古村治彦です。

 今回は、ジャパン・ハンドラーズ(日本管理班)古株のナサニエル・セイヤー博士の追悼記事(『ワシントン・ポスト』紙掲載)を紹介する。ナサニエル・セイヤーはほぼ半世紀にわたり、アメリカの日本管理を担った重要人物である。ワシントンDCにあるジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究所(SAIS)教授として多くの人材を教育した。
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ナサニエル・セイヤー

 SAIS出身者の政治家には、長島昭久、山口壯、福田達夫らがいる。山口壯は自身のブログの記事で、「私は外務省時代にSAISに留学させてもらい、ナサニエル・セイヤー教授から博士号をもらいました。博士論文は、外務省の大先輩である吉田茂がどのような発想で日米安保条約の構想に至ったか等について書いたものです」と書いている。
※2014年7月18日世界における日本の役割(Japan will play a greater role in the Coming World) https://mission21.gr.jp/2014/18/6808/

 セイヤーはエドウィン・O・ライシャワー大使時代に東京の米国大使館に勤務していた。彼はこのころ既に後に日本の首相となる中曽根康弘と深い親交を結んでいた。コロンビア大学の後輩のジェラルド・カーティスが博士論文執筆のために日本にやって来た時には面倒を見て、中曽根康弘の秘書だった小林正巳を通じて、中曽根派の代議士だった佐藤文生をカーティスに紹介した。カーティスは佐藤文生の選挙事務所に入り、「日本語を話す外人さんがいる」ということで、人気者になった。彼は後に「この時に『お流れ頂戴します』という言葉を覚えた」と述懐している。カーティスは日本の選挙運動について博士論文を書き、それが後に『代議士の誕生』という著作になった。ここら辺のことは拙著『アメリカ政治の秘密 日本人が知らない世界支配の構造』に詳しく書いている。カーティスは後に著作には入れなかったが、事務所の奥まった部屋で裏金のやり取りを目撃したと述べている。

 セイヤーは東京の米国大使館に在職中、日本の学生運動の指導者たちとも接触している。具体的には一緒にお酒を飲んで交流している。ここからは私の勝手な推測であるが、活動資金を手渡していたのではないかと思う。

 セイヤーはアメリカに戻り、ニューヨークにあるコロンビア大学とニューヨーク市立大学で教鞭を執った後、ワシントンDCにあるジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究所(SAIS)に移った。ジョンズ・ホプキンズ大学自体はワシントンから高速道路で1時間ほどのメリーランド州ボルティモアにある。ジョンズ・ホプキンズ大学は全米で初めて博士課程を設置した名門大学だ。1975年から2005年に教職から引退するまで約40年間、セイヤーはSAISで、日本研究者や日本からの留学生を教育した。SAISのエドウィン・O・ライシャワー記念センター創設にもかかわった。現在は、ライシャワーのハーヴァード大学時代の最後の弟子であるケント・カルダーがSAISの日本研究部門を取り仕切っている。
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マーガレット・ヒサコ・セイヤーさん

 セイヤーは2020年11月に亡くなった。奥様のマーガレット・ヒサコ・セイヤー(旧姓はタカハシ)さんは2021年5月に亡くなった。夫妻は共に90歳を超える長寿だった。マーガレット・ヒサコさんは日系人だったが、戦時中は日本で過ごした。戦後は米軍の通訳を務めた。その後、ニューヨークに移り、国連で働き、夫となるナサニエル・セイヤーと出会った。マーガレット・ヒサコさんは医師助手(Physician's Assistants)第一世代として長らく現役で働いたそうだ。二人の結婚生活は64年に及んだということだ。

 

(貼り付けはじめ)

ナサニエル・バウマン・セイヤー博士(Dr. Nathaniel Bowman Thayer

https://www.legacy.com/us/obituaries/washingtonpost/name/nathaniel-thayer-obituary?id=6140469&__cf_chl_captcha_tk__=V8imlPKAFEgAbp3UIpFLfNSUa21XKRta2rNo8V1Jdu8-1638544469-0-gaNycGzNCH0

ナサニエル・バウマン・セイヤー博士は、日本政治の著名な研究者であり、長年にわたりジョンズ・ホプキンズ大学高等国際関係大学院(the Johns Hopkins University School of Advanced International Studies)の教授を務めた。また、東アジア担当のアメリカ国務省の外交官と国家情報官を務めた。セイヤー博士は2020年11月7日に娘サラのネブラスカ州グレトナの自宅で静かに息を引き取った。

セイヤー博士は1929年11月30日にマサチューセッツ州ウォーセスターのセイヤー家に生まれた。彼はヴァ-モント・アカデミーを卒業し、ブラウン大学とロードアイランド・スクール・オブ・デザインで建築を学んでいる時に、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争期間中、東京に合ったアメリカ軍極東司令部の対諜報・情報舞台で調査官として勤務した。停戦後、セイヤー博士は日本政治と東アジアの国際関係論を専門とする学術におけるキャリアをスタートさせた。1956年にコロンビア大学で優等で学士号を取得し、コロンビア五大学で修士号と博士号を取得するために勉強している間に、後に妻となるマーガレット・ヒサコ(旧姓タカハシ)と出会った。

セイヤーは1961年アメリカ合衆国外務局に入り、エドウィン・O・ライシャワー駐日米国大使の下で、東京の米国大使館で広報担当官を務めた。1964年にライシャワー大使に対する暗殺未遂事件が発生し、ライシャワー大使が虎の門病院に運び込まれた際には、大使のそばにいた。彼はその後、ビルマのラングーンの米国大使館に転勤した。その後、博士号取得のためにコロンビア大学に戻り、1967年に優秀な成績と論文で博士号を取得した。1969年に、ニューヨークのジャパン・ソサエティでプログラム担当部長を務めている時に、日本政治の古典的著作『いかにして保守主義者は日本を支配しているか(How the Conservative Rule Japan)』を発表した。この著作は、派閥政治、政治家たちと官僚と実業界との関係を分析した画期なものだった。この著作は、3つの言語で出版され、32版を重ねている。アメリカと日本で日本政治についての標準的な教科書となった。

セイヤー博士はコロンビア大学とニューヨーク市立大学で教鞭を執った。また、ハーヴァード大学でヴィジティング・プロフェッサーを務めた。その後は、1975年にワシントンDCにあるジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究大学院(SAISSchool of Advanced International Studies)に移った。SAISで長年にわたり、多くの日本研究者たちを教育し、学術界、外交、実業の分野で多くの成果を挙げてきた多くの学生たちを指導した。SAISでは、日本研究部長、アジア研究プログラム部長、中曽根康弘記念教授(Yasuhiro Nakasone Professor)、ライシャワー記念センターのアドヴァイザーを務めた。1978年から1980年にかけて、中央情報局(CIA)の東アジア専門国家情報官(national intelligent officer for East Asia)を務めた。2005年に教職から退いた。同年、ワシントンの日本大使館で式典が開かれ、日本政府から、旭日中綬章(Order of the Rising Sun, Gold Rays with Neck Ribbon)が授与された。

SAIS在職中、セイヤーはヴァージニア州フェアファックス・ステーションに農場を購入し、ほぼ独力で、南北戦争前の農家の建物を復元し、農場を大きくした。農場では、ブービエ・デ・フランダース犬とアンガス牛を育てた。ナサニエル・セイヤーは長年にわたるパーキンソン病との戦いを勇敢に戦い抜き、息を引き取った。64年間連れ添った妻マーガレット(ルイジアナ州シュレヴポート)、娘デボラ(ミネソタ州ミネアポリス)、娘サラ(ルイジアナ州シュレヴポート)、娘レベッカ(ミネソタ州ミネアポリス)が残された。また、弟ウィリアム・セイヤーと彼の家族がマサチューセッツ州に住んでいる。追悼式は今年の秋にライシャワー記念センターで予定されている。式典は東京や世界各地で、インターネットを通じて中継される。詳細はフミコ・ササキ教授まで。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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