古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 日本政治

 古村治彦です。

 

 先日、安倍晋三首相がバラク・オバマ米大統領と共にハワイのパールハーバーを訪問しました。「謝罪」ではなく、「慰霊」のための訪問ということでした。そして、2人は演説を行いました。

 

安倍首相の演説では、和解、友情といった言葉が並べ立てられていましたが、全く心に響きませんでした。日本の演説の中に、わざわざ英語の「power of reconciliation」「the Brave respect the brave」を入れたのは、この点をアメリカ人にも分かって欲しかったからだと思われますが、「和解の力」「勇者は勇者に敬意を表する」というのは、いかにもアメリカ人に媚びた言葉であると思います。

 

 安倍首相はここから始まった戦いとも述べましたが、1941年12月8日は、15年間も続いた、アジア・太平洋戦争の終幕の最後の約4年間ということになります。それ以前の11年間に日本は既に多くの犠牲をだし、かつ多くの犠牲を強いていました。この11年間の戦いに関する和解は進んでいるかと言えばそれは残念ながら続いていません。ハワイのパールハーバーという軍港を宣戦布告なしに攻撃したことは卑怯なことですが、それ以上に、謀略や恫喝を駆使して満州から華北地域を侵略し、占領したということははるかに多くの犠牲と傷を中国に強いました。日本軍は立派だった、日本が支配した方が良かったなどと言うのは欺瞞であって、それは戦後日本に進駐してきたアメリカ軍が立派だった、アメリカの支配が良かったという心性の裏返しに他なりません。

 

 安倍首相が仕えた小泉純一郎元首相でさえ(と敢えて書きますが)、謝罪はしませんでしたが、盧溝橋事件の現場を訪れました。安倍首相が戦後を終わらせると大見得を切るのなら、ある意味では「楽な道」であるアメリカとの和解演出などではなく、北方領土問題やアジア諸国との和解を行うべきですが、そちらはうまくいっていないというのが現状です。

 

安倍首相のパールハーバー訪問が終了するのを待っていたかのように、今村雅弘復興相が靖国神社を参拝しました。そして、「時期が重なった安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾での慰霊に関し『(み霊に)報告しておいた』と語った」ということです。また、ハワイから帰国したばかりの稲田朋美防衛相が靖国神社を参拝しました。

 

 国内リヴィジョニストにしてみれば、してやったりでしょうし、既に退任まで1カ月を切っているオバマ政権は怖くないのですから、こういうことができたのでしょう。安倍首相をはじめとする人々は、「次のトランプ大統領は日本の防衛負担の増加や核武装の可能性まで言及した。これを利用して日本の防衛予算の増大と核武装の準備も行えばよい」と単純な頭で考えているようです。米中露韓北朝鮮台湾に囲まれた中で、日本が貧乏くじを引かされないために、最悪の事態に追い込まれないために、アメリカの政権交代を利用して何ができるかという思考が、日本の軍事力強化ではあまりにも単純すぎる話です。

 

2017年、超大国アメリカの指導者がドナルド・トランプに代わります。トランプは、オバマ政権とは違う新機軸を打ち出そうとしています。外交面で言えば、オバマ民主党政権を結局のところ引きずっていってしまった、人道的介入主義派の政策とは違う、リアリズム(現実主義)的、アイソレーショニズム(アメリカ国内問題解決優先主義)的政策を実施することになるでしょう。世界各国に介入・干渉することを手控えるようになるでしょう。そして、アメリカとは体制が違う国々、具体的には中国とロシアとの関係を改善していくことになります。もちろん、何でも仲良しという関係にはなりませんし、貿易問題や資源問題などではバチバチやり合うことになるでしょう。そのためには大変複雑で難しい駆け引きが行われるでしょう。その一環として、トランプは台湾に肩入れする姿勢を見せ、中国を慌てさせながら、中国のアメリカにおける代言者とも言うべき、ヘンリー・キッシンジャーを重用し、汗をかいてもらうことをしています。「相手とは最終的な手切れにならないようにし、基本的に仲良くしながら、しかし、安心させない」ということをやっているように思います。

 

そうした中で、トランプに最初に会談相手に「選ばれ(御しやすい、ちょっと強く言えばアメリカの軍需産業から戦闘機やらを買うだろうと値踏みされて)」、オバマ大統領には広島に行ってやったのだからお前はハワイに来いと言われればホイホイと行って、和解だ、友情だの薄っぺらい三文芝居をやりながら、「これでお許しが出たし、国内向けのこともある」と閣僚が2人早速靖国神社に訪問する、中国との関係は改善の兆しも見えない。ロシアのプーティン大統領を日本に招きながら懸案の北方領土問題で、大見得を切った割には何も進展させることができなった。アメリカ、中国、ロシア、台湾、韓国といった国々に囲まれて、丁々発止の複雑な外交交渉や政策を実施して、国益を守らねばならないというのに、この程度の指導者をいただきながら、抱えながら、私たちは2017年を迎えなければならない、というのは何とも悲しいことです。

 

(終わり)





アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22


 

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 古村治彦です。

 

 いよいよ2016年も最後の週に入ります。今年はイギリスで国民投票が行われ、イギリスのEUからの離脱が過半数の支持を得ました。また、アメリカではドナルド・トランプが大統領選挙で勝利を収めました。

 

 ドナルド・トランプが大統領になることで、世界はどうなるかということがやかましく言われています。「どうなるか」というのは受け身です。「どうするか」ということが重要だと思いますが、日本はどうしても主体的に動けるアクターではなく、どうしてもアメリカの意向や状況から影響を受けてしまいますから、「どうなるか」という思考になります。

 

 以下の記事は、日本の防衛予算が5年連続で増加していること、そして、日本版国家安全保障会議(NSC)が自衛隊の活動範囲を増大させることを決めたということを紹介しています。そして、日本のこうした動きは、トランプ政権誕生に合わせたものだと分析しています。もっとも防衛予算の今年の増加はトランプ政権誕生と関連があるかもしれませんが、5年連続増加というのは、トランプ政権誕生とは関係ありません。

 

 今回のトランプ政権誕生をどのように「利用」するか(「どうするか」)では、2つの考えがあるようです。トランプは同盟諸国がアメリカに対して十分なことをしていないとし、日米同盟見直し、在日米軍撤退論までぶち上げています。これに対して、「それならば彼の主張を利用して、これまでの日米同盟を見直して、在日米軍を縮小してもらいましょう」というものと、「日米同盟見直しは大変だ、日本はもっとお金と実際の行動でアメリカにもっと貢献しないといけない」というものの2つの考えが出ています。

 

 日本の予算決定の過程を考えると、トランプが大統領選挙に当選したから、あわてて防衛予算を増額したということは考えられません。今回の国防予算の増加はヒラリーが当選しようが、トランプが当選しようが、決まっていたことです。そして、日本政府はヒラリー当選を予想していたようですから、この場合には、「アメリカが人道的介入をする場合にその手助けができるように、また、中国に対する牽制」ということが理由としてアメリカ側に説明されて、「愛い奴じゃ」ということになったでしょう。

 

 トランプ政権が誕生しても、安倍政権は続けて国防予算の増額を続けるでしょう。「日本はきちんとお金と人員を出して、アメリカに貢献しますし、アメリカから武器を購入することでアメリカ国内の軍需産業にも貢献します」ということをお題目にするでしょう。トランプ大統領が日米同盟見直しということを言っているのなら、更に貢いで満足してもらわねばならない、ということを理由にするでしょう。そこには、「日米同盟見直しということなら、日本の負担を減らすための動きができるはずだ」という思考は全くありません。

 

 このような単純極まりない、危険なリーダーを抱えて、私たちは年を越して新しい年を迎えねばなりません。

 

(貼り付けはじめ)

 

国防費の歴史的な上昇によって、日本は更に平和主義から遠のく(With Historic Defense Spending Boost, Japan Turns Further Away from Pacifism

 

ロビー・グラマー筆

2016年12月22日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2016/12/22/with-historic-defense-spending-boost-japan-turns-further-away-from-pacifism-tensions-south-china-sea-senkaku-islands-dispute/

 

木曜日、日本の内閣は5年連続で国防予算の増額を認めた。日本は中国との緊張関係を高め、また、近隣には好戦的な北朝鮮が存在する。こうした状況の中で国防予算を増加させ続けている。同時に、日本の国家安全保障会議(NSC)は平和時に同盟諸国を防衛するために自衛隊(SDF)の能力の範囲を拡大させるという決定を下した。現状を考えると、これらの動きは、第二次世界大戦以降の70年間の軍事上の平和主義から日本が遠のくことを強く打ち出す動きということになる。

 

国防予算の総計は5兆円超、約440億ドルとなり、国防費の増大分は、新しい潜水艦の導入、アメリカからF-35の6機購入、ミサイル防衛システムの改良などに割り当てられることになった。この国防予算が決定されたのは、安倍晋三首相が尖閣諸島における日本の沿岸警備隊(海上保安庁)の存在を強化すると発言した次の日のことであった。尖閣諸島は中国もまた領有を主張している地域である。

 

2012年の就任以来、安倍首相は自衛隊の能力と活動範囲の拡大に努力してきた。彼の努力は文化的に平和井主義を堅持してきた日本国内での政治的な戦いを激化させている。

 

日本は第二次世界大戦終結以降、正式な軍隊を保持していない。1947年にアメリカの占領下で作られた日本国憲法は、日本は「国の主権としての戦争を永久に放棄」し、「陸海空の軍隊や戦力を保持」しないと宣言した。

 

軍隊に代わり、日本は自衛隊を保持している。これは他国における軍隊と同じ存在だ。しかし、いつ、どこで、どのように実力を行使するかについては厳格な規則が定められている。しかし、第二次世界大戦が歴史上の記録となるほど遠ざかり、近隣諸国との地政学的な緊張が高まる中で、安倍首相率いる日本政府は、2015年に半軍隊的存在である自衛隊の地位を再解釈するための法律を国会で通過させた。この法律では、アメリカやその他の軍事同盟を結んでいる同盟諸国が攻撃を受けた場合に自衛隊がそれを援助することが可能となった。

 

そして、木曜日、自衛隊は活動範囲を広げることになった。日本の国家安全保障会議は、平和が保たれている時であっても、自衛隊がアメリカの海軍部隊を防衛することを可能とする新たなガイドラインを認めた、と朝日新聞は報じている。

 

この発表の後に行われた記者会見で稲田朋美防衛大臣は「日米同盟の抑止力は更に強化されるだろうし、日本の平和と安全は更に確実なものとなるだろう」と語った。

 

日本は、最大の同盟国であるアメリカと中国との間の外交的な十字砲火の真っただ中に置かれる可能性がある。特にドナルド・トランプ次期大統領が正式に大統領に就任した後はそうなる可能性が高い。トランプは台湾と貿易問題について早速中国と外交的な鞘当てを開始した。これは結果的にアジア太平洋地域における緊張を高めることになる。

 

日本政府が自衛隊に更なる能力を与える決定をしたことはトランプ次期政権の要求を満たすことを意味している可能性がある。トランプは選挙期間中に、アメリカの同盟諸国は自国の防衛について十分なことをやっておらず、アメリカによる防衛に対して更にお金を支払うべきだと主張した。専門家の中には、トランプのこうした発言を受けて、日本がトランプ大統領の下でのアメリカとの関係について懸念を持っていると指摘している人々もいる。

 

テンプル大学教授ジェフ・キングストンは、11月に安倍首相とトランプの初会談が行われた後にCNBCに出演して次のように語った。「アジア地域に住む人々の多くは、アメリカが頼りにならない同盟国だと考えている。トランプはこのような認識をさらに強めることになるだろう。トランプは更にアジア地域における外交に多くの不確実要素を導入してしまうだろう。アジア地域は多くの緊張を抱えている。だから、安倍首相はニューヨークに行き、トランプとの連帯を示したのだと思う」。

 

(貼り付け終わり)

(終わり)



アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22





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 古村治彦です。

 

 今回は1956年の日ソ共同宣言調印までの動きをまとめた本『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』(松本俊一著、佐藤優解説、朝日選書、2012年)を読んで学んだことや感じたこと、更に昨日から考えたことを書きたいと思います

 

 本書は、1966年に朝日新聞社から出版された『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』を新たなタイトルにし、更に元外交官の佐藤優(さとうまさる、1960年~)氏の解説を付けて出版されたものです。

 


 本書の主題は、日ソ国交回復に向けた交渉と1956年の日ソ共同宣言調印までの動きです。1955年1月に動き出した日ソ国交回復の動きは、ロンドンとモスクワでの交渉を経て、1956年10月の日ソ共同宣言の調印で終わります。この2年間の動きを、当事者である松本俊一が克明に描き出しています。

 

 私が今回この本を読もうと思った理由は、今年の12月15日に安倍晋三首相がロシアのウラジミール・プーティン大統領を地元の山口県に招待し、下関にある有名な料亭旅館である春帆楼(しゅんぱんろう、日清戦争後に、日本側代表・伊藤博文、清国側代表・李鴻章が下関条約について話し合った場所)で、日露間にとって、なかなか取れない棘のようになっている領土問題を解決する意向であるということを受けて、60年前にはどのような交渉が行われたのかを知りたいと思ったことです。

 

 今回の日ロ交渉では、安倍首相の参謀役となっている鈴木宗男元議員は、歯舞、色丹の返還と+アルファで日ロ平和条約締結まで行きたいと考えているようです。この鈴木氏の懐刀となっているのが今回ご紹介する本の解説をしている佐藤優氏です。

 

(貼り付けはじめ)

 

2島+アルファ」で解決を=北方領土交渉で鈴木宗男氏

 

時事通信 10/29() 14:57配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161029-00000051-jij-pol

 

 ロシア外交に詳しい鈴木宗男元北海道・沖縄開発庁長官は時事通信のインタビューに応じ、北方領土交渉について、歯舞群島と色丹島の返還に加え、国後島の共同統治などで合意する「2島プラスアルファ」の解決策が現実的だとの考えを明らかにした。

 

 

 鈴木氏はプーチン政権要人らとパイプがあり、安倍晋三首相と北方領土問題をめぐり意見交換を重ねている。

 

 平和条約締結後の歯舞、色丹2島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言について、鈴木氏は「プーチン大統領も認めている。ここがスタートラインだ」と指摘。その上で「何がプラスアルファで出てくるかで判断すべきだ」と述べ、国後島の共同統治のほか、同島への経済特区導入や元島民の自由往来、周辺海域の漁業権獲得などをロシア側が受け入れれば、平和条約締結に踏み切るべきだと主張した。

 

 鈴木氏は、国後、択捉両島について「その2島を返せ、と声高に唱えることは現実的ではない」との認識を表明。「ロシアの世論調査で8割が(北方領土を)返す必要がないと言っている。全部返すなら、プーチン氏は大変なリスクを負う」と語った。 

 

(貼り付け終わり)

 

 2つ目は、2016年11月20日に私が所属する「副島隆彦を囲む会」が主催いたしました第36回定例会で、鳩山由紀夫元首相をお迎えしての講演会を開催したことです。鳩山元首相の祖父にあたる鳩山一郎元首相が熱意を持って進めた日ソ交渉について知りたい、そして、鳩山由紀夫元首相は、普天間基地の移設問題で最終的に辞任に追い込まれましたが、「祖父・鳩山一郎元首相の日ソ国交回復の時にはどんな好条件と悪条件があったのか、そして、普天間基地移設問題で孫の鳩山由紀夫元首相が退陣することになったのが、それはどんな条件が足りなかったせいなのか」について考えたいと思ったことです。

 

 本書の著者、松本俊一(まつもとしゅんいち、1897~1987年)は、生粋の外交官です。1921年に東京帝国大学法学部卒業後に外務省に入省しました(24歳)。本書の解説をしている佐藤優氏によると、松本俊一は、当時の主流派である「ABC外交官(アメリカ[America]、イギリス[Britain]、中国[China]を主な勤務地とする外交官)」ではなく、フランス語圏を勤務地とする外交官でした。在ベルギー外交官補、アントワープ領次官補、在フランス大使館などフランス語圏を勤務地としています。現在の言い方で言うと、フレンチ・スクールに属していたということになります。

 

戦時下の1942年には、東條英機内閣で外務大臣となった重光葵の下で、外務次官を務めます(45歳)。また、終戦を決めた鈴木貫太郎内閣では外相の東郷茂徳の下で再び外務次官となります(48歳)。

 

 その後、公職追放となりますが、1952年に解除となり、外務省顧問に就任し、続いて、戦後初の駐英国日本大使に就任します。1955年の総選挙では、鳩山一郎(1883~1959年)率いる日本民主党から立候補して当選、代議士となります(58歳)。代議士になった直後、鳩山首相(鳩山内閣は1954年12月10日に成立)から、日ソ国交回復交渉の全権に起用されました。その後、1956年の日ソ共同宣言まで、日ソ交渉に関わり続けました。

 

 松本俊一は、1958年に岸信介内閣で内閣官房副長官に就任しますが、1963年の総選挙で落選してしまいます(66歳、3期連続当選でストップ)。その後、再び、外務省顧問となり、1965年にはヴェトナム戦争の調査団として、ヴェトナムを訪問し、報告書を提出、その中に、「アメリカの敗北は避けられない」と書き、物議をかもしました。また、この年から1969年まで日本アラブ協会会長も務めました。対米従属を第一とする戦後の主流外交官とは一線を画す存在であったと言えます。それは、彼が今でいうところのフレンチ・スクールに属していたからであろうと思います。ヴェトナム戦争の調査団に抜擢され、アメリカの敗北を予想できたのも、フランス語が堪能であったので、アメリカ側からの情報だけではなく、地元ヴェトナム人の声を理解できたからだと思います。

 

 日ソ共同宣言調印に至る過程にはいくつかの段階があります。

 

1.はじまり(ソ連側からの接触と日本側の交渉開始決定):1954年12月―1955年5月

2.ロンドン交渉(松本俊一全権とヤコフ・マリク全権との間の交渉):1955年6月―1956年3月

3.漁業交渉(河野一郎全権[農水相]とニコライ・ブルガーニン首相との間の話し合い):1956年3月―1956年5月

4.モスクワ交渉(重光葵全権とドミトリー・シェピーロフ全権との間の交渉):1956年7月―9月

5.モスクワ交渉(鳩山一郎首相とブルガーニン首相、ニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記との間の交渉):1956年9月―10月

 

 日ソ国交回復は1954年12月に鳩山一郎内閣が発足してから動き出すことになります。日ソ国交回復はソ連側からの打診で始まりますが、日本側としても、シベリアに抑留されている日本人の帰還を実現させるためにソ連への接触が必要でした。しかし、鳩山政権成立まで、日ソがコンタクトを取るという雰囲気にはありませんでした。太平洋戦争の最終盤にソ連がまだ効力を持っていた日ソ不可侵条約を無視して満州と樺太、千島列島に侵攻し、日本人を多数連行してシベリアに抑留して強制労働させていたことに反感がありましたし(これについては今でも日本側には残っていると言えます)、冷戦が始まり、アメリカ率いる西側自由主義陣営に属することになった日本が軽々にソ連と交渉することは難しいという事情がありました。また、上記のような理由から、吉田茂や重光葵といった外務省出身の政治指導者たちにはソ連に対しての不信感もありました。

 

 鳩山一郎は日ソの国交回復(日ソ平和条約[戦争状態を止める条約]締結)と抑留された日本人の帰還、国連加盟を主張していました。ソ連側は鳩山政権成立が日ソ交渉を始めるタイミングだということで、鳩山一郎に話を持ちかけました。そして、鳩山一郎は代議士に当選したばかりの、外交官出身(米英系ではないフレンチスクール)の松本俊一を交渉全権に抜擢しました。

 

 1955年から松本俊一全権とヤコブ・マリク全権による交渉がロンドンで開始されました。焦点は日本人抑留者の早期帰還、国連加盟と北方領土問題でした。抑留者の期間に関しては、双方ともに異論はなかったわけですが、北方領土(国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島)の返還問題では日ソ双方の意見は平行線をたどりました。歴史的経緯から見れば、これらの島々は日本に帰属すべきものですが、実質的にはソ連が占領している状態です。

 

 ソ連側としては、歯舞群島と色丹島の返還(国後島、択捉島はソ連に)で手を打って、それで日ソ平和友好条約を締結するつもりでした。松本全権も、「この条件での交渉妥結、平和条約締結が妥当」という判断を下しました。しかし、国内の反鳩山である吉田茂をはじめとする人々はこのような条件には絶対反対でした。

 

 その後、1956年7月に重光葵外相(松本俊一の外務省・代議士を通じての先輩)が全権としてモスクワに乗り込んでのドミトリー・シェピーロフ(外相)全権との交渉が開始されました。重光葵は四島返還を強硬に主張し、松本と対立していました。しかし、モスクワ交渉を通じて態度を豹変させ、「二島返還を可とする」という内容の電報を日本に送ることになります。この時、重光は首相の座を狙っており、日ソ交渉妥結、日ソ平和条約締結を自分の手柄にしようとし、強い態度で交渉に臨み、しかし、最後まで頑張ったが最後は妥協せざるを得なかったが成果は得たという演出をしようとしたのではないか、と松本は推測しています。しかし、日本に残っていた鳩山首相や側近の河野一郎農相は、重光の態度豹変を受け入れられない(二島返還に反対ではないが)、もっと頑張るようにと返事を送りました。

 

 このモスクワ交渉が行われている1956年8月19日、重光外相はロンドンの米国大使館を訪問し、ジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談しました。この時、ダレス長官は、「日本が国後島と択捉島を放棄するのなら、サンフランシスコ講和条約第26条に基づいて、沖縄をアメリカに併合する」と述べました。これは「ダレスの恫喝」と呼ばれるものです。サンフランシスコ講和条約第26条では、日本がある外国と戦後処理で講和条約締結内容以上の利益を与える場合には、講和条約締結国にもそれと同程度の利益を与えられねばならない、というもので、貿易協定における最恵国待遇と同じような内容であると言えます。

 

 沖縄をアメリカに併合されてはたまりません。また、これはアメリカが二島返還で妥協しての日ソ平和条約締結を望んでいないことのシグナルであるということになり、日ソ平和条約締結を諦め、共同宣言方式で、領土問題は残っていることを確認しながら、国交回復ということになりました。

 

 日本の日ソ平和条約締結を阻止する形になった、ジョン・フォスター・ダレスは、日弁安保体制の「設計者」とも言える人物です。ダレスは、日米安保体制の根幹を「アメリカが、日本国内の好きな場所に、必要な規模で、いつでも、そして必要な期間に基地を置くことが出来る」ことに設定しました。そして、この状況は残念ながら全く変わっていません。この戦後の日本の「対米従属」「植民地化」の枠組みを決めたダレスが、日本の独自外交である日ソ交渉を阻害したのは、「日ソ間で大きな懸案を残すことで、日本がアメリカから離れないようにする」という目的もあったと思われます。

 

 昨日、沖縄に配備されていたオスプレイが墜落大破するという事件が起きました。翌日から安倍晋三首相とウラジミール・プーティン大統領との間で北方領土問題に関して「新しいアプローチ」づくりによる問題解決を目指す交渉が行われるというタイミングで事件は起きてしまいました。

 

また、日露首脳会談の前に、既に北方領土返還はほぼ不可能であるという内容の報道もなされています。それは、ロシア側が北方領土を返還した場合に、そこに米軍基地を置くのかという問いをし、それに対して、日本側は「その可能性を排除できない」と答えたことで、ロシア側が態度を硬化させたというものであり、「ロシア側は日本が独自に決定できない」ことに懸念を持っているというものでした。

 

 ロシアにしてみれば、自分が持っている限りは絶対に米軍基地など作らせない需要な地域を日本に引き渡して、そこに米軍基地が作られてしまえば、歴史に残るほどの大失態になります。ですから、返還をする場合には慎重の上にも慎重を期して、米軍基地を作らせないという確約が欲しいですし、それがないなら、わざわざ返還する必要はないということになります。現実的には米軍基地が作られる可能性はかなり低い、ほぼないと言っても、そこをうやむやにしたままにはできません。

 

 日本側にしてみれば、北方領土返還と日露平和友好条約締結は、戦後処理の大きなパートということになります。しかし、「米軍基地を作らせない」ということを日本が独自に決めることはできません。それは、日米安保体制の根幹は、その設計者であり、日ソ交渉の妥協を阻害したダレスが設定したように、「日本国内の好きな場所に米軍基地を作ることが出来る」ということだからです。北方領土をその例外にしてしまうと、つまり、日本国内に米軍基地を作ることが出来ない場所が出現すると、その「例外」が「前例」となってしまい、日米安保体制の根幹を崩すアリの一穴になってしまう可能性が出てきます。

 

 日米両国内の日米安保体制維持によって利益を得ている人々、既得権を持っている人々にしてみれば、これは大変危険なことです。

 

 このように考えていくと、二島返還+アルファか、四島返還かということ以前に、「日本の領土となることは、米軍基地建設がされる場所になること」ということになり、これは、領土交渉や国境画定交渉において大きな障害となります。

 

 近代国家を構成する三要素は、国民、国土、国境であり、その中で主権が存在します。主権とは、国家を構成する枠組みや形を決める権利ですが、日本にはそれを独自に決められないということであり、この点では残念ながら、近代国家の要件を実質的に一部書いている半主権国家と言うことができ、これは属国、従属国と言い換えることができると思います。

 

 日本は、経済規模は世界有数の大きさであるが、半主権国家である、という前提から物事を見ていくということの重要性を改めて認識しています。

 

(終わり)














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 古村治彦です。

 

 今回は、大谷敬二郎著『二・二六事件の謎 昭和クーデターの内側』(光人社NF文庫、2012年)を皆さんにご紹介します。

 


 二・二六事件とは、1936(昭和11)年2月26日未明に発生した事件です。陸軍の青年将校たちが自分の所属していた部隊の下士官と兵約1400名を率いて、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃し、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠しました。斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、岡田首相の身代わりで義弟の松尾伝蔵退役陸軍大佐が殺害され、鈴木貫太郎侍従長は瀕死の重傷を負いました。岡田首相と牧野前内大臣は何とか難を逃れることが出来ました。その後、東京の中枢は青年将校たちに占拠され、一触即発の状態となりましたが、29日に青年将校たちが下士官と兵を部隊に返し、事件は終わりました。

 

 その後の裁判では、青年将校たちの主だった者が死刑となり、その他に、民間人側からは、叛乱の首魁として青年将校たちを扇動したとして、思想家の北一輝と元騎兵少尉の西田貢が死刑となりました。この事件は現在まで、映画やドラマ、小説、演劇のテーマとして取り上げられています。青年将校たちの行為は許されるものではありませんが、舞台で下士官や兵と接して、彼らの厳しい生活を知り、何とかしたい、政治は何をやっているんだという思いからこのような行動に出たということで、彼らの純粋な思いが人々を惹きつけているのだと思います。

 

 この本は、1967年に柏書房から出版され、1975年には同社から増補版が出されています。光人社NF文庫に収められたのは2012年です。著者の大谷敬二郎は、当時、憲兵少佐で、東京憲兵隊特高課長を務めていました。彼は、この事件の捜査の最前線にいた人物です。

 

 彼らがこのような行動に出るまでに、その当時、陸軍の要職からパージされていた皇道派と呼ばれる陸軍内の派閥の頭目と見られていた、荒木貞夫、真崎甚三郎、山下奉文たちの教唆があったこと、更に事件が起きて以降、香椎浩平戒厳司令官、本庄繁侍従武官長、堀丈夫第一師団長といった人物たちは、この事件を利用して、陸軍主導の内閣を作ろうという動きに出ます。しかし、昭和天皇の激しい怒りを知り、彼らは青年将校を見捨て、その後は保身に汲々とすることになります。

 

 本書を読んで思うことは、「日本では偉い人ほど罰せられない」ということです。そして、「偉い人たちを守るために、その下の人たちや外部の人たちが理不尽に罰せられる」というものです。二・二六事件の場合、実力部隊を動かして政府や軍の最高幹部たちを殺害したのですから、将校たちの死刑は当然のことでしょう。五・一五事件の時、死刑になった人はいなかったことを考えると、バランスが悪いとは思われます。しかし、叛乱罪となれば仕方がないことでしょうし、将校たちも捨て石になるという覚悟もあったのですから、その点では彼らもまた判決を甘受したと思います。しかし、彼らを利用しようとした人々は裁かれてもいないし、罰せられてもいないのです。

 

 そして、陸軍は、その後、軍紀粛清を唱えながら、同時に、庶政一新を掲げて政治に介入することになります。軍の政治介入は、軍人勅諭でも厳しく戒められていましたが、自分たちが起こした不祥事を逆手にとって、陸軍は政治介入を強めました。政治の側も、また、クーデターが起きるかもしれないという恐怖感に支配されるようになり、陸軍の介入を許すことになりました。このようなことは、青年将校たちが望んだものではありませんでした。このような結果になったのも、結局、青年将校と北一輝たちに責任を押し付け、軍紀粛清と言いながら、しっかりと事件の捜査と処理をしなかったためです。

 

 青年将校は意図と全く違う結果を生み出す行動になってしまったことを冥界でもさぞや悔しく思っていることだろうと思います。

 








(終わり)










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 古村治彦です。

 

 2016年8月15日の終戦記念日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を迎えました。

 

 正午から行われた戦没者追悼式では黙とうの後に、今上天皇と安倍晋三内閣総理大臣の式辞が読まれました。それぞれの式辞は下に貼り付けました。

 

 2つの式辞を比較してみると、この戦没者を追悼し平和を祈念する日と戦没者追悼式への思いが全く違うベクトルとなって平行であることが分かります。

 

 今上天皇の式辞は簡潔明瞭、目で読んでも、耳で聞いても、分かりやすい言葉で、大事なことを人々に伝えよう、分かってもらおうとしていることが伝わってきます。戦争で斃れた人々があるから、今の日本の繁栄と平和がある式の浪花節ではなく、なぜ戦争を防げなかったのか、なぜ悲惨な戦いが続けられたのか、なぜ戦争で斃れた人たちを救うことが出来なかったのかという「反省」の意が込められていることがよく分かります。これだけ明瞭だと外国語に翻訳する場合もその意図は伝わりやすく、今上天皇は世界に向けて語りかけていることが分かります。また、言葉を飾りたてないことで、その意図はまっすぐに伝わるので、明確な強い意志がなければ、簡潔明瞭な言葉は書けません。

 

 一方、安倍首相の式辞には美辞麗句があふれ、安倍首相が日頃は目にもせず、おそらく式辞まで読めもしなかったであろう言葉すら散見されます。大本営発表やアッツ島守備隊玉砕(全滅)に関する 記録されたラジオ放送音源を聞いたことがありますが、そこにも美辞麗句や難しい漢語があふれていました。美辞麗句で飾るというのは、文章の裏にある意図を隠そうとするものです。また、これでは耳で聞いただけでは何を言っているのか分かりませんし、意味が分からない言葉がフックになって人々の注意を引くことはありますが、美辞麗句を使いたがる人は、全国民に伝えようという気持ちがないことが分かります。それは、個の式辞に書かれている浮ついた内容を安倍晋三氏自身が信じていないということが原因です。

 

 美辞麗句で飾り立て、「今の日本の繁栄と平和があるのは皆さまのお蔭です」的な耳触りの良い浪花節を述べ、世界に向かって語りかける気持ちがない(翻訳しにくい言葉で長く書けば、翻訳する場合には難しくなります)、「8月15日だけの平和愛好家」である安倍晋三首相。


 人間は嘘をついたり、思ってもいないことを言う時には多弁で空疎な言葉を並べます。一方、真剣に気持ちを伝えようとするときには、自分がいつも使う言葉を使います。今回の2つの式辞はそれを良く表しています。

 気持ちもこもらず、適当に美辞麗句を並べ立てて、その場をやり過ごすことに終始した式辞は、戦没者に対する冒涜ではないかと私は考えます。

 

(新聞記事転載貼りつけはじめ)

 

天皇陛下のおことば 戦没者追悼式

 

20168151230

http://www.asahi.com/articles/ASJ8G544JJ8GUTIL00Z.html

 

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 

 終戦以来既に71年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

 

 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 

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安倍首相の式辞全文 戦没者追悼式

 

20168151232

http://www.asahi.com/articles/ASJ8D466JJ8DUTFK00C.html

 

 戦没者追悼式で安倍晋三首相が述べた式辞の全文は次の通り。

 

 本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を挙行するにあたり、政府を代表し謹んで式辞を申し述べます。

 

 あの苛烈(かれつ)を極めた先の大戦において祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異郷に亡くなられた御霊、皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを片時たりとも忘れません。衷心より、哀悼の誠を捧げるとともに、改めて敬意と感謝の念を申し上げます。

 

 いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、脳裏から離れることはありません。おひとりでも多くの方々が、ふるさとに戻っていただけるよう、全力を尽くします。

 

 我が国は戦後一貫して戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々(しし)として歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。

 

 戦争の惨禍を決して繰り返さない。これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。そのことが御霊に報いる途(みち)であると信じて疑いません。

 

 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に永久(とわ)の安らぎと、ご遺族の皆様にはご多幸を心よりお祈りし、式辞といたします。

 

(新聞記事転載貼りつけ終わり)





 
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