古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

2020年07月

 古村治彦です。

donaldtrumpwanazedaitouryouninaretanoka001.

ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか? アメリカを蝕むリベラル・エリートの真実 (星海社新書)

 今回は、西森マリー著『ドナルド・トランプはなぜ大統領に選ばれたのか?』を読んだ。本書の中で、テキサス州を拠点に活動する西森氏が「2016年の大統領選挙でメディアでは有利と伝えられていたヒラリー・クリントンが敗れ、ドナルド・トランプが大統領になったのか」ということを詳細に分析している

 一言で言えば、「アホでマヌケなアメリカ白人(映画監督マイケル・ムーアの著書タイトルから)と不当に馬鹿にされてきた人々が、自分たちを見下す民主党やリベラル派、共和党のエリート連中にウンザリして、既存の政治とは関係のなく、自分たちの考えを代弁してくれるドナルド・トランプを選んだ」ということだ。

 2016年の大統領選挙では、アメリカ南部は共和党の地盤なのでトランプが勝つと見られていたが、中西部、五大湖周辺の工業地帯の州は労働組合が強く、民主党支持なので、ヒラリーが勝つと見られていたが、僅差でトランプが勝利した。2016年の大統領選挙の予想を外した人々の多くは、五大湖周辺州でトランプが勝利するとは考えていなかったのではないかと思う。

 アメリカ南部にはキリスト教福音派の敬虔な信者が多く住む。私たちが日本での報道で接する姿は、大きな体で、反対派の人々といつも何か怒鳴り合いをしている怖い人々、そして人種差別を肯定する人々という印象が作られている。しかし、実際には、気は優しくて力持ち、地道な生活を営む人々ということである。また、人種差別を肯定せず(白人至上主義者やKKK会員は少数ながらいるが)、移民に関しても手続きを踏んでやってきた人は歓迎するという姿勢だそうだ。「自分の力で何とかする」「自分の力で生活している以上、何も介入しないで欲しい」という「個人主義」も根強い。

 こうした人々からすれば、健康管理は自己管理の問題であり、医療も福祉も自己責任ということになる。こうなると、政府が人々の生活に関わることには反対するということになる。医療保険(オバマケア)や教育の問題についての実態と、アメリカ南部に住む白人の考え方がこの本を読むとよく分かる。

 話は逸れるが、本書ではバラク・オバマ政権への激しい批判が展開されている。しかし、ここで少し考えてみたいのは、バラク・オバマ政権の前はテキサス州知事も務めたジョージ・W・ブッシュが8年間大統領を務めたということだ。ジョージ・W・ブッシュ政権の失政のために、人々は民主党とバラク・オバマを支持したという側面もある。ブッシュ(息子)政権の外交に関しては、ネオコンに取り込まれ、アメリカはアフガニスタンとイラクでの戦争の泥沼にはまり込んでしまった。もっと言えば、ブッシュは副大統領であったディック・チェイニーの傀儡でしかなかった。ジョージ・W・ブッシュについてのテキサスの人々の評価がどのようなものなのかを知りたい。

 本書に戻ると、重要なのは日本でも関心が高いであろうと思われる、トランプ大統領の勝因分析だ。第5章の「ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか?」に網羅されている。トランプ大統領誕生に貢献したのは、ラストベルトの人々だ。五大湖周辺州の白人労働者にはカトリック教徒も多く、こうした人々はリベラルな価値観と相いれない部分もあり、単純に労働者だから労働組合に入っており、だから民主党支持という構図にはならない。また、ヒラリーのエリートが持つ上から目線に人々が苛立ち、政治と関係してこなかった、トランプに賭けるということになった。

What do you have to lose?」という言葉をトランプは選挙の演説で使ったが、「もう失うものはないでしょ、それならば自分の可能性に欠けて欲しい」という意味になる。本書の著者西森氏は「ダメ元で僕を試して欲しい」と訳しているが、まさに「これまでの政治家たちがやってきたことでアメリカはどん底になった。これ以上悪くなることはないのだから、思い切って自分に投票して欲しい」と訴えが人々の心を掴んだということになる。

 これはバラク・オバマの大統領選挙時のスローガンである「Change, yes we can」にもつながるものだ。残念ながら、大統領が代わって4年間という短期間で何かを劇的に変化させるということは誰にもできない。変革を訴えても、訴えたとおり全てを変えることはできない。今年2020年、トランプ大統領は再選のための選挙を迎える。そこで、これまでの4年間の評価が出ることになる。

(終わり)
deepstatenoshinjitsu001

ディープ・ステイトの真実 日本人が絶対知らない! アメリカ大統領選の闇
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

minpiansatsu001
閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)

 角田房子著『閔妃暗殺 朝鮮王朝末期の国母』を読んだ。閔妃暗殺事件とは、1895年に、当時の朝鮮王朝第25代国王高宗(ゴジョン、こうそう、1852-1919年、67歳で死)の王后・閔妃(びんひ、ミンピ、1851-1895年、43歳で死)を、王宮に侵入した日本の軍隊、警察、民間人が殺害し、遺体を辱め、最後には焼き捨てた、という事件である。
koreanmpressmyeongseong001

閔妃
 閔妃暗殺事件について高校の日本史で習う機会はある。しかし、その詳しい内容や登場人物について習うことはない。私も校内でのテストや入学試験に出てくる単語として「閔妃」や「大院君」という言葉は覚えていた。しかし、それだけのことだ。今回、角田房子著『閔妃(ミンピ)暗殺』を読むことで、1860年代から1890年代(日本が清国に勝利した日清戦争)までの国際関係と朝鮮半島についての歴史を学ぶことができた。

韓国の初代大統領である李承晩(イスンマン、りしょうばん、1875-1965年、90歳で死)は、朝鮮半島の世界政治における立場について、「朝鮮半島は二頭の大きな鯨(中国と日本)の間の小さな海老のようなもの」と評した。19世紀末の朝鮮半島は、ロシア、清国、アメリカ、フランス、イギリス、そして日本といった、欧米列強(western powers)と列強候補生である日本の思惑に翻弄されることになる。

日本と清国が戦った日清戦争の理由は朝鮮半島と朝鮮王朝に対する影響力をどちらが保持するかであり、日清戦争から10年後の1904年からの日露戦争は日本が朝鮮半島の実質的な支配権を確保するかどうか、そして朝鮮半島を確保するために可能ならば満州南部に進出できるかどうかが戦争理由であった。日清戦争では朝鮮半島は戦場になった。

 19世紀末の朝鮮王朝(13 年に李成桂が建国)に登場したのは、大院君(だいいんくん、テウォングン、1820-1898年、78歳で死)と閔妃だ。大院君とは国王の実父で国王ではなかった人物に与えられる称号で、歴史的には数名存在した。しかし、私たちが言う大院君は19世紀末に登場した大院君だ。同様に閔妃とは「閔氏出身のお妃」という意味の言葉で(金氏出身だと金妃、趙氏出身だと趙妃となる)、こちらも複数存在した。私たちが口にする閔妃ももちろん19世紀末の朝鮮国王高宗のお妃様である。19世紀末に活躍した閔妃の正式な名前は「明成皇后閔妃(めいせいこうごうみんぴ、ミョンソンファンフミンピ」」であり、大院君は「興宣大院君(こうせんだいいんくん、フンソンデウォングン)」だ。
koreanheungseondaewongun001

大院君
 朝鮮王朝第25代哲宗(チョルジョン、1831-1864年 在位:1849-1864年)は跡継ぎを残さないまま、危篤に陥った。この時代の朝鮮王国は勢道(セド)政治と呼ばれる、国王の外戚の一族が政治を牛耳っていた。日本の藤原氏と同じだ。朝鮮王国の主要なポストを占めていたのは、安東金(アンドン・キム)氏だった。第23、24、25代の国王のお妃は金氏から出ていた。23代国王純宗の息子、孝明世子は金氏の血を引く王太子であったが20歳で早逝した。孝明世子の王太子妃は金氏ではなく、豊壌趙(プンヤン・ジョ)氏の出身で、孝明世子は父の意向を受け、摂政として金氏の専横を抑えることに苦心した。しかし、孝明世子の息子の24代憲宗の妃も金氏から出た。憲宗もまた父と同じく20代前半で早逝し、男子がいなかったため、王族の哲宗が後を継いだが、こちらも後継者を残さずに亡くなった。

 1863年末、新国王を決める際に力を持ったのが、孝明世子の妃だった神貞王后趙氏だった。神貞王后趙氏に以前から根回しをしていたのが、大院君だった。大院君は王族ではあったが、貧しい暮らしを強いられ、自身が描いた絵を金一族の政府高官に売って生活をしていた。「乞食王族」とも呼ばれた。しかし、大院君は息子の李命福を国王の座に就けるために、安東金氏に反感を持つ人々への根回しを続けていた。また、乞食王族の気安さもあり、庶民の生活にも親しんだ。
koreanemperorgojung001

高宗
 神貞王后趙氏の決定で、大院君の息子である李命福が第25代国王高宗に即位した(1863年末)。大院君は事実上の執政の地位に就いた。大院君は国内政治では金氏の専横を抑え、人材登用や汚職の摘発、士大夫階級である両班への課税などを実施した。対外政策では攘夷政策を実施し、アメリカ船やフランス戦の打ち払いに成功した。大院君は排外主義を維持した。これは衛正斥邪(えいせいせきじゃ)と呼ばれる。しかし、大院君の独裁政治と国防費をはじめとする国費は増大し、更に1872年に大飢饉まで発生し、宮廷内や国民の間で不満が高まった。

 高宗(在位:1863-1897年[朝鮮国王]、在位:1897-1907年[大韓帝国皇帝])は即位から前国王の喪に服したが、服喪期間が明けた後の重大事はお妃の選定だった。安東金氏の行ったような同族政治、勢道政治を復活させる訳にはいかない大院君は慎重だった。そして、大院君の妻の出身である驪興閔氏の娘で、既に両親がいない少女をお妃に決めた。これが閔妃だ。後に大院君と政争を繰り広げることになる。1866年、閔妃は結婚し、王宮に入った。

 閔妃は聡明な女性で、読書家であり、中国の歴史書『春秋』『左氏伝』を愛読していた。これは天璋院篤姫が頼山陽の『日本外史』を熱心に読んでいたというエピソードと重なる。閔妃は自身と義母(大院君の妻、高宗の母)の出身である閔妃や反大院君勢力のネットワーク化を進めた。そして、1873年、高宗の成人に伴い、王の親政を宣言させ、大院君を失脚させた。閔妃は気が弱くて平凡な高宗の後ろの御簾(みす)の後ろに座り、助言(命令)を下した。皇后や王后のような女性が政治を行うことは垂簾聴政(すいれんちょうせい)と呼ばれる。閔妃は出身の閔氏や排除されていた金氏を登用した。閔氏による勢道政治が開始された。

 閔妃は1874年に後に大韓帝国第2代皇帝純宗(じゅんそう、スンジョン、1874-1926年、52歳で死 在位:1907-1910年)となる坧(たく、チョク)を生んだ。すでに側室が生んだ王子もいたが、清国に働きかけて、賄賂まで贈り、王太子とすることに成功した。1880年に高宗の側室李尚宮と、李尚宮が生んだ長男・完和君李墡が急死した。これは閔妃による毒殺という見方が大半だ。

閔妃はそのまま清国に頼り続けるかと思えば、日本やロシア、アメリカも利用しようとするなど、閔妃は鋭い政治感覚を持っていた。高宗の親政が始まり、朝鮮の対外政策は鎖国から開国へと移っていった。1876年には日朝修好条規、1882年には米朝修好通商条約も締結された。日本でもそうだったが、開国後は貿易量が増え、国内経済はインフレに陥り、人々は「開国したために暮らし向きが悪くなった」という不満を持つようになった。この時代は日本が貿易を独占していたが、朝鮮からは米や金(きん)が輸出され、日本はイギリスの綿製品が中継されて輸出されていた。そのため、人々の怨嗟の声は日本にも向けられた。また、閔妃のぜいたくな暮らしや国費濫用も問題となった。

 1882年に旧式の武器が支給されていた旧軍(日本式の最新鋭の武器を持つ軍隊「別技軍」とは別)に対する俸給未払いや不正支払い事件が起き、旧軍が反乱を起こした。これを壬午軍乱(じんごぐんらん、イモグルラン)と呼ぶ。生活に困窮している民衆も加わり、王宮や日本公使館が襲われた。閔妃は辛くも王宮から脱出したが、生死不明の状態となった。この暴動事件のさなか、失脚していた大院君が担ぎ出され、王宮に入った。この事件について、大院君が首謀者だという説もあるが確定されてはいない。大院君は一時権力を掌握するが、閔妃は密かに宮中と連絡を取り合い、清国の袁世凱に鎮定を依頼し、清国が軍隊を派遣し、暴徒を鎮圧、反乱の首謀者として大院君を拉致し天津に連れ去った。閔妃は再び権力を掌握した。一方、日本公使館員や民間人が多く殺害されたことで、日本も態度を硬化させ、最終的には済物浦条約を締結、賠償金支払いと邦人保護のために軍隊を駐屯させることになる。朝鮮半島内に清国軍と日本軍が駐屯する形になった。

 閔妃は清国への事大を強めていくが、その中で一時は重用した親日派・開化派は冷遇されていく。近代化政策も頓挫する。そうした中で、1884年、開化派の中心人物、金玉均(きんぎょっきん、キムオッキュン、1851-1894年、43歳で死)は焦りからクーデターを敢行した。これを甲申政変(こうしんせいへん、カプシンジョンビョン)と呼ぶ。金玉均らのクーデターは日本の協力もあり成功するかに見えたが、最終的には清国軍の介入もあり、失敗に終わった。日本軍と清軍による小競り合いもあった。閔妃をはじめとする朝鮮王宮内は、排日、親清、更に、ロシア公使夫妻が閔妃に取り入ったことで、親露ということになった。

1882年に清国によって拉致された大院君は、清国によるロシア牽制の意図もあり、1885年に帰国を果たした。閔妃たちとしてはいつ自分たちへの反抗の旗頭になるか分からない大院君はできるだけ長く清国にとどめておいて欲しかったが、様々な働きかけに対しても、清国は「親不孝」をしてはいけないと退けた。大院君は帰国を果たしたが、監視付きの軟禁状態に置かれることになった。また、1885年4月には、甲申政変の後処理のために日清間で天津条約が締結された。この時、「両国のうちどちらかが挑戦に軍隊を派遣する場合には通知する」という条項が入れられた。

1894年、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)が起きた。これは東学党の乱、東学農民運動(とうがくのうみんうんどう、トンハンノンミヌンドン)とも呼ばれている。韓国南西部・全羅道から発生した、東学党が率いる農民反乱は朝鮮王国軍を破る勢いだった。そこで、閔妃は清国軍の来援を求めたが、日本には支援を求めなかった。しかし、日本は天津条約の条項に則ると主張し、軍隊を派遣した。朝鮮半島における日清間の緊張は高まり、日清戦争が勃発した。閔妃をはじめとする朝鮮政府は日本に協力することを迫られたが、内心では清国が勝利することを期待していた。しかし、期待は打ち砕かれ、日本が勝利し、1895年に下関講和条約が締結された。朝鮮に対する日本の影響力が強まることになった。しかし、遼東半島の割譲を巡り、ドイツ、フランス、ロシアによる「三国干渉」が起き、日本の威信は傷つけられた。

 この時期、閔妃は日本に対抗するためにロシアを引き入れることに腐心していた。日本の影響力が減少する中、日本公使が井上馨から三浦悟楼に交代した。三浦は密かに閔妃殺害を心に決めていた。また、朝鮮に住む日本人たちの間でも、日本の影響力を維持するために閔妃を殺害し排除しなければならないという声が大きくなっていた。そして、ついに1895年10月8日、日本軍、警察、民間人が王宮に乱入し、閔妃を殺害した。この事件を乙未事変(いつびじへん、ウルミサビョン)という。

 閔妃を殺害された高宗は日本への抵抗を続けた。1896年2月、ロシア兵が王宮に入り、高宗と王太子はロシア公使館に逃げ込み、そこで執務するという状態になった。これを露館播遷(ろかんはせん、ノグァンパチョン)という。1897年に王宮に戻るまで、欧米列強と様々な投資契約を結び、鉄道施設権や鉱山の採掘権を与えた。1897年には朝鮮王国は清国の冊封からの独立を宣言し、大韓帝国と名称を変更し、高宗が初代皇帝となった。閔妃には明成皇后の名称が追贈された。

 角田房子は自虐に陥ることなく、淡々と事実を書き、疑わしいところは疑わしい、分からないところは分からないと書いている。「誰が閔妃を殺害したのか」「致命傷を与えたのか」という点は、混乱状況の中で明らかになっていない。また、関与した複数の人物が「自分が殺害した」と主張している。この点で、「閔妃を殺害したのは日本人だ」「いや、日本人ではなく、朝鮮人だ」ということを言い争っても永遠に解決しない。

 問題は、日本の軍隊と警察が民間人と一団になって、日本が「独立国」と認めた国の王宮に許可もなく泥棒のように侵入し、王妃を殺害した、その巻き添えで2名の女官も殺害された、そして、この事件を日本で裁くはずが、時間関係者全員が免訴になった、ということだ。そして、日本人がこのことを知らないし、深刻に捉えていないこと、想像力を働かせていないこと、これもまた問題だ。日本に引き写して考えてみれば、どれほど重大で深刻な事件を日本が起こしたかということが分かるはずだ。

 閔妃が殺害されて以降、朝鮮王国は日本による支配が強化されていき、「保護国(Protectorate)」化が進み、遂には1910年の併合(annexation)に至った。高宗は日本に抵抗し(ハーグ密使事件など)、最後には毒殺されたとも言われている。こうして、朝鮮王国は滅亡した。そして、日本の植民地支配となった。「日本は朝鮮半島の近代化に貢献した」と声高に言い募るだけでは駄目で、歴史を知り、謙虚に接することが隣国との関係を改善する道だ。

 『閔妃暗殺』は大変読みやすい本であり、19世紀末の東アジアの国際関係、朝鮮王朝末期の歴史を知るには最適な本だ。

(終わり)

amerikaseijinohimitsu019
アメリカ政治の秘密
harvarddaigakunohimitsu001
ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ