古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 中東政治

ダニエル・シュルマン
講談社
2015-10-28



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 トルコと中東をめぐる大きな問題になっているのはクルド人問題です。クルド人は国家を持たない最大の民族と呼ばれており、トルコやイラク、イランにそれぞれ居住しています。今回のご紹介する記事は、クルド人たちはセーヴル条約によって自分たちの国家が作られるはずだったのに、トルコ側についてヨーロッパ列強と戦ったではないかという内容になっています。

 

 しかし、もっと根源的に言うならば、中東、オスマントルコ帝国の地域に国境線を引いてしまったこと自体に問題があったのではないか、と私は考えます。セーヴル条約ではなく、サイクス・ピコ条約によって中東は切り刻まれたのですが、それによって起きた多くの問題は連関し、解決するには複雑な状況になっています。

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サイクス=ピコ条約を忘れよう。セーヴル条約で現在の中東の状況を説明する(Forget Sykes-Picot. It’s the Treaty of Sèvres That Explain Modern Middle East

―95年前の今日、ヨーロッパ諸国はオスマントルコ帝国を分割した。セーヴル条約は1年も持たなかったが、その影響は現在も残っている。

 

ニック・ダンフォート筆

2015年8月10日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2015/08/10/sykes-picot-treaty-of-sevres-modern-turkey-middle-east-borders-turkey/

 

 95年前の今日、ヨーロッパ諸国の外交官たちは、パリ郊外のセーヴルの陶器工場に集まり、オスマントルコ帝国の灰から中東を作り直すための条約に調印した。この計画はすぐに崩壊し、私たちはこの条約についてほとんど記憶していない。しかし、長く続かなかったセーヴル条約は現在においてもその姿を垣間見ることが出来る。セーヴル条約は現在も議論が続いているサイクス・ピコ条約と同じくらいに重要である。この忘れ去られた条約の記念日が過ぎようとしている時、中東やトルコについて考えるべきだと思う。

 

 1915年、イギリス軍はガリポリ半島を通ってイスタンブールまで進軍した。この時、イギリス政府はオスマントルコ帝国の終焉を予期した。それはいささか時期尚早だった。ガリポリの戦いはオスマントルコ帝国が第一次世界大戦で得た数少ない勝利となった。しかし、1920年までに、イギリスの予測は正しいことが証明された。連合国軍の軍隊がオスマントルコの首都を制圧した。そして、戦争に勝利した列強の代表者たちは、オスマントルコ帝国の領土を分割し、それぞれが影響下に置くことになった。セーヴル条約によってイスタンブールとボスポラス海峡は国際管理とされた。一方、アナトリア半島の一部はそれぞれギリシア、クルド、アルメニア、フランス、イギリス、イタリアに割譲された。ヨーロッパ列強がどのようにして、そしてどうして中東の分割計画の実現に失敗したのかをみることで、私たちは、中東地域の現在の国境線について、そして今日のクルド人のナショナリズムと現在のトルコが直面している政治的な挑戦の間の矛盾についてより良く理解できる。

 

 セーヴル条約の締結から1年もしないうちに、ヨーロッパ列強はこの条約によって持たされたものは利益よりも苦痛を与えるものであったのではないかと疑いを持つようになった。外国による占領に抵抗する固い決心の下、オスマントルコ帝国陸軍の将校ムスタファ・ケマル・アタチュルクはオスマントルコ軍の再編に着手し、数年に及ぶ外国軍との厳しい戦闘を経て、セーヴル条約の条項遵守を矯正してきた外国軍を撤退に追い込んだ。その結果、現在のトルコが誕生した。新しい国境線は1923年のローザンヌ条約によって公式に決定された。

 

 セーヴル条約は西側ではその存在はほぼ忘れ去られている。しかし、トルコではその影響が今でも残っている。トルコで起きるナショナリズムに基づいた偏執的な主張が起きるたびにそれを増長させてしまうのがセーヴル条約の存在で、学者たちの中にはこれを「セーヴル症候群」と呼ぶ人たちもいる。セーヴル条約の存在によって、トルコはクルド人による分離独立主義に神経を尖らせることになる。そして、1920年のアナトリアに対する計画を正当化するためにヨーロッパ各国の外交官たちが使ったアルメニア人大虐殺は歴史的に事実かどうかよりも反トルコ共同謀議であるとトルコが考える理由になっている。トルコは植民地支配に対して激しい戦いを続けたが、これがトルコの反帝国主義的ナショナリズムの基礎となった。最初に対イギリス、冷戦期は対ロシア、現在は対アメリカが反帝国主義的ナショナリズムの標的となってきた。

 

 しかし、セーヴル条約の影響はトルコにだけ留まらない。これが中東史においてセーヴル条約をサイクル・ピコ条約に含むべき理由なのである。中東地域の諸問題は全てヨーロッパ列強が白紙の地図に国境線を引いたことから始まっているという広く受け入れられている考えに対して、もう一度考え直す時にセーヴル条約を見ていくことは重要なのだ。

 

 ヨーロッパの列強は彼らがいつでも中東から離れても国益を確保することが出来る国境を作り出したことに満足していたのは間違いない。しかし、セーヴル条約の失敗によって、彼らは満足いく結果を得ることが出来なかった。ヨーロッパ列強の政治家たちがアナトリア半島の分割で国境線を引き直そうとした時、彼らの試みは失敗した。対照的に、中東においては、ヨーロッパ列強は国境線を引くことに成功した。ヨーロッパ列強はその強大な武力を使って抵抗する勢力を排除することが出来た。オスマントルコ帝国陸軍の将校で口髭を生やした、シリア人のナショナリスト、ユセフ・アル・アズマは、アタチュルクの軍事的成功を真似て、マサラムの戦いでフランス軍を破ったが、ヨーロッパ列強によるレヴァント分割計画はセーヴル条約の内容通りに進められた。

 

 もし中東にまた違った国境線が引かれていたら、中東はより安定したか、より人々に対する攻撃は少なかっただろうか?必ずしもそうとは言えない。セーヴル条約のレンズを通して歴史を見てみると、ヨーロッパ列強の引いた国境線と中東の不安定さとの間には因果関係があるという以上の視点を得ることが出来る。ヨーロッパ列強によって強制された国境線を引かれた地域は、植民地支配に対して抵抗するには脆弱になったり、組織化できなくなったりする。トルコはシリアやイラクに比べてより豊かにもそして民主的にもなれなかった。それは、トルコが正しい国境線を得るという幸運に恵まれたからだ。トルコがヨーロッパ列強の計画の実施を阻止することに成功した諸要素、オスマントルコ帝国から継承した軍隊と経済的インフラは、トルコが強力で中央集権的なヨーロッパ様式の国民国家を建設するための要素ともなった。

 

 当然のことながら、クルド人のナショナリストたちのほぼ全員がトルコの現在の国境線は間違っていると主張するだろう。実際、クルド人が国家を持てなかったことはオスマントルコ帝国滅亡後の中東地域に引かれた国境線における致命的な失敗だと主張する人々もいる。しかし、ヨーロッパの帝国主義者たちはセーヴルでの会議でクルド人国家建設を試みたが、クルド人の多くはアタチュルクと一緒にセーヴル条約の履行阻止のために戦った。私たちが今日認識しているように、政治的な忠誠心は国家アインでティティを乗り越えることが出来るということは記憶されるべきだ。

 

 セーヴル条約で建国されるはずであったクルド国家はイギリスのコントロール下に置かれたことは間違いないところだ。クルド人のナショナリストの中には、これに魅力を感じた人々もいたが、他の人々は、イギリスの支配を受けながらの「独立」は問題だらけだと考えた。従って、彼らはトルコのナショナリズム運動と共に戦った。信仰心の厚いクルド人たちにとって、キリスト教国による植民地化よりも、トルコやオスマントルコ帝国の支配が続いた方がましだと考えた。その他のクルド人たちは、より現実的な理由から、イギリスが家と土地を奪われたアルメニア人たちの帰還を支援するのではないかと憂慮した。クルド人の中には、彼らが建国のために戦った国が期待に反してよりトルコ的で、より世俗的になると分かった時に後悔した人々もいた。一方、様々な圧力を受けて、新国家が提供するアイデンティティを受け入れることを選ぶ人たちもいた。

 

 トルコ人のナショナリストたちの多くは、セーヴル条約によってオスマントルコ帝国が解体された過程と同じ道筋で現在のトルコが解体されるのではないかという恐怖心を持っている。一方で、クルド人のナショナリストたちの多くは現在でも自分たちの国家を実現することを夢見ている。同時に、現在のトルコ政府は、オスマントルコ帝国が持っていた寛容と多文化主義を排除している。一方、クルド人の分離主義の指導者アブドラ・オカランは、獄中にある時に社会学者ベネディクト・アンダーソンの著書を読み、国家は全て社会的に構成されたものに過ぎないという考えに行きついたと述べている。トルコの与党である公正発展党(AKP)と親クルド派の国民民主主義政党(HDP)はそれぞれここ10年の間、クルド人有権者たちに対して「我が党への投票は平和のための投票になる」と訴えてきた。両党は、どちらの党がより安定したそして包括的な国家を作ることで長年にわたり続いた衝突を解決できるかを争っている。つまり、アメリカ人の多くが中東におけるヨーロッパが作った「人工的な」国家について議論している時、トルコは一世紀に渡って存在してきた「人工的な国家」が現実のものであることを証明しようという欲望を乗り越えようとしている。

 

 言うまでもないことだが、ここ数週間にトルコで起きた暴力は、ナショナリズム後の合意の壊れやすい要素の崩壊の危険をはらんでいる。公正発展党はクルド人政治指導者たちと警察官たちを銃撃したクルド人ゲリラの逮捕を要求している。興味深いのは、トルコ人ナショナリストとクルド人ナショナリスト双方は、よく似たしかし相容れない立場に立つようになっている。95年にわたり、トルコはセーヴル条約に対する勝利によって政治的、経済的利益を得た。しかし、この成功を続けるにはより柔軟な政治モデルを必要とする。この政治モデルは国境線と国家アイデンティティを巡る戦いをつまらないものにすることに貢献することが出来る。

 

(終わり)








 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23

 

 古村治彦です。

 

 2015年3月17日にイスラエルで総選挙が行われ、劣勢が伝えられていたベンヤミン・ネタニヤフ首相率いるリクードが第一党となりました。これでネタニヤフ首相は続投となります。

 

 2014年12月の日本の総選挙でも、自民党が300議席に迫る勢いで勝利を収めましたが、この時の衝撃と似ています。

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選挙前のクネセトの議席数 


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選挙後のクネセトの議席数
 

 日本では北朝鮮、イスラエルではイラン(もしくはイスラム国)が「攻めてくる」という恐怖感を煽って、好戦的な政党と政治家が選挙で勝利を収めています。「人々が右傾化している」というよりも、人々が脅されていると言えるのでしょう。

 

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金輪際ネタニヤフを信頼するな(Never Trust Netanyahu

―イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフの最近の政治的な行動が示しているのは、彼が最悪の種類の機会主義者であるということだ。アメリカは彼がこれ以上最悪の行動を取ることを許してはならない。

 

リサ・ゴールドマン筆

2015年3月19日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2015/03/19/never-trust-netanyahu-israel-election-obama/

 

 ここ数週間、イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフは権力の座に留まるためなら何でもやる人間であることを示し続けてきた。彼が権力に固執することで、イスラエルの最大の同盟国であるアメリカとの関係を弱めることになっても、彼は構わずに権力を握り続けることに拘る。人種差別的な、昔アメリカに存在したジム・クロウ法のような差別的な選挙法を推し進めることになっても、彼は何も気にせずにそれを推し進めるだろう。彼は判断力があって知識もある人々に向かって嘘をつき続けることになっても、嘘をつき続けることだろう。ネタニヤフの人格を理解する上で重要なことは、彼が自己を満足させるために2つのことを気にかけていることを理解することだ。1つは権力の座に留まることであり、もう1つはゴラン高原とパレスチナ占領地域に対するイスラエルの支配を継続することだ。

 

 2015年3月17日、ネタニヤフは総選挙で勝利した。イスラエル国内のリベラル派と外国の専門家たちは選挙結果に衝撃を受けた。選挙戦を通じて、彼らは一般有権者が安全保障問題やネタニヤフが3月3日に行ったアメリカ議会演説よりも、経済問題により大きな関心を持っていると考えていた。更には、ネタニヤフの3月3日のアメリカ連邦議会での演説は賛否両論を巻き起こしたが、これによってネタニヤフは支持率を引き上げることに失敗し、アメリカとの関係を傷つけたことで、反対票が投じられることになると考えていた。ネタニヤフが「人目を引くような行動」をいくらやっても挽回は無理だろうと私の同僚の一人は語っていた。選挙日直前の最終の世論調査では、ネタニヤフ率いるリクードは20議席を獲得し、主なライヴァルであるザイオニスト・ユニオンは24議席を獲得すると見られていた。ネタニヤフは権力の座に長くい過ぎたために、有権者を理解できなくなっているのではないかと思われていた。

 

 実際には、ネタニヤフは誰よりも有権者を理解していたということになった。選挙直前、ネタニヤフは低俗な、人種差別的な大衆煽動ばかりを行ったのだ。彼は有権者の持つ恐怖感と部族(「リクード族」)への所属感を刺激した。彼らは、イギリス人が贔屓のサッカーチームに対するのと同じように、リクードに対して忠実である。

 

 イスラエルのインターネットのニュースサイトであるNRG(アメリカの大富豪シェルドン・アデルソンが所有している)とのインタビューで、ネタニヤフは、「自分の目の黒い内はパレスチナ国家の成立を許さない」と明確に述べた。フェイスブック、ツイッター、SMS,自動ヴォイスメールを通じて、有権者たちに次のように訴えた。「私は皆さんと左翼が率いる政府の間に立っています。左翼政府はエルサレムを分割し、1967年の段階の国境にまで撤退しようとするでしょう。テルアヴィヴとベン・グリオン空港を見下ろすヨルダン川西岸地区を開放することでそこにイスラム国が入り込んでくるでしょう」

 

 選挙日当日、ネタニヤフはフェイスブックに30秒間の酷い内容の動画を掲載した。その中で、彼は中東の地図を背にして立ち、予備役将兵に対して国家安全保障の緊急事態が起きているかのように訴えた。枯れは次のように述べた。「右派の政府は危機に瀕しています。アラブ人たちが町中の投票所に押し寄せています。左派のNGOがバスを使って彼らを投票所に運んでいるのです」。ネタニヤフは、軍隊の緊急時を示す用語である「ツアヴ8」という言葉を使いさえしたのだ。

 

 イスラエルの有名なジャーナリストであるハノク・ダウムがフェイスブックに挙げた文章を多くの人々がシェアした。そこには、超正統派とパレスチナ人の有権者の票を除くと、3人に1人がリクードに投票したことになると書かれていた。そして、クネセトの過半数の議席は、右派とナショナリズム勢力が占めているとも書かれていた。

 

 イスラエル以外の国々で衝撃が走った。しかし、実際にはイスラエルはもはや右派的な社会となり、人種差別的な言辞が普通に使われるようになっている。例えば、「アラブ風」という言葉は、低俗でけばけばしい意味で使われている。イスラエル国会クネセトの右派的な議員たちはここ数年、アラブ系の議員たちに対して、彼らが演説をしている際に、暴力をふるうようになっている。西洋諸国のリベラル派にとっては衝撃的な事例が数多く起きている。しかし、イスラエル国内では無視されている。クネセトの議員たちは、スーダンからの移民たちを「私たちの体に巣食う癌細胞」などと演説の中で言ってしまう始末だ。

 

 同様に、世界中のマスコミは、ネタニヤフのパレスチナ国家の樹立を拒絶発言に関して、ほとんど取り上げてこなかった。昨年7月、イスラエル国防軍が駐留しない限り、パレスチナ国家の樹立を容認しないとネタニヤフは演説の中で述べた。「イスラエル国防軍の駐留」は別の形での軍事占領である。彼の演説は世界中のマスコミが取り上げず、イスラエル国内のマスコミもほとんど報道しなかった。NRGとのインタビューでネタニヤフは、かなり率直な言葉遣いであった。ここがある種の転換点であった。3月3日のアメリカ連邦議会演説でネタニヤフはバラク・オバマ米大統領を大いに侮辱した。このインタビューはそれに続くものであった。

 

 ホワイトハウスは、2国共存を否認することでイスラエルは外交分野において厳しい状況に追い込まれると示唆した。数カ月前、ハアレツは漏えいしたとされるEUの公式文書をすっぱ抜いた。そこには、イスラエルがヨルダン川西岸地区から撤退すること、パレスチナ国家の樹立の交渉を公式に拒絶した場合には、イスラエルに特別な経済制裁を科すと書いてあった。ネタニヤフはやり過ぎだと世界が見ていることを示していた。

 

しかし、ネタニヤフは態度を豹変させた。総選挙の2日後の2015年3月19日(木)、ネタニヤフはMSNBCの記者に対して穏やかな態度で、2国共存の解決法を否認はしなかった。ネタニヤフは「現実が変化したのだ」と述べた。更には、パレスチナのマウムード・アッバス議長は、イスラエルをユダヤ国家として承認することを拒否し、彼はハマスとの間にイスラエルを破壊するための協定を結んだ、とも述べた。

 

 2つの発言は共に実質的には嘘である。2009年にアッバス議長に対してイスラエルをユダヤ国家として承認するという条件を押し付けて状況を変えたのはネタニヤフ自身である。それまでのパレスチナ側との交渉でこうした条件は持ち出されたことはなく、全く新しい条件であった。ハマスとPLOの間に存在すると言われている協定からすれば、この条件は受け入れがたいものであった。ネタニヤフはただ単に嘘をついたのだ。しかし、彼の発言はもっともらしいものである。ネタニヤフはアメリカのマスコミに対応し、簡単な質問に答える時にその準備をしっかりやっている。ネタニヤフが何年もイスラエルのマスコミからの取材を受けつけずに、アメリカのテレビや新聞の取材には積極的に応じてきたのは何の不思議もない。

 

問題は、アメリカがこれからもネタニヤフの行動を許容し続けるかどうかである。ネタニヤフは、ヘブライ語で「自分の目の黒い内はパレスチナ国家の樹立を許容することはない」と明確に言い切った。それから2日後、彼は穏やかな態度でアメリカ人のジャーナリストたちに対して、英語で、そのようなことは言っていないと述べた。彼は流ちょうな英語を話し、英語を母国語としない人にありがちなアクセントもない。

 

 イスラエルはほぼ50年間にわたってヨルダン川西岸地区を占領してきた。ほぼ10年にわたり軍隊を使って、ガザ地区を封鎖してきた。イスラエルはそうした政策を変更する意図を全く見せていない。これは継続可能な状況ではない。イスラエルが支配する地域には約1300万人が暮らしているが、800万人しか投票権を持っていない。「アメリカとイスラエルは価値観を共有している」と主張するアメリカ人はイスラエルに対して、ジム・クロウ法も共有する価値観なのかどうかを尋ねる必要がある。セルマ自由行進50周年の記念式典で、エドマンド・ペタス橋の上で行ったオバマ大統領が行った演説の感動から考えて、ジム・クロウ法はアメリカの価値観でもなんでもない。オバマ政権はもうネタニヤフが自分たちに嘘をついているなどとは考えてないなどと振る舞うことは止めるべきだし、ネタニヤフが信頼できない人物であるかどうかは分からないなどと言う姿勢を取ることも止めるべきだ。オバマ政権がやるべきことはただ一つ、「イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフは歓迎されざる人物(persona non grata)だ」と宣言することだ。

 

(終わり)








 
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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23

 

 古村治彦です。

 

 来週火曜日にイスラエルで総選挙が行われます。日本の安倍首相と一緒になって、アメリカの反オバマ・ネオコン・人道主義的介入派ラインを支えている、ベンヤミン・ネタニヤフ首相を率いるリクードは敗北する可能性が高まっています。

 

 それに対して、苛立ったネタニヤフ首相は「外国からの影響」にまで言及するようになっているようです。それでも、ネタニヤフ首相は連立で政権を維持することが出来る可能性もあるようです。

 

 火曜日のイスラエル総選挙は注目です。

 

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ネタニヤフ首相は、彼を追い落とそうとする外国の権力者共同謀議理論の存在を主張(Netanyahu Claims Foreign Conspiracy Is Trying to Depose Him

 

エリアス・グロル(Elias Groll)筆

2015年3月13日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2015/03/13/netanyahu_claims_foreign_conspiracy_is_trying_to_depose_him/

 

 イスラエルでは来週火曜日に総選挙が行われる。ベンヤミン・ネタニヤフ首相にとっては先行きは良くない。ネタニヤフは世論調査で野党側の後塵を拝している。彼は退勢を挽回するための時代遅れの戦術を採用している。彼は自分の政治的な苦境を国際規模の権力者共同謀議理論(conspiracy)のせいにしているのだ。

 

 ネタニヤフは金曜日、「フェイスブック」に投稿した。その中で、彼は、リクードの指導者である自分を追い落とすために、外国からの資金が野党側に流れていると主張した。彼は競争相手のイザク・ヘルツォグとツィピ・リヴニに言及しながら、次のように書いた。「右派の支配は危機に瀕している。左派の有権者たちとイスラエル国内と国外のマスコミは、ツィピとボウギを権力の座に就けるために正しくない方法を使うための勢力に参加している」。

 

 ネタニヤフは、結果は悲惨なものとなるだろうと述べている。彼は「1967年時点の国境まで後退し、イェルサレムは分割され、テル・アヴィヴとベン・グリオン国際空港を見下ろす丘に第二のハマススタン(Hamas-stan)が建国されることになる」と述べている。ネタニヤフは、ガザ地区からイスラエルが撤退することで起きであろうと彼が考える結果に対して警告を発するために、かなり前から「ハマススタン」という言葉を使い始めた。イスラエルは、2005年にガザ地区から入植者と兵士たちを撤退させた。それでも航空と沿岸のコントロール権はイスラエルが維持している。それでも、ガザ地区は現在、ハマスによって統治されている。

 

 更に言えば、ネタニヤフはフェイスブックの投稿で、彼とリクードが外国政府と左派勢力、『イディット・アウロノット』紙のジャーナリスト、「イスラエル国内と外国の有力者たち」が共同した権力者共同謀議理論を主張した。

 

 今週金曜日、ネタニヤフは様々なマスコミに登場し、自分を追い落とすために暗躍している外国の政府を明らかにしている。彼はラジオ局コル・イスラエルに出演し、「北欧各国の政府は数百万ドルを投じて、私を権力の座から追い落とそうとしている」と語った。

 

 スウェーデンがパレスチナを承認する決定をしてから数カ月、スウェーデンとイスラエルの関係は冷え切っているが、スウェーデンがイスラエルの総選挙に資金を投じている証拠は存在しない。

 

 今週金曜日、イディット・アウロノット紙の世論調査によると、来週火曜日の総選挙では、ネタニヤフ率いるリクードはヘルツォグとリヴィニ率いるイスラエル労働党に負けているという結果が出た。世論調査では、イスラエル労働党が26議席、リクードが22議席を獲得するという結果が出た。テレビ局「チャンネル10」の世論調査によると、リクードは20議席、イスラエル労働党は24議席をそれぞれ獲得するという結果が出ている。

 

 リクードがイスラエル労働党に続いて第二党になっても、ネタニヤフはまだ権力を掌握することは可能だ。首相となるためには、クネセト(Knesset、イスラエルの国会)の120議席のうち、連立して最低61議席を取る必要がある。ネタニヤフは多数を占める連立を形成する上で、ライヴァルたちよりも有利な立場にある。

 

 各種世論調査で不利な状況に陥ると、ネタニヤフは自身の支持率の下落には不透明な外国の影響があると責任転嫁を始めた。今週火曜日、ネタニヤフ首相は陸軍ラジオに対して、「自分を追い落とすための世界中を巻き込んだ大規模の企てが行われている」と述べた。投票日が近付く中、ネタニヤフ首相は外国の権力者共同謀議理論についての告発を強めるだけしかできない。

 

 ネタニヤフにとって、この外国の権力者共同謀議理論(コンスピラシー)に対する適切な反応は次のようにあるべきだ。それは、「リクードに投票せよ」というものだ。

 

(終わり)





メルトダウン 金融溶解
トーマス・ウッズ
成甲書房
2009-07-31




 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23


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イスラム国に関する5つの神話

 

ダニエル・バイマン筆

2014年7月3日

ワシントン・ポスト紙

http://www.washingtonpost.com/opinions/five-myths-about-the-islamic-state/2014/07/03/f6081672-0132-11e4-8572-4b1b969b6322_story.html

 

※ダニエル・バイマン:ジョージタウン大学安全保障研究プログラム教授兼部ブルッキングス研究所サバン記念中東政策研究センター研究部長

 

イラク・シリア・イスラム国(The Islamic State of Iraq and SyriaISIS)はロックバンドよりも頻繁に名前を変えている。 スンニ派の急進グループは、シリア国内で戦い、サウジアラビアとレバノン国内での攻撃を計画している。このグループは現在、戦う場所を変えて、イラク国内にも浸透し、「イスラム国(Islamic State)」と名乗るようになった。イラクとシリアにおいて、イスラム国はシーア派や他の宗教グループの人々を背教者として殺害している。また、同じスンニ派の人々をイラク政府の協力者として殺害している。彼らの残虐性は、彼らの目的と本当の危険性から人々の目をそらさせる効果がある。「汝の敵を知れ」精神を発揮し、本稿では、イスラム国についての神話を除去することにしたいと思う。

 

1.イスラム国はアルカイーダの一部だ

 

イスラム国とアルカイーダは長期にわたり、複雑な関係を築いてきた:かつては緊密な同盟関係にあったが、現在は敵意剥き出しの敵対関係になっている

 

 イスラム国の様々な名前は、アルカイーダとの間の緊張関係を示している。ジハーディスト・グループは、2003年のアメリカによるイラク侵攻直後にイラクを離れた。そして、その多くがアブ・ムサブ・アル=ザルカウィの下に集結した。ザルカウィはヨルダン出身で、アルカイーダとは協力関係を保っていたが、その一部ではなかった。ザルカウィは2004年10月にオサマ・ビン・ラディンに忠誠を誓った。そして、ザルカウィのグループはイラクでアルカイーダという名前を使うようになった。この当時、さるかうぃのグループは、アルカイーダの指導者の一人、アイマン・アル=ザワヒリと衝突を起こしている。ビン・ラディンはアメリカを攻撃対象にするように主張したが、ザルカウィと彼の後継者たちは地域での戦いに集中するように主張した。ザルカウィはイラク国内のシーア派と戦い、スンニ派に対しては、味方に引き入れるのではなく、テロ攻撃を敢行した。

 

 アルカイーダとイスラム国との間には、戦術、戦略、指導者層に関して違いを持った。イスラム国の指導者アブ・バクール・アル=バグダーディは、斬首と磔という手法を採用している。そして、バグダーディは中東諸国の政権やライヴァル関係にある諸グループを攻撃対象にし、ザワヒリが主張した「遠くにある敵」、アメリカへの攻撃しようという主張を完全に無視した。

 

 これらの相違点がシリアで明らかになった。ザワヒリは、比較的抑制的なジャブハット・アル=ナスーラをアルカイーダの代理人に任命した。バグダーディは、自分のグループがイラク、シリア、レバノン、ヨルダンでジハーディスト運動に参加すべきだと考えた。ナスーラとバグダーディがそれぞれ率いる2つのグループはお互いを刺激し合い、数千人を殺害していると言われている。

 

 イラク国内での劇的なキャンペーンの成功によって、バグダーディはザワヒリを追い越すことになった。アルカイーダは無人攻撃に追いかけ回されている。一方、バグダーディは、自分は背教者たちとの戦いを指導しているのだと主張している。彼の主張は中東地域の人々の人気を得ることになった。

 

2.イスラム国の建国の意味するところは、このグループが統治する準備ができている

 

 イスラム国は現在、シリア東部とイラク西部をコントロールしている。これらの地域の大部分は砂漠地帯である。しかし、イスラム国はシリアのラッカ、イラクのモスルといった重要な都市を統治している。イスラム国は、イスラム法の過激な解釈に基づいた統治によって正統性を増加させようとしている。そして、それによってより多くの志願兵と財政上の支援者を募ろうとしている。

 

 イスラム教徒のテロリストたちは各地で統治に成功している。ハマスは7年間にわたりガザを支配し、ヒズボラはレバノンの一部を何十年にわたり実質的に支配している。これら2つのグループは学校、病院、基本的な住民サーヴィスを運営している。しかし、イスラム国の前身組織が10年前にイラク西部を支配した時、その統治は破滅的な失敗に終わった。彼らが示した残虐さと無能さによって、イラク国内のスンニ派は遠去かった。スンニ派はジハーディストを除去するための「覚醒運動」に参加した人々であった。

 

 イスラム国は、バグダッドにあるシーア派が支配するイラク政府からの差別的取扱いに恐怖をいただいているスンニ派にアピールする可能性が高い。しかし、イスラム国から逃れている中流階級のビジネスオーナーや技術者たちであって、彼らは基本的な社会サーヴィスを運営する人々である。最終的に、イスラム国は略奪をしたり、闇市場で石油を売却したり、大規模な飢饉が阻止するための基本的なサーヴィスを作ったりした。しかし、混同してはならないのは、イスラム国が効率的な国家ではないということである。

 

3.シリアのアサド政権はイスラム国にとって憎き敵である。

 

 シリアの大統領バシャール・アル=アサドの政府は、テロリストとの戦争を宣言した。一方、イスラム国は自分たちをシリア国内のスンニ派イスラム教徒の守護者と自認し、アサド政権のような「背教者」政権と戦うと主張した。しかし、両者ともにシリア国内の穏健な反体制派の存在を敵視している。アサド政権は、この穏健派の勢力を弱めることで、政権にとって長期にわたる脅威を弱めることができる。

 

 アサド政権は、イスラム国が支配している地域での軍事行動を控えている。そして、空軍を使って、イスラム国と戦っている穏健派反体制グループに対する空爆を行ったり、イスラム国から石油を購入したりしているもしイスラム国が存在しなければ、アサド政権はそのような存在を作り出したことであろう。実際には、アサドはそのような行動を取ったのだ。3年前にシリア国内で内戦が始まった時、この戦いは、残虐さと不正義に嫌気が差した市民による蜂起だと言われた。アサド側は、この戦いはテロリストたちに対する戦いだと主張した。そして、アサド側の表現と戦術によって、内戦を変容させたスンニ派イスラム教徒たちの間で反動が起きた。イスラム国のようなグループが台頭したのだ。シリア国民は、アサド政権か、急進的なイスラム主義か、いずれかを選ばねばならないという悲惨な状況に追い込まれた。

 

 イスラム国はイラク国内で勢力を伸ばしている。これに合わせて、イスラム国とアサド政権との間の戦術上の同盟関係は終結を迎えることになるだろう。アサドはイスラム国が強大になり過ぎていると考えることだろう。イラク政府はアサドの同盟者であり、シリアとイラクとの間の国境地帯の支配権を失うことで、イラクからアサド政権に供給されていた物資や兵員の補給をイスラム国が遮断することになった。

 

4.イスラム国は手に負えない戦闘集団である

 

 イスラム国はモスルを掌握し、バグダッドに向けて進軍している。イラク国内におけるイスラム国の成功は、イスラム国の強力な軍事組織を基礎にしている。実際にはイスラム国は1万人の戦闘員しか有していない。モスルのような都市を攻撃した時は、1000人以下しか動員しなかった。

 

 イスラム国が軍事的な勝利を収めることができたのは、イラク軍の脆弱さとノウリ・アル=マリキ首相の政策の失敗があったからだ。アメリカは、イラク軍に対して数億ドル規模の軍事援助を行った。数字上はイスラム国を圧倒しているはずだった。落とし穴だったのは、イラク軍は戦わない存在であったことだ。マリキ首相は、能力のある人物ではなく、自分に忠実な人々を政治的に重要な地位に就けた。マリキ政権はイラク国内のスンニ派を差別しているので、イラク軍のスンニ派兵士の士気は低下している。彼らは自分たちを差別する政府を守るために戦いたくないと思っている。

 

 イラク軍にシーア派教徒が参加することで、多くの地域でイスラム国の進撃が止められている。イラク政府がより多くのグループを取り込み、穏健なスンニ派を味方に付けることができたら、そして、イラク軍がより統一性が取れるようになったら、イスラム国の拡大は止まり、縮小に進むようになった。これらは大きな仮定なのではあるが。

 

5.イスラム国はアメリカを攻撃したがっている。

 

 2009年にイラク国内の刑務所から釈放された後、バグダーディはアメリカ軍の刑吏たちに対して、「ニューヨークで会おう」と語った。この発言にアメリカ政府関係者は凍りついた。2014年5月25日、アメリカ市民でアブ・マンスール・アムリキと自称したモネル・ムハマド・アブサルハはシリア国内で自爆攻撃を行った。イスラム国の幹部たちの中には、ヨーロッパ国籍の人々が多く含まれている。彼らは自分のパスポートを使えば、容易にアメリカ国内に潜入することができる。また、イスラム国に参加し、シリアに渡った100名以上のアメリカ市民の中の1人がアメリカに戻り、攻撃を実行する可能性が存在する。

 

 イスラム国は潜在的にアメリカに対する脅威となっている。諜報関係者や治安関係者たちは常に警戒を怠らないにしなければならない。しかし、現在のところ、イスラム国はアメリカを攻撃対象にしている訳ではなく、西洋諸国との戦いを重視している訳でもない。実際のところ、これがイスラム国をアルカイーダから分離させた理由なのである。「ニューヨークで会おう」と言ったバグダーディの発言は誤って伝えられたものである可能性が高く、冗談である可能性もある。彼を担当した看守たちの多くはニューヨークの出身者たちであった。より重要なことは、イスラム国の行動を見ていると、彼らが西洋諸国からの参加者たちを、中東地域での戦いに投入したいと考えていることが分かる。イスラム国にとって、イスラム国の創設と維持、そして背教者たちとの戦いが最優先なのである。

 

 イスラム国はイラクと地域の安定に対する脅威になっている。しかし、オバマ政権はイスラム国の謀略宣伝を鵜呑みにしないように気を付けるべきだし、イスラム国の勢力は増大していくということを前提にしなければならない。

 

(終わり)








 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12






 ザルカウィの死によって、アルカイーダに逆風が吹くようになった。スンニ派の諸部族の多くがザルカウィのシャーリア支配に反発し、反撃を始めた。デイヴィッド・ペトレイアス(David Petraeus 1952年~)大将率いる米軍は、反乱軍の反乱軍に資金や物資を援助する、「覚醒(Awakening)」作戦を展開した。スンニ派の諸部族は、以前はアメリカと戦うことを望んだが、アルカイーダと戦うことを望むようになった。このような諸部族は「イラクの息子たち(Sons of Iraq)」と呼ばれた。そして、ザルカウィ自身がそうであるように、アルカイーダの指揮官たちの多くが外国生まれである事実が喧伝された。イラクのスンニ派の人々は、アメリカに協力することで以前犯した犯罪が免罪になると考えた。更に、破壊されたスンニ派居住地域の再建に有利な政府との契約が結べ、バグダッドにおける政治権力を共有できるとも考えた。

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ペトレイアス
 
 

 ペトレイアスの「覚醒」作戦は、多数の米軍の投入に支えられていた。そして、それはある時点まではうまくいっていた。ザルカウィ率いるアルカイーダの外国人メンバーたちは、ザルカウィの死によって落胆し、イラクを出ていった。しかし、ペトレイアスの作戦は、イラク国内での暴力対決を減少させ、アメリカ軍の撤退を可能にするために立てられたものであって、ザルカウィが始めたシーア派とスンニ派との間の軋轢を修復するためのものではなかった。アメリカの政治家や軍司令官たちは、2つのグループの間で政治的な対話ができるようなスペースを作ると語ったが、しかし、こうした試みは気まぐれな結果を生み出しただけだった。平和な状態を続けるという使命は、イラクの選挙を経て成立した政府に任された。この政府を率いているのは、ヌーリー・マーリキー(Nouri al-Maliki, 1950年~)首相である。

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マリキ

 アメリカが気付いたように、マリキとシーア派の政治連合は、イラクの復興よりもスンニ派に対する逆襲を行うことに関心を持っていた。「イラクの息子たち」は約束された給料の支払いを拒否された。諸部族の指導者たちは政府との約束を反故にされた。バグダッドでは、スンニ派の政治家たちは無視され、度々恥をかかされ、時には処刑された。スンニ派の政治家で最高位の職(副大統領)に就いていた、タリク・アル=ハシミ(Tariq al-Hashimi 1942年~)はテロリズムにかかわった容疑で告発された直後に国外脱出した。彼にはすぐに開かれた欠席裁判で死刑を宣告された。

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ハシミ 

 

 マリキ首相は、イラクの警察と軍隊の幹部にシーア派を登用し、その中には民兵組織に属し、スンニ派の人々を殺害した人々がいる。スンニ派の憎悪は再び高まり、アルカイーダの再登場を許す土壌となった。

 

●イスラム国:最初はイラク、続いてシリア

 

 2011年までに、アメリカ軍はイラクから完全に撤退した。アルカイーダはアブー・バクル・アル=バグダーディによって支配されるようになった。そして、アルカイーダは、外国での展開から、イラク国内での展開にシフトした。バグダーディは名前が示すように、イラク人である。外国人がいなくなったことで、「イラクの息子たち」とその親族たちは、アルカイーダに対する憎悪を忘れることが容易になった。ここにもう一つの名前の変更が行われた。アルカイーダは、イラク・イスラム国(Islamic State of IraqISI)として知られるようになった。

 

 バグダーディはザルカウィの戦術を採用し、それを拡大した。シーア派は彼にとっての主要な攻撃目標であり続けたが、警察署や軍隊の駐屯地、検問所、新兵募集事務所といった場所に自爆テロ攻撃を繰り返した。一般人に対する攻撃も続けられた。イラク・イスラム国家の幹部は、「イラクの息子たち」だった人々が占めるようになった。その多くがサダム・フセイン時代の軍隊の司令官や将兵であった。これによって、バクダーディの手兵たちは、寄せ集めの反乱軍ではなく、軍隊の雰囲気を纏うようになった。

 

 バグダーディに許には数千人の武装勢力が集結し、シリアで、対シーア派の第二戦線を開いた。シリアでは、バシャール・アル=アサド(Bashar al-Assad 1965年~)大統領に対する大規模な反乱が起きていた。バグダーティと彼の宣伝者たちにとって問題だったのは、アサドとアサド軍の司令官たちの多くが、シーア派の一派であるアラウィー派(Alawites)であることだった。イラクから百戦錬磨の兵士たち(battle-hardened)を送り込んだことで、イラク・イスラム国家は、シリア国内の反アサド勢力の中で、最も戦闘力の高い武装勢力グループとなった。そして、シリア各地でアサド軍と激しい戦闘を繰り広げた。バグダーディは彼のグループを「イラク・シリア・イスラム国(Islamic State in Iraq and SyriaISIS)」と改称した。これは、彼の更なる野望を示すものであった。彼が掲げる黒い旗にはアラビア語で「神だけが存在されている(There is no god but god)」と書かれている。 そして、多くの人々が預言者ムハマンドの紋章だと信じているマークが大量に作られ、そこかしこに貼られている。


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アサド

●イスラム国:最後の戦い?

 

 ザルカウィがイラクを掌握したように、バクダーディはシリアを掌握した。バクダーディは、イスラム国家が支配するシリアの町や村、特にラッカー県で厳しい弾劾を始めた。2014年初頭、アサド軍が再編成し、反撃を始めた。2014年5月、アサド軍はホムスを再奪取した。ホムスは反アサド蜂起の象徴的な場所であった。これは反アサド派に大きなダメージとなった。

 

 しかし、バグターディは、自分の生まれ育った国でのより大規模な、そして大胆な攻撃を計画していた。翌月のモスル奪取はイラク・シリア・イスラム国の進化の新たな段階を示した。イスラム国は、自爆攻撃で攻撃員を死に追いやらなくても、勢力範囲を獲得し、コントロールすることができるし、それを望むようになったのだ。バグダーディは、この機会を捉え、自分自身を「カリフ(教皇)」の地位に任じ、グループを「イスラム国(Islamic State)」に改名した。これには、バグダーディの地中海からペルシア湾までの地域全体を支配するという野望が示されているのだ。

 

 バクダーディは攻撃対象を拡大していった。イスラム国は、シリアでキリスト教徒やクルド人のような宗教、民族少数派と対峙したが、彼らへの対処について何か決まった方針はないように見えた。戦闘員たちは自分たちの判断で行動する自由があった。しかし、モスルでは、「カリフ(教皇)」からの命令が下った。非イスラム教徒は特別な税金を払うか、立ち去るか、改宗するか、さもなければ死刑にすべし、というものであった。最後の2つの選択肢が奨励された。モスルに古くからあるキリスト教の共同体が最初に攻撃対象にされた。そして数千人のキリスト教徒がモスルを脱出した。イスラム国が拡大していくにつれて、少数派の人々は自分たちに危機が迫っていることを認識するようになっていった。

 

 現在までにイスラム国家とバクダーディは世界のマスコミの注意を引き、連日報道されている。こんなことになるなどザルカウィは想像すらしていなかっただろう。世界中の人々は次のような疑問を持っていることだろう。あんな人々を地獄に突き落とすような奴らは一体どこから出てきたんだ?

 

(終わり)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






 

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