古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 本の紹介

 古村治彦です。

 

 今回は副島隆彦先生の最新刊『迫りくる大暴落と戦争〝刺激〟経済』(徳間書店、2018年5月)をご紹介します。

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迫りくる大暴落と戦争〝刺激〟経済

 

 今回の最新刊にも副島隆彦先生による大胆な予測がたくさんなされています。アメリカの北朝鮮爆撃、攻撃が終わって「戦争によって経済を刺激して好景気を作り出す」、戦争刺激経済(war economywar boosts economy)が創出されますが、それも続かずに、大暴落がやってくるということがこの本の最も重要な点になります。これは第一次世界大戦の後の動きと同じだということです。

 

 アメリカは考えてみれば、何年かおきに戦争をして経済を立て直し、また崩れるということを繰り返してきました。軍需産業が一大産業ともなっています。この事実を踏まえて、直近の動きを考えてみると、戦争刺激経済が発動されそうです。

 

 その他にも様々な予測や分析が掲載されています。是非手にとってご覧ください。よろしくお願いいたします。

 

(貼り付けはじめ)

 

まえがき

 

●これからの3年、さらに3年の6年間を予測する

 

 この本では、これからの3年、さらにそのあと3年、計6年を予測(予言)する。

 

 これからの日本及び世界の経済はどうなるか。私の予測、先見(せんけん)は、大きくP7の図のとおりだ。この本が出て近いうちに株式市場で2回ぐらい大きな山が来るだろう。なぜなら、株式の次の暴落に対してアメリカは戦争〝刺激(しげき)〟経済(War boosts Economy. ウォー・ブースト・エコノミー)でなんとかエンジンをブオブオと吹かして景気を上げようとするからだ。

 

 トランプは「北朝鮮の金正恩に会う」と言ったが、この米朝の話し合いは、短時間でだめになるだろう。世の中に不安感が広がる。それで投資家も心配して、NYダウと日経平均はだーっと1回落ちる。1000ドル、2000ドル落ちる。日経平均も1000円、2000円ぐらい平気で落ちる。

 

 トランプは、ここで戦争(せんそう)によって経済を刺激する、押し上げるまさしくWar boosts economy.(ウォー・ブースト・エコノミー)を仕掛ける。戦争刺激経済とは、まさしく、「米軍による北朝鮮への爆撃」のことだ。戦争で経済を刺激する、のである。景気の落ち込みから脱出するためのアメリカの手口だ。これで、北朝鮮爆撃のあと、「アメリカは勝った!」で安心感が広がり急激に株価がハネ上がる。それに連れて日経平均も、どーんとハネ上がる。

 

 ところが、少しすると、また、ドドドと下がってゆく。こういう動きを2回、3回金融市場は繰り返すだろう。私はこのように予言する。

 

 この「ウォー・ブースト・エコノミー」、すなわち、戦争で経済を押し上げる。経済を政治(=軍事)の力でブーストboostする、押し上げる。この“War boosts economy.”という言葉の意味を、私がここまで易(やさ)しく説明しても、それでもまだ分からない人は、それは私、副島隆彦の本のこれまでの熱心な読者では無い。

 

 欧米では、これを簡単に「ウォー・エコノミー」と言う。このコトバの意味を頭のいい高校生でも知っている。ところが、日本(人)では相当の高学歴の金融専門家や、英語ペラペラのトレイダー(ファンド・マネージャー)たちでも、知らない。分からない。日本人は「ウォー(ブースト)エコノミー」と「ウォー・タイム・エコノミー」(戦時()経済。戦争中(ちゅう)の経済)の区別がつかない。その違いが分からない。私は、この10年、自分の本で、ずっとこの「ウォー・エコノミー」、戦争経済のことをあちこちで書いてきた。だが、ほとんど誰も理解してくれなかった。それでわざと間(あいだ)に「ブースト」を入れてより正確な英文にすることで戦争〝刺激〟経済と表記することにした。これで何とか日本人に分かる。分かってもらえるだろう。ヤレヤレだ。戦争を煽ることで景気、経済を押し上げる。それが「戦争(刺激)経済(ウォー・エコノミー)」だ。

 

 ダメ押しをする。欧米白人社会では、頭のいい高校生でも知っている、この war economy 「戦争経済」を、日本では、経済学部を出た市場関係者や、経済学者でも知らない。それどころか、実は政治学の学者や政治評論家たちも知らない。即ち日本ではまだ誰も知らない。

 

 どうしても「2兆円(200億ドル)分ぐらいミサイルや爆弾を使ってくれ」と、アメリカの軍需産業界が要求している。「政府がそうしてくれないと、兵器が売れなくて在庫が溜()まって仕方がない」と軍需(=国防)産業の親分たちが言う。レイセオンとロッキード・マーチン・マリエッタとボーイング社などである。日本で言えば三菱重工や川崎重工である。そうやって国防産業が政府に泣きつくのである。トランプ大統領は、このことを重々分かっている。トランプという人はビジネスマン(商売人)であるから、企業経営者たちの苦労が死ぬほど分かっている人だ。だから北朝鮮はウォー・エコノミーの問題なのだ。北朝鮮問題とは独裁者の国からの核ミサイルの取り除き、廃棄のことだけではない。アメリカの軍需産業(ミリタリー・インダストリー)のために兵器の消費がどうしても必要なのだ。これが戦争経済だ。第2章でさらに説明する。

 

●北朝鮮爆撃で株価の大変動が起きる

 

 株価が上下に動くことを、ボラティリティ(変動率)という。戦争はこの株価のボラティリティを激しく上下に大きく拡大させる。この価格の変動率(ボラティリティ)は、資金運用者と投資家にとっては、たいへん有難い重要な仕掛けだ。投資の基本は、買ったら売り、売ったら買い戻す、である。安値で買って価格が上がったら売って利益を取る。あるいは、下落相場なら、(先(さき)(もの)での売りならば)借りてきた株を先(さき)()で高値で売っておいて、暴落したあと安値で買い戻す。そして利益を取る。これしかない。そのためには、業界全体にある程度のボラティリティがなければいけない。無風状態で値動きなしが何カ月も続くのが、一番イヤなのだ。

 

 だから、ここから先、しばらくの間、株価の急上昇と暴落が何回か繰り返されるだろう。暴落したらその時、サッと買う。そのあと暴騰が来る。ここで迷わずサッと売る。ここで売れないでじっと持っていると、大損する。なぜなら、また暴落するからだ。また安値、底値でサッと買う。秋までに、こういう動きが3回ぐらいあって繰り返すだろう。

 

 第一次世界大戦(1914─1918)の時にも、これとまったく同じ暴騰と暴落があった。その時、日本は日露戦争(1904─1905)に勝利したあとで、世界の5大国入りして帝国(エムパイア)になっていた。日本は第一次大戦の戦争前景気で、1回おおいに盛り上がって、その後、ばたーんと落ちた。このあと戦争が終わったようだ、ということで、またドーッと株(景気)が上がった。ところが、暫(しばら)くしたら、またドーッと落ちた。1920年から〝戦争景気〟のあとの長い不況が来た。これと同じことがまた世界で起きようとしているのである。

 

第一次大戦(WWI)(ザ・ファースト・ワールドウォー)は、1918年12月に終わり、1919年から、講和(平和交渉)(ピーストークス)のためのベルサイユ会議が始まる。このあと1920年に入るとドーッと落ちた。この時、日本の鈴木商店(三井物産の前身)、そして台湾銀行が倒産した。鈴木商店は、今の総合商社の先駆けで、戦争景気で、スエズ運河に、鈴木商店の商船(輸送船)がズラリと並んでいたのである。鈴木商店が日本を代表する大商社だった。

 

 天才経済学者のケインズさえ、この時、投資で大失敗した。大戦後の1920年から後の4、5年は苦戦した。だから迫りくる〝第二次朝鮮戦争〟の前後にも大きな変動が来る。ただし、今回は期間が半年ぐらいなので短い。だからそのあとの数年(3年、さらに3年)の動きを読まなければいけない。

 

=====

 

迫りくる大暴落と戦争(ウォー・)〝刺激(ブースト・)〟経済(エコノミー)──[目次]

 

まえがき─3

これからの3年、さらに3年の6年間を予測する─3

北朝鮮爆撃で株価の大変動が起きる─8

 

第1章 緩和バブルとともに沈みゆくドル

 

パウエル新FRB議長はがむしゃらに利上げする─24

NYダウの暴落で「適温相場」の嘘がバレた─35

VIX指数を買っていたファンドが踏み上げをくらった─44

フラッシュ・クラッシュが暴落を誘発した─45

米長期金利の上昇は国債バブルの崩壊を意味する─54

バーゼルⅢで日本は米国債を買わされる─70

黒田日銀も出口戦略で金利をつけたい─74

パウエルFRB議長は、グリーンスパンの真似をする─79

あと6年で「ドル覇権体制」はめでたく崩壊する─83

巨大IT企業の肥大した株価が調整される─84

 

第2章 戦争(ウォー・)〝刺激(ブースト・)〟経済(エコノミー)しかなくなった

 

〝第二次〟朝鮮戦争が起きる─98

米軍の北朝鮮への爆撃は6月にある─100

金正恩はICBMの完成まで引き延ばし作戦をする─104

北朝鮮問題と中東問題は裏で密接につながっている─106

イランと北朝鮮は直結している─113

3年後から「ドル覇権」は崩壊に向かい、1ドル60円になる─115

だから3年待たないと金価格は上がってこない─119

あと6年でドルの終わりがくるから金を買っておきなさい─123

いよいよ人民元がこれから上がり出す─126

今のうちに人民元預金をするべきだ─130

 

第3章 金融市場で何が起きているのか

 

史上最大の大暴落のきっかけはフラッシュ・クラッシュだった─140

中国がシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の買収に動き始めた─145

ヨーロッパ発の金融規制で証券会社が潰される─149

ファイナンス理論どおりに整然と間違える─154

先物主導で暴落させられた─159

精緻なシステムも最終的には人間に壊される─163

日銀は目標とは逆の政策をやっている─165

アメリカは自分が生き残るためにヨーロッパを潰しにかかっている─168

ロボット・トレーディングを育てたのはシカゴのストライカー証券─170

日本の銀行を中国人が本格的に買い続けている─174

ユニクロ商法のそっくりさんも出てきた─176

次は日立が狙われている─181

お金の行き場がなくなったあと、戦争経済しか選択肢はなくなった─183

日本の生保が米国債30年物の償還でプレッシャーを受けている─184

ビットコイン取引のほとんどが日本からになっている─187

 

第4章 世界経済における巨大なマネーの秘密

 

複利で爆発的にお金が増えるのが資本主義だ!─190

利子こそが資本主義を回転させるエンジンである─191

貨幣乗数という資本主義のマジックが効かなくなった─196

投資の経済効果に注目したケインズの乗数効果─199

土地の値段が100倍にもなる時代があった─201

ジャブジャブ・マネーで麻痺している日本経済─207

マネーサプライが消えてなくなった─210

日本国債の買い取りでマネー・クリエイションしている─212

リチャード・ヴェルナーが日銀によるマネー創造の秘密を暴いた─213

ヴェルナーの本で、この30年の金融経済の全体の謎が解けた─216

グリーンスパンFRB議長はヴェルナーを無視した─221

イングランド銀行の理事がマネー・クリエイションを認め始めた─224

「リーマン・ショックの秘密」が見えてきた─227

 

第5章 経済学は死んでしまった

 

アメリカがヨーロッパ500年に挑戦したのが行動科学─234

株で儲かった喜びよりも、大損する恐怖を重視─238

今目の前にある1万ドルと3カ月後の2万ドル、どちらを取るか─241

経済学は身もふたもない学問に成り下がった─243

人間の能力は持って生まれた天性であり、人間は元々不平等だ─251

Y=C+Iという方程式が示す世界最高度の真実─253

 

あとがき─265

 

【巻末付録】戦争の陣太鼓が聞こえる軍需銘柄21─268

 

=====

 

あとがき

 

 こうやって私は、この本でこれからの世界の動きの「3年、さらに3年(合計6年間)」を予言した。自分が行った近(きん)未来予測(予言)をなんとか当ててみせる。ただしこの本は、金融、経済の本であるから、あまり政治の話は書かないようにした。それでもどうしても政治の話が入ってくる。

 

 政治(外交、軍事=安全保障を含む)と、金融・経済は、〝車の両輪〟であるから、片方だけを見るわけにはゆかない。両方を見てそれを総合する力があるから、私は金融評論業で生き延びているのだろう。

 

 第4章で、リチャード・ヴェルナー氏の『円の支配者』(2001年刊)を高く評価した。なぜならヴェルナー氏(現在、51歳)が、1995年に発見して、以来ずっと唱えている「先進国の中央銀行が、政府を助けるために、やってはいけない、銀行が持つ信用創造(力)(クレジット・クリエイション)を悪用してきた」理論は大きな真実を抉(えぐ)り出している。創造(クリエイテッド)マネーを大量に創(つく)って、それが、世界の金融・経済をおかしくしてきたのだ。彼らセントラル・バンカーたちがバブルを作り出し、破裂させ、そのために資金をショートさせた企業をたくさん倒産させて、世の中に多大な迷惑をかけてきた」理論は、2008年のリーマン・ショックをはっきりと予言していた。

 

 この違法な、創造(クリエイテッド)マネーは、私もまた自分の金融本でこの10年使い続けてきたジャブジャブ・マネー(金融緩(かん)()政策で人工的に作られたマネー。Q(キュー)(イー)=量的緩和)であった。

 

 そして、ヴェルナーと私は、今も共に「次の大きな株の大暴落、金融崩れは、大恐慌へとつながる」と予測、予言する。

 

 それは、1991年(今から27年前)に崩壊したソビエト共産主義(コミュニズム)に続いて起きるであろうアメリカ資本主義(キャピタリズム)の崩壊だ。エ、まさか、そんな。資本主義は、イデオロギーや宗教ではなくて、客観的実在(オブジェクティヴ・イグジステンス)だよ、壊れるわけはないよ、と、必ず起こる反論に対しても、私は明確な答えをそろそろ準備し、提出しなければいけない時代が到来したのである。

 

 資本主義(の社会、国家)が倒れたあと、一体、人類に次に何の制度、体制がやってくるのか? カール・マルクスとジョン・メイナード・ケインズ卿に続く、人類の大天才が現れなければ、その姿は明らかにならない。だが、資本主義までもが滅ぶ、そして全く新しい時代が人類に到来することが強く予想されるのである。ゼロ金利と、マイナス成長と、銀行消滅のコトバにその予兆が見られる。

 

 この本も、またしても徳間書店学芸編集部の力石幸一氏と、延々とおしゃべりしながら出来た。記して感謝する。

 

2018年4月   

副島隆彦 

 

(貼り付け終わり)


※2018年6月17日(日)に副島隆彦の学問道場定例会(講演会)が開催されます。定例会出席のお申し込みは以下のアドレスでお願いいたします↓
http://snsi-j.jp/kouen/kouen.html

 

(終わり)

 

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今の巨大中国は日本が作った



 

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(仮)真実の西郷隆盛

 

fukuzawayukichicover001
(仮)福澤諭吉 フリーメイソン論

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 古村治彦です。

 

 今回は『真実の西郷隆盛』(副島隆彦著、コスミック出版[電波社]、2018年5月19日)をご紹介いたします。


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真実の西郷隆盛

 

 本書は副島隆彦先生の西郷隆盛研究の本です。今年2018年は明治維新150周年で、NHK大河ドラマは西郷隆盛を主人公とする「西郷(せご)どん」です。視聴率はあまりよくないようですが(私はテレビを所有していないので視聴していません)、話を聞いていると、結構ディテールにこだわった作りになっているようです。

 

 本書では、これまで光を当てられてこなかった西郷隆盛の持つ意外な一面に光が当てられています。それは「西郷隆盛はキリシタンであった」「西郷隆盛は情報将校であった」ということです。詳しくは是非本を手に取ってお読みいただきたいと思います。

 

 以下にまえがき、目次、あとがきを掲載します。

 

 よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

はじめに

 

西郷隆盛[さいごうたかもり] (1828〜1877)は 50 歳で死んだ。

 

西郷の年齢の表記は諸本によってバラバラになっている。 49 歳という場合もあるし、 51 歳と表示している本もある。この本では年齢は数え年で表記する。また出来事のくわしい日時は旧暦で表示した。西郷の死んだ時の年齢は、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳だ。

 

このように表記がバラバラなのは、西郷が生まれた旧暦の文政 10 12 月7日は、西暦では1828年1月 23 日だからだ。文政 10 年は西暦では1827年であり、1カ月くらいずれる。このずれの狭 はざ 間 ま に西郷隆盛が生まれた。従って、西郷が1877年9月 24 日に鹿児島の城山で死ぬまでの日数を計算したら、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳である。細かいことだが年齢を正確に把握することは重要なことだ。

 

西郷とこの時代の代表的な人物たちとの年齢との兼ね合いを見ると、盟友の大久保利通[おおくぼとしみち] (1830〜1878)より2歳年上である。長州の木戸孝允[きどたかよし](桂小五郎 1833〜1877)より5歳年上。高杉晋作(1839〜1867)より 11 歳上。土佐の坂本龍馬[さかもとりょうま](1836〜1867)より8歳年上。後藤象二郎[ごとうしょうじろう](1838〜1897)より 10 歳年上である。従って、西郷隆盛は年齢で明治維新を成し遂げた維新の元勲たちの中では先輩格ということになる。

 

一方、西郷が仕えた第 11 代薩摩藩主・島津斉彬[しまづなりあきら](1809〜1858)は 19 歳も年上だ。西郷が嫌った斉彬の弟島津久光[しまづひさみる](1817〜1877)も 11 歳年上だ。

 

西郷隆盛の人生は、島津斉彬が嘉永4(1851)年に藩主となって、すぐに登用されるまでの前半生( 27 歳まで)と、それ以降の後半生に分けられる。私たちが普通知っているのは、後半生の時代だ。西郷は安政元(1854)年に斉彬の参勤交代の供 とも 揃 ぞろ えに抜擢され初めて薩摩から江戸に出た。ここから西郷の政治活動が始まった。NHKの大河ドラマ『西郷(せご)どん』で描かれているとおりである。

 

西郷は後半生で2度、島流しにあった。1度目は「安政の大獄」から逃れるために、藩が彼を奄美大島に潜伏させた時だ。奄美大島での生活は安政6(1859)年1月から文久2(1862)年1月までの3年間(、、、)に及んだ。2回目は、斉彬没後に薩摩藩の最高実力者となった斉彬の弟島津久光の逆鱗に触れ、徳之島、続けて沖永良部島に遠島処分なった時だ。この時の遠島処分は文久2(1862)年6月から元治元(1864)年2月の約2年間(、、、)続いた。

 

西郷はこのように後半生 25 年間のうち5年もの間、政治の表舞台から追放された。2度目の遠島(えんとう)処分は、西郷をそのまま殺しても構わないという過酷な処分であった。しかし西郷は生きて戻った。失脚と粛清を生き延びた。沖永良部島から帰還した時、西郷は 37 歳になっていた。そして、慶應3(1867)年から慶応4/明治元(1868)年にかけて、王政復古と明治新政府樹立、江戸幕府打倒を成し遂げた。これらは現在、書店に並んでいる西郷隆盛本に出てくる。

 

西郷はキリシタン(キリスト教徒)であった。そして同時に情報将校(インテリジェンス・オフィサー)として鍛え上げられた人物であった。私はこの事実を証拠付きでこの本で明らかにする。このことは一般的な歴史書では書かれていない。歴史学者たちは口をつぐんで言わない。しかし、西郷の地元鹿児島では人々の間で密かに伝えられてきた。最近、公然と語られるようになった。

 

鹿児島は、その約300年前の1543年に、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル ( Francisco de Xavier   1506〜1552)が上陸した土地だ。最近、藩主島津氏の居城で あった鶴丸城(鹿児島城)の本丸跡から、「花 はなじゅうじもん 十字紋」の入った瓦が発見された(『南日本新聞』2018年2月 17 日付)。2009年に二の丸跡からも同様の十字がついた瓦が出土した。花十字紋は、キリスト教の十字架を表現しているもので、キリシタンの墓に使われたり、花十字紋瓦は教会跡から出土したりしている。島津氏もキリスト教の影響を強く受けていたのである。

 

西郷は、「中国化したキリスト教」である陽明学を学び、「敬天愛人(けいてんあいじん)」という思想に行き着いた。西郷は陽明学者佐藤一斎[さとういっさい](1772〜1859)の『言志四録(げんししろく)』を死ぬまで手元から離さなかった。この本を一所懸命に勉強した。そこから生み出された西郷の思想「敬天愛人」に使われている「天(てん )」こそは、キリスト教(天主教)の「神」のことである。西郷は中国で出版された漢訳の聖書を読んでいたという証言が残っている。西郷はどんな人間に対しても礼儀正しく接した、不正を非常に憎んだ、という逸話が残っている。これは西郷隆盛が陽明学、すなわち中国化したキリスト教に忠実だったからだ。

 

西郷隆盛は巨体(日本人の平均身長が150センチ台の時に178センチもあった)で茫洋

とした、細かいことにはこだわらない大人物としてのイメージができ上がっている。しかし、実際にはきめ細かい配慮ができ、数学の計算力のある、頭の回転の速い人物であった。鹿児島は日本本土の最南端に位置し、昔から海外からの情報が真っ先に入ってくる場所であった。薩摩藩は琉球を実効支配し、海外情報を入手しやすい場所にあった。この環境の中で育った西郷は、藩主島津斉彬の下で働いた5年間で、「情報将校」として鍛えられた。2度の島流しの間にも、薩摩藩の情報ネットワークの中におり、それに守られていた。また冷酷な謀略も行える人物であった。

 

西郷隆盛についてはいくつもの大 フォールス 嘘がまかり通っているので、それを「糺(ただす)す」ために私はこの 本を書いた。私は歴史を見る時に、いつも大きな真実とは何か(、、、、、、、、、)を考える。私は西郷隆盛について、これが大きな真実であろうということをこの本で書いた。読者は厳しい真贋(しんがん)判断をしてください。

 

=====

 

『真実の西郷隆盛』

 

目次

  

はじめに

 

第1章 西郷隆盛と陽明学・キリスト教

    

西郷=キリシタン説   

陽明学はキリスト教   

西郷隆盛と陽明学

「敬天愛人」とキリスト教

 西郷はキリスト教の聖書を読んでいた

 キリスト教に寛大だった西郷隆盛

 陽明学の深い学習=キリスト教への信奉

 

第2章 幕末:西郷隆盛をはじめとする情報将校たちの時代

    

情報収集、分析の専門家として育成された西郷

情報将校・西郷の前半5年間:島津斉彬による抜擢・教育

情報将校・西郷の後半5年間:明治維新に向けた動き

アジアとのつながりが深く人、物資、情報が集まってきた薩摩

2度の離島生活で出会った知識人・重野安繹と川口雪篷は情報将校だった

薩摩藩対外情報将校であった寺島宗則と五代友厚    

西郷隆盛とイギリスの情報将校アーネスト・サトウとのかかわり

「情報将校」が活躍した幕末という時代

 

第3章 西郷隆盛の誕生から世に出るまで

    

薩摩藩の青年武士たちのリーダーとして

西郷家の生活

江戸後期の島津家と薩摩藩

青年期の西郷隆盛

島津斉彬と西郷隆盛

西郷隆盛、江戸へ

将軍継嗣における一橋派と南紀派の対立

暗転:斉彬の死、安政の大獄から僧月照との錦江湾入水、そして生還

西郷隆盛、奄美大島へ

 

第4章 遠島処分から政治の表舞台へ、倒幕に向かう

    

島津久光の実像と倒幕、維新への功績

薩摩藩の実力の源泉となった資金力の3本柱

「精忠組」誕生と大久保利通の久光接近

桜田門外の変から公武合体路線へ

久光による率兵上京、西郷隆盛召還と「地ゴロ」発言

西郷、流罪で徳之島、さらに沖永良部島へ

文久の改革から公武合体路線、尊王攘夷

再び召還され、政治の表舞台へ

薩長同盟から王政復古の大号令へ

 

第5章 西郷隆盛と明治維新

 

徳川慶喜容認か、倒幕か

鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へ

鹿児島への帰還と藩政改革

新政府への出仕と留守政府の筆頭参議

遣韓論争と下野(明治六年の政変)

鹿児島帰還と西南戦争、終焉

  

おわりに

 

=====

 

おわりに

 

今年、2018年は明治維新から150年目の年だ。NHKの大河ドラマは西郷隆盛が主人公の『西郷(せご)どん』で、西郷隆盛に注目が集まっている。大河ドラマ『西郷どん』に便乗して多くの西郷関連本が出ている。しかし、こうした便乗本では西郷の真の姿はわからない。

 

西郷隆盛について大事なことは、西郷隆盛は誰に対しても威張らず、丁寧に接する人物だった、ということだ。これは、西郷隆盛が「中国化したキリスト教」である陽明学を本気になって一生懸命に勉強し、人間を身分別にわけて徹底的に虐(いじ)めるという江戸時代の制度に反感を持っていた、ということを示している。西郷は、このような誰に対しても威張らない人だったということで、人格者として尊敬され、大人物とされた。

 

「西郷はキリシタン(キリスト教徒)だった」という西郷の出身地鹿児島に今でも伝わる話は荒唐無稽なつくり話などではない。真実は庶民の間でヒソヒソと語られ後世に伝えられていく。

 

また、西郷隆盛が「情報将校」であることも今回くわしく書いた。西郷隆盛は薩摩藩主島津

斉彬によって見 みい 出 だ され、斉彬直属の「情報将校」として鍛え上げられ、政治活動を行った。斉彬が死去するまで江戸藩邸の御庭方(御庭番)として斉彬から直接指示を受け、行動していた。各藩の「情報将校たち」とも行き来をし、人脈を形成した。幕末期はまさに江戸幕府や雄藩の情報将校たちが江戸や京都、時には海外を舞台にして活躍した時代であった。

 

西郷はそうした時代を生き抜いた。西郷自身は権謀術数や裏切りなどを最も嫌った人物だ。


しかし、西郷の持つ論理的思考力、的確な判断力、押し出しのよさによって、斉彬に見出され、斉彬直属の情報将校として活躍することができた。

 

生真面目で、誠実な西郷隆盛というイメージは西郷の真実の姿の半分を示しているだけだ。そこに情報将校としての側面を加えることで、西郷隆盛の真実の姿に近づくことができる。逆説的ではあるが、西郷が人格者であったればこそ、情報将校として活躍することができた。人格に歪(ゆが)みがあれば的確な判断は下せない。

 

今回、私の「真実の西郷隆盛論」を書き上げた。これまで無視されてきた西郷の側面を描き出した。西郷隆盛の真の姿に近づけたものと自負している。

 

この本の完成には、私の弟子で鹿児島市出身の古村治彦(ふるむらはるひこ)君の協力があった。電波社の岩谷健一編集長にもお世話になった。記して感謝します。

 

(貼り付け終わり)

※2018年6月17日(日)に副島隆彦の学問道場定例会(講演会)が開催されます。定例会出席のお申し込みは以下のアドレスでお願いいたします↓
http://snsi-j.jp/kouen/kouen.html


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真実の西郷隆盛

(終わり)

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今の巨大中国は日本が作った


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迫りくる大暴落と戦争〝刺激〟経済
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 古村治彦です。

 

 今回は『今の巨大中国は日本が作った』(副島隆彦著、ビジネス社、2018年4月28日)をご紹介します。この本は現在の中国の最新の情報と分析が詰まった一冊となっています。

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今の巨大中国は日本が作った

 

 この本では、森嶋通夫、青木昌彦という2人の日本人経済学者(ノーベル賞に近い日本人学者と言われた)が中国から派遣された優秀な留学生を教え、その留学生たちが現在、中国を運営している、その代表が中国共産党中央政治局常務委員の王滬寧(おうこねい)であることを明らかにしています。

 

 中国は高度経済成長期の日本をよく研究し、参考にしています。1960年代から70年代にかけての日本の高度経済成長の最大の特徴は、大きな格差を生み出さない経済成長(economic growth without inequality)です。経済成長には大きな格差が生じ、それが社会を不安定にするというのが定説ですが、日本では所得の再配分(redistribution of income)によって社会の安定を維持しながら経済成長することに成功しました。中国が目指す路線もまさにこれです

 

 この他にも「中国は民主政治体制(デモクラシー)に移行する」という大胆な予測もなされています。現在、独裁的な力を持つ習近平国家主席の下でこそデモクラシーが実現するというのは興味深い話です。

 

 こうした新しい情報や予測が満載の本となっています。以下にまえがき、目次、あとがきを掲載します。是非手にとってご覧ください。宜しくお願いいたします。

 

(貼り付けはじめ)

 

まえがき

 

この本は、私の中国研究の最新の成果の報告である。いくつか大きな発見があった。

 

本の中心部分は、昨201710月の第19回中国共産党大会(19[だい]という)から今年3月の全人代[ぜんじんだい](中国の国会)で新しいトップ人事が決まったことを受けて、これからの5年の中国はどうなってゆくか、だ。そして、さらにその次の5年後も考える。

 

つまり2022年。そして2027年(習近平時代の終わり)。それまでに中国はどうなってゆくかをテーマとする。

 

2012年に始まった習近平体制は、通常であれば2期目の5年で終わりだった。だが、さらにその次の5年も習近平が政権を担う。3月の全人代で「任期の上限を撤廃する憲法改正案」が採択された。「習近平の独裁体制が死ぬまで続く」と、専門家たちが解説したが、そんなことはない。習近平は2027年(あと9年)で辞める。

 

私の今度の中国研究で行き着いた大事な発見は、その次の2022年からの5年で、中国はデモクラシー(民主政体[せいたい]・民主政治)を実現するということだ。これからの5年間は、確かに習独裁(、、、)である。彼に強い力が集中して、戦争でも騒乱鎮圧でも残酷にやる。だが、その次の2022年からの5年は、中国がデモクラシー体制に移行する準備期間となるだろう。そうしないと世界が納得しないし、世界で通用しないからだ。

 

この説明に際し言っておきたいのは、私は「民主主義」という言葉を使わない。「デモクラチズム(、、、)」という言葉はない。だから、×民主主義は誤訳(ごやく)である。

 

デモクラシー(代議制[だいぎせい]民主政体[せいたい])とは世界基準の政治知識であり、次のようになる。

 

    普通選挙制度 ユニバーサル・サファレッジ universalsuffrage

    複数政党制 マルチ・パーティ・システム multi-party system

 

である。この「①普通選挙」と曲がりなりにも、とにかくも「②複数政党制」を完備すれば、デモクラシー国家と言える。①の普通選挙[エレクション]制度は、18歳以上の男女すべてに一人一票を与え、無記名の投票(ボウティング)で代表者を選ぶ(エレクション)政治体制である。中国は、これに必ず移行していくと私はみている。

 

今のままでは、中国国民の反発、不満も限界に達する。現在の一党独裁は、世界がもう許さない。このことを習近平自身がしみじみとよく分かっている。

 

①の普通選挙制度の前提として、②の複数政党制が必要だ。少なくとも2つ、あるいは3つ、4つの大政党ができなければいけない。そして、選挙で勝った政党によって、中国の政権が作られる政治体制に変わっていくのだ。そのための移行期が2022年からだ。そこでは、もう習近平独裁は行われない。

 

どうして中国がそのように変わるのか。

 

そうした政治体制に変わらなければ世界が納得しないからである。このことは、党の長老も含めた最高指導者たちによる昨年8月に北戴河[ほくたいが](渤海[ぼっかい]湾に面した中国の避暑地)で行われた会議で決定された。

 

習近平が去年の夏、長老たちをねじ伏せるようにして、次の5年と、さらにその次の5年も自分がやると宣言した。そしてここで中国共産主義青年団(共青団[きょうせいだん])系と、習近平の勢力が折り合い、合意した。その証拠の記事をあとのP25に載せた。

 

前国家主席である胡錦濤(こきんとう)が、その場で習近平を一所懸命なだめる形で、「2017年から5年間の政治体制にも、共青団系を半分くらい入れてほしい」と望んだ。習近平はこれを拒否した。かろうじて李克強(りっこきょう)首相(国務院総理。首相)と汪洋(おうよう)副首相が共青団で、チャイナセブンと呼ばれる政治局常務委員、中国のトップ7に入った。

 

その他5人は、すべて習近平の系統で占められた。いやナンバー7の韓正(かんせい)は、どうも江沢民(こうたくみん)の派閥(上海閥[ばつ])である。どうしても古い勢力を1人は入れないと済まないのだろう。共青団系はギリギリまで譲歩せざるを得なかった。

 

江沢民に育てられた習近平(当時、副主席だった)を10年間、熱心に教育したのは胡錦濤だ。「指導者になる者に必要なのは、我慢に我慢だ。私たちは派閥抗争などやっていてはいけない。中国は世界を指導する国になるのだ」と育てた。

 

だが、もっと深く習近平を見込んで育てたのは、鄧小平[とうしょうへい]1904生~1997死)だ。

 

鄧小平が、地獄の底から這い上がった中国を、

「中国は豊かな国になる。もうイデオロギー優先の愚かな国であってはならない。民衆を

貧困から救い出さなければいけない」

として、今の巨大に成長した中国の基礎を作った。鄧小平(89歳のとき。その4年後の

1997年に93歳で死去)は、1993年に40歳のときの習近平と会っている。

 

「お前は、(私の敵である)江沢民(こうたくみん)、曽慶紅(そけいこう)が育てた人材だ。だが、私はお前を次の時代の指導者に選ぶ」と言って、「それまで我慢せよ。指導者に大切なのは我慢することだ」と切々と説いた。

 

だから2017年からの5年間、つまり2022年までは、習近平独裁体制が続く。ここで国内を政治的にも経済的にも安定させながら、「偉大なる中華民族の復興」は、やがて「デモクラシーの政治体制」として実現する。この主張が、この本の揺るぎない骨格である。

 

この本での2つ目の大発見は、今の巨大に成長した中国を作ったのは、特定の日本人経済学者たちであった、という大きな事実だ。

 

今、大繁栄を遂げた中国にその計設図(ドラフト)、OS[オウエス](オペレーティング・システム)を伝授した日本人学者たちがいる。中国が貧しい共産主義国から脱出して急激に豊かになってゆくためのアメリカ理論経済学(、、、、、)の真髄を、超(ちょう)秀才の中国人留学生たちに教えたのは、森嶋通夫[もりしまみちお]1923生~2004死。19701989年ロンドンLSE(エルエスイー)教授。『マルクスの経済学』1974年刊、東洋経済新報社)である。それを名門スタンフォード大学で中国人大(だい)秀才たちに長年、丁寧に授業して叩き込んだのは青木昌彦(まさひこ)教授(1938生~2015死)である。

 

この2人が、「マルクス経済学である『資本論』を、ケインズ経済学のマクロ計量モデルにそのまま置き換えることができるのだ」と計量経済学(エコノメトリックス)の高等数学の手法で、中国人たちに教え込んだ。これが1980年代からの(もう40年になる)巨大な中国の成長の秘訣(ひけつ)、原動力になった。

 

「マルクスが描いた資本家による労働者の搾取率(さくしゅりつ)は、そのままブルジョワ経済学(近代[きんだい]経済学)の利潤率[りじゅんりつ](利益率)と全く同じである」

 

と森嶋通夫が、カール・マルクスの理論を近経[きんけい](=アメリカ経済学)の微分方程式に書き換えた(置き換えた)ものを青木昌彦が教えた。それが今の巨大な中国を作ったOS(オウエス)、青写真、設計図、マニュアル(手法)になったのだ。

 

大秀才の中国人留学生たちは、全米中の大学に留学していた。彼らは電話で連絡を取り合って、巨大な真実を知った。自分たちが腹の底から渇望(かつぼう)していた大きな知識を手に入れた。「この本で私たちは、欧米近代= 近代資本主義(モダンキャピタリズム)とは何だったのかが、分かった。これで中国は大成長(豊かさ)を手に入れることができる」と皆で分かった。

 

このときの留学生とともに、今の中国指導者のナンバー2の王岐山(おうきざん)、つい最近まで中国人民銀行(中国の中央銀行)の総裁だった周小川(しゅうしょうせん)、そして、中国の国家理論家(国師[こくし]。現代の諸葛孔明[しょかつこうめい])の王滬寧(おうこねい)らがいる。彼らはズバ抜けた頭脳を持った人々なのである。日本人は今の中国の指導者たちの頭脳をナメている。自分の足りない頭で、中国人をナメて、軽く見て、見下くだしている。何と愚かな国民であることか。

 

やはり、鄧小平が偉かったのだ。

 

鄧小平が毛沢東の死(197699日)後、1978年から「改革開放」を唱えて、「中国人はもう貧乏をやめた。豊かになるぞ」と大号令をかけた。そしてヘンリー・キッシンジャーと組んで、中国を豊かにするために外国資本をどんどん中国に導入(招き入れ)した。そして驚くほどの急激な成長をとげた。

 

と同時に、鄧小平はキッシンジャー・アソシエイツ(財団)の資金とアメリカ政府の外国人留学生プログラムに頼って、何万人もの優秀な若者を留学生としてアメリカに学ばせた。そのなかの秀才たちが、らんらんと目を輝かせて、「資本主義の成長発展の秘密」を、森嶋通夫と青木昌彦という2人の日本人学者から学び取った。それが今の巨大な中国を作ったのである。この大事なことについては、本書の第3章で詳しく説明する。

 

副島隆彦

 

=====

 

●目次

 

まえがき   3

 

第1章中国国内の権力闘争と2022年からのデモクラシーへの道

 

この先5年と次の5年、民主中国の始まり   22

 

タクシー運転手が知っていた中国の未来像   27

 

習近平の知られざる人生の転機   30

 

鄧小平が40歳の習近平を見込んだ理由   34

 

腐敗の元凶となった江沢民と旧国民党幹部の地主たち   41

 

中国の金持ちはこうして生まれた   42

 

デモクラシーへの第一歩となった共産党の新人事   46

 

今後のカギを握る王岐山の力   49

 

中国を動かす重要な政治家たち   54

 

中国初の野党となる共青団   60

 

台湾はどこへ向かうのか   62

 

バチカン(ローマ・カトリック)と中国の戦い   66

 

人類の諸悪の根源はローマ・カトリック   72

 

チベット仏教について物申す   75

 

第2章人民解放軍vs.習近平のし烈な戦い

 

北朝鮮〝処理〟とその後   82

 

北朝鮮が〝処理〟されてきた歴史   88

 

近い未来に訪れる朝鮮半島の現実   90

 

鄧小平が行った中越戦争[ちゅうえつせんそう]1979年)がモデル   91

 

7軍区から5戦区へと変わった本当の意味   96

 

軍改革と軍人事の行方   101

 

勝てる軍隊作りとミサイル戦略   109

 

第3章今の巨大な中国は日本人学者が作った

 

中国を冷静に見られない日本の悲劇   116

 

日本はコリダー・ネイションである   122

 

日本国の〝真の敗北〟とは何なのか   124

 

現実を冷静に見るということ   126

 

国家が仕込んだ民間スパイ   130

 

中国崩壊論を言った評論家は不明を恥じよ   132

 

「日本は通過点に過ぎない」とハッキリ言い切った人物   136

 

本当のデモクラシーではないのに他国に民主化を説くいびつさ   138

 

アメリカに送り込まれた中国人エリートたちのとまどい   141

 

今の中国の政治社会のOSは日本が作った   144

 

森嶋通夫との浅からぬ縁   146

 

中国社会を作ったもう1人の日本人   151

 

森嶋、青木の頭脳と静かに死にゆく日本のモノづくり   155

 

そしてアメリカは西太平洋から去っていく   158

 

尖閣防衛と辺野古移転というマヤカシ   162

 

第4章 大国中国はアメリカの言いなりにならない

 

中国の成長をバックアップしたアメリカ    170

 

ロックフェラー、キッシンジャーからのプレゼント   175

 

米軍と中国軍は太平洋で住み分ける   182

 

米・中・ロの3大国が世界を動かしている   186

 

チャイナロビーは昔の中国に戻ってほしい   191

 

アメリカと中国の歴史的な結びつき   192

 

中国とイスラエルの知られざる関係   194

 

第5章 AIIB と一帯一路で世界は中国化(シノワゼイション)する

 

日本のGDP25年間で500兆円、中国は今や1500兆円   200

 

世界の統計は?ばかり   204

 

アメリカの貿易赤字の半分は中国   207

 

貿易戦争というマヤカシ   210

 

一帯一路は今どうなっているのか   216

 

アフリカへと着実に広がる経済網   229

 

次の世界銀行はアルマトゥという都市   238

 

世界の〝スマホの首都〟は深?である   242

 

あとがき   250

 

=====

 

●あとがき

 

私は、この10年で計10冊の中国本を書いて出版してきた。この本で11冊目である。

 

この本で書いたとおり、今の巨大中国の設計図(OS[オウエス])を作って与えたのは、森嶋通夫(もりしまみちお)先生(京都大学、ロンドンLSE教授)である。故森嶋通夫は、私の先生である小室直樹先生の先生である。私に、碩学の二人の遺伝子が伝わっている。それでこの本が出来た。お二人の霊にこの本を献(ささ)げる。

 

この本を書いている途中にも中国は次々と新しい顔を見せる。その変貌の激しさにこの私でも付いてゆくのがやっとである。同時代(コンテンポラリー)に私たちの目の前で進行したあまりにも急激な巨大な隣国(しかし帝国[ディグオ])の変化に私自身がたじろいでいる。一体、中国はこれから何をする気か。それでも私は、中国に喰らい付いて、この先も調査研究を続ける。

 

この本の担当編集者の大森勇輝君が大きく尽力してくれた。唐津隆社長からも気配りをいただいた。記して感謝します。

 

20184

副島隆彦

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)


※私の仲間である石井利明さんのデビュー作『福澤諭吉フリーメイソン論』が2018年4月16日に刊行されました。大変充実した内容になっています。よろしくお願いいたします。

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 古村治彦です。

 

 今回は、SNSI研究員である石井利明(いしいとしあき)氏のデビュー作『福澤諭吉 フリーメイソン論』(石井利明著、副島隆彦監修、電波社、2018年4月16日)を皆様にご紹介します。

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(仮)福澤諭吉 フリーメイソン論

 

 石井利明氏は私たちの仲間で、これまで出した論文集の中で、福沢諭吉についていくつも論稿を発表してきました。今回、石井さんの福沢諭吉(1834-1901年)研究の集大成が一冊にまとまり、世に出ることになりました。

 

本書の最大最重要の特徴は福沢諭吉とフリーメイソンとの関係を明らかにしたことです。このことについて、著者の石井氏は「日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた」と簡潔に書いています。

 

 私の個人のお話で申し訳ないのですが、私は早稲田の出身で、学生時代から野球の早慶戦に行っています。慶應の応援は力強く、また華麗なものです。私もいつの間にか、慶應義塾の塾歌(校歌)や有名な応援歌「若き血」を歌えるようになりました。

 

慶應義塾にはほかにも多くの素晴らしい応援歌がありますが、私が個人的に好きなのは「我ぞ覇者」です。その一番の歌詞は「雲を破りて 世を照らさんと 見よや見よ自由の 先駆われ 独立友呼べば 自尊と我応え おお 共に起たん 吾等が義塾」です。この歌詞こそ福澤諭吉が慶應義塾を創設した精神「自由」「独立自尊」がよく表現されていると思います。

 

 以下に推薦文、まえがき、目次、あとがきを掲載します。参考にしていただき、是非手に取っていただければと思います。よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

推薦文

                                   副島隆彦

 

 本書『福澤諭吉フリーメイソン論』は、誰よりもまず慶応義塾大学出身の皆さんに読んでいただきたい。

 

 福澤諭吉(一八三四~一九〇一、天保五~明治三四)は真に偉大な人物である。幕末と明治期の日本が生んだ、本当にとびきり一番の、大人物である。だが、福澤先生のなにが偉大であり、なにが賞賛に値するのかを、いまの私たちはまったく知らない。誰も教えてくれない。何も教わっていない。

 

 非礼を承知で私は書くが、慶応大学出で の人々であってさえ、福澤先生の偉大さの理由と根拠を知らない。入学当初から、誰からも教わっていない。『学問のすすめ』と『福澤翁自伝』を読め、読めと言われるだけだ。福澤先生の「日本国の独立自尊(どくりつじそん)」の思想を、今に受け継ぐ人々が今の日本にいるのか。

 

 この本を読んでいただければ、いろいろなことがわかる。真贋(しんがん)の判定は、この本を読んでくださった読者がする。何故(なにゆえ)に、福澤先生は日本が生んだ大(だい)学者、碩学(せきがく)にして行動者、実践家、温厚な教育者にして大実業家であったか。これらのことが、この本にすべて書かれている。

 

 著者の石井利明君は慶応出でではないが、一所懸命にあらゆる文献を読み、深く調査して福澤諭吉の思想の真髄にまで迫って、この偉人の真実を掘り当てている。この本を読んでくださればわかる。そして、私と一緒に驚いてください。福澤諭吉の生い立ちから人格形成期、そして晩年の大成者としての実像(六七歳で逝去)までを見事(みごと)に描ききっている。

 

 石井利明君は、私が主宰する学門道場およびSNSI(副島隆彦国家戦略研究所)の創立時からの人であり、研究員としても高弟であり古参である。

 

 思い出せば、もう七年前の、二〇一一年三月一一日の東日本大震災、そして福島第一原発の爆発事故の直後一九日に、私は死を覚悟して、とりあえず石井君ひとりを連れて現地を目指した。そして原発から七キロメートルのところで目視しながら放出された放射線量を現場で正確に計測した。それがごく微量であることを知った。このことを即刻、インターネットで発信し、日本国民に知らせた。「日本国は救われた」と。このあともほかの弟子(研究員)たちも引き連れて三度、福島第一原発正門前に到達して随時、放射線量を正確に測った。口はばったい言い方だが、あの時の私たちは、一八三七(天保八)年二月、大阪で決起した大塩平八郎中斎(ちゅうさい)一門の覚悟と同じだった。「とにかく大事故の現場に行って、自分の目で真実を見極めなければ。国家と国民の存亡の危機に際しては我が身を献げなければ」の一心だった。これらの事績(じせき)の記録と報告はすでに数冊の本にして出版している。

 

 どんな人にとっても目の前の日常の逃げられない生活の苦労がある。石井君にも私にもある。それでも誠心誠意、緻密な真実の福澤諭吉研究を、一〇年をかけて石井利明君がやりとげ、書き上げてくれて、私は心底嬉しい。私が全編にわたってしっかり朱筆を入れたので、私、副島隆彦との共著と考えてくださっていい。

 

 日本人は、真に日本国の偉人福澤先生の実像と学門の高さの真実にいまこそ触れなければ済まない。万感の想いをもって本書推薦の辞とする。

 

=====

 

はじめに

                                    石井利明

 

 福澤諭吉は世界基準(ワールド・ヴァリューズ)で評価すべき人物である。

 

 この一点において、今までの、数多ある福澤諭吉の人物評伝は片手落ちである。

 

 このことは、世界史と日本史が学問分野で分かれているための構造的な問題である。江戸末期から明治維新に活躍した人物や起った事象を真に理解するには、西洋史、中国史、日本史に橋を架けなければならない。

 

 しかし、市井の学者たちには、この橋が架けられない。だから、書くものがつまらない。事実に肉薄できない。ここに、歴史学者ではない石井利明が、10年の歳月を費やしてたどり着いた考えをまとめた、この本の大きな意義がある。

 

 慶応義塾大学で学んだ卒業生たちは、まずは、この本を読んで世界基準の福澤諭吉の偉大さを理解して下さい。

 

 福澤諭吉の人生のハイライトは、日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた。ここに福澤諭吉の生涯の大きな意義がある。この大きな世界基準の枠組みが理解できれば、福澤諭吉の一生が大きく理解できる。と同時に、フリーメイソンに対する、我々日本人の理解が、いかに表層的で浅はかなものであったのか、も理解できる。福澤が生きた19世紀のフリーメイソンは、断じて、闇の勢力などではない。それは間違った理解だ。

 

 福沢諭吉は、生涯にわたって自らが唱えた日本国の「自立自尊」の道のど真ん中を歩んだ人物である。こんな日本人は、福澤の後にも先にも居ない。後にも先にもいないということは、副島隆彦氏が提唱した「帝国・属国」関係が、それだけ厳しいことの現れだ。

 

 この厳しい現実は21世紀に生きる、我々日本人が現在直面している大きな課題である。福澤諭吉の生涯を正しく理解することは、日本国がこれからどのように歩むべきかの大きな道標になる。

 

=====

 

福澤諭吉フリーメイソン論 大英帝国から日本を守った独立自尊の思想

 

推薦文 副島隆彦 

 

はじめに 

 

第一章 世界規模のフリーメイソン・ネットワーク

 

●諭吉の父、福澤百助

●諭吉が憎んだ幕藩体制は親の敵

●福澤諭吉の先生たち

●攘夷論者の野本真城から、開国派の白石(しらいし)照山(しょうざん)へ 

●中津藩の蘭学研究 

●オランダ語の化物、前野良沢(まえのりょうたく) 

●『解体新書』翻訳の真相 

●長崎出島のカピタン(オランダ商館長)たち 

●日本に来た最初のフリーメイソン 

●日本を開国しようとした田沼(たぬま)(おき)(つぐ) 

●開国和親派と攘夷主義の暗闘

 

第二章 長崎出島と幕末の開国派ネットワーク

 

●開国か攘夷か、揺れる中津藩 

●黒船来航で攘夷に傾く世論 

●長崎出島と密貿易の巨大利権 

●諭吉もスパイとして長崎に送り込まれた 

●大坂、緒方洪庵の適塾時代 

●日米修好通商条約と尊王攘夷 

●アヘン戦争の本当の原因 

●アヘン戦争と幕末維新の共通性 

 

第三章 ユニテリアン=フリーメイソンとアメリカ建国の真実

 

●渡米を熱望した諭吉 

●東アジアの貿易戦争で大英帝国を破ったアメリカ 

●諭吉のアメリカ行きを支えた人たち 

●ジョン万次郎の帰国とペリー来航 

●万次郎を育てたユニテリアン=フリーメイソン 

●ユニテリアン、そしてフリーメーソンリーとは何ものか? 

●アメリカ独立革命を戦ったのはユニテリアン=フリーメイソン 

●諭吉が理解したアメリカ建国の真実 

 

第4章 文久遺欧使節の諭吉とフリーメイソンの関係

 

●アメリカから帰国し、幕府に出仕 

●文久遺欧使節としてヨーロッパへ 

●フランスでの諭吉とフリーメイソン 

●英国での諭吉とフリーメイソン 

●諭吉、ロシアでスパイにスカウトされる 

 

第5章 攘夷の嵐を飲み込む大英帝国の策謀

 

●攘夷派の動向と一八六三年の福澤諭吉 

●下関事件と薩英戦争 

●文久三年の政治状況 

●一八六四年の福澤諭吉 

●四カ国連合艦隊下関砲撃 

●一八六五年からの福澤諭吉 

●第二次長州征伐の真実と諭吉の対応 

 

第6章 明治維新と慶応義塾設立

 

●一八六七年、幕府最期の年の福澤諭吉 

●福澤塾の移転と慶応義塾の誕生 

●戊辰戦争と幕府内部のイギリス勢力 

●日本の自立に必要なものは経済力 

●『学問のすすめ』刊行 

 

第7章 福澤諭吉と宣教師たちの本当の関係

 

●福澤諭吉とユニテリアン医師・シモンズ 

●宣教師A・C・ショーの正体 

●半開の国と定義された明治日本 

●福澤諭吉が尊敬したフリーメイソン、ベンジャミン・フランクリン 

 

第8章 日本の独立自尊と近代化のために

 

●日本の中央集権化に対抗した福澤諭吉 

●西南戦争は反逆ではなく、明治政府の内戦 

●交詢社設立の真の目的とは? 

●国際社会に認められる文明国の条件 

●憲法草案と明治一四年の政変 

●息子二人のアメリカ留学 

●ユニテリアン教会の宣教師ナップの招聘(しょうへい) 

●ユニテリアン教会の修道院として始まったハーヴァード大学 

●慶応義塾とハーヴァード大学の連携と大英帝国からの独立自尊の大戦略 

●アメリカの変質と、その後の福澤とユニテリアンの関係 

●晩年の福澤は帝国主義の思想を持っていたのか? 

 

おわりに

 

福澤諭吉年譜

 

=====

 

おわりに

 

 本書『福澤諭吉 フリーメイソン論』の書名にギョッとする人は多いだろう。それでも、この本を手にとって読んでくださる方々に、私は、心からの敬意を表します。

 

 私の福澤諭吉研究は、二〇〇八年に、「これまで知られていない福澤諭吉の真実の姿を、石井くん、丹念に調べて描いてみなさい」と、私が師事している副島隆彦先生から言われたことから始まった。

 

 福澤諭吉という偉大なる人物を私ごときが簡単に扱あつかえるのか、大きな不安があった。しかし、私はこの大人物の、これまで日本社会でまったく知られていない、知られざる側面を大胆に表に出した。

 

 二〇〇一年から始まった福澤諭吉の脱亜入欧(だつあにゅうおう)論をめぐる「安川・平山論争」が続いていた。私の考えは本文でずっと説明したが、「日本の昭和のアジア侵略まで福澤諭吉のせいにするな!」である。一九〇一年まで生きた人であり、民間人であることを貫いた福澤諭吉に、その後の日本の帝国主義の責任まであるとする安川寿之輔と、彼の意見に同調する人々は元々精神の歪んだ人々である。

 

 安川氏に丁寧に反論して文献を挙げて説明し、論争に勝利した平山洋氏を私は支持する。と同時に、私は碩学(せきがく)丸山真男と、小泉信三が福澤諭吉を上品に「自由」と「愛」の体現者であったように描いたことにも反対する。福澤諭吉が生きた一九世紀(一八〇〇年代)の自由や愛は、西洋近代の啓蒙(けいもう)(エンライトンメント)を受けて光り輝きながらも、幕末以来の血生臭いものだった。この辺りの感覚が理解できないと福澤諭吉の実際の生涯はわからない。

 

 私は福澤諭吉を研究してみて、さらに彼を深く尊敬する。彼の表おもて裏うらのない、綺麗事や偽善とは対極にある生き方に感服した。こんな真っ正直な日本の知識人を私は、福澤諭吉以外に知らない。この余りの真っ正直さが、あれこれと誤解も招いたのである。

 

 これまで出版された福澤諭吉の自伝、評伝からは、真実の福澤諭吉の姿が伝わってこない。

ここに、学者ではない私が、福澤諭吉の評伝を書く意味がある。この本には、私がコツコツと自力で掘り起こした諸事実によって照らし出される真実の福澤諭吉が詰まっている。私は、真実の福澤諭吉の姿を皆さんになんとしてもわかってほしい。この明治開国期の日本の偉人の本当の姿を文献証拠から味わっていただき、国民的課題として大きく福澤先生を見直してゆきたい。福澤の人格形成とともにあったのはアメリカ、そしてヨーロッパのフリーメイソンの思想である。日本の学者たちは勇気がないから、福澤先生と三田会(みたかい)、フリーメイソンの関連をあえて遠ざけて無視しようとする。これでは、フリーメイソン思想と福澤諭吉の深いつながりから見える明治期の全体像がわからない。

 

 天主教(てんしゅきょう)(ローマ・キリスト教会。隠れキリシタンたち。その中心が耶蘇[やそ]会=イエズス会)の伝統とはまったく別にあったフリーメイソン思想の日本への伝来は、一七七〇年代に遡ることができる。フリーメイソン=ユニテリアン思想は、豊後(ぶんご)中津(なかつ)や大阪堂島の交易人の系譜の人である福澤諭吉にまで伝わったのだ。

 福澤諭吉とフリーメイソン組織の深いつながりを、こうして微力な私が掘り当て、捜し出したことで日本人が世ワールド・ヴァリューズ界基準の歴史、思想を理解する一助になるだろう。読者をこの知的冒険に誘いざなうことができるなら私の本望である。

 

 この本を苦心して書き上げる上でSエスNエヌSエスIアイ学門道場主催者の副島隆彦先生と電波社書籍部編集長の岩谷健一氏にたいへんお世話になった。この場を借りて、厚くお礼を申し上げます。

  二〇一八年二月一〇日                        石井利明

 

(貼り付け終わり)


※私が学生時代に所属していましたサークル(地方学生の会)の先輩でお世話になっている森和也氏の書籍が発売されました。ぜひ手に取ってお読みください。 よろしくお願いいたします。

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 古村治彦です。

 

 今回は最近読みました『白い航跡』をご紹介します。吉村昭(1927-2006年)は歴史的な事実を小説とする手法で知られた歴史作家です。日露戦争の日本海海戦のバルティック艦隊を詳細に描いた『海の史劇』は初めて読んだときに衝撃を受けたことを覚えています。

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新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)

 

 『白い航跡』は、東京慈恵会医科大学の創設者である高木兼寛(たかきかねひろ、1849―1920年)を主人公としています。高木は日向国穆佐(むかさ)村(現在の宮崎県宮崎市)に生まれました。大工の棟梁の家に生まれましたが、学問好きであり頭脳明晰の少年で、大工仕事を手伝いながら学問に没頭しました。

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 高木は身分制度が厳しい時代に、このまま田舎で大工の棟梁で終わりたくないと考え、医者になることを決意しました。医者は出自に関係なくなれ、良い暮らしができると考えました。そして、18歳の時に鹿児島に出て蘭方医石神良策の門下に入りました。20歳の時に、戊辰戦争が勃発し、薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍しました。鳥羽伏見の戦いから東北地方に転戦し、会津若松攻めにも参加しました。どの戦いも激戦で、多くの死傷者が出ました。高木は銃弾が降り注ぐ中で、負傷者の応急手当に従事しました。

 

 高木は野戦病院で西洋医学を駆使した治療を目の当たりにして自分の無力さを痛感し、かつ、薩摩藩が協力関係を持っていたイギリス公使館から派遣された公使館付医師ウィリアム・ウィリスが重傷者を救っていく姿に感動し、是非進んだ医学を学びたいと熱望するようになりました。戊辰戦争後、宮崎に帰還した高木は、薩摩藩が1869年に設立した開成所洋学局に入学し、英語と医学の基礎を習得しました。薩摩藩はウィリアム・ウィリスを鹿児島に招き、医学校を設立しました。高木は医学校に入学しましたが、頭脳明晰さと真摯な姿勢、英語をウィリスに認められ、片腕的存在となりました。

 

1872年、高木は恩師石神の引きで海軍に入り、海軍軍医となりました。高木はウイリアム・ウィリスの教えを受け、英語と実戦的な医療技術に秀でており、海軍内でもすぐに頭角を現しました。海軍は創設当初から薩摩藩出身者が重職を占めており、薩摩藩の軍医として従軍した高木は順調に出世を重ねていきました。また、薩摩藩はイギリスと関係が深く、ウィリアム・ウィリスを鹿児島に招いたこともあり、海軍の医療はイギリス式が採用されていたこともあり、高木には良い環境と言えました。

 

日本の西洋医学受容に関しては、ドイツ式かイギリス式かということで争いが起きました。戊辰戦争でウィリアム・ウィリスが多くの負傷者を救ったこともあり、当初はイギリス式が採用されることになっていました。しかし、ドイツの医学の方が進んでいるという意見も出て、どちらを採用するか、新政府に迷いが出ました。オランダ系アメリカ人の宣教師で、長崎で大隈重信や副島種臣を教えたグイド・フルベッキは、「ドイツ医学の方が進んでいる」という意見を述べ、最終的にドイツ式が採用されることになりました。ウィリスが鹿児島の医学校に招かれたのも中央に居場所がなくなったためでした。しかし、海軍の医療に関してはイギリス式が採用されました。

 

 当時のドイツ医学とイギリス医学の違いは、ドイツの方が基礎研究を重視し、学理を重視するというもので、イギリス式はより実践的な医療を重視するというものでした。ドイツ医学からみれば、イギリス医学は実践を重視するあまりに「軽い」もののように低く見られていたようです。

 

 1875年、軍医少監(少佐相当官)となっていた高木にイギリス留学の話が舞い込みます。そして、セント・トーマス病院付属医学校に留学しました。高木は下宿と学校の往復のみというストイックな姿勢で勉学に励み、常に成績優秀者として表彰と賞金を受ける学生として、イギリス人学生たちからも尊敬を受けるほどでした。セント・トーマス病院では実際の診療にもあたり、より実践的な医療技術も習得しました。高木は内科、外科、産科の医師資格を取得し、1880年に日本に帰りました。

 

日本に帰国後、高木は順調に昇進を重ね、海軍軍医学校長や病院長を歴任し、1883年には海軍軍医務局長、1885年には海軍軍医総監に就任しました。海軍軍医のトップにまで昇り詰めました。

 

 最高幹部クラスの海軍軍医となった高木が取り組んだのが脚気の治療と予防でした。海軍では脚気患者が多数出て、危機的状況にありました。実際に出動、戦闘となった時に、戦艦の乗組員の多数が脚気で動けないとなればどうしようもないということになります。実際に朝鮮半島をめぐり、中国(清帝国)と緊張が高まった際に、朝鮮半島に出動した軍艦では多くの脚気患者が出て、実際の戦闘になっても船を動かすことすらできない状況にまでなってしまいました。この時は実際の衝突は起きず、何とかごまかすことが出来ましたが、日本海軍は装備以前の問題で兵員の健康問題を抱えてしまうことになりました。

 

 この当時、ドイツ医学系の東京大学医学部と陸軍軍医たちは、脚気の原因は細菌だと考えていました。夏になると脚気患者数が増え、海軍でも士官よりも兵士クラスで患者数が多く出るということから、不衛生な場所で脚気の原因菌が繁殖するのではないかと考えられていました。しかし、原因菌の特定には至っていませんでした。

 

 高木はイギリス海軍では脚気の患者が出ないこと、日本伝統の漢方医たちの中に「脚気の原因は米だ」という主張があることなどから、食事、特に副菜を摂らない大量の米食が問題なのではないかと考えるようになりました。現在は日本でも米離れと言われ、米の消費量は減少していますが、昔は1日に5合や6合の米を少ないおかずで食べていました。海軍でも兵士たちに白米を支給し、白米など食べられない貧しい家庭出身の兵士たちは喜んでいました。また、副菜に関しては相当分のお金を兵士たちに支給して勝手に買わせていたのですが、米でおなか一杯になるし、節約の意味もあって、ほとんどの兵士がこのお金を貯金に回していました。そのため、兵士たちは米食に偏った食事をしていました。

 

 高木は海軍の食事を西洋式に改めることを訴え、パン食、肉食、牛乳の摂取を主張しました。しかし、経費がかさむこと、兵士たちが洋食を嫌がることなどの問題もあり、海軍醸造部も高木の訴えには理解を示しつつも実行には躊躇していました。高木は伊藤博文や有栖川宮幟仁親王といった明治政府の最高幹部、要人たちに直訴する形で海軍の食事制度を改善していきました。1883年から海軍内で食事が改革され、これに合わせて脚気患者も減少していきました。しかし、東大医学部や陸軍部では海軍の取り組みと高木の主張を激しく非難しました。陸軍軍医総監であった石黒忠悳や後任の森林太郎(森鴎外)は高木を厳しく糾弾しました。

 

 1883年にコルベット艦龍驤が練習航海を行いました。ニュージーランド、南米、ハワイを周航したのですが、多くの脚気患者を出しました。高木は1884年にコルベット艦筑波に食事を改善した状態で同じコースでの航海をしてもらうという実験を行いました。その結果は、脚気患者はほぼ出なかったという結果になり、高木の主張は海軍内で確固とした立場を確保することになりました。

 

 高木は海軍で軍医教育や将兵の衛生や健康、脚気患者の減少に取り組みながら、同時に海軍外での医療と医療教育にも取り組みました。1881年に慶應義塾医学所(前年に廃止されてしまっていた)の所長だった松山棟庵と医学団体成医会と医師養成機関である成医会講習所を創設しました。福沢諭吉は医学に関して英国式を支持しており、そのために慶應義塾の中に医学所を創設していたのですが、資金難などのために廃止せざるを得ない状況でした。日本国内でドイツ医学が優勢となる中で、イギリス医学の拠点とすべく、高木と松山はこれらの団体を創設しました。これが後に東京慈恵会医科大学へと発展していくわけですが、私の勝手な考えでは、現在の私立医学部の名門である慶應義塾大学医学部と東京慈恵会医科大学は今でも友好関係にあるのではないかと思います。

 

 1882年には、高木は自身が学んだセント・トーマス病院を範とする有志共立東京病院を創設しました。セント・トーマス病院では貧しい患者には無料、もしくは廉価で治療を施していましたが、東京病院もそのような形態を採用しました。東京病院では海軍軍医も診療にあたり、最新の医療が受けられるとして患者が殺到したということです。医者はただ本を読むだけでは技量は上達しないので、できるだけ多くの機会を海軍軍医たちに与えて、技量上たちの場にしたいという考えもあってのことでしょう。東京病院は1887年に明治天皇の皇后(昭憲皇太后)を総裁として迎え、皇后から「慈恵」の名前が与えられ、東京慈恵病院となりました。

 

 高木はまた、セント・トーマス病院で看護婦が豊富な医学知識と確固とした医療技術を駆使して活躍している姿に感銘を受け、日本でも看護婦を要請すべきだと考えていました。1885年に東京病院に付属の看護婦教育所を創設しました。

 

 これらの組織団体が後に東京慈恵会医科大学に発展し、現在に至っています。高木兼寛は東京慈恵会医科大学の創立者ということになります。ドイツ医学が優勢の中で、実践を重視するイギリス医学の拠点を作りたいという高木の意志が東京慈恵会医科大学にまで発展したということになります。

 

 1888年には日本にも博士号が作られ、文学、法学、工学、医学の各分野から4名ずつに博士号が授与されることになり、高木はその中に入り、医学博士となりました。日本ではドイツ医学優勢で傍流として虐げられていましたが、やはりロンドンで学んできたことと日本海軍内で脚気患者を減少させた功績を国家として無視することはできませんでした。

 

 1892年に高木は海軍を退き、貴族院議員となりました。また、1905年には男爵に叙せられました。日清・日露戦争で日本海軍が各戦闘で勝利を収めることが出来たのは、脚気患者を減らすことが出来たということになり、高木の功績に対して華族に叙せられることになりました。そのままの時代が続けば、頭脳明晰であった高木も父の跡を継いで大工の棟梁で終わるはずであったのが(大工の棟梁も素晴らしい仕事ですが)、明治維新という日本の勃興期に人生が重なった人物でした。

 

 高木は後にアメリカ・ニューヨークに今でもある名門コロンビア大学の招聘受けて渡米、更にヨーロッパ各地を歴訪しました。自分が学んだロンドンのセント・トーマス病院も訪問しました。高木は各地で歓迎を受け、いくつもの大学で講演し、名誉博士号を授与されました。日本では東京大学医学部と陸軍によってドイツ医学優勢となり、傍流とされているが、海外ではこんなにも評価されているということで高木は自信を取り戻しました。

 

 晩年は診療以外に一般教育と講演に力を注ぎました。自分が相手にされない医学界向けではなく、一般の人々に医療や衛生について話をし、更には道徳などについても話をするようになりました。また、この頃から日本の伝統に回帰するようになり、禊(滝行など)を好んで行うようになりました。また、日本の粗食(雑穀の入ったご飯や味噌など)が素晴らしいと言うようになりました。ロンドンまで行って近代学問を学んだ高木もまた日本人であったということになるでしょう。

 

『白い航跡』を読んで思うことは、イギリスとドイツの学問の方法論の違いということです。イギリスは帰納的であり、ドイツは演繹的であり、かつ、イギリスは形而下を重視し、ドイツは形而上を重視するという大きな違いがあり、哲学的に言えばイギリス経験論とドイツ合理主義の違いということが言えると思います。

 

たまたま生まれた時代と場所によって、高木はイギリス医学、森鴎外はドイツ医学を学びました。そして、お互いが自分の学んだ医学の優位性を確信しました。彼らは脚気をめぐって、それぞれの学問に忠実に向き合い、お互いに争いました。高木はドイツ医学を学んだ医学者たちからは冷笑をされたり、激しい非難を受けたりました。陸軍軍医たちは、最近接に固執し、麦飯を同流することに反対し、麦飯の効果を検証しようとする試みにも「天皇陛下の軍隊を実験に使うとは許せない」などと言いだす始末でした。とても科学者、医学者の発言とは思えません。

 

陸軍の長州閥の大物で後に総理大臣となった陸軍大臣寺内正毅は脚気を患っており、個人的には麦飯を食べていたという笑えない笑い話のような話もあります。寺内は日清戦争で指揮官として出征、自身も脚気患者となり、また部下たちからも多くの脚気患者を出しました。当時の陸軍では大量の米飯が継続されていましたが、海軍に比べて膨大な数の脚気患者を出すに至りました。皮肉なことに現地で調達した精米していない米に雑穀を混ぜた、食事に「恵まれなかった」部隊では脚気患者が少なかったということもありました。

 

東大医学部系や陸軍軍医たちの姿を見ていると、患者が実際に出て死亡していくのに、自分たちの学んだ学問に合わないからと言って、麦飯の効果を検証することすら邪魔をするというのは、異常なことです。彼らは人々を助けるために医学者になったのではなく、自分の頭脳明晰さと権力のために医学者になったのではないかと疑いたくなるほどです。そして、自分の学んだ学問の方法論にこだわるのは恐ろしいことであり、かつ、学問研究から離れているとされる宗教的な進行にすら似ているように感じられます。また、学問は間違ったり、失敗することが重要であり、そこから新しいものが生み出される(「失敗は成功の母」という言葉もあります)はずですが、実際には無誤謬性に凝り固まった宗教や信仰のようになってしまっている、これは現状でもそのようなことがあると思います。

 

 本書を読んで、学問とは何かということと人の人生は偶然と時代の産物なのだということを考えさせられます。

 

(終わり)



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