古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 映画

 古村治彦です。

 今回は映画『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』の感想を書きたい。両作品ともに岡本喜八監督の代表作だ。60年も前の映画だが、色褪せない傑作だ。『独立愚連隊』は謎解き、『独立愚連隊西へ』は冒険活劇という要素が大きいが、随所に戦争は虚しい、戦争という異常な状態では人間の生命や尊厳は簡単に失われる、そして、人間の生き死にはほんの些細なことが分かれ目となる、ということが描かれている。
dokuritsugurentai001
独立愚連隊

 『独立愚連隊』は戦争末期の中国戦線が舞台だ。従軍記者・荒木が取材で将軍廟という町を訪問する。この町に駐屯している大隊が更に敵との最前線に孤立気味に設置している警戒拠点・独立第90小哨を守る分隊、通称「独立愚連隊」を取材するためだ。この独立愚連隊ははみ出し者を集めて作った分隊で、いわば捨て石的な存在として全滅しても仕方がないとされている。この分隊に派遣されていた見習士官・大久保の不審死について荒木は取材を始める。

 この従軍記者・荒木は実は、大久保見習士官の兄で、以前は優秀な軍曹だったのだが、北京の軍病院に入院中に弟の死を知り、脱走して真相究明と敵討ちのために、将軍廟、そして独立第90小哨にやってきた。殺害された大久保士官は大隊で行われていた不正を上層部に訴えようとして殺害された。殺害したのは、大隊を牛耳っていた副官の橋本中尉と彼の配下の下士官だった。彼らは大隊を牛耳るために大隊長も町を取り囲む城壁から突き落として精神に変調をきたさせるということまでやっていた。

 中国軍(中国共産党人民解放軍)の圧力が強まる中で、将軍廟から大隊が撤退となり、独立愚連隊がしんがりを務めることになった。撤退する軍の最後方を守るしんがり(殿軍)はいつの時代も全滅の危険に晒される。そうした中で、大隊が敵と戦闘中に行方不明になっていた軍旗が旗手と共に戻ってきたので、これを守りながら、撤退します。そして、大隊が撤退後に将軍廟を守る。

独立愚連隊は隠れて敵をやり過ごそうとしましたが、ちょっとしたミスで見つかってしまい、戦闘となり、独立愚連隊は数で大幅に勝る敵に圧倒され全滅。しかし、従軍記者・荒木は負傷しつつも生き残り、途中で知り合った馬賊に誘われ、彼らと共に去っていく。この話には従軍記者・荒木と元従軍看護婦の慰安婦・トミとの悲恋も絡む。

dokuritsugurentainishihe001
独立愚連隊西へ 
 『独立愚連隊西へ』は『独立愚連隊』の続編です。設定などは大きく変わっている。ここで出てくるのはやっぱりはみ出し者部隊である独立愚連隊。今回の独立愚連隊は、各部隊で戦死と認定された後に帰ってきた兵士たちで構成されている。一度戦死と認定されて、宙ぶらりん状態になった兵士たち。各部隊をたらいまわしにされ、捨て石のような扱いになっているのに、戦死者を出さずにいる不思議な部隊だ。

 この独立愚連隊が新たに配属されることになった大隊では、ある小隊が敵の襲撃を受け、軍旗が行方不明となった。そこで捜索隊を出したのだが、この捜索隊も全滅となった。敵である中国軍も日本軍の意気と権威を下げるために、軍旗を入手しようと動き出す。そうした中で、派遣早々の独立愚連隊が軍旗捜索隊として出動することになった。

 独立愚連隊は途中で中国軍の襲撃を受ける。中国軍には日本軍の元中尉と従軍看護婦がいたのだが、独立愚連隊が2人を連れて捜索を続けることになった。そして小隊の全滅地点の近くで、旗手を発見した。旗手は中国人女性の世話を受けながら捜索隊を待っていた。2人の未来を祝福しつつ、正式には自決ということにして、独立愚連隊は無事に軍旗を入手した。途中で敵からの襲撃を受けながら、何とか無事に帰還を果たしたのだが、独立愚連隊にはまた転属命令が出た。彼らはまたどこかへと去っていく。

 この2つの映画で重要なポイントは「軍旗」だ。軍旗は連隊創設時に天皇から直接与えられた連隊を象徴する旗だ。連隊旗手に選ばれるのはその連隊に所属する少尉だが、士官学校を優秀な成績で卒業した将来有望な人物が選ばれた。実際、大将・中将クラスまで昇進した人物たちには連隊旗手を務めたという経歴が多い。そこから数年勤務して陸軍大学を受験し、合格し、卒業後には陸軍省(軍政)か参謀本部(軍令)の中枢を担うことになった。

 天皇から直接下賜された軍旗は天皇の分身とも言うべき存在であり、何よりも、何を議席にしても守らねばならないものだった。そのために何人将兵が死のうと関係ないという存在だった。連隊が全滅に瀕した際には、軍旗を焼いて(奉焼)、敵の手に渡らないようにした。「独立愚連隊西へ」の冒頭シーンで軍旗を持った小隊が敵に襲われるシーンがあるが、軍旗を掲げている兵士を監督である岡本喜八が演じている。岡本喜八は軍隊経験があり、陸軍における軍旗の存在の重さとたかが旗を天皇の分身として滑稽なまでに守ろうとするフェティシズムのくだらなさ、前近代性をよく分かっていた。

 「独立愚連隊」では現役兵の下士官が補充兵を鍛えるシーンが出てくる。現役兵は感嘆に言えば徴兵されてトレーニングを受けてそのまま戦地に派遣された若い兵隊たちで、補充兵とは徴兵期間を終えて社会に戻り、予備役となっていたところに召集されたおじさんの兵隊のことだ。体力や戦闘力で言えば若い現役兵が圧倒しているのは当然のことだが、補充兵は既に家族と職業を確立しており、昔の言葉で言えば弱兵であった。また、徴兵検査の結果は健康状態や知能の面から甲乙と分けられていたが、戦争が激化していく中でどんどん兵士に不適格な人々も戦地に送られることになった。

 軍隊生活は「階級」がものをいう世界ではあったが、「星の数よりもメンコの数」という言葉もあった。「独立愚連隊」でもこの言葉が出てくる。「メンコ」とは「飯盒」の隠語だ。「階級よりも年数の方が重要だ」という意味になる。徴兵期間で兵隊たちの昇進のスピードは異なる。2年間の徴兵期間に上等兵まで昇進できれば鼻高々で故郷に戻れた。しかし、何か問題を起こした場合には二等兵のまま、もしくは一等兵ということになる。そこで、先輩後輩の間で階級的に逆転が起きる。この「星の数よりもメンコの数」は階級社会である軍隊において年功序列の要素が非公式には存在したことを示す。

 上等兵まで昇進するような人物はそのまま志願して下士官となって軍隊に奉職するケースもあった。軍曹や曹長となれば軍隊に生き字引であり、下級将校よりも実権を握るほどであった。現在の日本の官僚組織ではキャリア組とノンキャリア組という区別があるが、下士官はノンキャリア組ということになる。

日本の軍隊における有名な隠語には「員数をつける」というものがある。これは窃盗のことだ。武器から日用品まで軍から支給されるので、紛失や数が合わないというのは大変な失態となる。そうした場合に、内務班(分隊、10名程度のグループ)では、他の内務班からかっぱらってきて数を合わせるということが横行した。内務班では新兵1人に古参兵1人がペアとなる。新兵は古参兵を「戦友殿」と呼ぶ。軍隊では連隊長は父、小隊長は母、戦友殿は兄という形で、家族的な集団作りが目指されていた。もちろん厳しい私的制裁が横行してとても家族的な雰囲気という訳にはいかなかったが、戦友殿が新兵に時に親切を行うことで絆が生まれることも多かった。ある新兵がへまをした場合には、戦友殿が何とか「員数を合わせる」ということが多かった。

 岡本喜八監督がアメリカ映画から影響を受けたのではないかという描写について私なりに述べたい。それはまず、中国人民解放軍の人海戦術イメージだ。映画の中では、中国軍はとにかく大量の兵士で人海戦術を用いて攻めてくる。こういうことが日中戦争の間にあったのかどうかははなはだ疑問だ。アメリカ映画でのアジアにおける戦争の描き方は無個性なアジア人の兵士たちが命を顧みずに大量に攻めてくる、というものだ。朝鮮戦争ものやヴェトナム戦争ものはそのように見える。岡本監督もその影響を受けているのではないかと私は思う。

次に銃を墓標代わりに地面に刺しているシーン。日本軍が用いた三八銃には菊の御紋がついている。銃を破損したり、紛失したりしたら大変な罰が与えられた。それが怖くて自殺したものがいたほどだった。そのような銃を地面に刺して墓標代わりにするということはあり得ない。銃を墓標代わりに地面に刺すというのはアメリカ映画の影響だと私は思う。しかし、これによって戦争の虚しさ、ニヒルな感じは良く表現されてはいるのだが。

この2つの作品「独立愚連隊」「独立愚連隊西へ」は共にエンターテインメントとして見ることもできるが、多少なりとも旧日本軍に関する知識を持ってみるとまた違ったことが見えてくる。戦争賛美ではありえないし、戦争を楽しいものとのしても描いてはいない。登場人物たちが笑うシーンは出てくるが、それは諦めと絶望的な状況を笑うくらいでなければやりきれないということでのことだ。

是非これら2つの作品を見てもらいたい。

(終わり)

アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)

ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側[本/雑誌] (単行本・ムック) / 古村治彦/著

価格:1,836円
(2018/4/13 10:12時点)
感想(0件)


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 

 今回は映画『椿三十郎』を見た感想を書きたいと思います。


tsubakisanjurou001
椿三十郎 

 映画『椿三十郎』のストーリーは次の通りです。藩上層部の不正に怒りを募らせる若侍たち。若侍のリーダー(加山雄三)は城代家老の甥で、城代家老に処分を訴えるが、うまくいきません。監察である大目付に訴えたところ、彼らと同調するという返事をもらい、喜んでいました。

 

 若侍たちが集まっている古い神社には先客がいました。それは一人の浪人者、椿三十郎(三船敏郎)でした。三十郎は若者たちの話を危険だ、大目付が実はワルなのだと忠告し、やがて参謀役兼助っ人として仲間に加わることになりました。大目付は、側近の室戸半兵衛(仲代達矢)を使い、城代家老を捕まえ、不正の罪を城代家老になすりつけようとします。

 

 若侍たちは三十郎たちに反発しながらも三十郎の慧眼に心服するようになります。最後には城代家老を救出し、大目付をはじめとする藩上層部の不正を暴くことに成功します。城代家老は祝宴を用意しますが、その席に三十郎が居並ぶことはありませんでした。

 

 『椿三十郎』と言えば、ラストシーンの椿三十郎と室戸半兵衛の居合抜きによる対決のシーンが有名です。人間を本当に斬ればあのように血が噴き出すというリアルさを描き切ったのは凄い、の一言です。白黒映画ですが、どす黒い血の感じがよく出ています。黒沢監督の色彩感覚と素晴らしさを改めて感じます。

tsubakisanjurou002

 

 この映画にはチェンジオブペースと言うか、デウスエクスマキナと言うか、そういう役割を果たす人物たちが出てきます。それが城代家老の妻と娘、そして、大目付の配下で若侍側に捕らわれた壮年の侍です。城代家老の妻はおっとりとした性格と行動で(今で言えば空気が読めない)、三十郎や若侍を困惑させますが、その一言は重いものがあります。

 

家老夫人は「良い刀とは鞘に入っているものですよ」という言葉を三十郎に発します。頭が切れて腕も立つ三十郎を一言で評した言葉です。そして、三十郎が最後に若侍に贈った言葉が「鞘に入っていろよ」というものでした。

 

 この映画は若者たちの正義感とその暴走がテーマになっていると思います。戦前の青年将校の暴走と1960年の安保闘争といった日本にとって重要な局面で、若者たちは正義感が強ければ強いほど、暴走して結果として悲惨な事件を起こしたり、状況を悪化させてしまうものです。

 

 城代家老は凡庸な人物として馬鹿にされているところもありますが、藩上層部の不正についてはきちんと把握しており、証拠を集め、この証拠を突き付けて当事者たちの隠居を迫る、という方針を持っていました。城代家老は穏便にかつ怪我人を出さないで事を収めるという大人の知恵を持っていました。しかし、若者たちからしてみれば、このような穏健なやり方は生ぬるく、かつ敵を利するとさえ思われるようなものです。

 

 この映画の主人公である椿三十郎は若い時に、若侍のような正義感でもって不正を正そうとして、大きな騒動を引き起こしてしまった、という苦い経験と傷を持っている、老革命家のように思われます。若者たちが道を踏み外して自分のようにならないように、という姿勢を貫いているかのようです。

 

 ラストシーンで、居合で室戸半兵衛を斬った三十郎に対して、若侍が「お見事」と声をかけたことに対して、「馬鹿野郎」と怒鳴ったところも印象深いです。三十郎はこれまでにも何十人も斬ってきたことでしょうし、映画の中でも何人も斬っています。しかし、人間を斬ってしまうというのは下策であって、褒められたものではない、ということもあって怒鳴ったのでしょう。

 

これはまた、若者にありがちな「頭でっかちな」言葉遣い、地に足がついていない実感のない空虚な言葉遣いに対するメタファーということも言えるでしょう。60年安保や学生運動に参加した若者たちが聞きかじりのマルクスの言葉を振り回していたことに対する皮肉ということになるのでしょう。1962年公開の映画ですから、60年安保が沈静化していく中で、黒澤監督が時代の雰囲気をとらえて撮影したのが『椿三十郎』ということになるでしょう。

 

 スピード感のある映像と展開で見ていて大変面白い映画です。

 

(終わり)

アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)

ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側[本/雑誌] (単行本・ムック) / 古村治彦/著

価格:1,836円
(2018/4/13 10:12時点)
感想(0件)





このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 

 今日は先日見た映画『ブルークリスマス』の感想を述べます。私の友人に映画隙の人がいて、私が岡本喜八監督に興味があると言うと、DVDを貸してくれました。私は映画をあまり見てこなかったのですが、岡本喜八監督の映画『大誘拐』を中学生だったか、高校生だったかの時期に見て面白かったので、岡本喜八監督について興味を持っていました。この他にも『独立愚連隊』「独立愚連隊 西へ」という映画のDVDも借りましたので、これらも見てまた感想を書きたいと思います。

bluechristmasposter002
ブルークリスマス [DVD]

 映画『ブルークリスマス』は大変面白い映画でした。コメディでもハッピーエンドでもないので、「楽しい」と書いてよいのかは分かりませんが、いろいろと考えてしまう映画でした。

 

 映画の内容は次の通りです。ある日、世界各地で文字通り青い血液を持つ人々が出現し、その数が増えていく現象が確認されました。これは宇宙船、UFOを目撃し、それから発せられる光を体に浴びて出てくる現象でした。当初は荒唐無稽の噂話として広がっていき、非現実的だ、非科学的だとして打ち消されますが、やがてそれが本当だということになります。

 

 人類の中に青い血液を持つ人たちが出て来ていることを報告した宇宙科学を専門とする兵頭博士(岡田英次)は失踪し、その事件を追う国営放送JBCの報道局員南(仲代達矢)は奇妙な出来事に遭遇し、真実を知りながら、それを発表出来ないことになります。

 

 国防庁の特殊部隊員である沖(勝野洋)は、職務として、青い血液となってしまった人々を監視し、かつ、その真実を暴こう、拡散しようとする人々を弾圧し、最悪の場合には殺害していきます。

 

 世界各国の指導者たちは、青い血液を持つ人類が少数派のうちに抹殺することを決めます。宗教やイデオロギー、国家体制の違いを超えて、この点で一致団結します。日本でも全国民に血液検査が実施され、青い血液を持つ人々は隔離され、強制収容所に送られます。それに反対する人たちもいますが弾圧されます。

 

 沖は冴子(竹下景子)と恋に落ちます。不器用ではあるが誠実な沖と冴子は合いを深めますが、不幸な結末を迎えてしまいます。

 

 映画では、青い血液を持つようになってしまった人々は、イライラもなく、過度の競争心や嫉妬心を持たなくなり、穏やかな性格になると描かれています。ただ、血液が青くなってしまっている、ということだけです。映画では血液が青い生物としてイカが紹介されており、それは人類の血液には鉄分が含まれているのですが、それがイカの場合は代わりに銅が含まれており、そのために血液が青くなるということも説明されています。

 

 この映画を見ての感想ですが、まずは、真実とは何かということを追いかけるはずの科学と報道という2つの分野が機能しないということです。科学の場合には、「宇宙人であるとか宇宙船などというものは存在しない」という前提から宇宙船からの光を浴びた人が青い血液を持つということを税所否定しますが、じわじわとそれが広がっていくと、今度は実験(観察)の対象、実験材料とし、そのために非人道的な取り扱いをします。報道はその変わった話に飛びつきますが、やがて上の存在から口止めされ、そして最後には協力してしまう、口を閉ざした時点で協力していることになります。

 

 真実について語り、人類のために奉仕すべき分野である科学や報道が実際には時の権力に奉仕し、人道に反する行為を行った例はこれまでの歴史でも見られることですが、この映画でもそのことが描かれています。ですから、科学や報道に従事する人たちも、私たち受益者、受け手も不断の点検が必要になるということだと思います。

 

 青い血液となってしまった人々は血液以外にはそれまで通りであり、極めて普通の人間です。そして、心が穏やかになり、嫉妬心や競争心がなくなります(これは一種の麻薬のメタファーでもあると思います)。しかし、少数派であるこの人々は、多数派である赤い色の血液を持つ人々にとっては不安材料です。今のところは無害(それまでも無害で外見上は変わらないのですから当たり前です)ですが、これからどうなるか分からない、ということに、世界各国の権力者たちは大きな不安を覚えます。

 

 そして、最後には強制収容を行います。それに対して、「やり過ぎではないか」「人権侵害ではないか」という当然の反対意見も出ます。それを抑えるために、青い血液を持つ人々は、暴力蜂起を行う、それは宇宙人に唆されたからだ、という主張を流し、かつ、最後には、そのようになった青い血液を持つ人々は、人類ではない(人類の定義は赤い血液を持つ)ので、人権などなく、抹殺対象になるのだというところまで進み、この映画の悲劇的な最後につながります。

 

 この映画は1978年に公開で、映画の設定もそれくらいの年になっています。そして、1980年には青い血液を持つ人々の人口は全世界で2億人弱くらいにまで増えると予想されています。政府機関や報道機関の上層部は、青い血液を持つ人々について最初は、なにも迫害までしなくても良いではないか、と考えますが、職務上の命令のために、最後は非人道的な行動を部下に命令することになります。ここのプロットは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺のメタファーと言えるでしょう。

 

 私はこの映画を見ながら、「人間的」とはどういうことかということを考えました。青い血となってしまった人々は偶然からそうなってしまいました。そして、穏やかで他の人たちを争わない性格になりました。私はこの部分を世界の指導者たちは危惧し、そのような人たちを抹殺することに決めたのだろうと思いました。

 

穏やかで、人と争わないというのは素晴らしい性格ですが、それでは現代社会は崩壊してしまいます。よりおいしいものを食べたい、より高い洋服や時計、装飾品を身に着けたい、より立派な家に住みたい、といったことは、他人に見せびらかしたい、羨んで欲しいという気持ちが原動力です。逆に言えば、そのようになりたいという気持ちから人間は他人と競争もするし、少々ずるいことをしても他人を出し抜こうとします。そうして大量生産・大量消費の大衆社会が維持されます。資本主義体制も、そして社会主義体制もそうして動いています。

 

 しかし、青い血液を持つ人々は、そのシステムにとっては邪魔になります。そのような人たちは自分で満足していればそれで良いし、他の人たちを羨まないのです。それは人間にとっては一つの理想形ですが、逆の面から見れば、「人間的ではない」ということになります。そして、自分と違う(と思われる)存在に対しては、どこまでも冷酷になれる、ということがこの映画の中で描かれている「人間らしい」行動となっています。青い血液を持つ人々は、赤い血液を持つ人、青い血液を持つ人、どちらの血も流させない存在ですが、赤い血液を持つ人々は、赤い血液を持つ人、青い血液を持つ人、両方の血を流させる存在です。

 

 この映画の題名についている「ブルー」ですが、映画に出てくる青い血液の「青」と「陰鬱な」「気持ちが盛り上がらない」状態を示す「ブルー」がかかっています。悲劇的なラストシーンがクリスマスイヴの日ですから、まさにブルーなクリスマスということになります。見終わればブルーになってしまう映画ですが、私たちが生きる現代を考える上でも参考になる映画だと思います。

 

(終わり)

アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)

ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側[本/雑誌] (単行本・ムック) / 古村治彦/著

価格:1,836円
(2018/4/13 10:12時点)
感想(0件)





このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ