アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



①著者の坂野氏は、1935年に起きた東京帝国大学教授・貴族院議員美濃部達吉の「天皇機関説」とそれに対する「国体明徴・機関説排撃」を主張した陸軍皇道派と政友会についての分析から始めています。天皇親政を主張するような皇道派が美濃部達吉を攻撃するのは分かりますが、それまで天皇機関説を何ら批判してこなかった政党である政友会が美濃部を攻撃したのはどうしてだろうかと私は不思議に思っていました。

 

坂野氏は、美濃部達吉は一方で議会に基礎を置く政党内閣制と議会の代わりに、政党や政府の代表たちが集まって話し合いを行う「円卓巨頭会議」という考えを提唱していたことをここで書いています。美濃部は決して「善玉」という訳ではなく、(美濃部達吉=天皇機関説=議会制民主主義の擁護者ではない)この美濃部の議会制度軽視に対して、政友会が攻撃を加えるために「機関説排撃」を使った、と坂野氏は喝破しています。私は美濃部博士に「デモクラシー」「議会政治」を無視する考えがあったこと、この議会軽視の態度を背景にして、政友会が天皇機関説攻撃を行ったことなど知りませんでした。もちろん、政友会のこうした攻撃方法は決して正しかったとは言えないと思いますが、議会政治を守るため、官僚たちの跋扈を排するために「有機的な」天皇親政、国体明徴を叫んだということは仕方がなかったとも言えるのだろうと思います。

 

②1934年に陸軍が「陸軍パンフレット(「国防の本義と其強化の提唱」)」を発表しました。これは「対ソ連戦を想定した戦力の強化」と「資本主義の修正による国民的基盤の強化」を訴えたものでした。これを全面的に支持したのが社会大衆党の麻生久でした。そして、社会大衆党は軍部(特に統制派)と結んで資本主義を改造する「広義国防論」を打ち出しました。そして、陸軍統制派と結合したのが新官僚(後の革新官僚)たちです。彼らは、労働組合の発展を図るなど、社会大衆党にとっては「同志」とも言える存在でした。そして、官僚たちは国策立案機関として、1935年に内閣調査局(岡田内閣の後藤文夫[新官僚の元締め的存在]内務大臣の提唱)を創設しました。これによって「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインが完成しました。

 

 これに対して、陸軍皇道派と議会軽視に憤懣を募らせていた政友会が結びつくことになります。更に、陸軍皇道派に右翼結社である国本社を率いる平沼騏一郎・枢密院副議長が結びつき、「陸軍皇道派・平沼系右翼・政友会」のラインが完成しました。帝国議会で第二党となっていた民政党は、「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインに近い存在でした。更には重臣たちもこちらのラインでした。政友会は議会第一党でありながら、政権を担当できず(政党内閣ではなかったこと)、これに不満を募らせていました。

 

A:陸軍統制派・新官僚・社会大衆党・民政党・重臣

B:陸軍皇道派・平沼系右翼・政友会

 

昭和10(1935)年の日本政界は大きく2つの極に分かれていました。そして、この2つのグループのうち、「A」のグループが優勢でした。この2つのグループ分けというのは、様々なアクターが複雑に絡み合って形成されたものであり、ただ戦前の政治史に関する本を読んでいるだけでは全く理解できるものではありません。

 

③斉藤隆夫の有名な「粛軍演説」(1940年の「反軍演説」との区別が必要です)を坂野氏は取り上げています。斎藤隆夫の粛軍演説は、1936年5月の国会で行われました。この年の2月20日に総選挙が行われ、斎藤が所属する民政党が勝利を収めました。斎藤は国民の期待を背に受けながら、2・26事件を起こしながら、それに対する痛切な反省がないどころか、かえって開き直って、国政に容喙しようとしていた軍を痛烈に批判しました。この粛軍演説と反軍演説は戦前の軍部独裁とファシズムに対する抵抗の象徴となっています。

 

筆者の坂野氏は、2・26事件が起きた後でも国会で痛烈な軍批判ができたことの重要性に注目しています。1940年の反軍演説の際には、もう軍を批判することはタブーとなっており、斎藤隆夫は国会から除名されてしまいましたが、この時は問題化しませんでした(もちろん軍は面白くなかったことでしょう)。

 

斎藤隆夫自身も民政党も、議会政治を守り、自由主義的伝統を守ろうとはしましたが、労働者など都市の貧しい層の生活を改善することについては関心を払いませんでした。民政党は緊縮財政を求め、軍拡に反対したが、それと同時に福祉政策や失業対策にも反対でした。民政党の支持基盤(三菱の資金援助も受けていました)は、都市資本家・経営者でしたから、これは当然のことです。著者の坂野氏は、「斎藤隆夫はヒーローで、軍部が悪者」という見方を排しています。この視点はありませんでした。斎藤隆夫も民政党も、現在で言う「リベラル」ではなく、「古典的自由主義者」であり、資本主義と自由市場を信じていたのでしょう。そうした点から、民政党政権下で「金解禁」が実行されたことは当然のことであると言えるでしょう。

 

政友会は、岡田内閣に対して不信任案を出しました。岡田内閣は不信任案採決前に議会を解散し、総選挙が実施されました。それが1936年2月20日でした。政友会は大惨敗で議会第一党の座から転落、岡田内閣の与党的な立場であった民政党は議会第一党になり、社会大衆党は5議席から18議席へと勢力を伸張させました。

 

 昭和天皇側近勢力は、限界はあったにせよ、基本的に戦争を回避し対外的緊張を緩和する方向で働いたのですが、そして、2・26事件によって、天皇側近からその能力を奪ってしまった、弱体させてしまったと坂野氏は述べています。宇垣一成に組閣の大命が下った後、陸軍が反対した際に、陸軍大臣を出すように勅命を下して欲しいと宇垣は依頼したのに対し。軍部を恐れた湯浅倉平内大臣は、「そこまで無理をしても仕方がないではないか」と言って、宇垣の組閣を潰してしまうのです。

 

 ちなみに、犬養毅首相が陸海軍の将校たちによって暗殺された5・15事件の場合ですが、犬養首相が率いた政友会と陸軍皇道派はつながっていたこと、そして皇道派の荒木貞夫陸軍大将が陸軍大臣を務めていたために、大規模なクーデターにならず、一部の急進的な将校たちによる暗殺事件となったと著者の坂野氏は分析しています。これは大変面白い分析だと思います。

 

④政友会・民政党の二大政党は、軍部の台頭に対する危機感から、反ファシズムという共通の目的の下に大連立することに成功しました。この時期、政友会の浜田国松代議士は、有名な「腹切問答」で陸軍批判を行いました。これは、寺内寿一陸相を挑発し、広田内閣を総辞職に追い込もうとしたものだと著者の坂野氏は主張しています。広田内閣を総辞職させた政友・民政両党は陸軍大将で反戦派、それまでも首相候補として名前が挙がっていた宇垣一成を首相に擁立しようとしました。この時に宇垣が組閣できていれば、戦争回避の最大のチャンスであったかもしれないと坂野氏は述べています。

(続く)