古村治彦です。

 2022年は戦争の年となった。ウクライナ戦争によって、ウクライナとロシアの両国民の多くは直接的に生命の危機に瀕している。戦争と経済制裁の影響を受けて、世界規模で資源や食料の価格が高騰し、他国の人々の生活にも大きな影響が出ている。一般庶民にとっては「生活防衛」のために「戦いの年」でもあった。

 戦争はいつの時代も起きる。人間が種として存続し、国家が存続し、欲望が存続するならば、戦争はなくならないだろう。国際関係論のリアリズムの原理は、「国家をコントロールする上部の世界政府のような存在がない以上、戦争はなくなることはない」というものだ。これは悲しいが真実ということになるだろう。

 それでも、戦争の危険を減らすことはできる。ある国の指導者が「戦争を起こす」という考えを持って実際に戦争を起こすまでの間に、何とか止めることはできないかということだが、万能薬はないが、少しは効果のある方法はある。それは、「戦争は利益をもたらさないし、解決ももたらさない」ということを歴史から学ぶことだ。

 アメリカは世界の警察官を自任し、アフガニスタンやイラクで戦争を起こしたが、その結果はアメリカにとって利益にならず、問題解決にもつながらなかった。儲かったのは、政治家たちと武器商人たちだけだった。アメリカが傲慢にも「民主的な政治体制や人権や自由主義的なイデオロギーや価値観は世界中に移植可能だ。世界の全ての国が民主国家になって西洋的な価値観を報じるようになれば世界は平和になる」と考えて、戦争を仕掛けたことで仕掛けられた国は不幸になった。独裁者を外科手術のようにして排除することはできても別の不幸が起きる。このことを私たちは21世紀になって学んだ。

 「戦えばうまくいく、事態を打開できる」などという言葉で指導者層が自分たち自身を騙して戦争に突入し、悲惨な結果となった国がある。それが日本だ。防衛費を増額し、先制攻撃を可能にすることで、またぞろこのようなお勇ましい掛け声が飛び交うようになっている。私たちはこのことをよくよく考えねばならない。私たちは、アメリカのようにいつでも「戦時中」であってはいけない。子や孫の代まで「戦後」を生きていけるようにしなければならない。そのためには戦争を起こしてはいけないということになる。

(貼り付けはじめ)

世界平和に向けたリアリストのガイド(The Realist Guide to World Peace

-戦争を終わらせたいと望むにあたりリアリストになる必要はない。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年12月23日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/12/23/a-realist-guide-to-world-peace/

休暇の季節だ。毎年、平和について考えることが奨励される短い期間だ。この時期には戦争中の軍隊が停戦を宣言することもあるし、世界中の様々な信仰の共同体では、平和を追求し維持することが神聖な義務であると語られる。幸運にも、私たちの多くはこれから数日間、友人や家族と楽しく過ごし、人間の残酷な本能を少なくともひとまず脇に置いておこうとすることだろう。

正直なところ、2022年は平和にとって良い年ではなかった。ウクライナでの残忍で無意味な戦争(終結の兆しはなく、更に悪化する可能性もある)に加え、イエメン、ミャンマー、ナイジェリア、エチオピア、シリアなど多くの場所で暴力的な紛争がまだまだ進行中だ。11月にバリ島で開催されたG20サミットでは、ジョー・バイデン米大統領と習近平中国国家主席がかなり友好的な会談を行ったが、世界で最も強力な2カ国は、多くの重要な問題で依然として分裂したままだ。このような世界情勢と、世界を主導する大国であり続けたいアメリカの意向を考えれば、連邦上院が国防予算の8%増を可決したことに誰も驚かないはずだ。ドイツや日本など、以前は平和主義に傾いていた国々でさえ、2022年には劇的な再軍備に踏み切った。

私のようなリアリストにとっては、これらの動きは驚くべきことではない。リアリズムの中心的な教訓は、中央政府の存在しない、独立した国々の世界では、戦争の可能性が常に存在し、国家が行うことの多くに影を落としているということだ。戦争は本質的に破壊的であり、しばしば不確実であるため、リアリストたちは理想主義的な十字軍(idealistic crusades)を警戒し、他者が正当であろうとなかろうと、重要な利益とみなすものを脅かす危険性に注意を払う傾向がある。むしろ、全ての学派や潮流のリアリストたちが強調するのは、指導者たちが乏しい情報や自らの妄想に容易に惑わされ、崇高な目的でさえも残念な結果を生み出しかねない世界の悲劇的特徴だ。

しかし、リアリストたちもリアリズムに対する批判者たちも、深刻な紛争の可能性に対して手を上げて、何もすることができないと宣言することはできない。国家間および国家内の戦争は常に危険であるが、真の課題は、新たな戦争のリスクを最小限に抑え、既存の戦争を終結させるのに役立つ政策を考え、実行することだ。平和の利益と戦争のコストやリスクがかつてないほど高まっている今日、この課題は人類史上最も緊急性の高いものとなっている。

第一に、利益について考えてみよう。経済的相互依存(economic interdependence)が国家間および国家内の平和を促進すると考える人は多いが、ロシアのウクライナ侵攻によって、この考えに疑問を呈することになる。しかし、今回のロシアのウクライナ侵攻はその考えを覆すものだ。その反対が真実である。平和は相互依存をより現実的なものにし、経済交流の恩恵をより低いリスクで享受することを可能にする。戦争の危険が減れば、投資家は安心して資本を他国に送ることができ、政府は貿易相手国が交換から少しでも多くの利益を得ているかどうかを心配する必要がなくなり、国家はライヴァル国が自国に害をなすような知識を得ることを心配せずに外国人訪問者や留学生を迎えることができ、精巧なサプライチェーンにとってのリスクが少なく、誰もが常に相対優位性(relative interdependence)を追求するのではなく、共同の利益を追求することができる。大国間の深刻な対立がないことが、近年のグローバライゼイションの時代を促進し、その欠陥にもかかわらず、人類に莫大な利益をもたらした。また、戦争がなければ、社会は自分たちとは異なる文化からのアイデアや教訓を交換することに、よりオープンになることができる。

次に、コストとリスクについてだ。もちろん、その最たるものは人的・経済的な代償である。戦争が始まって以来、20万人近いウクライナ人とロシア人が死傷し、数百万人の難民が流出した可能性がある。ウクライナにかかる経済的コストは恐ろしいほど大きく、ロシア自身の経済も衰退しており、戦争は他の多くの国々の経済問題や食糧不足を悪化させた。同様に、イエメンの内戦とサウジアラビアの介入で40万人近くが死亡し、既に貧しい国土を荒廃させ、アフリカとラテンアメリカの内戦はこれらの地域を浸食し、国外への移住を促し続けている。

しかし、紛争の直接的なコストは、その代償の一部に過ぎない。国家間の競争が激化し、戦争のリスクが高まれば、相互の利害に関する事柄であっても、協力する能力は低下する。気候変動、疫病の蔓延、難民の増加など、人類は今日、多くの困難な問題に直面している。そのどれもが、クリミアや台湾、ナゴルノ・カラバフを誰が統治するかということ以上に重要な問題であり、簡単に解決できるものではない。各国が争えば争うほど、あるいは戦争の準備に時間と労力と資金を割けば割くほど、こうした他の問題への対処は難しくなる。

また、戦争がエスカレートしたり拡大したりするリスクも避けられない。国家は勝利を得るため、もしくは敗北を避けるため、必ずより多くのことをしたくなり、第三者は意図的に、あるいは不注意によって、より深く関与するようになることが多い。言うまでもなく、このような危険は、核兵器を保有する国家が関与している場合には、特に懸念される。核兵器がエスカレートする可能性は極めて低いかもしれないが、その可能性を完全に否定するのは無謀であろう。それは平和主義を主張するものではないが、戦争よりも平和を好む強力な理由となる。

平和の困難さは、個々の独裁者の傲慢さと愚かさのせいだと言いたいところだが、今年はそのどちらにも欠けることがないのはご存じの通りだ。ロシアのウラジミール・プーティン大統領には、NATOの拡大とロシアの安全保障への影響を懸念する正当な理由があったかもしれない。しかし、その懸念に対する彼の「解決策(solution)」は、何千人もの罪なき死者と膨大な人的被害をもたらし、ロシアをより強くも安全にもすることはないだろう。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン王太子によるイエメンへの介入や、イランの政権やミャンマーの軍事政権が進める残忍な弾圧についても、同じことが言えるかもしれない。しかし、独裁政治が問題だと結論づける前に、強力な民主国家が偏執症(パラノイア)と傲慢の危険な組み合わせに屈することがあることを思い出して欲しい。ジョージ・W・ブッシュ元米大統領、ディック・チェイニー元副大統領とその部下たちが2003年に示した具体例を思い出して欲しい。

残念ながら、私は恒久平和の方程式を持ち合わせてはいない。しかし、私はよく観察している。最近の戦争で顕著なのは、戦争を始めた国に大きなマイナスになることがいかに多いかということだ。1905年に日本がロシアに対して行ったように、あるいはドイツ統一戦争でビスマルクのプロイセンが行ったように、大国が大きな戦争を始めて劇的な戦略的利益を得ることができた時代は、もう過去のものとなったようだ。イラクのサダム・フセイン元大統領はイランを攻撃し、クウェートに侵攻し、いずれも大敗を喫した。アメリカはイラクとアフガニスタンに侵攻し、コストのかかる泥沼に陥った。2011年のリビアへの介入は破綻国家(failed state)を生み出した。イスラエルによるレバノンへの介入は18年間の占領を招き、その結末はアメリカがアフガニスタンで行った長い努力と何ら変わらないものとなった。セルビアのコソボへの攻撃は、最終的にセルビアの指導者スロボダン・ミロシェヴィッチの戦争犯罪者としての起訴と権力の排除につながった。実際、戦争を始めるという決断が、その責任者に大きな利益をもたらしたという例は、最近あまりないように思われる。例えば、エチオピアのティグライ人民解放戦線に対する作戦は、政府に有利な和平合意で終わったかもしれないが、この戦争はアビイ・アーメド首相のかつての名声を大きく傷つけた。

他にも色々あるが、大体がこんなところだろう。ナショナリズム、迅速な外交コミュニケイション、抵抗運動を煽る国際武器市場の繁栄、不完全ながらも広く受け入れられている征服に反対する規範、核兵器の冷静な影響、顕在的脅威に対してバランスを取ろうとする国家の強い傾向などが相まって、ほとんどの攻撃的戦争は仕掛け手にとって怪しげな提案になっているだろう。しかし、強力な国家であっても、戦争を仕掛けることによって達成できることには限界があるように思われる。

従って、世界の指導者たちに向けた私の休暇シーズンのメッセージは次のようになる。万が一、自国が攻撃された場合、あるいは重要な同盟諸国が同じような状況に陥った場合、それを支援できるような防衛力をぜひとも維持することだ。同時に、自国の外交・安全保障政策が、知らず知らずのうちに他国の死活的利益を侵害していないかどうかを自問してほしい。もし侵害していれば、自国を無防備にしたまま問題を軽減するために何かできることはないかを考えてみる。その可能性を誠実に、そして率直に相手と探ってみるべきだ。

最も重要なことは、もしあなたの助言者の一人が、戦争を始めることで政治的問題を解決できると説得し始めたら、そしてその助言者が、「条件はぴったりで、星は並び、時は適切で、コストは低く、リスクは小さく、行動すべき時は今だ」と言ったら、その助言に丁寧に感謝し、すぐにセカンドオピニオンを求めることだ。その間に、勝利を確信して戦争に突入し、代わりに平和を選択した方が良かったと考えられる元指導者たちについて考える時間を持つことになるだろう。

追記:このコラムは、今年3月に97歳で逝去した、亡き友人シド・トポルのことを考えながら書いた。シド・トポルは驚くべき人物で、私(そして他の多くの人々)に対して、仕事において平和をより優先させるよう繰り返し訴えてきた。私は数年前、シドに触発され、毎年少なくとも1回は平和をテーマにしたコラムを書くことにした。今年は、彼の思い出を称賛しながら、このコラムを執筆する。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt
(貼り付け終わり)

(終わり)

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