル」

 http://www.atlanticcouncil.org/blogs/new-atlanticist/john-r-bolton-on-the-issues

 

ドナルド・J・トランプ米国大統領は2018年3月22日に、4月9日付でジョン・ボルトンが次期大統領国家安全穂所問題担当補佐官に就任すると発表した。ここ数年の重要な外交政策問題に関してのボルトンの立場を彼の発言から見てみよう。

 

●北朝鮮について(On North Korea

 

・「北朝鮮の核兵器開発によって現在生じている事態に対して、アメリカが先制攻撃を行うことで対応することは完全に正当なことなのである」(2018年2月28日付『ウォールストリート・ジャーナル』紙)

 

・「問題:北朝鮮の政権が現在嘘をついているとどのようにして知ることが出来るか? 答え:彼らの唇が動いていることで知ることが出来る。(訳者註:北朝鮮は嘘ばかりをついているという意味)」(2018年3月9日付フォックスニュース[テレビ番組]

 

●イランの核開発に関する合意について(On Iran nuclear deal

 

・「オバマ大統領が交渉して引き起こした外交上のワーテルローの戦いの結果(惨敗)はまだ癒されないだろう」

 

・「トランプ大統領はオバマ前大統領が結んだ合意を戦略的に大きな間違いだと正確に見破っている。しかし、トランプ大統領の周囲にいる補佐官たちはどうした訳だか、この合意から撤退しないように大統領を説得している」(2018年1月15日付『ウォールストリート・ジャーナル』紙)

 

・「残された時間は大変に短いが、(イランの核開発施設)への攻撃はまだ成功できる可能性を残している。このような攻撃はイランに敵対している国々や勢力に対するアメリカの巨大な援助と共に実行されるべきだ。そして、こうした動きの目的はイラン政府の政権転覆(体制変更、regime change)だ」(2015年3月26日付『ニューヨーク・タイムズ』紙)

 

●アフガニスタンとパキスタンについて(On Afghanistan/Pakistan

 

・「アフガニスタンに関してはパキスタン次第で勝利もできるし、敗北をしてしまうこともある」(2017年8月21日付フォックスニュース[テレビ番組]

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)


アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)


 古村治彦です。

 

 今回は最近読みました『白い航跡』をご紹介します。吉村昭(1927-2006年)は歴史的な事実を小説とする手法で知られた歴史作家です。日露戦争の日本海海戦のバルティック艦隊を詳細に描いた『海の史劇』は初めて読んだときに衝撃を受けたことを覚えています。

shiroikouseki001

新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)

 

 『白い航跡』は、東京慈恵会医科大学の創設者である高木兼寛(たかきかねひろ、1849―1920年)を主人公としています。高木は日向国穆佐(むかさ)村(現在の宮崎県宮崎市)に生まれました。大工の棟梁の家に生まれましたが、学問好きであり頭脳明晰の少年で、大工仕事を手伝いながら学問に没頭しました。

takakikanehiro001

 

 高木は身分制度が厳しい時代に、このまま田舎で大工の棟梁で終わりたくないと考え、医者になることを決意しました。医者は出自に関係なくなれ、良い暮らしができると考えました。そして、18歳の時に鹿児島に出て蘭方医石神良策の門下に入りました。20歳の時に、戊辰戦争が勃発し、薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍しました。鳥羽伏見の戦いから東北地方に転戦し、会津若松攻めにも参加しました。どの戦いも激戦で、多くの死傷者が出ました。高木は銃弾が降り注ぐ中で、負傷者の応急手当に従事しました。

 

 高木は野戦病院で西洋医学を駆使した治療を目の当たりにして自分の無力さを痛感し、かつ、薩摩藩が協力関係を持っていたイギリス公使館から派遣された公使館付医師ウィリアム・ウィリスが重傷者を救っていく姿に感動し、是非進んだ医学を学びたいと熱望するようになりました。戊辰戦争後、宮崎に帰還した高木は、薩摩藩が1869年に設立した開成所洋学局に入学し、英語と医学の基礎を習得しました。薩摩藩はウィリアム・ウィリスを鹿児島に招き、医学校を設立しました。高木は医学校に入学しましたが、頭脳明晰さと真摯な姿勢、英語をウィリスに認められ、片腕的存在となりました。

 

1872年、高木は恩師石神の引きで海軍に入り、海軍軍医となりました。高木はウイリアム・ウィリスの教えを受け、英語と実戦的な医療技術に秀でており、海軍内でもすぐに頭角を現しました。海軍は創設当初から薩摩藩出身者が重職を占めており、薩摩藩の軍医として従軍した高木は順調に出世を重ねていきました。また、薩摩藩はイギリスと関係が深く、ウィリアム・ウィリスを鹿児島に招いたこともあり、海軍の医療はイギリス式が採用されていたこともあり、高木には良い環境と言えました。

 

日本の西洋医学受容に関しては、ドイツ式かイギリス式かということで争いが起きました。戊辰戦争でウィリアム・ウィリスが多くの負傷者を救ったこともあり、当初はイギリス式が採用されることになっていました。しかし、ドイツの医学の方が進んでいるという意見も出て、どちらを採用するか、新政府に迷いが出ました。オランダ系アメリカ人の宣教師で、長崎で大隈重信や副島種臣を教えたグイド・フルベッキは、「ドイツ医学の方が進んでいる」という意見を述べ、最終的にドイツ式が採用されることになりました。ウィリスが鹿児島の医学校に招かれたのも中央に居場所がなくなったためでした。しかし、海軍の医療に関してはイギリス式が採用されました。

 

 当時のドイツ医学とイギリス医学の違いは、ドイツの方が基礎研究を重視し、学理を重視するというもので、イギリス式はより実践的な医療を重視するというものでした。ドイツ医学からみれば、イギリス医学は実践を重視するあまりに「軽い」もののように低く見られていたようです。

 

 1875年、軍医少監(少佐相当官)となっていた高木にイギリス留学の話が舞い込みます。そして、セント・トーマス病院付属医学校に留学しました。高木は下宿と学校の往復のみというストイックな姿勢で勉学に励み、常に成績優秀者として表彰と賞金を受ける学生として、イギリス人学生たちからも尊敬を受けるほどでした。セント・トーマス病院では実際の診療にもあたり、より実践的な医療技術も習得しました。高木は内科、外科、産科の医師資格を取得し、1880年に日本に帰りました。

 

日本に帰国後、高木は順調に昇進を重ね、海軍軍医学校長や病院長を歴任し、1883年には海軍軍医務局長、1885年には海軍軍医総監に就任しました。海軍軍医のトップにまで昇り詰めました。

 

 最高幹部クラスの海軍軍医となった高木が取り組んだのが脚気の治療と予防でした。海軍では脚気患者が多数出て、危機的状況にありました。実際に出動、戦闘となった時に、戦艦の乗組員の多数が脚気で動けないとなればどうしようもないということになります。実際に朝鮮半島をめぐり、中国(清帝国)と緊張が高まった際に、朝鮮半島に出動した軍艦では多くの脚気患者が出て、実際の戦闘になっても船を動かすことすらできない状況にまでなってしまいました。この時は実際の衝突は起きず、何とかごまかすことが出来ましたが、日本海軍は装備以前の問題で兵員の健康問題を抱えてしまうことになりました。

 

 この当時、ドイツ医学系の東京大学医学部と陸軍軍医たちは、脚気の原因は細菌だと考えていました。夏になると脚気患者数が増え、海軍でも士官よりも兵士クラスで患者数が多く出るということから、不衛生な場所で脚気の原因菌が繁殖するのではないかと考えられていました。しかし、原因菌の特定には至っていませんでした。

 

 高木はイギリス海軍では脚気の患者が出ないこと、日本伝統の漢方医たちの中に「脚気の原因は米だ」という主張があることなどから、食事、特に副菜を摂らない大量の米食が問題なのではないかと考えるようになりました。現在は日本でも米離れと言われ、米の消費量は減少していますが、昔は1日に5合や6合の米を少ないおかずで食べていました。海軍でも兵士たちに白米を支給し、白米など食べられない貧しい家庭出身の兵士たちは喜んでいました。また、副菜に関しては相当分のお金を兵士たちに支給して勝手に買わせていたのですが、米でおなか一杯になるし、節約の意味もあって、ほとんどの兵士がこのお金を貯金に回していました。そのため、兵士たちは米食に偏った食事をしていました。

 

 高木は海軍の食事を西洋式に改めることを訴え、パン食、肉食、牛乳の摂取を主張しました。しかし、経費がかさむこと、兵士たちが洋食を嫌がることなどの問題もあり、海軍醸造部も高木の訴えには理解を示しつつも実行には躊躇していました。高木は伊藤博文や有栖川宮幟仁親王といった明治政府の最高幹部、要人たちに直訴する形で海軍の食事制度を改善していきました。1883年から海軍内で食事が改革され、これに合わせて脚気患者も減少していきました。しかし、東大医学部や陸軍部では海軍の取り組みと高木の主張を激しく非難しました。陸軍軍医総監であった石黒忠悳や後任の森林太郎(森鴎外)は高木を厳しく糾弾しました。

 

 1883年にコルベット艦龍驤が練習航海を行いました。ニュージーランド、南米、ハワイを周航したのですが、多くの脚気患者を出しました。高木は1884年にコルベット艦筑波に食事を改善した状態で同じコースでの航海をしてもらうという実験を行いました。その結果は、脚気患者はほぼ出なかったという結果になり、高木の主張は海軍内で確固とした立場を確保することになりました。

 

 高木は海軍で軍医教育や将兵の衛生や健康、脚気患者の減少に取り組みながら、同時に海軍外での医療と医療教育にも取り組みました。1881年に慶應義塾医学所(前年に廃止されてしまっていた)の所長だった松山棟庵と医学団体成医会と医師養成機関である成医会講習所を創設しました。福沢諭吉は医学に関して英国式を支持しており、そのために慶應義塾の中に医学所を創設していたのですが、資金難などのために廃止せざるを得ない状況でした。日本国内でドイツ医学が優勢となる中で、イギリス医学の拠点とすべく、高木と松山はこれらの団体を創設しました。これが後に東京慈恵会医科大学へと発展していくわけですが、私の勝手な考えでは、現在の私立医学部の名門である慶應義塾大学医学部と東京慈恵会医科大学は今でも友好関係にあるのではないかと思います。

 

 1882年には、高木は自身が学んだセント・トーマス病院を範とする有志共立東京病院を創設しました。セント・トーマス病院では貧しい患者には無料、もしくは廉価で治療を施していましたが、東京病院もそのような形態を採用しました。東京病院では海軍軍医も診療にあたり、最新の医療が受けられるとして患者が殺到したということです。医者はただ本を読むだけでは技量は上達しないので、できるだけ多くの機会を海軍軍医たちに与えて、技量上たちの場にしたいという考えもあってのことでしょう。東京病院は1887年に明治天皇の皇后(昭憲皇太后)を総裁として迎え、皇后から「慈恵」の名前が与えられ、東京慈恵病院となりました。

 

 高木はまた、セント・トーマス病院で看護婦が豊富な医学知識と確固とした医療技術を駆使して活躍している姿に感銘を受け、日本でも看護婦を要請すべきだと考えていました。1885年に東京病院に付属の看護婦教育所を創設しました。

 

 これらの組織団体が後に東京慈恵会医科大学に発展し、現在に至っています。高木兼寛は東京慈恵会医科大学の創立者ということになります。ドイツ医学が優勢の中で、実践を重視するイギリス医学の拠点を作りたいという高木の意志が東京慈恵会医科大学にまで発展したということになります。

 

 1888年には日本にも博士号が作られ、文学、法学、工学、医学の各分野から4名ずつに博士号が授与されることになり、高木はその中に入り、医学博士となりました。日本ではドイツ医学優勢で傍流として虐げられていましたが、やはりロンドンで学んできたことと日本海軍内で脚気患者を減少させた功績を国家として無視することはできませんでした。

 

 1892年に高木は海軍を退き、貴族院議員となりました。また、1905年には男爵に叙せられました。日清・日露戦争で日本海軍が各戦闘で勝利を収めることが出来たのは、脚気患者を減らすことが出来たということになり、高木の功績に対して華族に叙せられることになりました。そのままの時代が続けば、頭脳明晰であった高木も父の跡を継いで大工の棟梁で終わるはずであったのが(大工の棟梁も素晴らしい仕事ですが)、明治維新という日本の勃興期に人生が重なった人物でした。

 

 高木は後にアメリカ・ニューヨークに今でもある名門コロンビア大学の招聘受けて渡米、更にヨーロッパ各地を歴訪しました。自分が学んだロンドンのセント・トーマス病院も訪問しました。高木は各地で歓迎を受け、いくつもの大学で講演し、名誉博士号を授与されました。日本では東京大学医学部と陸軍によってドイツ医学優勢となり、傍流とされているが、海外ではこんなにも評価されているということで高木は自信を取り戻しました。

 

 晩年は診療以外に一般教育と講演に力を注ぎました。自分が相手にされない医学界向けではなく、一般の人々に医療や衛生について話をし、更には道徳などについても話をするようになりました。また、この頃から日本の伝統に回帰するようになり、禊(滝行など)を好んで行うようになりました。また、日本の粗食(雑穀の入ったご飯や味噌など)が素晴らしいと言うようになりました。ロンドンまで行って近代学問を学んだ高木もまた日本人であったということになるでしょう。

 

『白い航跡』を読んで思うことは、イギリスとドイツの学問の方法論の違いということです。イギリスは帰納的であり、ドイツは演繹的であり、かつ、イギリスは形而下を重視し、ドイツは形而上を重視するという大きな違いがあり、哲学的に言えばイギリス経験論とドイツ合理主義の違いということが言えると思います。

 

たまたま生まれた時代と場所によって、高木はイギリス医学、森鴎外はドイツ医学を学びました。そして、お互いが自分の学んだ医学の優位性を確信しました。彼らは脚気をめぐって、それぞれの学問に忠実に向き合い、お互いに争いました。高木はドイツ医学を学んだ医学者たちからは冷笑をされたり、激しい非難を受けたりました。陸軍軍医たちは、最近接に固執し、麦飯を同流することに反対し、麦飯の効果を検証しようとする試みにも「天皇陛下の軍隊を実験に使うとは許せない」などと言いだす始末でした。とても科学者、医学者の発言とは思えません。

 

陸軍の長州閥の大物で後に総理大臣となった陸軍大臣寺内正毅は脚気を患っており、個人的には麦飯を食べていたという笑えない笑い話のような話もあります。寺内は日清戦争で指揮官として出征、自身も脚気患者となり、また部下たちからも多くの脚気患者を出しました。当時の陸軍では大量の米飯が継続されていましたが、海軍に比べて膨大な数の脚気患者を出すに至りました。皮肉なことに現地で調達した精米していない米に雑穀を混ぜた、食事に「恵まれなかった」部隊では脚気患者が少なかったということもありました。

 

東大医学部系や陸軍軍医たちの姿を見ていると、患者が実際に出て死亡していくのに、自分たちの学んだ学問に合わないからと言って、麦飯の効果を検証することすら邪魔をするというのは、異常なことです。彼らは人々を助けるために医学者になったのではなく、自分の頭脳明晰さと権力のために医学者になったのではないかと疑いたくなるほどです。そして、自分の学んだ学問の方法論にこだわるのは恐ろしいことであり、かつ、学問研究から離れているとされる宗教的な進行にすら似ているように感じられます。また、学問は間違ったり、失敗することが重要であり、そこから新しいものが生み出される(「失敗は成功の母」という言葉もあります)はずですが、実際には無誤謬性に凝り固まった宗教や信仰のようになってしまっている、これは現状でもそのようなことがあると思います。

 

 本書を読んで、学問とは何かということと人の人生は偶然と時代の産物なのだということを考えさせられます。

 

(終わり)



アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)


 古村治彦です。

 

 中国が発表した「一帯一路」計画については、日本ではあまり報道がなされないようです。話が大きすぎて日本人には理解しづらい面があると思われます。私が子供の頃にNHKで放送された「シルクロード」という番組がありましたが、現代のシルクロードを作るということかな、だけどそれは時代遅れなんじゃないのかという考えもあると思います。


onebeltoneroadmap006

 

 一帯一路計画は中国の東岸からヨーロッパ西岸をつなぐ、ユーラシア大陸を横断するためのインフラ建設や整備の一大プロジェクトです。そして、中国はこれを海上輸送、海運、シーレーンにまで拡大しようとしています。具体的には、海上輸送ルートでヨーロッパと中国をつなぐということになります。

 

 中国政府はそのために海運企業コスコとチャイナ・マーチャンツ・ポーツに多額の融資を行い、シーレーンの整備と世界各地の港湾施設の管理運営権を積極的に取得(買収)させています。ヨーロッパの港湾施設の10%は中国の管理下にあるという数字が出ています。

 

 一帯一路計画が進められる中で、日本はどのような立ち位置を取るか、で将来の展望も変わってくるでしょう。太平洋でアメリカとつながり、中国とは至近距離にある日本ですが、アメリカ偏重ばかりでは、世界の半分での活躍の機会を失いかねません。「中国を敵とする」という単純極まりない思考では日本はますます縮小の道を進むことになるでしょう。

 

(貼り付けはじめ)

 

なぜ中国はヨーロッパ各地の港湾施設を買い続けているのか?(Why Is China Buying Up Europe’s Ports?

-中国国有の港湾管理大企業が中国政府の推進する「一帯一路」プロジェクトの最前線で激しく活動している

 

キース・ジョンソン筆

201822

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2018/02/02/why-is-china-buying-up-europes-ports/?utm_content=buffer5fefe&utm_medium=social&utm_source=facebook.com&utm_campaign=buffer

 

「一帯一路」計画は中国が何兆ドルもの資金を投入する外交政策の目玉プロジェクトだ。しかし、この計画は実際には何も進んでいない、目に見えない曖昧なものだと揶揄されることが多い。

 

シンガポールから北海までの各港湾は活発に活動している。これらの港で、中国の国有企業が一帯一路計画を現実のものにしている。これらの企業は積極的にこれらの港湾施設を買収している。中国企業による買収によって、世界貿易と政治的な影響力の姿が現実的に書き換えられようとしている。

 

「コスコ・シッピング・ポーツ(中国遠洋運輸集団)」と「チャイナ・マーチャンツ・ポート・ホールディングス(招商局港口控股有限公司)」は資金豊富な中国の巨大企業だ。両社は先を争うようにして、インド洋、地中海、大西洋沿岸の各港湾施設を購入している。先月もコスコはベルギー第二の規模を誇るゼーブルージュの港湾施設の買収の最終合意にこぎつけた。ゼ―ブルージュは北東ヨーロッパにおける中国の最初の橋頭堡となった。

 

これまでも数年間にわたり、スペイン、イタリア、ギリシアといった国々の港湾施設の買収が進んでいた。中国の国有企業は国内市場に縛り付けられていたが、今やヨーロッパの全港湾の10%をコントロールするまでになっている。

 

港湾施設の買収契約は、中国政府の野心的な計画を明確に表すものだ。中国政府は、中国とヨーロッパを海路、道路、鉄道、パイプラインで物理的につなげる計画を持っている。港湾は一帯一路計画における海の半分の基礎をなすものだ。中国がコントロールする港湾は南シナ海からインド洋、スエズ運河を通ってヨーロッパの南半分にまで達している。

 

海事コンサルタント会社ドロウリー社で港湾施設担当上級アナリストを務めるニール・デイヴィッドソンは次のように語っている。「コスコのような企業にとって、港湾施設購入契約は財政的に無理のないものである。そして、中国政府の幹部たちを喜ばせるものだ。それは、中国政府の掲げる一帯一路計画に沿ったものであるからだ。こうした動きの下にあるのは地政学的な思惑だ」。

 

現代の商業の力を手に入れることは、中国が通常の状態だと考える状態に戻るための方法なのだ。西洋諸国によって与えられた中国の屈辱の世紀、それは中国の各港をヨーロッパ諸国の戦艦によって強引に開港させられたことで始まった。この状態から脱却するためには商業的な力を手に入れることが必要だと中国は考えている。

 

オランダ国際関係研究所の中国専門家フランス=ポール・ヴァンダー・パッテンは「究極的な目的は中国の外国依存を低下させ、世界に対する中国の影響力を強めることだ」と述べている。

 

中国の影響力が増していることはヨーロッパでは驚きをもって迎えられている。中国からの投資は天井知らずの状態になっている。ヨーロッパ各国の指導者たちは、中国の習近平国家主席が中国の経済力を政治的な影響力に転換するのではないかという不安を募らせている。コスコは10億ドルを投じて、ギリシアのさびれた港ピレウスの港湾施設を買収した。これについて、中国政府はギリシアを利用して、ヨーロッパ連合による中国の人権状況と南シナ海の行動への非難を弱めさせようとするのではないかという懸念が出ている。

 

現在、中国の国有企業は地中海を進撃している。そして、同時に中央ヨーロッパと東ヨーロッパへの投資も加速させている。こうした動きに対して、懸念が募っている。

 

HISマークイットで酒井各国の港湾を担当しているターロック・ムーニーは次のように語っている。「一帯一路計画に沿った主要な社会インフラへの投資の規模は、ヨーロッパ諸国における中国の政治的な影響が増大している。これは確かなことだ」。

 

中国の海運と港湾企業は海運分野では小規模であった。海運事業分野はAP・モーラー・マースクやハチソン・ポーツのような大企業によって支配されていた。しかし、2016年、中国政府はチャイナ・オーシャン・シッピング(中国遠洋運輸集団総公司)とチャイナ・シッピング・カンパニー(中国海運集団総公司)を合併させ、コスコを発足させた。コスコは海運、港湾管理、その他の輸送事業を手広く行う巨大企業となった。

 

コスコの進撃は止まらなかった。昨年、コスコは昨年60億ドル以上を投じてライヴァル企業であるオリエント・オーヴァーシーズ・インターナショナルを買収した。これによって海運ビジネスにおける地位を固めることに成功した。現在、コスコは、世界最大級の海運企業(ヨーロッパ以外では最大)と世界で最も忙しい港湾管理企業をコントロールしている。

 

港湾に関して言うと、コスコは最大の中国国営企業という訳ではない。チャイナ・マーチャンツ・ポート・ホールディングスの方がより多くの貨物を取り扱い、海外で活発な動きを見せている。ヨーロッパでの港湾施設の買収に加えて、スリランカ、ジブチ、ブラジルでの拠点づくりを進めている。

コスコとチャイナ・マーチャンツはヨーロッパの競合企業に対して有利な点を持っている。中国企業は低利の資金をふんだんに利用して世界中の魅力的な資産を積極的に買収することができる。コスコとチャイナ・マーチャンツは、中国国有銀行から低利の融資を受けることができる。コスコは、中国開発銀行が提供する一帯一路関連融資で数十億ドル規模の融資を受けることが出来る。

 

「貿易と商業の観点からすると、安い金利の貸付金が利用できることと外交上の支援を受けられることで、中国の港湾管理企業はライヴァルとなる投資家たちに競り勝ち、自分たちが選んだ港湾施設を手に入れることが出来るようになるということを意味する」とムーニーは語った。

 

ある港湾が商業的な価値よりも中国政府にとって戦略的な価値がある場合には、財政的な自由度が増す。中国政府が資金を積極的に融資するようになるのだ。ジブチにおけるチャイナ・マーチャンツ担当部分のカーゴ取り扱い量は、昨年前半、世界的な好景気にもかかわらず、減少した。しかし、ジブチは中国政府にとって死命を決するほどに重要な港である。それは、中国国外唯一の中国人民解放軍の基地が置かれ、中国にとって重要なインド洋のシーレーンにとっての拠点となるからだ。


djiboutichinesebase001
ジブチの中国人民解放軍基地
 

ムーニーは次のように語っている。「中国政府にとって戦略的な価値がある場合には、中国の企業は商業的な価値がほとんどない、もしくは全くない資産も買収し、投資し続けることが可能だ」。

 

中国の企業による積極的な買収は地政学的な熱狂だけが理由ではない。

 

2016年に世界の貿易取引量が減少し、海運企業も打撃を受けた。コスコは2016年に売り上げを14億ドルも減少させた。しかし、港湾は利益を出している。ドリューイー・デイヴィッドソンは「港湾と流通基地は利益が出る。しかし、海運ビジネスは飛行機会社のようなもので、利幅が薄いのである」と語った。

 

コスコのような企業は投資を行って、さびれていた港湾を巨大な流通基地に変貌させ、利益が出るようにしたいと考えている。コスコはギリシアのピレウスをさびれた港から、ヨーロッパ、中東、アジアをつなぐ流通基地に変貌させた。コスコは、スペインの港湾ヴァレンシアを西地中海、ゼ―ブルージュを北東ヨーロッパの流通基地に変貌させようとしている。

 

中国の拡大のペースはヨーロッパ経済にとって重要な要素となっている。港湾だけではなく、エネルギー産業とハイテク産業の分野でも重要になっている。ヨーロッパ各国の指導者たちはイライラを隠せないでいる。

 

欧州委員会委員長ジャン=クロード・ユンケルは、中国という名前は出していないが、港湾のような資産の外国による買収について懸念を表明している。欧州委員会は、国家の安全にかかわるような微妙な分野における外国からの投資を精査するための新しい方策の導入を検討中である。

 

フランス大統領エマニュエル・マクロンは、先月の中国の公式訪問の中で更なる表現を使った。マクロンは中国政府によるヨーロッパ各国の重要なインフラの買収について特に言及し、ヨーロッパ各国の団結によって対処することを呼びかけた。ロイター通信は、マクロンが「中国は、ヨーロッパ諸国の中で中国に門戸を開いている国がある場合に、ヨーロッパ大陸と力に敬意を払うつもりはないだろう。」と発言したと報じている。

 

中国はヨーロッパ各国の成長が期待できる各企業を買収しているが、これには反発もある。2016年に中国はドイツのロボットメイカー・クカを買収した。これは、ヨーロッパ経済が成長するために必要な最新技術を中国が横取りするのではないかという懸念を引き起こした。

 

オランダ国際関係研究所のヴァンダー・パッテンは、中央ヨーロッパと東ヨーロッパにおける一帯一路計画に沿った港湾契約やその他のインフラ計画は、既にガタガタになっているヨーロッパ連合から政治的に弱い加盟諸国が離脱する危険を伴うものだ、と述べている。

 

ヴァンダー・パッテンは次のように語る。「現在、中国からの投資によって政治的な影響を受けるのかどうかということがより議論されるようになっている。大きな違いは、地中海沿岸諸国は中央ヨーロッパ諸国に対する中国の投資が、これらの国々の中国に対する姿勢に影響を与えるであろうということがすでに議論の前提になっているということだ」。

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)

アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)


 古村治彦です。

 

 今回は、『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(児玉博著、小学館、2017年)をご紹介します。一気に読めてしまう好著です。

teherankarakitaotoko001

テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅

 

 東芝は、不正経理問題や子会社ウェスティングハウスの破綻問題により、大きなダメージを受けました。日本を代表する電機メーカーで売り上げは6兆円、社員は20万人の大企業が破綻するかどうかの瀬戸際まで追い込まれてしまいました。日本で育ち、生きてきた人たちの多くは日曜日の夕方、テレビで「笑点」、「ちびまる子ちゃん」、「サザエさん」を見ているうちに夕ご飯という経験を持っていると思います。「サザエさん」のスポンサーが東芝でしたが、これも撤退するということになりました。私は、何か、日本の一部が失われるという感じがしました。


nishidaatsutoshi001

 西田厚聰

 本書の主人公は、西田厚聰(にしだあつとし、1943-2017年)という人物です。西田は、31歳で東京大学法学政治学研究科の博士課程の学生という学究の道を捨て、東芝に海外現地採用社員(イラン)として入社し、後に社長・会長を歴任した異色の経歴の持ち主です。学歴は置いておいても、年功序列がまだまだ厳然と残っている時代に、大学に現役で入学し、4年で卒業した人よりも10年も遅れて入社した形の人が最終的に社長・会長になったというのは、大企業では他に例がないでしょう。大学入学時に1年浪人、大学卒業までに5年(1年留年)くらいまでだったら、ハンディにはならない、と言われますが、10年というのは想像もつかない絶望的な差です。10年の差を埋めるだけの力があったということは間違いないところで、『テヘランからきた男』でも、西田の器の大きさと頭脳明晰さ、突破力が随所に描かれています。

 

 西田厚聰は三重県の田舎で、教師の家に生まれました。子供の頃から努力家で、地元の尾鷲高校から二年浪人して早稲田大学に進学しました。二年の浪人で何をしていたのかは本に書かれていませんが、東大や京大を受験していたということです。早稲田大学の学生時代の話もあまり書かれていません。西田が進学した当時は60年安保も終息していた頃で、ブントも終わっており、学生運動が過激さを増していく頃でした。西田も学生運動に参加し、下宿を何度も変わったと書かれています。恐らく、過激な学生運動のセクトに関わり、セクト間での抗争に巻き込まれたのだろうと推察されます。

 

 早稲田大学では授業に出る余裕もなかったそうですが、ドイツ語で政治学の原書に挑戦するという一面もあったそうです。卒業後に東京大学大学院の修士課程に進学します。専攻は政治思想史、指導教授は福田歓一(ふくだかんいち、1923-2007年)でした。『政治学史』やアイザイア・バーリンの翻訳で知られた政治学の重鎮です。西田はドイツの思想家ヨハン・フィヒテ(Johann Fichte、1762-1812年)を専門にしていたそうです。福田は西田を厳しく指導し、原点を厳格に解釈することを教えたそうです

 

 西田は福田に非常に期待されていました。博士課程に進学する際に西田を含む2名が合格しましたが、福田は西田以外の学生に就職することを勧めたので、西田だけが博士課程に進学しました。そのままいれば東大は無理にしてもどこかの大学の専任講師はまず間違いなかったでしょう。西田が途中で博士課程を中退したのは、学部が東大法学部ではなかったので、東大教授にはなれないと考えたからだ、という話があるそうです。しかし、これは正しくないでしょう。そもそもそんなことは東大修士課程に入る時点で分かっていることです。ドラマ「白い巨塔」で描かれたような醜い出世争いや東大出身でなければダメということは西田には分っていたはずです。西田は学究の道から離れたことについて、迷惑がかかる人がいるということでその理由を絶対に話しませんでした。ですが、東大教授になれないと分かったからということはないと私は考えます。

 

 西田は東大大学院在学中に日本に留学生として来ていたイラン人学生ファルディン・モタメディと出会い恋に落ちたそうです。ファルディン・モタメディは日本思想史の大家である丸山眞男(1914-1996年)の薫陶を受けた人物です。丸山の著書『「文明論の概略」を読む』(岩波書店、1986年)にはファルディンが丸山の許で福沢諭吉の思想を勉強したいと述べるシーンが出てきます。

 

 西田は福田の期待に応えました。岩波書店の月刊誌『思想』に26歳で論文を掲載しました。これは政治思想の世界では大変なことです。しかし、西田は、イランに帰国したファルディンを追いかけて学究の途を捨てました。

 

 その頃、東芝はイランに合弁で電球工場を建設することになりました。日本人写真たちは苦労していたようですが、そこに現れたのが日本語をはじめ欧米諸国の言語が出来るファルディンでした。ファルディンは東芝の工場建設に関わるようになりましたが、自分の恋人がイランにやって来て結婚式を挙げる、彼を雇って欲しいということになりました。この人物が西田です。東芝側は、学者上がり(もしくは崩れ)は使いづらいと考えていたようですが、現地採用となりました。

 

 西田は社会経験は少ないのですが、学者臭くなく、好奇心旺盛、何事にも真剣に取り組む上に語学も堪能ということで、頭角を現していきました。そして、本社採用となりました。

 

 西田は本社ではノート型コンピューターを担当し、東芝の主力商品にまで仕立て上げました。ドイツを拠点にして、ヨーロッパ中を動き回り、ノート型パソコンとそれに搭載するOSを作り上げ、売って売って売りまくりました。西田の活躍は痛快な冒険譚になっています。私もアメリカ留学中にノート型パソコンを買い替えようと思い、アメリカ人の友人にどの機種が良いかな、と質問したところ、「東芝が良い、丈夫で壊れないよ、アメリカでのシェアも大きいし。君は日本人なのにそんなことも知らないの」と言われてしまい、恥ずかしい思いをしました。私が東芝のパソコンを使って10年以上なりますが、それはメリカの経験からであり、東芝のパソコン事業の成功させたのが西田です。

 

 2005年に社長となった西田が行ったのが2006年の原子力メーカーのウェスティングハウス社(WH)の買収でした。東芝はジェネラル・エレクトリック社(GE)と付き合いが古く、GEが作っている沸騰水型軽水炉(BWR)を採用していました。しかし、東芝は、世界の趨勢は、加圧水型軽水炉(PWR)だと考え、PWRを製造しているWH社の買収に踏み切りました。WH社と古くから付き合いがあったのは三菱重工業でした。東芝はWH社買収で、最後の最後で三菱重工業の横やりも入りましたが、最終的に6600億円での買収に成功しました。東芝は原子力分野で1位、半導体分野で3位という世界最大の電機メーカーとなりました。

 

 しかし、半導体は価格が下がり、リーマン・ショック後で需要も下がってしまい、売り上げが落ちてしまいました。結果、2009年に社長の座から退きました。その後、会長となりましたが、2011年3月11日の東日本大震災と原発事故で原発建設などがストプすることになりました。そして、WH社は破綻し、その影響を受けて東芝も危機的状況に陥りました。原発事業拡大を進めた西田に対する非難の声も出ました。しかし、東日本大震災までは、原発は気候変動に対する有効な解決策ということで、拡大していっていたのですから、西田の判断を後付けの理由で非難するのは間違っていると思います。

 

 さて、私は西田厚聰という人物を主人公に据えた本書『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』は、大学教育と企業の関係の在り方についてヒントがあるのだろうと思います。日本の大学は長年にわたりレジャーランドと呼ばれ、入るのは大変だが出るのは簡単、授業に出なくても単位を取ることが出来る、企業も大学で変に勉強されるよりも社会性を身に着けておいて欲しい、教育は入社してからこちらでビシビシやる、ということになっていました。そして、大学教育は十年一日のごとし、教授は使い古したノートを毎年毎年読むだけ、学生は試験前にノートのコピーを集め勉強するのはまだよい方で、何も準備せずにテストを受けて「単位をください」と書いてしまうなんてことになりました。大学側はどうせ学生のほぼ全員が企業に入るのだから厳しく学問を仕込むことなんか望まれていないのだから手を抜けばいいということになりました。

 

 しかし、最近では世の中が「世知辛く」なったのか、大学できちんと教育をして社会に送り出せ、企業で役立つ教育をせよ、ということになっています。これに対して、大学でどのような教育をすべきか模索されています。

 

 私は西田厚聰という人物の生き方がこの問題にヒントを与えてくれるのではないかと思います。西田は学問研究に没頭しながら、10年も遅れて企業に飛び込み、成功しました。彼は政治学を学び、その中には企業内で仕事をするうえで役に立った知識もあるでしょう。しかし、その細かい知識や理論などはほぼ役に立つことは無かったでしょう。

 

 私は西田が成功したのは、方法論と「頭脳を酷使する」経験があったからだろうと思います。学問は何か問題を設定しそれを解決するものです。そこで解決する方法はそれぞれの学問分野に存在するのですが、問題を設定し、解決するという方法論をきちんと身に着けていた、そして、その解決に向かって頭脳を使い切る、「頭脳を酷使する」ということを知っていたのだろうと思います。西田の学んだ政治思想史の方法論は、徹底した原典主義と時代背景を含めた根拠のある解釈です。西田が難しい技術書を読みこなし、何が重要なのかを理解し、周囲を驚かせたのはこうした方法論に忠実であった、そして頭脳を酷使することに慣れていたということが西田の特徴として挙げられるでしょう。

 

 大学で学生に教える際に、日本ではこれらの点があまり行われていないのではないかと思います。方法論(methodology)を身に着け、頭脳を酷使するということが大学内で行われるようになれば、社会や企業からの要求に応えられる卒業生を送り出すことが出来るのではないかと思います。

 

(終わり))

 

(仮)福澤諭吉はフリーメイソンだった [ 石井利明 ]

価格:1,728円
(2018/3/8 09:29時点)
感想(0件)


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 

 拙著『アメリカ政治の秘密』で取り上げました、アメリカの「民主化」の尖兵となってきた機関に対する予算が縮小されるそうです。全米民主体制のための基金(National Endowment for DemocracyNED)と言いますが、その下に、全米民主研究所(National Democratic InstituteNDI)と国際共和研究所(International Republican InstituteIRI)があります。それぞれ自分たちはきれいなNPOでございます、というふりをしていますが、大きな間違いです。

amerikaseijinohimitsu019

アメリカ政治の秘密

 

 NDIIRIは、それぞれ民主党、共和党の下部組織です。民主党(Democrats)と共和党(Republicans)のDRがそれぞれについています。これらは、両政党の中でも、「民主化」に熱心な、人道的介入主義派(Humanitarian Interventionists)とネオコン派(Neoconservatives)の牙城になっています。それぞれにお金を流すために、NEDという組織があって、これに毎年約200億円の国家予算が投じられていましたが、この予算が6割以上カットされるそうです。非常にめでたいことです。

 

 これはそもそも上部団体である国務省(United States Department of State)とアメリカ国際開発庁(United States Agency for International DevelopmentUSAID)の予算500億ドル(約5兆3000億円)が37%削減されて315億ドル(約3兆4000億円)になったことを受けてのことです。ドナルド・トランプ大統領が国務省とUSAIDの予算を大幅削減すると聞いたとき、私は「さすがトランプ大統領、よく分かっている」と感心しました。私がトランプ大統領を支持する理由はまさにここです。

 

 拙著『アメリカ政治の秘密』でも書きましたが、アメリカが進めてきた世界各地の民主化(Democratization)は、世界を不幸にしました。「世界中の全ての国々が民主国家になれば戦争はなくなる、不幸はなくなる。そのためにアメリカは与えられた使命を果たさねばならない」という恐ろしい考えで世界各地にアメリカは介入していきました。最近では「アラブの春」という茶番劇が思い出されます。このアラブの春を演出したのは国務省であり、USAIDであり、NEDでした。私は『アメリカ政治の秘密』の中で証拠付きでこのことを明らかにしています。

 

 私は下に掲載している記事のタイトルである、「トランプ政権「世界の民主化運動を支援するお金はもうない」」も大変気に入っています。アメリカが衰退していることを明確に表しているからです。

 

 こうした動きに対して、人道的介入主義派とネオコン派はトランプ政権をしてくるでしょう。トランプ政権内部の動きについてはこれからも注視していく必要があります。

 

(貼り付けはじめ)

 

トランプ政権「世界の民主化運動を支援するお金はもうない」

Trump State Department Accused of Abandoning Global Democracy in New Budget

 

201838日(木)1920

カルロス・バレステロス

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/post-9693_1.php

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/post-9693_2.php

 

<アメリカ政府の手先、と疑いの目を向けられながらも、旧共産圏諸国の民主化を支援するなど功績のあったNEDがなくなる?>

 

米国務省が、全米民主主義基金(NED)の予算を大幅に削減しようとしている。親米の民主主義を広げるため、世界中のメディアや労働組合、人権団体に資金提供を行ってきたNPOだ。

 

ドナルド・トランプ米政権が2月に発表した2019会計年度(1810月~199月)の予算教書に沿って、国務省はNEDの予算を2018年度の16800万ドルから6700万ドルへと3分の1まで縮小する方針だ。さらに、全米民主研究所(NDI)や国際共和研究所(IRI)などNEDの中核となってきた組織に個別に割り当ててきた予算も、今後は米国務省の一般予算に組み入れたい、としている。

 

NEDの予算削減や見直しを、米議会が承認するかどうかは不明だが、もし認められれば、トランプ政権は海外の民主化運動を見捨てた、という誹りを免れないだろう。

 

「今回の削減案は大打撃だが、驚きはない。最終的に決めるのは議会だ」と、NEDのカール・ガーシュマン会長は本誌に語った。「ただNEDを骨抜きにすれば、ロナルド・レーガン元米政権のレガシー(遺産)を葬り去ることになり、政治的にも将来的にもあまりに短絡的だ」

 

「オープンなCIA」の位置づけ

なぜなら、NEDの予算が削減されれば「海外で同じ価値観を共有し、権力と戦う勇敢な民衆の支援からアメリカが手を引いた、というシグナルを世界中に送ることになる」さらにガーシュマンは米紙ワシントン・ポストの取材に語った。

 

トランプ政権は米国務省の2019年の予算を2017年度比で25%削減する方針だ。

 

NED1983年にレーガン元米大統領の特命で設立された。当時、米中央情報局(CIA)などの米政府機関は、海外の親米派への資金提供や援助を秘密裏に行ってきたとして、激しく批判されていた。

 

「今我々がやっていることは、25年前にCIAが秘密裏にやっていたのと同じことだ」と、NEDのデービッド・イグナシウス会長代理は1991年のインタビューで語っている。「当時と今の最大の違いは、大っぴらに活動しているので、後で批判される可能性が少ないということ。オープンであることは即ち、自己防衛だ」

 

NEDは設立以来、民間NGOの扱いだが、実際には活動資金の大半を米議会から受け取っている。NEDのホームページによれば、年間の資金提供は1200件、1件当たりの平均は5万ドルだ。

 

NED1980年代に共産主義政権の終焉に貢献したとして、その功績が認められてきた。特に1989年に民主化したポーランドへの支援では力があったとされる。

 

一方、アメリカ政府の手先として非難を浴びることも依然、多い。

 

2002年には、ベネズエラで民主的に選ばれたウゴ・チャベス大統領の政権転覆を図った反政府団体に資金提供を行ったと批判された。

 

2005年にジョージ・W・ブッシュ元米大統領がNEDの予算倍増を要求した時には、米共和党のロン・ポール下院議員(テキサス州選出)はこう批判した。「NEDはアメリカの意向に沿う海外の政党や運動に米国民の税金を垂れ流すことで、民主主義を転覆している団体だ」

 

(翻訳:河原里香)

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)

アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)


このページのトップヘ