古村治彦です。

 前回に続いて、『組織の不条理 日本軍の失敗に学ぶ』(菊澤研宗著、中公文庫、2017年)を皆さんにご紹介します。


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組織の不条理 - 日本軍の失敗に学ぶ (中公文庫)

 

②のエージェンシー理論とは、人間の取引関係は依頼人であるプリンシパルと代理人であるエージェントに分けられます。私たちは選挙で代議士を選びますが、有権者はプリンパル、代議士はエージェントとなります。政治家と官僚の関係で言えば、代議士はプリンパル、官僚はエージェントとなります。プリンパルとエージェントはともに自己利益を追求しますが、彼らの利益が一致しない場合が出てきます。エージェントがプリンパルの利益とはならない行動をすることがあります(エージェンシー・スラック問題と言います)。また、両者の間には得られる情報にも差が出てきます(情報非対称と言います)。こうした中で出てくる現象がモラル・ハザード現象とアドバース・セレクション(逆淘汰)現象です。モラル・ハザード現象はエージェントがプリンシパルの意向とは異なる行動をすることです。逆淘汰現象は、プリンシパルがエージェントのモラル・ハザードを防ごうとして合理的に行動することでかえって、非合理的な結果をもたらすということです。

 

 インパール作戦は、ビルマを確保した日本軍がインド方面に向けて進撃する大作戦でした。険しい山岳地帯とジャングルを抜けてインドの要衝インパールを占領して、イギリス支配下にあるインドに刺激を与え、イギリスに打撃を与えることを目的としていました。1944年3月にインパール作戦が開始されました。日本軍はインパール近くまで攻め込みながら、補給が続かなくなり、イギリス軍がジャングルに合わせた戦法と最新鋭の武器を採用し、物資の空中補給をはじめとする物量で日本軍を圧倒しました。イギリス軍はわざと日本軍をインパール近くまで引き寄せて(イギリス軍は少しずつ負ける形で撤退しながら)、補給船が伸びきったところで逆襲をかけ、日本軍を敗退させました。補給が続かなくなった日本軍将兵は撤退途中で飢えと病で力尽き、ビルマへの撤退路は「白骨街道」と呼ばれました。将兵3万が戦死、4万が傷病に倒れるという悲惨な結果に終わりました。

 

 インパール作戦を強く推進したのは、牟田口廉也(むたぐちれんや)第15軍司令官でした。牟田口廉也中将は日本陸軍史に残る世紀の愚将という評価を受けています。インパール作戦に参加し生還した将兵は後々まで「牟田口を許さない」「牟田口が畳の上で死ぬなんて許さない」と強く非難し続けてきました。インパール作戦でその評価を高めた人物もいました。宮崎繁三郎中将は最前線指揮官として激戦で多くの部下を失いながらもコヒマを奪取、その後、撤退中も自身が最後列に立ち、将兵を励まし、傷病兵を保護しながら見事な撤退を行い、日本陸軍きっての名将という評価を受けています。インパール作戦からの生還者たちは、「あの指揮官の下なら死んでもいい」と思わせるほどの人物だったと評価をしています。


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 牟田口廉也

 インパール作戦については、最初から補給の面で全く実行不可能な作戦であるとして反対が多いものでした。第15軍の参謀長・小畑信良少将は兵站(輜重兵科)の専門家で、現地視察を行ったうえで、作戦に強く反対しました。その結果、牟田口司令官から参謀長着任直後だというのに解任されてしまいました。牟田口は「日本人は古来草食動物であったのだから、草を食べればよい、青々としたジャングルで食糧不足とはなんだ」「牛で物資輸送を行い、その牛は最後には食料とする、ジンギスカン作戦だ」「皇軍は弾がなくても食うものがなくても戦うものだ」というような非合理的な思考の持ち主でした。突撃一辺倒の人物であり、司令官には向かない人物であったとも言えるでしょう。


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この時の指揮命令系統は大本営→南方軍→ビルマ方面軍→第15軍となっていました。大本営の真田穣一郎第一部長、南方軍の稲田正純総参謀副長、ビルマ方面軍の中永太郎参謀長といった人々がインパール作戦に反対しましたが、それぞれの上司に説得されたり、解任されたりということになりました。大本営の杉山元参謀総長は「南方軍の寺内さんの頼みだからやらしてやって欲しい」、南方軍の寺内寿一(長州閥の寺内正毅陸軍大将・総理大臣の息子)総司令官は「苦戦が続く南方軍の管轄内での壮挙だ」、ビルマ方面軍の河辺正三司令官は「(日中戦争のはじまりとなった盧溝橋事件以来の上司と部下の関係である)牟田口が是非やりたいということなのでやらせてやりたい」という根拠が薄い理由で作戦の実行を後押ししました。また、東條英機首相・陸相は戦局打開のためにインパール作戦を利用しようと考えていました。

 

インパール作戦に参加した3個師団を率いた佐藤幸徳、山内正文、柳田元三の各師団長は作戦開始前から作戦が失敗に終わると明言し、牟田口司令官に批判的でした。山内師団長はアメリカ留学経験者で、留学先の米陸軍大学校を非常に優秀な成績で卒業したので、アメリカ軍の将官の中にも山内の消息を気にする人たちが多くいました。山内は合理的精神を持った軍人でした。柳田元三は陸軍大学校を優等で卒業した「恩賜の軍刀組」で、こちらも作戦においては合理性を重視しました。

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佐藤幸徳 

師団長たちは作戦中も司令部の牟田口司令官に補給を要請し続け、牟田口を激怒させました。そして、それぞれ敢闘精神の欠如などを理由にして師団長を解任されました。師団長は天皇が直々に任命する(新補)する重職でした。そうした中で、作戦途中で、3名の師団長が解任されるというのは異常事態でした。佐藤幸徳師団長の場合は、補給を受けられないのでは宣戦を維持できないとして、命令に違反して独断で戦場を離脱しました(抗命)。従って、軍法会議にかけられ、死刑を宣告される可能性もありました。しかし、佐藤師団長は「心神耗弱」を理由にして不起訴となり、終戦まで現役に留まりましたが、閑職に追いやられました。佐藤師団長は軍法会議で命がけで軍上層部の無責任を批判するつもりであったのですが、彼の意図通りにはなりませんでした。それは、軍法会議にかけて有罪にしてしまうと、天皇が任命した師団長がこのような不始末を起こしたことに関して天皇にも責任があるという論法につながってしまうからです。

 

 こうしてみると、現場の指揮官や作戦立案者たちはインパール作戦に反対しながら、上層部がかなり根拠薄弱な理由で作戦実行を後押ししたということが分かります。それでは、現実的に実行不可能な作戦がどうして実行されたのか、という疑問が出てきます。日本陸軍の精神偏重主義、兵站軽視と答えるのはあまりに簡単ですし、大本営の中にさえ反対者がいたということも考えると、そればかりという訳にはいきません。

 

 インパール作戦に置いては当事者間の利害が一致していなかったということを菊澤氏は指摘しています。牟田口司令官は、盧溝橋事件を起こした当事者で常に「自分には日中戦争を始め、そして拡大させた責任があるので、戦争のかたをつけるのも自分だ」という奇妙な論理を持っていたということです。そして、個人的にはインドにまで進軍することで軍功を挙げ、大将昇進を狙っていたということです。反対者たちは、兵力や兵站の点から、この作戦はできないという判断をしました。また、情報の非対称性も指摘されています。牟田口は歴戦の指揮官で、上層部、特にビルマ方面軍の中永太郎参謀長に対しては、「あなたは実戦の経験がないからそんなことを言うのだ」と言ったということです。実戦の経験を出されてしまうと、こうした人々(ずっとエリート街道を歩いてきたような人たち)は反論が出来なくなってしまいました。

 

 モラル・ハザードの点からは、大本営は牟田口の「独断専行(命令なしに自分の判断で行動すること)」を懸念していたようです。牟田口はインパール作戦も独断専行で始めてしまうのではないか、という心配をしていたそうです。盧溝橋事件でも牟田口は独断専行で攻撃を開始したという「前科」がありました。この時に成功したので、処分されませんでしたが、この時にきちんと命令違反だとして処分しておけばという気持ちになります。そこで、大本営は「作戦実施準備命令」を出しました。これは何とも曖昧なもので、作戦を実施せよ、という命令ではなく、作戦実施に向けて準備をしておけ、という命令で、現場ではこの命令をどう実行してよいのか困ったそうです。これは、牟田口に独断専行させないために、出されたものですが、結果としては、完全な中止命令ではなかったために、推進派の作戦実施の口実に使われました。そして、合理的な反対派は説得されたり、解任されたりで排除されていき(逆淘汰)、インパール作戦が実施されることになりました。

 

(続く)



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