古村治彦です。

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唐牛伝 敗者の戦後漂流

 

 今回は、1960年の日米安全保障条約改定時に、全学連委員長として活動した、唐牛健太郎(かろうじけんたろう、1937―1984年)の評伝を皆様にご紹介します。著者の佐野眞一は、ノンフィクションライターとしていくつもの著作を発表していますが、橋下徹氏を巡る評伝で謹慎することになりました。今回の評伝は佐野氏の復帰作です。この復帰作は、素晴らしい出来であると私は考えます。一気に引き込まれ、読み切ってしまいました。それは、主人公である唐牛健太郎の魅力と共に、佐野氏の筆力もあるでしょう。

 

 唐牛健太郎は、1960年の安保改定の時に活動した、全学連(大学の学生自治会の全国組織)の委員長として「活躍」しました。国会前に集まった学生たちの指導者として、演説で学生たちを動かしました。この60年安保では、東大の学生だった樺美智子さんが死亡し、多くの負傷者を出し、また逮捕者も出てしまいました。唐牛もまた逮捕され、大学も卒業できず、その後、南は与論島(沖縄返還前は日本最南端)から北海道の厚岸(あっけし)まで日本全国を渡り歩く、安定しない生活を続けました。一方、60年安保で全学連の指導者であった人々の多くは、唐牛とは対照的に、大学を卒業し、社会的にステータスの高い仕事に就きました。

 

 唐牛健太郎という名前と響きは、50年代後半から60年代にかけて青春時代を過ごした人々にとって、輝かしいものであったそうです。唐牛が晩年、徳洲会病院グループの総帥・徳田虎雄の選挙参謀になったとき、徳洲会の医師たちは、唐牛に会うことに感激し、徳田虎雄が激怒したという話も残っています。

 

 唐牛健太郎は、北海道・函館出身(戦前の武装共産党の指導者でその後転向し、戦後はフィクサーとなった田中清玄と同郷)です。婚外子で、8歳の時に父親は病死し、芸者としてその美貌が有名であった母は郵便局勤務で、生活を支えました。唐牛がハンサムで、「石原裕次郎よりもハンサムだ」として、映画会社からスカウト受けるほどであったというのは、母親の美貌を受け継いだからと言えるでしょう。

 

 中学時代は勉強も出来て、運動(野球)もできるという優等生タイプの少年で、高校は地元の名門・函館西高校に進学。高校時代に文学に耽溺し、煙草を吸うというような不良っぽい学生になっていて、昔を知る同級生たちが驚いたということです。煙草を吸いながら、難しい本を読むというのは高校生のある種のモデルとも言うべきものでしょう。大学入試では英語が不得意だからと1人だけフランス語で受験して、それで北海道大学に入学できるのですから、不良っぽいとは言いながら、勉強もちゃんとできていたということでしょう。いますよね、勉強している感じじゃないのに、勉強ができちゃう人。私の高校時代もいましたが、羨ましかったことを思い出します。

 

 北大入学後はすぐに休学して上京し、アルバイトをしながら、演劇をやろうとしていたようです。ハンサムで人を惹きつける力がある唐牛にとっては、もしかしたら、俳優が向いていたのかもしれません。しかし、東京で砂川闘争に参加し、人生は大きく変わります。翌年に北大に復学し、教養部自治会委員長や全北海道の大学の自治会連合会の委員長になります。これは彼が天性の魅力を持ち、人に指導者として押し上げられるタイプであったことを示しています。

 

 日本の大学学生自治会は共産党の指導の下にありました。しかし、1950年代後半、日本共産党の方針に反発する若い人たちが出てきて、日本共産党から飛び出していきました。1953年に革命的共産主義者同盟(革共同、後に革マル派の指導者となる黒田寛一や作家となる太田竜がいました)が結成されました。また、1958年には共産主義者同盟(共産同、ブント)が結成されました。そして、1960年の日米安保条約改定時の学生たちを率いたのがブントに指導された全学連でした。

 

  このブント(党[partei]に対する同盟[Bund])の中心人物が、東京大学医学部の学生だった島成郎(しましげお)です。そして、その他にも青木昌彦、香山健一、柄谷行人、西部邁 森田実といったそうそうたる人物たちがいました。1960年にブントは解体します。指導部の人々はそれぞれが学業に戻ったり、就職したりしていきました。そして、1966年に第二次ブントが結成されますが、これも後に解体します。

 

 1963年2月26日にTBSラジオでラジオドキュメンタリー番組「ゆがんだ青春/全学連闘士のその後」(取材者・ディレクター:吉永春子)が放送され、ブントが資金面で、田中清玄などから援助を受けていたことが暴露されました。この番組で流された録音は、吉永の取材というよりは、録音をしていることを隠しての盗聴録音であり、それが放送されました。ブントの資金面を担当していた東原吉伸が、早稲田大学の近くにある蕎麦屋「金城庵(現存・三島由紀夫も早稲田での講演の後に訪問したことがある)」で、同窓のよしみで気楽に吉永と会って、裏話をしてしまいました。これで、当時のブントの指導者たちは激しい批判に晒されました。

 

 唐牛はブント解体後に、革共同に参加しましたがすぐに脱退し、その後は、太平洋単独ヨット横断をした堀江健一と会社を設立したり、田中清玄の会社に入ったり、居酒屋を開業したり、漁師をやったり、コンピューター会社のセールスマンをやったり、徳洲会の創設者・徳田虎雄の選挙参謀をやったりと波乱万丈の人生を送りました。彼は有名になってしまい、大学にも戻らず、いわゆる一般的な仕事に就くことが大変でした。ブントの他のメンバーたちが社会的エリートに「復帰」していく中で、自分だけが罪を背負って、自分を罰するかのように生きていったように思います。結局、「学生さんのお遊び」から突き抜けることができず、空理空論を克服できなかった他の人々に比べ、唐牛は、実生活に基づいた意識をずっと持ち続けたのだろうと思います。

 

 ブントが主導する全学連の全国委員長の人選は、島成郎が行いました。彼は、唐牛健太郎に目をつけ、北海道まで説得に行っています。この当時も、「なんで東大、京大、もしくは東京の早稲田の学生が全国委員長ではないんだ」という不満や批判の声があったそうですが、唐牛をスカウトしてきた島の眼力はさすがというしかありません。しかし、それが唐牛の人生にとって果たして良かったのか悪かったのか、分かりません。母一人子一人で育った唐牛は母をとても愛し慕っていましたが、その母を心配させ、悲しませる方向に進んでしまったとも言える訳ですから。しかし、これは全く母と息子の間の愛情の深さを知らない人間の浅薄な考えかもしれません。唐牛のお母さんは最後まで唐牛を信じて、彼の好きなように生きることを望んだのかもしれません。唐牛の口癖は、「何か面白いことはないか」というものだったというのは皆の証言は一致しています。彼のこの精神は母親にも伝わっていたかもしれません。また、自分の決めた道を進み続けるという生き方を貫いた唐牛を育てたお母さんであるならば、彼の生き方を肯定したことでしょう。もちろん、これも浅薄な勝手な妄想かもしれません。

 

 作者の佐野氏は、60年安保に参加した若者たちの心情について、「一方で反米意識に心を吸引されながら、一方でアメリカのような豊かな国になりたいという意識も拭えなかった」と書いています。反米運動でもあった60年安保の指導者たちから学究の道に入り、アメリカ留学をする人物たちが出たのは、上記のような申請があったのだろうと思います。

 

 唐牛がエリートに「戻る」ことを拒否して、47年間の短い生涯を流浪のものとしたのは、こうしたエリートたちに対する無言の批判があったのだろうとも思います。「結局、エリートに戻って、庶民を弾圧する側に与するのか、君たちは」「俺は弾圧される側に残るよ」ということだったかもしれません。

 

 また、私の師である副島隆彦先生は、著書『日本の秘密』の中で、60年安保のブントには、アメリカから資金が流れていたということを指摘しています。この点について、島成郎氏に会った時に直接質問したそうです。島氏からは「今は言えない」という答えをもらったのだそうですが、島氏は何も言わないままに世を去りました。

 

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