古村治彦です。

 

 今回は『真実の西郷隆盛』(副島隆彦著、コスミック出版[電波社]、2018年5月19日)をご紹介いたします。


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真実の西郷隆盛

 

 本書は副島隆彦先生の西郷隆盛研究の本です。今年2018年は明治維新150周年で、NHK大河ドラマは西郷隆盛を主人公とする「西郷(せご)どん」です。視聴率はあまりよくないようですが(私はテレビを所有していないので視聴していません)、話を聞いていると、結構ディテールにこだわった作りになっているようです。

 

 本書では、これまで光を当てられてこなかった西郷隆盛の持つ意外な一面に光が当てられています。それは「西郷隆盛はキリシタンであった」「西郷隆盛は情報将校であった」ということです。詳しくは是非本を手に取ってお読みいただきたいと思います。

 

 以下にまえがき、目次、あとがきを掲載します。

 

 よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

はじめに

 

西郷隆盛[さいごうたかもり] (1828〜1877)は 50 歳で死んだ。

 

西郷の年齢の表記は諸本によってバラバラになっている。 49 歳という場合もあるし、 51 歳と表示している本もある。この本では年齢は数え年で表記する。また出来事のくわしい日時は旧暦で表示した。西郷の死んだ時の年齢は、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳だ。

 

このように表記がバラバラなのは、西郷が生まれた旧暦の文政 10 12 月7日は、西暦では1828年1月 23 日だからだ。文政 10 年は西暦では1827年であり、1カ月くらいずれる。このずれの狭 はざ 間 ま に西郷隆盛が生まれた。従って、西郷が1877年9月 24 日に鹿児島の城山で死ぬまでの日数を計算したら、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳である。細かいことだが年齢を正確に把握することは重要なことだ。

 

西郷とこの時代の代表的な人物たちとの年齢との兼ね合いを見ると、盟友の大久保利通[おおくぼとしみち] (1830〜1878)より2歳年上である。長州の木戸孝允[きどたかよし](桂小五郎 1833〜1877)より5歳年上。高杉晋作(1839〜1867)より 11 歳上。土佐の坂本龍馬[さかもとりょうま](1836〜1867)より8歳年上。後藤象二郎[ごとうしょうじろう](1838〜1897)より 10 歳年上である。従って、西郷隆盛は年齢で明治維新を成し遂げた維新の元勲たちの中では先輩格ということになる。

 

一方、西郷が仕えた第 11 代薩摩藩主・島津斉彬[しまづなりあきら](1809〜1858)は 19 歳も年上だ。西郷が嫌った斉彬の弟島津久光[しまづひさみる](1817〜1877)も 11 歳年上だ。

 

西郷隆盛の人生は、島津斉彬が嘉永4(1851)年に藩主となって、すぐに登用されるまでの前半生( 27 歳まで)と、それ以降の後半生に分けられる。私たちが普通知っているのは、後半生の時代だ。西郷は安政元(1854)年に斉彬の参勤交代の供 とも 揃 ぞろ えに抜擢され初めて薩摩から江戸に出た。ここから西郷の政治活動が始まった。NHKの大河ドラマ『西郷(せご)どん』で描かれているとおりである。

 

西郷は後半生で2度、島流しにあった。1度目は「安政の大獄」から逃れるために、藩が彼を奄美大島に潜伏させた時だ。奄美大島での生活は安政6(1859)年1月から文久2(1862)年1月までの3年間(、、、)に及んだ。2回目は、斉彬没後に薩摩藩の最高実力者となった斉彬の弟島津久光の逆鱗に触れ、徳之島、続けて沖永良部島に遠島処分なった時だ。この時の遠島処分は文久2(1862)年6月から元治元(1864)年2月の約2年間(、、、)続いた。

 

西郷はこのように後半生 25 年間のうち5年もの間、政治の表舞台から追放された。2度目の遠島(えんとう)処分は、西郷をそのまま殺しても構わないという過酷な処分であった。しかし西郷は生きて戻った。失脚と粛清を生き延びた。沖永良部島から帰還した時、西郷は 37 歳になっていた。そして、慶應3(1867)年から慶応4/明治元(1868)年にかけて、王政復古と明治新政府樹立、江戸幕府打倒を成し遂げた。これらは現在、書店に並んでいる西郷隆盛本に出てくる。

 

西郷はキリシタン(キリスト教徒)であった。そして同時に情報将校(インテリジェンス・オフィサー)として鍛え上げられた人物であった。私はこの事実を証拠付きでこの本で明らかにする。このことは一般的な歴史書では書かれていない。歴史学者たちは口をつぐんで言わない。しかし、西郷の地元鹿児島では人々の間で密かに伝えられてきた。最近、公然と語られるようになった。

 

鹿児島は、その約300年前の1543年に、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル ( Francisco de Xavier   1506〜1552)が上陸した土地だ。最近、藩主島津氏の居城で あった鶴丸城(鹿児島城)の本丸跡から、「花 はなじゅうじもん 十字紋」の入った瓦が発見された(『南日本新聞』2018年2月 17 日付)。2009年に二の丸跡からも同様の十字がついた瓦が出土した。花十字紋は、キリスト教の十字架を表現しているもので、キリシタンの墓に使われたり、花十字紋瓦は教会跡から出土したりしている。島津氏もキリスト教の影響を強く受けていたのである。

 

西郷は、「中国化したキリスト教」である陽明学を学び、「敬天愛人(けいてんあいじん)」という思想に行き着いた。西郷は陽明学者佐藤一斎[さとういっさい](1772〜1859)の『言志四録(げんししろく)』を死ぬまで手元から離さなかった。この本を一所懸命に勉強した。そこから生み出された西郷の思想「敬天愛人」に使われている「天(てん )」こそは、キリスト教(天主教)の「神」のことである。西郷は中国で出版された漢訳の聖書を読んでいたという証言が残っている。西郷はどんな人間に対しても礼儀正しく接した、不正を非常に憎んだ、という逸話が残っている。これは西郷隆盛が陽明学、すなわち中国化したキリスト教に忠実だったからだ。

 

西郷隆盛は巨体(日本人の平均身長が150センチ台の時に178センチもあった)で茫洋

とした、細かいことにはこだわらない大人物としてのイメージができ上がっている。しかし、実際にはきめ細かい配慮ができ、数学の計算力のある、頭の回転の速い人物であった。鹿児島は日本本土の最南端に位置し、昔から海外からの情報が真っ先に入ってくる場所であった。薩摩藩は琉球を実効支配し、海外情報を入手しやすい場所にあった。この環境の中で育った西郷は、藩主島津斉彬の下で働いた5年間で、「情報将校」として鍛えられた。2度の島流しの間にも、薩摩藩の情報ネットワークの中におり、それに守られていた。また冷酷な謀略も行える人物であった。

 

西郷隆盛についてはいくつもの大 フォールス 嘘がまかり通っているので、それを「糺(ただす)す」ために私はこの 本を書いた。私は歴史を見る時に、いつも大きな真実とは何か(、、、、、、、、、)を考える。私は西郷隆盛について、これが大きな真実であろうということをこの本で書いた。読者は厳しい真贋(しんがん)判断をしてください。

 

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『真実の西郷隆盛』

 

目次

  

はじめに

 

第1章 西郷隆盛と陽明学・キリスト教

    

西郷=キリシタン説   

陽明学はキリスト教   

西郷隆盛と陽明学

「敬天愛人」とキリスト教

 西郷はキリスト教の聖書を読んでいた

 キリスト教に寛大だった西郷隆盛

 陽明学の深い学習=キリスト教への信奉

 

第2章 幕末:西郷隆盛をはじめとする情報将校たちの時代

    

情報収集、分析の専門家として育成された西郷

情報将校・西郷の前半5年間:島津斉彬による抜擢・教育

情報将校・西郷の後半5年間:明治維新に向けた動き

アジアとのつながりが深く人、物資、情報が集まってきた薩摩

2度の離島生活で出会った知識人・重野安繹と川口雪篷は情報将校だった

薩摩藩対外情報将校であった寺島宗則と五代友厚    

西郷隆盛とイギリスの情報将校アーネスト・サトウとのかかわり

「情報将校」が活躍した幕末という時代

 

第3章 西郷隆盛の誕生から世に出るまで

    

薩摩藩の青年武士たちのリーダーとして

西郷家の生活

江戸後期の島津家と薩摩藩

青年期の西郷隆盛

島津斉彬と西郷隆盛

西郷隆盛、江戸へ

将軍継嗣における一橋派と南紀派の対立

暗転:斉彬の死、安政の大獄から僧月照との錦江湾入水、そして生還

西郷隆盛、奄美大島へ

 

第4章 遠島処分から政治の表舞台へ、倒幕に向かう

    

島津久光の実像と倒幕、維新への功績

薩摩藩の実力の源泉となった資金力の3本柱

「精忠組」誕生と大久保利通の久光接近

桜田門外の変から公武合体路線へ

久光による率兵上京、西郷隆盛召還と「地ゴロ」発言

西郷、流罪で徳之島、さらに沖永良部島へ

文久の改革から公武合体路線、尊王攘夷

再び召還され、政治の表舞台へ

薩長同盟から王政復古の大号令へ

 

第5章 西郷隆盛と明治維新

 

徳川慶喜容認か、倒幕か

鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へ

鹿児島への帰還と藩政改革

新政府への出仕と留守政府の筆頭参議

遣韓論争と下野(明治六年の政変)

鹿児島帰還と西南戦争、終焉

  

おわりに

 

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おわりに

 

今年、2018年は明治維新から150年目の年だ。NHKの大河ドラマは西郷隆盛が主人公の『西郷(せご)どん』で、西郷隆盛に注目が集まっている。大河ドラマ『西郷どん』に便乗して多くの西郷関連本が出ている。しかし、こうした便乗本では西郷の真の姿はわからない。

 

西郷隆盛について大事なことは、西郷隆盛は誰に対しても威張らず、丁寧に接する人物だった、ということだ。これは、西郷隆盛が「中国化したキリスト教」である陽明学を本気になって一生懸命に勉強し、人間を身分別にわけて徹底的に虐(いじ)めるという江戸時代の制度に反感を持っていた、ということを示している。西郷は、このような誰に対しても威張らない人だったということで、人格者として尊敬され、大人物とされた。

 

「西郷はキリシタン(キリスト教徒)だった」という西郷の出身地鹿児島に今でも伝わる話は荒唐無稽なつくり話などではない。真実は庶民の間でヒソヒソと語られ後世に伝えられていく。

 

また、西郷隆盛が「情報将校」であることも今回くわしく書いた。西郷隆盛は薩摩藩主島津

斉彬によって見 みい 出 だ され、斉彬直属の「情報将校」として鍛え上げられ、政治活動を行った。斉彬が死去するまで江戸藩邸の御庭方(御庭番)として斉彬から直接指示を受け、行動していた。各藩の「情報将校たち」とも行き来をし、人脈を形成した。幕末期はまさに江戸幕府や雄藩の情報将校たちが江戸や京都、時には海外を舞台にして活躍した時代であった。

 

西郷はそうした時代を生き抜いた。西郷自身は権謀術数や裏切りなどを最も嫌った人物だ。


しかし、西郷の持つ論理的思考力、的確な判断力、押し出しのよさによって、斉彬に見出され、斉彬直属の情報将校として活躍することができた。

 

生真面目で、誠実な西郷隆盛というイメージは西郷の真実の姿の半分を示しているだけだ。そこに情報将校としての側面を加えることで、西郷隆盛の真実の姿に近づくことができる。逆説的ではあるが、西郷が人格者であったればこそ、情報将校として活躍することができた。人格に歪(ゆが)みがあれば的確な判断は下せない。

 

今回、私の「真実の西郷隆盛論」を書き上げた。これまで無視されてきた西郷の側面を描き出した。西郷隆盛の真の姿に近づけたものと自負している。

 

この本の完成には、私の弟子で鹿児島市出身の古村治彦(ふるむらはるひこ)君の協力があった。電波社の岩谷健一編集長にもお世話になった。記して感謝します。

 

(貼り付け終わり)

※2018年6月17日(日)に副島隆彦の学問道場定例会(講演会)が開催されます。定例会出席のお申し込みは以下のアドレスでお願いいたします↓
http://snsi-j.jp/kouen/kouen.html


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真実の西郷隆盛

(終わり)

imanokyodaichuugokuwanihonjingatsukutta001
今の巨大中国は日本が作った


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迫りくる大暴落と戦争〝刺激〟経済