古村治彦です。

 今回はロシアのウラジミール・プーティン大統領やロシアのエリートたちが持っている歴史観と今回のロシアによるウクライナ侵攻について絡めて分析した論稿をご紹介する。もし今でも高校時代の世界史の教科書が取ってあるという方は少し読み返していただくと良いかもしれない。ただ、ウクライナの歴史について『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』で付け焼刃で勉強してみたが、教科書の記述は多少荒っぽいということが分かる。それは仕方がないことだ。資料集や歴史年表、地図があるとより理解しやすいと思う。

 ウクライナとロシアの間にある歴史観の違いを簡単過ぎるほど簡単にまとめると、ロシアからすれば「キエフ・ルーシの正統な後継国家はモスクワ大公国、そしてロシア帝国だ。そして、ウクライナはロシアの一部だ」ということになる。ウクライナとしてはこのような歴史認識など認められない。日本風な言い方に言えば、「お前らは分家じゃないか、それが全ルースの庇護者面をするな」ということになる。ウクライナの歴史について言えるのは、東西南北のあらゆる勢力から狙われる地域であること、生産力が高く気候が良い土地が丁度の場所にあるということで、ウクライナの歴史は非常に複雑な波瀾万丈な歴史となっている。もっと大きく言えばバルト海と黒海との間にある、現在のロシアとドイツ、ポーランドに囲まれた地域の歴史は波瀾万丈、合従連衡、裏切り合い、キリスト教と言ってもロシア正教とカトリック、後にはプロテスタントと色々な要素が複雑に絡み合っている。

 プーティンが「脱ナチス化」という言葉を使っているのは、ドイツに対する嫌がらせもあると私は考える。独ソ戦(ソ連とロシアでは「大祖国戦争」と呼称)が勃発しウクライナにもドイツ軍が侵攻してきた。ウクライナではドイツと結んでソ連から独立することを選んだ勢力と、ソ連とも戦うしドイツとも戦うという勢力が出現した。ドイツの敗退と共に前者は掃討され、後者も戦後しばらく抵抗を続けたが、期待した欧米からの支援もなく、抵抗は終わった。ウクライナの民族主義的な勢力がネオナチ化し、反ユダヤ的な言動を行ったり、犯罪行為に手を染めたりしたような人々で結成された「アゾフ大隊」と呼ばれる準軍事組織がウクライナ内務省の所属となり、ロシア系住民の弾圧や殺害に関与しているということは国連にも報告されている。ドイツはNATOの主要メンバーであり、ウクライナ支援の中心国であるが、「お前たちはネオナチメンバーにも支援するんだな、ナチス時代を忘れた訳ではあるまい」という論理構成がロシア側化すれば成り立つ。

 プーティンをはじめとするロシアのエリートたちが反西洋的な言辞を使い、「ロシアと西洋は違うのだ」という主張を行っていることに注目したい。ロシア帝国がヨーロッパの列強の仲間入り(近代化とも言い換えられる)を果たす過程でヨーロッパ諸国から学んだことを私たちは世界史の授業で習った。その点では日本ともよく似ている。しかし、それが良くないことであったという評価をプーティンはしているようだ。端的に言えば、「ロシア文明は西洋文明とは違うのだ」ということになる。ここで思い出されるのは、サミュエル・ハンティントンの『』だ。このタイトルは「文明間の衝突(原題ではCivilizationsと複数形になっているのだから)」と訳さねばならない。ロシア(の最高指導者層とインテリたち)が自分たちは西洋文明とは別個の文明なのだと自己規定しているとするならば、今回のロシアによるウクライナ侵攻は「文明間の衝突」という分析もでき、ロシア側からすれば「ロシア文明に属するウクライナを西洋が奪いに来たから膺懲する」ということになる。

 西洋近代化への「ブローバック(blowback)」ということも言えるだろう。それがロシアによってはじめられたということは興味深い。

(貼り付けはじめ)

プーティンの1000年戦争(Putin’s Thousand-Year War

-プーティンの反西洋憎悪の理由はロシアの歴史全体に遡り、これから長期にわたりその理由は私と共に存在し続けることになる。

マイケル・ハーシュ筆

2022年3月12日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/03/12/putins-thousand-year-war/

プーティンによるウクライナ侵攻がすぐに終わるかどうかは別として、確実に続くのは、アメリカをはじめとする西側諸国に対するロシア大統領プーティンが持つ変わらぬ憎悪と不信であり、そのためにいわれのない戦争を仕掛けるしかなかったと考えることだ。

それはプーティンだけのことではない。こうした考え方は、20年間プーティンを支えてきた多くのロシア人エリートが共有しているものだ。少なくとも、プーティンの侵攻が激しい抵抗に遭った最近までは、プーティン自身が独裁者になり、ロシアが最悪のソ連を思わせるような、ほぼ全体主義的な国家になったとしても、プーティンの国内人気を支えてきたのもこの考え方だった。ジョン・F・ケネディ元大統領の言葉を借りれば、45年に及ぶ冷戦に匹敵する「長い黄昏の戦い(long twilight struggle)」に、ワシントンや西側諸国が再びモスクワとの間で直面することはほぼ間違いないだろう。

ロシア大統領プーティンの西洋に対する根強い反感は、第二次世界大戦後に生まれた子供(a child of World War II)でソ連のスパイだった69歳のプーティンの個人史と、ロシアそのものの、少なくともプーティンが読んでいるロシアが持つ1000年の歴史が複雑に絡み合った物語である。プーティンと彼を支持する多くの右寄りのロシア政府高官、エリート、学者たちは、西側とその戦後の自由主義的価値体系に属したくないだけでなく、西側に対する大国として防波堤(great-power bulwark)となることがロシアの運命であると考えているのだ。

仮にプーティンが権力の座から追い落とされたとしても、彼の周囲にいる将軍や安全保障担当の政府高官たちは、プーティンと同様に彼の侵略に加担している。ロシアはソ連時代と同じように経済的にほぼ孤立している。

実際、プーティンは、人々が考えているよりもずっと前から、この瞬間のために準備をしていたのかもしれない。2014年にロシアの指導者がクリミアを併合した後、クレムリンの長年の思想家であるウラジスラフ・スルコフ(Vladislav Surkov)は、ロシアによるクリミア併合によって「ロシアの西洋への壮大な旅の終わり、つまり、西洋文明の一部になることを目指して繰り返された実りのない試行の最終的な停止」を示すだろうと書いている。スルコフは、ロシアは少なくとも今後100年間は地政学的な孤独(geopolitical solitude)の中に存在することになるだろうと予言した。

ストーンヒル大学の政治学者で、ロシアに関する複数の著書を持つアンナ・オハニャンは「プーティンはもう後戻りできない」と言う。他のロシア専門家同様、オハニャンもプーティンの20年にわたる権力の中で、彼は国際システムの制度の中でロシアの影響力を行使する方法を模索しながら、上海協力機構(Shanghai Cooperation Organization)のような新しい対抗的な制度を構築しようとしていると考えていた。今、その構想はほとんど灰燼に帰している。オハニャンは「領土に関する規範に挑戦することで、プーティンはこれまで築いてきた道のりの見通しを捨てている」と語った。

複数のジョー・バイデン政権幹部は、新たな長期的闘争の意味合いについて把握しつつある。そのため、春に予定されていた新しい国家安全保障戦略の発表が遅れている。バイデン政権はインド太平洋重視の姿勢を維持する見込みだが、複数の関係者によれば、プーティンのウクライナ攻撃は、ジョー・バイデン米大統領の主要目標の一つであったNATOと西側同盟の活性化、特にこれまで防衛上の主導的役割を果たすことに消極的だったドイツなどヨーロッパ連合の主要国の新たな軍事化をより強力に推進させることにつながっているということだ。

ウクライナはプーティンの反西洋的態度の試金石(touchstone)となったが、その理由の大部分は、ロシアの指導者プーティンと支持者たちが、歴史的な兄弟国であるウクライナを、西側から与えられる一連の屈辱の最終レッドラインと見なしたからである。プーティンは演説の中で、ウクライナの西側への仲間入りを西側の「反ロシアプロジェクト」と繰り返し呼んだ。冷戦終結から30年、1922年のソヴィエト連邦成立から100年という長期間にわたって、このような屈辱を受け続けてきた。自由(liberty)、民主政治体制(democracy)、人権(human rights)を生み出した3世紀以上前のヨーロッパ啓蒙主義(European Enlightenment)にまで遡ることができる。プーティンのようなロシア民族主義者にとって、これらの発展はロシアの文明としての個性を失わせるようになったと考えられるものだ。

プーティン自身が語っているところによると、彼は自分自身をソ連の後継者ではなく、ロシア文明とモスクワを中心とするユーラシア帝国の擁護者と考えている。そのルーツは、より古いウラジーミル、つまり聖ウラジーミル(St. Vladimir,)、980年から1015年まで在位したキエフ大公(Grand Prince of Kyiv)に遡る。聖ウラジーミルは、ロシア人が最初の帝国と考える、キエフ・ルーシ(Kievan Rus)と呼ばれるスラヴ国家の支配者だった。キエフ・ルーシは当然のことだが、現在のウクライナの首都であるキエフに首府を置いていた。988年に聖ウラジーミルがキリスト教に改宗したことから、ローマ帝国とオスマントルコに降伏したビザンチン帝国を継承する「第三のローマ(third Rome)」がロシアであるという考え方が生まれた。プーティンをはじめとする多くのロシア人たちがキエフ・ルーシを「ロシア文明の揺籃(the cradle of Russian civilization)」、キエフを「ロシア諸都市の母(the mother of Russian cities)」と呼ぶのはそのためだ。

このような歴史は全て、ウクライナはロシアから離れた独立国ではなく、また決して独立国にはなり得ないし、「純粋な国家としての伝統をもつことはなかった(never had a tradition of genuine statehood)」というプーティンの妄想を理解するための鍵になる。プーティンは、侵攻の3日前の2月21日の演説、2021年7月の「ロシア人とウクライナ人の歴史的統一について」という6800語の論稿の中で、こうした考えを明言した。この論稿の中で、プーティンは10世紀以上前に遡って、「ロシア人とウクライナ人は一つの民族、つまり一つの全体である」と確信している理由を説明している。プーティンは、ロシア人とウクライナ人、そしてベラルーシ人は全て、「ヨーロッパで最大の国家であった古代ルーシ(Ancient Rus)の子孫である」ことを理解することが重要であると主張した。プーティンは、「聖ウラジーミルが行った精神的な選択は、今日でも私たちの親和性(our affinity)に大きな影響を与えている」と書いている。

20年以上権力の座に居座っているプーティンについては、狡猾で抑制的な戦術家だと考えられてきた。それなのに、ウクライナ侵攻というキャリア最大の誤算(miscalculation)を犯したのは、こうした過去の歴史への執着(this obsession with long-ago history)が理由だと考える学者もいる。この無謀な行動によって、プーティンはウクライナ人とヨーロッパ人、そして世界中の人々を敵に回してしまった。国防大学の教授で、新刊『ロング・テレグラム2.0:ネオ・ケナン主義の対ロシアアプローチ(The Long Telegram 2.0: A Neo-Kennanite Approach to Russia)』の著者であるピーター・エルツォフは、「「ウクライナ東部のロシア語を話す人々の多くも、自分たちをウクライナ人と見なしていること、つまり過去30年の間にウクライナ人が自分たちの国を形成したことをプーティンは理解していなかった。プーティンは、彼らのアイデンティティが変化したことに気づいていなかった」と述べた。エルツォフは続けて次のように語った。「プーティンはまた、彼自身がヨーロッパを分割するために行っていた全ての進歩を挫折させた。中立だったフィンランドとスウェーデンさえもNATOへの加盟を口にするようになった。彼は彼自身が望んでいたことの100%反対の

プーティンが歴史に焦点を置いているのは、ロシアは西欧と共通点の少ない別個の文明であるという彼の深い信念を伝える意味もあると考えられる。これは「ユーラシア主義(Eurasianism)」の重要な要素である。ハーヴァード大学のロシア史研究者ケリー・オニールは「このユーラシア主義は100年以上前からあるロシア帝国のイデオロギーだが、今日ではプーティンと彼の支持者が西洋の“実利主義(philistinism)”とその民主政治体制の腐敗とみなすものに向けられている」と述べている。プーティンが現代ロシアを世界経済に完全に統合しようとしないのは、石油やガスを大量に売りつける以上に、ロシアとその支配地域は「この美しい帝国全体に属する別個の経済である(distinct economies that belong to this beautiful imperial whole)」というユーラシア主義の信念に基づいている」とオニールは示唆している。オニールは「これは防衛的なメカニズムだ。統合すれば、より脆弱になってしまう。私たちは要塞ロシアだ。それ以上は必要ではないのだ」と述べた。

この姿勢はロシアの歴史にも深く根ざしており、特にプーティンら保守的なロシア人が啓蒙思想に堕落したと見なしている、西ヨーロッパの自由主義的なキリスト教に対して、ロシア正教(Orthodox Christianity)が優れていると考えるのは、ロシアの歴史に関する事実だ。19世紀初頭、フランス革命の啓蒙主義的信条「自由、平等、友愛(Liberté, Égalité, Fraternité [Freedom, Equality, Fraternity])」に対するロシアの答えは「正教、独裁、民族(Orthodoxy, Autocracy, and Nationality)」であり、ニコライ1世の公教育大臣だったセルゲイ・ウヴァーロフは、これをロシア帝国の概念的基盤として定式化した。この三信条はプーティンの演説や著作には出てこない。彼はいまだにロシアが民主政治体制国家であるかのように装うが、プーティンに影響を与えたとされるアレクサンドル・ドゥーギン、レフ・グミレフ、イヴァン・イリイン、コンスタンティン・レオンティエフ、セルゲイ・ペトロヴィッチ・トラベツコイら極右思想家たちは200年前から三信条を引用して使ってきたのである。

オニールは「ユーラシア主義が帝国的な思想であるのは、民族全体の統一とその多様性を調和させる方法を提供しているからだ。帝国を持たなければ、それを実現するのは難しい」と指摘している。

前述のエルツォフは「ウヴァーロフの公式は、ロシアが危機の時代にいつも独裁的な帝国を復活させるように見える理由を説明している。1917年のボルシェヴィキ革命後にそうだったし、ソ連崩壊後の現在もそうだ」と述べた。プーティンのユーラシア主義的な目標も、独裁と帝国権力によってのみ生きるか死ぬか決まる、とエルツォフや他の学者たちは主張している。オニールは「ユーラシア主義が帝国的な思想であるのは、国民全体の統一とその多様性を調和させる方法を提供しているからだ。帝国を持たなければ、それを実現するのは難しい」と述べている。

プーティンにとって、ウクライナを含むユーラシア帝国の再興は指導者としての宿命(destiny)なのである。ロシアはヨーロッパとアジアにまたがる広大な国土を持ち、ヨーロッパ的なのかアジア的なのか決めかねている文明だ。モンゴルが240年間支配してタタール(Tatar)の子孫を何百万人も残したことが、そのジレンマをさらに複雑にしている。また、ロシアは1000年経っても国境線のあり方に納得をしていないのだ。

アメリカの上級外交官出身で現在は外交問題評議会のロシア専門家であるトーマス・グラハムは「ヨーロッパでは、国境は川や山脈で決まっているが、ロシアはそういう考え方をしていない。モスクワの侵略に対する恐怖が主な原因となって国境は時代とともに変動してきた。歴史上、ロシアの国民国家は存在しなかったと言われてきた。今のロシアの国境は、1721年、帝国が成立したときのロシアの国境とほぼ同じだ。1991年のソ連崩壊によって、200年から300年にわたる地政学的進歩(geopolitical advances)が台無しになったというのが、彼らの考えなのだ」。

プーティンは大統領就任以来、その流れをできるだけ逆流させることを最大の目標としてきた。あるいはクレムリンの思想家スルコフが2019年に書いたように、「ソ連のレヴェルからロシア連邦のレヴェルにまで崩壊したロシアは、崩壊を止め、回復し始め、民族の共通性を結合し増大させる、大きな土地としての自然かつ唯一可能な状態に戻り始めた」のである。その結果、スルコフは、ロシアはすぐに過去の栄光と地政学的闘争のトップランクに戻るだろう、と結論づけた。

グラハムをはじめとするロシア専門家たちは、欧米の論客がよく描くように、プーティンを単にソ連崩壊と冷戦後のNATOの侵攻に怒った元KGBの幹部と単純に見るのは間違いだと指摘している。プーティン自身、2月21日の演説で、ソ連の遺産を否定し、ウラジミール・レーニンやヨシフ・スターリンがウクライナに部分的自治権を与えたことを過ちとして痛烈に批判したことで、このことが明らかになったのだ。それどころか、プーティンをはじめとするロシアのナショナリストたちは、マルクス・レーニン主義を西側からの残念な輸入品(regrettable Western import)だったと考えている。

プーティンはむしろメシア志向のロシア民族主義者でユーラシア主義者であり、キエフ・ルーシにまで遡る歴史を常に持ち出している。専門家たちはこの歴史観がウクライナをロシアの勢力圏の一部としなければならないという彼の考えを最もよく説明していると指摘している。2021年7月の論稿で、プーティンは、独立した民主的なウクライナ国家の形成は、「その結果、私たちに対する大量破壊兵器の使用に匹敵する(its consequences to the use of weapons of mass destruction against us)」とまで示唆したのだ。

プーティンは、エリツィン前大統領の下で行われたソヴィエト連邦崩壊後のロシアの短期間の民主化実験を自分の権力構造に変質させることで示したように、戦後の西側の自由主義的民主政体資本主義の秩序に共感を示すこともなかった。むしろ、冷戦後のロシアは、国境と権力の再設計(redesigning)が主なテーマであった。プーティンは、ナポレオン・ボナパルトやアドルフ・ヒトラーなど、最近の数世紀の独裁者たちによって受け入れられてきた古い戦略概念、すなわち自国の国境を守るための「戦略的深度(strategic depth)」または緩衝地帯(buffer zones)の必要性に主に駆り立てられてきた。第二次世界大戦を戦った父を持つプーティン(プーティンは毎年、大祖国戦争を記念するナショナルパレードで父の写真を持っている)、そして他の多くのロシア人にとって、人生を決定づける出来事は、ヒトラーの侵略と数千万人の同胞の死というトラウマであった。それは、当時も今も、100年前のナポレオンのロシアに対する悲惨な戦争になぞらえることができる。

グラハムは次のように述べた。「ロシアは繰り返し侵略されてきた。そのような規模の大惨事に直面したことがないアメリカの私たちにとっては、理解しがたいことだ。何世紀も前に遡ることができる感覚だ。生き残るためには、戦略的な深さが必要だ。そのためには、物理的というよりも地政学的な障壁として、できるだけ中心地から遠く離れたところに国境を押し出す必要がある。物理的というより地政学的な障壁ということだ。ロシアに抵抗する何かに出くわすまで押しまくるだけのことだ」。

プーティンが侵略を正当化するためにウクライナを「脱ナチス化(de-Nazify)」するという奇妙な公約を掲げているが、ウクライナのヴォロディミール・ゼレンスキー大統領はユダヤ人なので特に奇妙だ。相当数のウクライナ人がナチスに加わった第二次世界大戦をまだ戦っているとプーティンが思っているかもしれないと考えればもっと理解できるだろう。ウクライナの国民的英雄ステパン・バンデラ[Stepan Bandera](首都キエフをはじめとする多くの通りにその名が刻まれ、国中にその銅像がある)は、ナチスと同盟しユダヤ人虐殺を監督した極右の民族主義者であった。プーティンは演説の中で、ナチスとの連合軍による戦いを、ロシアの勝利として再表現することが多い。ジョージ・ワシントン大学のロシア研究者マレーネ・ラルーユは「彼はおそらく、自分が戦争を再現し、再びナチズムと戦っていると純粋に信じているのだろう」と述べた。

2008年のグルジア侵攻をスタートにして、プーティンが権力を強化し、旧ソ連圏の一部を取り戻そうとしているのは、エルツォフが「ワイマール症候群(Weimar syndrome)」と呼ぶ、冷戦でソ連が敗北した後の敗北感や屈辱感の燃え上がるような感情(a burning sense of defeat and humiliation after Soviet Russia’s defeat in the Cold War)の結果でもあるのだろう。プーティンがこれまで人気を博してきた理由の一つは、一般ロシア人の多数がプーティンの持つ国家的不公平感(national injustice)を共有しているからだとエルツォフは指摘する。第一次世界大戦後のドイツで、ヴェルサイユ条約やワイマール共和国の弱体化・混乱に対する国民の怒りが右翼的な反動を生み、最終的にヒトラーの台頭を招いたことと似ている。

もちろん、全てのロシア人がこのような反西欧的な考えをもっているわけではない(数百年前に遡ったとしても)。ロシアの歴史上の偉人、特にピョートル大帝(Peter the Great)とエカテリーナ大帝(Catherine the Great)は、しばしば西洋を受け入れ、ロシアのヨーロッパ的なアイデンティティを確立しようとした。1682年から1725年までロシアを統治したピョートル大帝は西洋に魅了され、ボヤール(領主)[boyars, or lords]に子供たちをヨーロッパで教育するよう命じ、髭のないヨーロッパ人のように見えるようにと「髭税(beard tax)」を課したほどである。カトリーヌは啓蒙思想家のドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)と文通し、フランスの作家ヴォルテール(Voltaire)を自分にとっての英雄と呼んだ。統治の初めの頃には議会の設立と農奴(serfs)の解放を目指した。ロシアの王侯貴族はヨーロッパ人との婚姻に熱心で、エカテリーナ自身もプロイセン出身であった。

しかし、ピョートルもエカテリーナも征服者でもあった。こうした改革的な統合の努力は、ロシアの近代化を助け、レオ・トルストイ(Leo Tolstoy)やアントン・チェーホフ(Anton Chekhov)の作品に登場するフランス語を話すロシア貴族を生み出した。しかし、保守的なロシアの深い恐怖心によって、改革はほとんど常にぼんやりとしたものにとどまった。今日、ロシアのナショナリストたちは、ピョートル大帝が行った西洋の改革努力を、扇動的な「第五列」(seditious “fifth column”)だと揶揄している。プーティン政権に反対するリベラル派で、2015年にクレムリン近くの橋の上で殺害されたボリス・ネムツォフでさえ、1993年頃にはロシアは立憲君主制(constitutional monarchy)から利益を得ることができると示唆したことがある。

多くの西洋人にはほとんど理解されていないが、彼らが尊敬するロシアの文学者、フョードル・ドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky)やアレクサンドル・ソルジェニーツィン(Aleksandr Solzhenitsyn)もまた、絶対的独裁者(absolute autocrat)のもとでの「より巨大なロシア(greater Russia)」という考えの信奉者であった。ソ連の収容所の惨状を暴露した著作で知られるノーベル賞作家のソルジェニーツィンは、後にプーティンお気に入りの知識人の一人となった。2008年に亡くなる前、ソルジェニーツィンはある論稿に次のように書いている。「9世紀頃からウクライナ人が存在し、ロシア語以外の独自の言語を持っているという話は、すべて最近になって作り出された虚偽(invented falsehood)である」。1881年に亡くなる直前、ドストエフスキーは「民衆にとって皇帝は自分たち自身の化身(incarnation)であり、彼らの全思想、希望、信念である」と書いた。

ロシア専門家の多くにとって、プーティンはロシアの最新の皇帝に過ぎず、欧米の戦略家たちは彼を止める方法を探しているのだと主張している。結局のところ、プーティンは強さよりも弱さから行動していると理解することが答えになるのかもしれない。つまり、プーティンはウクライナをはじめとする旧ロシア圏の民主的自決(democratic self-determination)の虎に乗っているのであり、その虎は西側諸国への加盟を望んでいるが、彼は虎から降りる術を知らないのだろう。エルツォフは、ロシアは何世紀にもわたり、国境を越えて多くの民族を支配しようとした結果、真の自由主義的民主政治体制国家として長くは存続できないようになっているのだと主張する。

エルツォフは「もし西側諸国とその民主主義的価値観を受け入れたら、ロシアは崩壊してしまうかもしれない」と述べた。

(貼り付け終わり)

(終わり)


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