古村治彦です。

 

 今回は最近読みました『白い航跡』をご紹介します。吉村昭(1927-2006年)は歴史的な事実を小説とする手法で知られた歴史作家です。日露戦争の日本海海戦のバルティック艦隊を詳細に描いた『海の史劇』は初めて読んだときに衝撃を受けたことを覚えています。

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新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)

 

 『白い航跡』は、東京慈恵会医科大学の創設者である高木兼寛(たかきかねひろ、1849―1920年)を主人公としています。高木は日向国穆佐(むかさ)村(現在の宮崎県宮崎市)に生まれました。大工の棟梁の家に生まれましたが、学問好きであり頭脳明晰の少年で、大工仕事を手伝いながら学問に没頭しました。

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 高木は身分制度が厳しい時代に、このまま田舎で大工の棟梁で終わりたくないと考え、医者になることを決意しました。医者は出自に関係なくなれ、良い暮らしができると考えました。そして、18歳の時に鹿児島に出て蘭方医石神良策の門下に入りました。20歳の時に、戊辰戦争が勃発し、薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍しました。鳥羽伏見の戦いから東北地方に転戦し、会津若松攻めにも参加しました。どの戦いも激戦で、多くの死傷者が出ました。高木は銃弾が降り注ぐ中で、負傷者の応急手当に従事しました。

 

 高木は野戦病院で西洋医学を駆使した治療を目の当たりにして自分の無力さを痛感し、かつ、薩摩藩が協力関係を持っていたイギリス公使館から派遣された公使館付医師ウィリアム・ウィリスが重傷者を救っていく姿に感動し、是非進んだ医学を学びたいと熱望するようになりました。戊辰戦争後、宮崎に帰還した高木は、薩摩藩が1869年に設立した開成所洋学局に入学し、英語と医学の基礎を習得しました。薩摩藩はウィリアム・ウィリスを鹿児島に招き、医学校を設立しました。高木は医学校に入学しましたが、頭脳明晰さと真摯な姿勢、英語をウィリスに認められ、片腕的存在となりました。

 

1872年、高木は恩師石神の引きで海軍に入り、海軍軍医となりました。高木はウイリアム・ウィリスの教えを受け、英語と実戦的な医療技術に秀でており、海軍内でもすぐに頭角を現しました。海軍は創設当初から薩摩藩出身者が重職を占めており、薩摩藩の軍医として従軍した高木は順調に出世を重ねていきました。また、薩摩藩はイギリスと関係が深く、ウィリアム・ウィリスを鹿児島に招いたこともあり、海軍の医療はイギリス式が採用されていたこともあり、高木には良い環境と言えました。

 

日本の西洋医学受容に関しては、ドイツ式かイギリス式かということで争いが起きました。戊辰戦争でウィリアム・ウィリスが多くの負傷者を救ったこともあり、当初はイギリス式が採用されることになっていました。しかし、ドイツの医学の方が進んでいるという意見も出て、どちらを採用するか、新政府に迷いが出ました。オランダ系アメリカ人の宣教師で、長崎で大隈重信や副島種臣を教えたグイド・フルベッキは、「ドイツ医学の方が進んでいる」という意見を述べ、最終的にドイツ式が採用されることになりました。ウィリスが鹿児島の医学校に招かれたのも中央に居場所がなくなったためでした。しかし、海軍の医療に関してはイギリス式が採用されました。

 

 当時のドイツ医学とイギリス医学の違いは、ドイツの方が基礎研究を重視し、学理を重視するというもので、イギリス式はより実践的な医療を重視するというものでした。ドイツ医学からみれば、イギリス医学は実践を重視するあまりに「軽い」もののように低く見られていたようです。

 

 1875年、軍医少監(少佐相当官)となっていた高木にイギリス留学の話が舞い込みます。そして、セント・トーマス病院付属医学校に留学しました。高木は下宿と学校の往復のみというストイックな姿勢で勉学に励み、常に成績優秀者として表彰と賞金を受ける学生として、イギリス人学生たちからも尊敬を受けるほどでした。セント・トーマス病院では実際の診療にもあたり、より実践的な医療技術も習得しました。高木は内科、外科、産科の医師資格を取得し、1880年に日本に帰りました。

 

日本に帰国後、高木は順調に昇進を重ね、海軍軍医学校長や病院長を歴任し、1883年には海軍軍医務局長、1885年には海軍軍医総監に就任しました。海軍軍医のトップにまで昇り詰めました。

 

 最高幹部クラスの海軍軍医となった高木が取り組んだのが脚気の治療と予防でした。海軍では脚気患者が多数出て、危機的状況にありました。実際に出動、戦闘となった時に、戦艦の乗組員の多数が脚気で動けないとなればどうしようもないということになります。実際に朝鮮半島をめぐり、中国(清帝国)と緊張が高まった際に、朝鮮半島に出動した軍艦では多くの脚気患者が出て、実際の戦闘になっても船を動かすことすらできない状況にまでなってしまいました。この時は実際の衝突は起きず、何とかごまかすことが出来ましたが、日本海軍は装備以前の問題で兵員の健康問題を抱えてしまうことになりました。

 

 この当時、ドイツ医学系の東京大学医学部と陸軍軍医たちは、脚気の原因は細菌だと考えていました。夏になると脚気患者数が増え、海軍でも士官よりも兵士クラスで患者数が多く出るということから、不衛生な場所で脚気の原因菌が繁殖するのではないかと考えられていました。しかし、原因菌の特定には至っていませんでした。

 

 高木はイギリス海軍では脚気の患者が出ないこと、日本伝統の漢方医たちの中に「脚気の原因は米だ」という主張があることなどから、食事、特に副菜を摂らない大量の米食が問題なのではないかと考えるようになりました。現在は日本でも米離れと言われ、米の消費量は減少していますが、昔は1日に5合や6合の米を少ないおかずで食べていました。海軍でも兵士たちに白米を支給し、白米など食べられない貧しい家庭出身の兵士たちは喜んでいました。また、副菜に関しては相当分のお金を兵士たちに支給して勝手に買わせていたのですが、米でおなか一杯になるし、節約の意味もあって、ほとんどの兵士がこのお金を貯金に回していました。そのため、兵士たちは米食に偏った食事をしていました。

 

 高木は海軍の食事を西洋式に改めることを訴え、パン食、肉食、牛乳の摂取を主張しました。しかし、経費がかさむこと、兵士たちが洋食を嫌がることなどの問題もあり、海軍醸造部も高木の訴えには理解を示しつつも実行には躊躇していました。高木は伊藤博文や有栖川宮幟仁親王といった明治政府の最高幹部、要人たちに直訴する形で海軍の食事制度を改善していきました。1883年から海軍内で食事が改革され、これに合わせて脚気患者も減少していきました。しかし、東大医学部や陸軍部では海軍の取り組みと高木の主張を激しく非難しました。陸軍軍医総監であった石黒忠悳や後任の森林太郎(森鴎外)は高木を厳しく糾弾しました。

 

 1883年にコルベット艦龍驤が練習航海を行いました。ニュージーランド、南米、ハワイを周航したのですが、多くの脚気患者を出しました。高木は1884年にコルベット艦筑波に食事を改善した状態で同じコースでの航海をしてもらうという実験を行いました。その結果は、脚気患者はほぼ出なかったという結果になり、高木の主張は海軍内で確固とした立場を確保することになりました。

 

 高木は海軍で軍医教育や将兵の衛生や健康、脚気患者の減少に取り組みながら、同時に海軍外での医療と医療教育にも取り組みました。1881年に慶應義塾医学所(前年に廃止されてしまっていた)の所長だった松山棟庵と医学団体成医会と医師養成機関である成医会講習所を創設しました。福沢諭吉は医学に関して英国式を支持しており、そのために慶應義塾の中に医学所を創設していたのですが、資金難などのために廃止せざるを得ない状況でした。日本国内でドイツ医学が優勢となる中で、イギリス医学の拠点とすべく、高木と松山はこれらの団体を創設しました。これが後に東京慈恵会医科大学へと発展していくわけですが、私の勝手な考えでは、現在の私立医学部の名門である慶應義塾大学医学部と東京慈恵会医科大学は今でも友好関係にあるのではないかと思います。

 

 1882年には、高木は自身が学んだセント・トーマス病院を範とする有志共立東京病院を創設しました。セント・トーマス病院では貧しい患者には無料、もしくは廉価で治療を施していましたが、東京病院もそのような形態を採用しました。東京病院では海軍軍医も診療にあたり、最新の医療が受けられるとして患者が殺到したということです。医者はただ本を読むだけでは技量は上達しないので、できるだけ多くの機会を海軍軍医たちに与えて、技量上たちの場にしたいという考えもあってのことでしょう。東京病院は1887年に明治天皇の皇后(昭憲皇太后)を総裁として迎え、皇后から「慈恵」の名前が与えられ、東京慈恵病院となりました。

 

 高木はまた、セント・トーマス病院で看護婦が豊富な医学知識と確固とした医療技術を駆使して活躍している姿に感銘を受け、日本でも看護婦を要請すべきだと考えていました。1885年に東京病院に付属の看護婦教育所を創設しました。

 

 これらの組織団体が後に東京慈恵会医科大学に発展し、現在に至っています。高木兼寛は東京慈恵会医科大学の創立者ということになります。ドイツ医学が優勢の中で、実践を重視するイギリス医学の拠点を作りたいという高木の意志が東京慈恵会医科大学にまで発展したということになります。

 

 1888年には日本にも博士号が作られ、文学、法学、工学、医学の各分野から4名ずつに博士号が授与されることになり、高木はその中に入り、医学博士となりました。日本ではドイツ医学優勢で傍流として虐げられていましたが、やはりロンドンで学んできたことと日本海軍内で脚気患者を減少させた功績を国家として無視することはできませんでした。

 

 1892年に高木は海軍を退き、貴族院議員となりました。また、1905年には男爵に叙せられました。日清・日露戦争で日本海軍が各戦闘で勝利を収めることが出来たのは、脚気患者を減らすことが出来たということになり、高木の功績に対して華族に叙せられることになりました。そのままの時代が続けば、頭脳明晰であった高木も父の跡を継いで大工の棟梁で終わるはずであったのが(大工の棟梁も素晴らしい仕事ですが)、明治維新という日本の勃興期に人生が重なった人物でした。

 

 高木は後にアメリカ・ニューヨークに今でもある名門コロンビア大学の招聘受けて渡米、更にヨーロッパ各地を歴訪しました。自分が学んだロンドンのセント・トーマス病院も訪問しました。高木は各地で歓迎を受け、いくつもの大学で講演し、名誉博士号を授与されました。日本では東京大学医学部と陸軍によってドイツ医学優勢となり、傍流とされているが、海外ではこんなにも評価されているということで高木は自信を取り戻しました。

 

 晩年は診療以外に一般教育と講演に力を注ぎました。自分が相手にされない医学界向けではなく、一般の人々に医療や衛生について話をし、更には道徳などについても話をするようになりました。また、この頃から日本の伝統に回帰するようになり、禊(滝行など)を好んで行うようになりました。また、日本の粗食(雑穀の入ったご飯や味噌など)が素晴らしいと言うようになりました。ロンドンまで行って近代学問を学んだ高木もまた日本人であったということになるでしょう。

 

『白い航跡』を読んで思うことは、イギリスとドイツの学問の方法論の違いということです。イギリスは帰納的であり、ドイツは演繹的であり、かつ、イギリスは形而下を重視し、ドイツは形而上を重視するという大きな違いがあり、哲学的に言えばイギリス経験論とドイツ合理主義の違いということが言えると思います。

 

たまたま生まれた時代と場所によって、高木はイギリス医学、森鴎外はドイツ医学を学びました。そして、お互いが自分の学んだ医学の優位性を確信しました。彼らは脚気をめぐって、それぞれの学問に忠実に向き合い、お互いに争いました。高木はドイツ医学を学んだ医学者たちからは冷笑をされたり、激しい非難を受けたりました。陸軍軍医たちは、最近接に固執し、麦飯を同流することに反対し、麦飯の効果を検証しようとする試みにも「天皇陛下の軍隊を実験に使うとは許せない」などと言いだす始末でした。とても科学者、医学者の発言とは思えません。

 

陸軍の長州閥の大物で後に総理大臣となった陸軍大臣寺内正毅は脚気を患っており、個人的には麦飯を食べていたという笑えない笑い話のような話もあります。寺内は日清戦争で指揮官として出征、自身も脚気患者となり、また部下たちからも多くの脚気患者を出しました。当時の陸軍では大量の米飯が継続されていましたが、海軍に比べて膨大な数の脚気患者を出すに至りました。皮肉なことに現地で調達した精米していない米に雑穀を混ぜた、食事に「恵まれなかった」部隊では脚気患者が少なかったということもありました。

 

東大医学部系や陸軍軍医たちの姿を見ていると、患者が実際に出て死亡していくのに、自分たちの学んだ学問に合わないからと言って、麦飯の効果を検証することすら邪魔をするというのは、異常なことです。彼らは人々を助けるために医学者になったのではなく、自分の頭脳明晰さと権力のために医学者になったのではないかと疑いたくなるほどです。そして、自分の学んだ学問の方法論にこだわるのは恐ろしいことであり、かつ、学問研究から離れているとされる宗教的な進行にすら似ているように感じられます。また、学問は間違ったり、失敗することが重要であり、そこから新しいものが生み出される(「失敗は成功の母」という言葉もあります)はずですが、実際には無誤謬性に凝り固まった宗教や信仰のようになってしまっている、これは現状でもそのようなことがあると思います。

 

 本書を読んで、学問とは何かということと人の人生は偶然と時代の産物なのだということを考えさせられます。

 

(終わり)



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