古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 映画

 古村治彦です。

 


 舞台は1980年の東北地方の寂れた廃村。この村は満洲引揚者が戦後に入植してできただ。無償提供された土地は農耕に適していなかったために、入植後約30年が経ち、村に残ったのは、主人公のユミエ(大竹しのぶ)と娘のエミコ(伊藤歩)だけだった。夫は東京に出稼ぎに行き、そのまま蒸発してしまった。他の家族は、村を捨てて出て行ったり、一家心中をしたりした。

 

 2人は誰からも見捨てられ、生活は困窮し、餓死寸前にまで追い込まれる。そこで、二人は身なりを整え、「客」を取ることにした。それから次々と男たちがやってくる。最初は山の向こうのダム建設現場で働く、東京からの出稼ぎ者(木場勝己)であった。彼は2万円払い、ユミエと寝る。そのアフターサービスに出されたのが、猛毒入りの焼酎。一気飲みした彼はそのまま泡を吹いて死亡する。母娘は死体を一輪車に乗せて外に運び出す。喜納昌吉&チャンプルーズが1980年に発表した『花〜すべての人の心に花を〜』を歌いながら。

 

 2人目は、電気代を支払ったので、電気再開のためにやってきた技師(六平直政)。電気を復活させた後、ユミエの客となる。3人目はこちらも代金を払ったために確認にやってきた水道職員(田口トモロヲ)。4人目は1人目の客となったダム工事の現場監督の助手(柄本明)。彼は行方不明になった男を探しにやってきた。5人目は、電気技師の上司(魁三太郎)、6人目は、ダム工事の監督(原田大二郎)。前半部は「語り→セックス→死(殺害)」の繰り返しであった。それをずっと見ていたのは、森に棲むふくろうであった。

 

後半部になると、とたんにシリアスな話になっていく。前半部は「語り→セックス→死(殺害)」の繰り返しであったが、警察官、県の職員である引揚者援護課の男、エミコの幼馴染が出てきてからは、大変シリアスな話になる。彼らもまた死を迎える。ユミエとエミコは全てを片付けて、朗らかに村を出る。

 

 私がまず思ったのは、1980年の日本でこのような困窮者が存在するんだろうか、警察が月に1度巡回して、その生活の困窮ぶりを見ている訳だから、生活保護なり、他の手段なり、行政が何らかの手段を講じるのではないか、という点が疑問に残った。野暮なことは言いっこなし、あくまで芸術だからと言われてしまえばそうなのだが。電気を止められ、水道まで止められてしまって、木の根を食べるというのはどうかと思うが、この村が戦後の入植地であり、本村から七曲りの峠を登ってこなければならないということになると、親戚はいないだろうし、地元の人たちからすればヨソモノであって、心配をしてやる必要なんかあるものかということもあったかもしれない。

 

 映画の中で「リストラ」という言葉を使っていたが、この言葉が1980年に人口に膾炙し、寂れた寒村に住むような主婦や少女に理解できたとは思えない。1980年と言えば、私は6歳であったが、そのような言葉が「会社からの解雇」の意味で使われていたという記憶はない。「レイオフ」とか「解雇」という言葉ならあったように思う。

 

 前半部の登場人物たちは、ほとんどがセックスをして、その余韻の中で死んでいくのだが、それぞれのスケッチでは、登場人物たちの人生と日本の戦後史が語られていく。この点が重要なのではないかと思う。

 

 後半部は、停滞した物語を終わりに向かわせるために、急に動きが早くなる。それは物語を終わりまで運ぶために取ってつけたような感じになりかけるが、最後にユミエとエミコが朗らかに村を出る決心をするところで、それもまたよしだなぁと思わされた。主人公のユミエ役の大竹しのぶは怪演と言ってよいくらいに様々な表現をしていた。その他のキャストも十分に素晴らしい演技であった。監督の要求に応えているのだろうと思う。

 

 私は映画をほとんど見ない。詳しくない。だから、映像がどうとか、俳優がどうとかということは分からない。難しいことは分からない。しかし、この映画は面白かった。こんな話はあり得ないよ、だって連続殺人で出てくる主要な男性キャストはほとんど殺害されるんだよ、しかも、殺害した母娘が捕まらないんだし、と思った。しかし、そんな無粋なつっこみを跳ね飛ばすだけの力があった。

 

 この映画が公開されてヒットしなかっただろうし、興行収入も低かったんじゃないかと思う。舞台はほぼ家の中だけだし、俳優陣は豪華だったけど、そんなにお金がかかっていなかったことは素人でも分かるから、赤字になることはなかっただろう。

 

 このような不思議な映画が出てくるところに、日本映画全体が持っている力があるのではないかと思う。日本映画はつまらない、面白くないと言われていて、映画に疎いので、「そんなものなのかな」と思っていた。しかし、面白い作品があるではないかという気持ちにさせられた。こうした映画を生み出せるのだから、全体として日本映画は調子は悪いのかもしれないが、死んでいる訳ではないと思う。

 


(終わり)





 
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 古村治彦です。

 

 今回は、『衝撃の「実録映画」大全』(洋泉社、映画秘宝COLLECTION、2016年7月9日)を皆様にご紹介いたします。「実録映画」と言うと、「仁義なき戦い」「県警対組織暴力」のような、深作欣二の「実録もの」を思い出しますが、ここでいう「実録映画」は、現実に起きた事件や歴史上の出来事を基にした映画です。

 


私は、第1章の「カトリック教会の束縛と偽善 スポットライト 世紀のスクープ」(12-27ページ)を担当しました。今年公開の映画『スポットライト 世紀のスクープ』を評論しました。この映画は日本では今年公開され、今年のアカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した秀作です。

 


 この映画は、2002年にアメリカで発覚し、国際的大事件となったカトリック教会の聖職者たちの虐待をスクープした『ボストン・グローブ』紙の特別取材ティームの物語です。

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 私は映画に詳しいと言うほどたくさんの映画を見ていませんが、今回の論稿では、映像がどうとか、俳優の演技がどうとか、そういうことではなくて、映画のテーマであるカトリック教会の聖職者による虐待事件やカトリック教会について書きました。

 

 この映画はボストンという土地柄、事件の舞台を十分に描き出した映画です。論稿でもそのことには触れましたが、この点は強調してもしすぎることはないと思います。映画の中で、「バンビーノの呪い」という本が出てきたときには、なるほど、とちょっと苦笑いをしました。

 

 バンビーノというのは、大リーグの伝説的大選手ベーブ・ルースのニックネームです。ベーブ・ルースはもともとボストンを本拠地とするボストン・レッドソックスに所属する若手の成長株でした。しかし、1920年に球団側と衝突して、宿敵ニューヨーク・ヤンキースに金銭トレードとなりました。レッドソックスはルース在籍中の1918年にワールドシリーズを制廃しましたが、それ以降、名選手を輩出するものの、ワールドシリーズ制覇は出来ませんでした。この状態を指して、ベーブ・ルースに呪われているとして、「バンビーノの呪い」という言葉が作られました。この呪いも2004年に解かれました。日本人の松坂大輔投手と岡島秀樹投手が活躍したことは記憶に残っています。

 

 字幕だけではこうしたことを知ることはできません。落語では「くすぐり」といいますが、観客を笑わせたり、驚かせたりするちょっとした表現は、背景を分かっていなければ理解できず、それが理解できなければ、映画の面白さも減ってしまいます。

 

 是非、手に取ってお読みいただき、その後に映画『スポットライト 世紀のスクープ』もご覧いただければと思います。よろしくお願い申し上げます。

 


(終わり)










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