古村治彦です。
前々回、前回に続いて、『組織の不条理 日本軍の失敗に学ぶ』(菊澤研宗著、中公文庫、2017年)を皆さんにご紹介します。
組織の不条理 - 日本軍の失敗に学ぶ (中公文庫)
③の所有権理論とは、人間は限定的合理性しか持っていなくても、自分の利益を最大化するために取引を行います。その際の取引されるのは、取引財の特定の特質を巡る所有権ということになります。私たちが取引するのは、財のある特質を自由に使える権利、財のある特質が生み出す利益を手にする権利、他人のこの所有権を売る権利ということになります。この所有権理論については、私はよく理解できませんでした。しかし、読み進めていくと、菊澤氏が言いたいことは理解できました。
菊澤氏は、所有権理論を使って今村均中将によるジャワ軍政を分析しています。日本軍は開戦後、瞬く間に東南アジアのほぼ全域を占領しました。そして、軍政を開始しました。日本軍の軍政はどうしても「日本の威光を現地住民と植民地としていた西洋諸国の人々に知らしめる、日本を盟主とする新秩序を教え込む」ということに重きが置かれ、苛烈を極めました。ガダルカナル島の作戦の際にも名前が出てきた辻正信は、シンガポールで中華系住民の大量虐殺を引き起こしています。また、現地の文化や伝統に無理解で、日本の文化や伝統を押し付けたために、現地の人々から反発が起きることもありました。
今村均
そうした中で、今村均中将(第16軍司令官)によるジャワ軍政は数少ない成功例となりました。今村は苛烈な弾圧を加えず、「日本の威徳を伝える」ことに重きを置き、かつ、現地の文化や伝統を尊重しました。インドネシアでは日本軍による苛烈な弾圧もない中で、治安が維持されました。今村は日本兵がインドネシアの人々の頭を殴打することを厳しく戒め(頭に神が宿ると考える現地の人々を尊重)、バタビアと呼ばれていたジャワを現地語であるインドネシアに改名しました(日本軍は多くの場合占領地を日本名に改名した)。神社なども作りませんでした。学校教育に投資をし、工業や農業の改善にも努力しました。また、インドネシア独立運動のスカルノやハッタといった幹部たちと協力体制を築きました。オランダ軍の捕虜たちの待遇もある程度の自由を与えるなどしました。
こうした今村軍政に対して、大本営を中心に「手ぬるい」という批判の声が上がりました。しかし、今村は「占領地統治要綱」に書いてある通り、「公正な威徳で住民を悦服」させているのであって、自分は占領地統治要綱に従っているだけだ。だから、軍政を変更するには、占領地統治要綱を改定しなければならないし、自分はその改定に反対であるので、改定するのであれば軍職を賭ける、と言い切りました。
今村均は、陸軍士官学校第19期で、この期は旧制中学校出身者だけで構成された期で、バランスが取れた人物が多く輩出されたという評価を受けています(他は陸軍幼年学校卒のコースが主であり、幼年出身者が陸軍主流となった)。田中静壱や本間雅晴といった後に高い評価を受ける人々が今村の同期です。彼らは駐在武官や留学などで英米経験が長かったことでも知られています。旧帝国陸軍軍人で、バランスが取れていたという評価を受けている人々の多くは旧制中学校出身(外国語は英語が中心、幼年ではドイツ語とロシア語など)であることが多く、また、他の学校を受験したり、他の志望であったりしたのが、事情があって陸軍士官学校に入学してしまったというタイプが多いようです。陸軍士官学校や海軍兵学校は大変な難関でしたから、仕方なくで入れる学校ではありませんから、彼らは秀才であったとも言えます。このようなタイプは陸軍で主流には乗れずに、中央から外されてしまうことが多かったということは日本の敗北の理由と言えるでしょう。
今村はその温厚篤実の人柄が既に名将の風格を備えていたと言われています。今村は戦後、オーストラリアとインドネシアの軍事法廷で裁かれることになりました。今村は自分の部下が戦犯となった責任を問われて、オーストラリアの法廷で10年の刑を言い渡されました。彼は巣鴨で服役していたのですが、自分の部下と一緒に服役したいとマッカーサーに訴えて、マヌス島にある収容所に自ら移りました。マッカーサーは「武士道を見た」という談話を発表しました。
菊澤氏は次のように分析しています。日本軍は占領地、ジャワの資源、人的資源(住民や捕虜たちの労働)を有効活用したい、一方、ジャワの人々や捕虜たちもまた日本軍を利用したいという関係になります。日本軍は少ない食事と睡眠で住民や捕虜たちに働いてもらいたい、住民や捕虜たちはできるだけ働きたくないということになります。お互いに、どこが均衡点か分からないということになります。となると、広範囲な勝日常的なサボタージュが起きたり、それに対しての弾圧が起きてしまうということになります。日本軍にしてみると、管理や監視のコストが増大します。
今村は捕虜や住民の労働の利益を還元したり、自由や休息を与えたりということを行いました。そうすると、捕虜や住民たちは働いたら自分たちにも得になるということになって、サボタージュをしないということになります。また、教育や文化・伝統保護を通じても多くの権利を認めたために、ジャワの人々は日本軍に敵対しないということになり、治安維持のコストも下がりました。
著者の菊澤氏はその他にも沖縄と硫黄島での戦いも分析しています。沖縄と硫黄島では悲惨な戦いが行われ、沖縄では民間人に約10万の犠牲が出ました。菊澤氏は、2つの戦いで、アメリカ軍は日本軍以上の犠牲を出し、大苦戦となったことに注目しています。そして、沖縄の八原博道高級参謀と硫黄島の栗林忠道司令官がともに大本営の命令をある部分は無視し、命令の目的を理解し、その実現のために合理的な行動を取ったと分析しています。もちろん、日本軍にも多大な犠牲が出て、ほぼ全滅状態となり、戦死した人々1人1人にとっては何が合理性か、ということにはなると思いますが、本土決戦までの時間を稼ぐ、という大本営の目的を的確に把握し、それを成功させたという点で、栗林司令官と八原高級参謀は合理的ということになります。
日本軍の失敗から学び、現代にその教訓を活かすということはこれまでも言われてきました。日本の組織が持つ非合理性や非倫理性は日本軍と共通するところがあるので、それらを改善しなくてはならないと言われてきました。しかし、大企業や官庁、更には内閣まで、日本型組織の持つ欠点を改善するに至っていません。こうした欠点を改善するには、私たち人間が完全に合理性を持つ人間にならねばなりませんが、これは全く実現不可能なことです。そうなると、人間は限定合理性しか持たない、間違うものだ、完全ではないものだということを前提に置いた組織づくりが必要です。
組織において常に批判ができるようにしておくこと、が重要であると思います。失敗が起きた時に失敗を隠すのではなく、失敗を改善のための貴重な機会と捉えることもまた重要です。そして、常に目的を明確にして、その目的のために合理的な方法(一番の近道、お金も時間も労力もかからない方法)は何かを常に求める姿勢が重要だと思います。
しかし言うは易し、行うは難しです。人間はどうしてもこういうことはやりたくないので、昔ながらのやり方のままでいたり、批判に耳を貸さないということになりがちです。ということになれば、嫌でもそのようなことをしなければならないようにルールで定めたり、制度化したりしておくことが必要ということになります。そして、人間は失敗するのだから、失敗に関しては寛容に対応し、失敗から教訓を得られるようにしておくということは頭でわかっていても、なかなか難しいことです。ですから、人間は完ぺきではないと理解しつつ、だから何もしないということではなくて、少しでも改善していくという態度が重要なのだろうと思います。
(終わり)
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