ダニエル・シュルマン
講談社
2015-10-28



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 先日、ある出版社の編集者の方とお話をしました。このところ、韓国や中国を批判する本ばかりで嫌になりますね、と話したところ、「読者の読みたい内容の傾向は少し変化しているようですよ」という話をしてくれました。確かに韓国や中国のことばかり、あんなにたくさん、短期間に一気に出れば、書かれていることは重複しているでしょうから、「この話も知っている」ということばかりになるでしょう。

 

 その編集者の話だと、「アメリカの占領時代に関心が移っているようですよ」ということでした。今年は敗戦70年で、8月15日が終戦の日ですから、今本屋さんに行けば、これまで出された太平洋戦争関係の本が一つの棚にまとめられています。また、映画で「日本のいちばん長い日」もリメイクされます。私がそういうことですか、と尋ねると、「いや、ちょっと違いますね」ということになりました。

 

 編集者の方の体感だと、「戦後占領したアメリカ軍に何をされたのか」ということに読者の関心が移っているということでした。確かに、その「されたこと」の最大のものが日本国憲法の制定で、現在参議院で審議されている安保法制は、この日本憲法の解釈変更なのかどうかが大きな争点になっています。

 

 私は、人々の興味関心の根底にある「戦後日本を占領したアメリカは日本に何をしたのか」という問いがあるのだと思います。戦後のアメリカの占領政策によって日本は良い方向に変えられたので、再び独立国となり、国際社会が暖かく歓迎し、経済発展を遂げ、大国となったというのが公式のストーリーです。ですから、このストーリーを信じるならば、「アメリカは日本によいことをしてくれた」という結論になります。

 

 この結論に対して「本当にそうなのか」という疑問が日本人の中で湧いているのだろうと思います。そして、「アメリカは日本を属国にして利用するために、占領政策を実行し、それに成功したのだ」という思いが出てきて、成功のストーリーに疑問を持つようになっているのだろうと思います。そして、これは政治的な見解やイデオロギーを異にする人々が共通に持っている「心性」なのだと思います。つまり、日本人が「日本はアメリカの属国なのだ」という前提から、物事を考えるようになったと思うのです。

 

保守派からすれば、「日本はアメリカの属国のままで、本当に独立したとは言えない。その最たるものが憲法だ。憲法のせいで他の国がやるように戦争ができない(専守防衛)。だから安保法制を成立させて自衛隊の海外派兵をしなくてはいけないのだ。都合が良いことに、憲法を押し付けたアメリカも望んでいることじゃないか。これを機会にして、軍隊を海外に派兵できる“普通の国”になるんだ」となります。この人たちは、「アメリカに不当に属国されて日本は誇りを失うことになった。アメリカは日本人を洗脳して、先の大戦が悪い戦争だったと思わせ、日本が戦争をすることは悪だと教え込んだ。だから、洗脳を解いて、普通の国になるには、軍隊の海外派兵ができるようにして中韓と戦わねばならないのだ」とも考えます。

 

リベラル派からすれば、「日本はアメリカの属国のままだ。だから安保法制のようなものを飲まされて、憲法の解釈が勝手に変えられて自衛隊を海外に派兵することになるのだ」ということになります。そして、「日本はアメリカの属国のままだから、アメリカの手伝いをさせられて、やりたくもないし、放棄している戦争に参加させられることになるのだ」と主張することになります。

 

 「日本はアメリカとの戦争に負けて、アメリカの属国となった、そして現在も属国のままだ」ということが国民的コンセンサスとまではいかないまでも、「そんなことあるか!」と顔を真っ赤にして怒り出すよりも、「そうかもしれないねェ」としみじみと語る人が多くなった、と私は思います。

 

 この前提に立つことが出来てはいるが、そこからが考え方の違いで結論が大きく異なることになります。しかし、大きく異なるように見える結論も実はそんなに違わないのではないかと私は思います。それはどちらにしても「アメリカ頼りではダメだ」ということになるからです。「反米」という言葉ほど激しくはないにしても、「離米」、アメリカから少しずつ距離を取ってみるということが起きているのだろうと思います。

 

 ただ、激しく対立している保守とリベラルの違いは何かということになるとそれもまたある意味で人間の中に含まれる要素のうちのある部分が大きく出ているということに過ぎないのではないかと思います。アメリカと戦争をしてコテンパンにやられた、歴史上初めて降伏文書に全権が署名したということ、戦争によって加害者になり勝被害者になったこと、これらは大きな傷(トラウマ)です。この傷に対する時、そのことを忘れようとするか、もしくは傷に薬を塗り続けるかということだと思います。どちらにしてもとても人間らしい反応です。

 話は急に飛びますが、私は先日、2冊の本を読みました。内田樹『最終講義』(文春文庫)と半藤一利述・井上亮編『いま戦争と平和を語る』(日経ビジネス文庫)です。この中で、内田氏は、戦後のヴェトナム戦争反対運動で行われた米軍艦(空母エンタープライズなど)寄港反対で反対運動の学生たちが旗を林立させ、木の棒を手に集まっていたのは、先の戦争末期に「竹槍で敵を迎え撃つ」ことの実行なのだと書いています。半藤氏は日本は幕末に開国した時から、「攘夷」がその根底にあると指摘しています。 明治時代からの対外膨張主義(国家の安全保障のための自衛に名を借りている)と戦争は攘夷の現れであるとみています。この2人が指摘しているポイントは、日本は近現代において対外関係の基礎には攘夷があるということであり、その目標はアメリカであり、そして太平洋戦争でアメリカに敗れてもなお、そのアメリカに対する戦う気持ちは継続しているということです。私は、戦後70年において、攘夷が再び顔を出しているのだと思います。

 日本は現在の覇権国であるアメリカと覇権国への階段を上りはじめている中国の間に存在するという点で特異な位置にあります。現在はアメリカの「不沈空母」のような役割を果たさねばならないようになっていますが、この2つの間に立って、特異な位置を占めることも可能です。2つの異なる勢力、争っている勢力の間にはそれらをつなぐ存在が必要であり、日本はそうした存在になることが可能です。そのためには日本がアメリカの属国であることを形式的にはともかく、実質的には止めることが必要です。戦後70年、それが少しずつできる環境になっているのではないかと思います。 


 それでは、「日本が属国の地位から脱するために自衛隊を海外派遣し、戦争に巻き込まれねばならないのか」というと、そうではないと私は考えます。自衛隊の「専守防衛」と経済における相互依存関係の強化以上に力強い防衛手法はありません。

 私は昔、「良い木こりは手に1つだけ傷を持っている」という話を聞いたことがあります。傷跡が残るほどの失敗を1度だけして、それ以降、慎重になって怪我をしない木こりは良い木こりだ、ということだそうです。この木こりは時にこの傷痕に触れることでしょう。また日常ふとした時に目にするのでしょう。そして、その時の痛みと後悔を思い出すのでしょう。日本では戦争を体験したことがない人間が国民のほとんどを占めるようになりました。そうした中で、私たちはふとしたときに自分たちの中にある傷跡に触れてみる、想像の翼を広げてみる、それが終戦の日なのだろうと思います。

 

(終わり)







野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23