古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 本の紹介

 古村治彦です。

 

 2017年4月28日に副島隆彦先生の最新刊『アメリカに食い潰される日本経済』(徳間書店、2017年4月)が発売されます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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アメリカに食い潰される日本経済

 

(貼り付けはじめ)

 

まえがき

 

 世界は戦争に向かって急激に変化した(4月6日。米トランプ政権によるシリア爆撃)。戦争の陣(じん)(だい)()が聞こえる。このミサイル攻撃はトランプと習(しゅう)(きん)(ぺい)のフロリダでの晩餐会(ディナーパーティ)のさ中(なか)に決定された。

 

 私はこの問題について本書の終わりに自分の予測(予言(プレディクト))を書いた。

 

 トランプの出現が、世界を揺さぶっている。どうしても彼を中心にして、世界経済を見なければ済()まない。そしてその余波(アフターマス)を必ず受ける日本経済を見なければいけない。

 

 トランプは日本からお金(かね)を毟(むし)り取りにくるのである。まさに、「アメリカに食()い潰(つぶ)される日本経済」である。

 

 ドナルド・トランプという男は、多くの日本人からは、金髪ゴリラの恐ろしいおじさんで、何をしだすか分からないという恐怖感がある。日本の政治指導者たちも、金持ち層や投資家たちもそう思っている。金融市場にいる人たち自身がトランプの言動「一(ひと)(こと)のつぶやき(ツウィッター)」で動揺するものだから、これまでのような自信たっぷりの市場予測(景気動向の先(さき)()み)ができなくなっている。なかなかおもしろい状況である。いわゆる金融市場の専門家、アナリスト、ストラテジストたちが言葉を失っている。

 

 私はトランプ当選を予言して当てた男だ。『トランプ大統領とアメリカの真実』(日本文芸社、2016年6月刊)を出した。だから、トランプが何を考えているのか、が分かる。トランプの頭の中身が、おそらく日本では一番よく分かっている人間である。この観点から話をしてゆく。

 

 トランプというのは、どういう人間なのかもこの本の後(うし)ろの方で書く。それはそのままアメリカの政界(首都(キャピトル)ワシントンと金融都市(マネーシティ)ニューヨーク)の動きである。一番大きく言うと、アメリカはもうカネがない。世界を助ける余裕なんかないんだ。このことが、トランプ(たち)の根本のところにある。トランプの本音は、「オレは大変な大借金状態の国(くに)を引き継いだ経営者だ。再建屋だ」というものだ。だから大ナタを振るって自国を立て直すゾという考えだ。このことを分かってください。

 

 トランプは、3月2日のザ・ステイト・オブ・ユニオン(施()(せい)方針演説と訳す。本当は「国民(ステイト)の団結(ユニオン)」演説)の前の1月20日の就任式(イノギュレイション)(その直後から仕事を始めてT(ティー)(ピー)(ピー)から離脱した)の演説で、「私は世界の代表ではない。私はアメリカの代表である」とはっきり言い切った。このことについても後で説明する。これが反(アンチ)グローバリズムだ。すなわち、アメリカはもう世界の面倒を見る力はないんだ、国(こく)(りょく)が落ちて今も衰退が続いている。このことを死ぬほどよく分かっているのがトランプだ。だから、トランプ魔術(マジック)で、手品のようなインチキ経営の手法で、なんとかアメリカを立て直して経済復興、景気回復させようとしているのだ。さあ、これがうまく行くか、だ。

 

 この反(アンチ)グローバリズム(反(はん)地球支配主義)はアイソレーショニズムでもある。アメリカ・ファースト!でもある。こういうことを書くと訳(わけ)が分からないだろう。日本では私だけがこれらの政治(学)用語(ポリティカル・ターム)についても正確に精密に分かっている。と書くと、またしても鼻(はな)(じろ)まれる。

 

 だが、私の書くことを「そうだ、そうだ」と支持してくださる人も大(だい)()増えてきた。アメリカ・ファースト!を、「アメリカ第一主義」とか、「アメリカ国益第一主義」と新聞・テレビが訳すようになった。それでもまだダメだ。アイソレーショニズムは、正しく「アメリカ国内問題優(ゆう)(せん)主義」だ。

 

 アメリカ・ファースト!(国内問題優先主義)とは、「アメリカ国内が第1(ファースト)、外国のことは第2(セカンド)」ということだ。まさしくこれがトランプたちの本心、本音での考えだ。外国のことになるべく関わりたくない。これが今のアメリカ国民の本(ほん)()だ。このことを日本人が分からないから、うろたえてしまう。だから、シリアや北朝鮮に向けてミサイルぐらいは撃つ。が、これは小さな戦争(スモール・ウォー)だ。だけれども大きな戦争(ラージ・ウォー)、すなわち、第3次世界大戦(ザ・サード・ワールド・ウォー)(WW3)はしない。トランプは施政方針演説(ザ・ステイト・オブ・ユニオン)で、「アメリカの子供たちのために。将来のアメリカのために」と言っているわけで、日本を含めた外国のことなんか考える余裕がない。これをまず分かるべきだ。

 

 アメリカはカネがない。本当にカネ(国家の財(ざい)(せい)資金)がもうない。

 

 もうひとつ大きな出来事があった。この人物が“実質の世界皇帝”である、と私がこの30年間書き続けた人が逝(せい)(きょ)した。3月20日に、ニューヨーク郊外のポカンティコヒルの邸宅でデイヴィッド・ロックフェラーDavid Rockefeller(101歳)が死去した。記事を載せる。

 

「デビッド・ロックフェラー氏死去 101歳、親日家の銀行家」

 

 米巨大石油会社スタンダード・オイルを興した大富豪ロックフェラー家のデビッド・ロックフェラー氏が、3月20日、ニューヨーク郊外の自宅で心不全のため死去した。101歳だった。同氏のスポークスマンよると、自宅で睡眠中に安らかに亡くなったという。

 デビッド氏は、石油会社の創業者ジョン・ロックフェラー氏の孫で、大手米銀チェース・マンハッタン銀行(現JPモルガン・チェース)の最高経営責任者(CEO)などを務めた。

 

 1915年、ニューヨーク市で6人兄弟の末っ子として生まれた。36年ハーバード大学卒、40年シカゴ大学で経済学博士号取得。ラガーディア・ニューヨーク市長の秘書を経て、46年に、旧チェース・ナショナル銀行入行、69年にチェース・マンハッタン銀行の会長兼CEOに就任した。

 

 銀行経営者として海外事業を拡大し、世界の政界や経済界に広い人脈を築き、民間外交に活躍した。芸術や文化などを通じた慈善事業にも力を入れ、母親が設立に関わったニューヨーク近代美術館(MoMA(モマ))の理事として長く運営に関与した。

 親日家としても知られ、9 4年の天皇陛下のニューヨーク訪問時には、ロックフェラー家の邸宅に招いた。ニューヨークの日米親睦団体、ジャパン・ソサエティはデビッド氏の兄で故ジョン・ロックフェラー3世が会長を務めた。

 

 デビッド氏の父、ジョン・ロックフェラーJr.(2世)氏が建てたニューヨークのランドマーク、ロックフェラーセンターを、一族が89年に三菱地所に売却した際には、デビッド氏が米国民からの批判の矢面に立った。

 

              (日本経済新聞、伴(ばん)(もも)()記者、2017年3月21日、傍点引用者) 

 

 デイヴィッドが死去して私は、ただただ感慨深い。この本は金融・経済の本だから多くのことを書くことができない。私がこれまでに書いた他の本たちを読んでほしい。私は、1987年に(34歳だった)自分の初期の本で、「この人が、実質の世界皇帝である」と書いて以来、ずっと書いてきたから、ちょうど30年になる。

 

 この人、David Rockefellerを、日本の支配階級(エスタブリッシュメント)の人たちは、隠語で「ダビデ大王」と呼ぶ。この慣例に倣(なら)って私も10年ぐらい前から、そう呼ぶようになった。

 

 昨年5月に、まだ、とても大統領に当選するとは、ほとんどの日本人から思われていなかったドナルド・トランプが、「ドナルド。ちょっと私の家に来てくれ」と、ヘンリー・キッシンジャー(94歳)に呼ばれた。この時に、私はピンと来た。世界の外交の超(ちょう)大物であるヘンリー・キッシンジャーは誰も否定できない事実として、デイヴィッド・ロックフェラーの直(じき)(しん)である。ということは、ロックフェラーは、それまで自分の後継者(跡(あと)()ぎ)だと認めていたヒラリーとビル・クリントンを見捨てて(切り捨てて、乗り換えて)、「トランプで行く」と決めたのだ。そのように私は読んだ。そしてトランプ大統領が誕生したのである。トランプ時代(おそらく2024年までの8年間)が始まった。私たち日本人も覚悟を決めなければいけない。

 

=====

 

アメリカに食()い潰(つぶ)される日本経済──[目次]

 

まえがき─1

 

どぎたない秘密経済政策で株価吊り上げをやった

やってるフリだけの秘密経済政策で株価を吊り上げた─20

トランプ当選で株価がドカーンと上がってよかった─22

トランプ大統領の“ご祝儀相場〟は終わった─27

すべては交渉ごと。トランプはどんな問題でも真ん中で落として合意する─31

日本の裁判も真ん中で落として和解の判決が出る─34

アメリカにはもう本当にカネがない─38

軍人を増やすといっているが、実は軍人をリストラする─46

アメリカの「双子の赤字」をトランプは半分にする─54

下から膨らんでいくイメージの「グラウンド・スウェル」で活性化する─56

「有事の金(きん)」で金価格が上がり始めた─66

「チョップショップ」の経済思想でアメリカを再生させる

ムニューシン財務長官は「チョップショップ」の経済思想で動いている─72

給料は半分でもなんとか食わせてやるという経営者の思想─82

やっとこさ年1回の利上げをしたイエレンFRB議長─89

FRBを議会の監視下に置いて、弱体化させる─94

財政ファイナンスはヘリコプター・マネーと同じだ─102

やっぱり日本のおカネがアメリカにもっていかれる

命の次に大切なおカネをアメリカが日本から召し上げる─108

安倍はアメリカに51兆円も貢ぎ金をもっていった─112

アメリカに日本の新幹線を通勤新線としてつくらされる─122

「統合政府」という妖怪が日本を徘徊している─132

シムズの財政理論はケインズとは異なるトンデモ理論─148

すべてはインフレが解決してくれるから、いいじゃないか政策─150

悪魔のささやきの経済政策が次々と日本に持ち込まれる─155

孫正義の親分はシュワルツマンだとついに分かった─157

これでは日本国民が先に死んでしまう─164

トランプ・タワーで東京のお台場カジノを約束させられた─166

アデルソンとクシュナーが組んでカジノをやる─172

実物経済への回帰が始まった

ティラーソンがロシアと組んで北極圏の天然ガスを開発する─180

トランプはプーチン、習近平の世界3巨頭会談で連携していくだろう─185

アメリカの対中貿易赤字を削減させる─189

ラストベルトの石炭と鉄鋼産業をまず再生させる─194

アイン・ランドの大作『肩をすくめるアトラス』の本当の真実─198

アメリカの鉄鋼はもう中国には勝てない─199

エネルギー政策を決めた重要会議─200

アップルもグーグルもトランプの軍門に下った─203

レーガン政権の再来だが、ネオコンに要注意─204

基本に戻ってアメリカという国家を再生させる─206

中国共産党の幹部が大資本家になった─209

イスラエル問題も見事に真ん中で落とした─210

NATOはちゃんと守るからお金を出せ─217

キューバに対する態度もコロリと変えた─222

国境線を厳しく管理するのは人種差別ではない─223

「ドレイン・ザ・スワンプ」でワシントンの官僚どもが日干しにされる─227

北朝鮮の核ミサイルは日本には飛んで来ない

安心せよ。北朝鮮の核兵器は日本には飛んで来ない─234

日本は軽挙妄動せずに局外中立の立場を貫くべきだ─242

アメリカのシリア攻撃はアサドではなく北朝鮮の金正恩に対する警告だった─244

「核戦争コワイ、コワイ」のパニックになってはいけない─248

2018年の4月に中国軍が北朝鮮に進軍する─252

米中会談とシリア爆撃をお膳立てしたのはやはりキッシンジャーだった─255

 

 

あとがき─265

 

巻末付録 トランプ暴落にも耐えられる11銘柄─268

 

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あとがき

 

 世界が急激に変化しつつある。どうもこの4月6日から、大きくは戦争の時代に突入したようだ。「東京に核攻撃がある。だから、私は、田舎の実家に帰る」という女性たちが、出始めているようです。 人一倍の、恐怖心を持っている人間たちが、すでに、動き出しているようです。

 

 それでも、日本は大丈夫だ。日本には、北朝鮮の核兵器は飛んで来ません。その諸理由を、私はこの本の最終章に詳しく書いた。

 

 経済評論というコトバが死んでしまったのではないか。金融評論というジャンル(分類)の本が書店になくなった。店頭に並ばなくなった。ビジネス書という分類はまだ残っている。

 

 金融・経済の評論家たちが、みんないなくなってしまった。そういう職業が滅んだようだ。それなのに私は、ひとりでこうして金融本を書いて出している。妙な感じである。

 

 私の専門、本領、本籍は、もともと政治分析、政治思想研究、政治評論だった。私は、「大きく政治の方向から」経済、金融を見てきた。だから、私はこうして出版業界で生き残っている。このことの強味を自覚している。

 

 この本も苦心して書いた。しかし、それなりの達成感はある。内容は充実している。現在の最先端の金融現象や、政権寄り(体制派)の政策実行者(ポリシー・エクスキューター)の経済学者たちの内心の狼(ろう)(ばい)ぶりもよく分かった。私は決して時代に遅れていない。今も最先頭を走っている、という自覚がある。

 

 私は何のために本を書き続けているのか。それは、第1は、自分が、真実の暴(あば)きの言論人である、といういつもの自己原理と強い信念に依るものだ。そして第2(2つ目)は、書きながら自分が勉強するからだ。自分が勉強して、ハッと気づいて、新たに発見したことの喜びを、他の人々にも伝えてお裾(すそ)()けしようと思うからだ。

 

 この本も、書き上げ、完成までずっと同伴してくれた徳間書店学芸編集部、力石幸一編集委員に深くお礼を申し上げます。

 

  2017年4月

              副島隆彦 

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)

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 古村治彦です。

 

 今回は日本の戦後史についての本をいくつかご紹介します。日本の戦後がいかに形成されたのか、そのために歴史を知ることは現在を理解することに役に立ちます。日本の戦後史を扱った書籍は数多く出版されています。研究者でもない限り、それらを読破することは不可能です。読み終わるだけで人生が終わってしまいます。そうは行っても読まなくは始まりませんから、是非興味をひかれる本から読み始めていただければと思います。

 


 
 まずは『「日米関係」とは何だったのか―占領期から冷戦終結後まで』(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、草思社、2004年)をご紹介します。本書は太平洋戦争後の日米関係についての歴史を網羅した本です。英語の原題は
Altered States: The United States and Japan Since the Occupation(変えられた国々:占領以降のアメリカと日本)です。日米両国は、戦争当事国、戦勝国・敗戦国、同盟国と関係が変わってきました。また、アメリカは、「反共の防波堤」として、またアジア地域での同盟国筆頭として日本の国力を増大させようとし、その結果、日本が国力をつけすぎて、経済的な競争相手となり、一時期は「経済戦争で日本がアメリカに復讐を果たした」といわれるほどになりました。本書は、日本の「失われた20年」の前までの日米関係史を望来していますので、現在の日本衰退論、アメリカ衰退論、中国の勃興といったことは書かれていません。

 

 本書を読んで感じたこと、それは、日本は中国の「使い方」次第で、アメリカに対して大きな交渉力を持つということです。それは、アメリカと中国に挟まれた地理的環境をうまく利用するということになります。「日米中三角形」ということは、日本の政治家でも話をする人はいますが、戦後、日本はアメリカと対峙するために、中国の存在を利用してきたということが本書には随所に描かれています。アメリカとの交渉の際に、「中国カード」が有効であった様子が伺えます。

 

 戦前の日本にとって中国は重要な貿易相手国でした。日本製品の大きな市場でした。しかし、戦後、日本がアメリカに占領されている間に、国共内戦が始まり、中国共産党による中華人民共和国建国となり、その後、朝鮮戦争も勃発し、日本は大陸と引き離されることになりました。しかし、日本国内には、経済再建のために、国交と貿易関係の回復を望む声がありました。東南アジア諸国は戦禍と植民地支配から脱したばかりで日本の輸出先市場としては期待が持てない状況でした。そこで、戦前から関係が深かった中国、厖大な人口と土地を持つ中国本土と経済関係を復活させたいという声が財界から上がっていました。

 

 これに対して、アメリカはかなり「気を遣って」いました。日本が共産圏に近づかないように、経済援助を与え、最終的には独立させます。また、アメリカ市場を開放し、日本をアジアにおける「反共の防波堤」として成長させ、ソ連と中国に対峙させようとしました。朝鮮戦争はその意味で、日本の経済成長のスタートのきっかけとなりました。

 

 1960年の日米安保条約改定の前後、日本ではアメリカに対する反感が高まりました。これを抑えるために、ジョン・F・ケネディ大統領は、駐日大使に母港ハーヴァード大学教授のエドウィン・O・ライシャワーを起用しました(ケネディ・ライシャワー路線と呼ばれます)。日本生まれで日本語が堪能、妻も日本人(元老松方正義の孫)であったライシャワーは恐らく、史上最も人気のあった駐日大使です。ライシャワーは日本の保守陣営だけではなく、左翼、労働組合、知識人とも対話を行うことで、親米葉を増やしていく戦略を採りました。私は拙著『アメリカ政治の秘密』で、このライシャワーこそがジャパン・ハンドラーズの元祖であり、ケネディから日本管理路線が始まったと書きました。

 

 しかし、ニクソン大統領が登場する頃になると、アメリカは疲弊してきました。この時代にも「アメリカの衰退」が囁かれていました。ヴェトナム戦争と経済力の低下によって国力が落ちたアメリカは、日本に気を遣ってくれなくなります。対日貿易赤字は赤字が膨らんでいくのに、日本はその削減をしようとしない、軍事的な支援もしてくれない、という不満を募らせました。日米繊維交渉では、日本に輸出の自主規制を求めます。また、沖縄返還でも米軍基地はそのままということになりました。更には「ニクソン・ショック(米中国交回復とドルの兌換停止)」は長期政権を誇り、中華人民共和国との関係樹立に消極的であった佐藤栄作政権に大きな打撃を与えました。

 

 本書を通じて、私は理解したことは、戦後日本の政治指導者たち(自民党)は、国外ではソ連や中国、国内では社会党や労働組合をうまく「だし」に使って、アメリカから何とか自分たちに有利になる条件を引き出してきたということです。再軍備の要求では「それでは社会党や共産党を勢いづかせて、私たちが政権を失ってしまいます、そうなると共産圏に近づきます」と言って、社会党側にも「少し騒いでくださいね」と頼むことで、かわしました。また、アメリカからの経済援助や市場開放を引き出す時には、「中国本土との関係を改善しないと経済力の回復と成長はできません」と言うことで、条件をうまく引き出すことが出来ました。

 

 こうした交渉はずるいと思われるかもしれませんが、国益と言う点では大変素晴らしいものであったと言えます。しかし、現在はこういう交渉ができる政治家はいません。アメリカにべったり、アメリカの言うことさえ聞いていれば、御身大切というひとたちばかりです。この点で、日本の外交は退化しているということが言えるでしょう。

 

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戦後の日米関係の研究書として『戦後アメリカの対日労働政策と地域共闘組織の対抗』(森健一著、熊本出版文化会館、2013年)をご紹介します。著者の森氏は、熊本大学卒業後、東京都立大学大学院修了、現在は鹿児島県内の私立高校で教鞭を執っておられます。私はひょんなことから紹介され、『戦後アメリカの対日労働政策と地域共闘組織の対抗』をご恵贈いただきました。森氏は夏休みにアメリカの国立公文書館に行き、資料を収集し、本書を上梓されました。そのご苦労に敬意を表します。

 

 第3章「1956年の『マグルーダー』計画と日米生産性委員会―東京・大田区の機械工業にみる保守基盤の形成」が注目です。ここで出てくるマグルーダーという名前は、日本の戦後史にとって重要な人物の名前です。カーター・B・マグルーダー(Carter B. Magruder、1900―1988年)は、アメリカ陸軍大将でした。このマグルーダーが日米安全保障条約の原案を作ったことは、『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(矢部宏治著、集英社インターナショナル、2016年)で指摘されています。『戦後アメリカの対日労働政策と地域共闘組織の対抗』で、森氏は、日本の戦後復興にマグルーダーが果たした役割を書いています。これを「マグルーダー計画」と言います。

 

マグルーダーは、ヴァージニア大学中退後、陸軍に入隊し少尉任官後に、陸軍士官学校に進みました。1932年にはパデュー大学で機械工学の修士号を取得していますから、軍官僚として優秀な人物であったと思われます。1941年に陸軍省参謀部補給担当参謀次長、1944年に在欧米軍補給担当参謀次長となりました。米軍内の兵站担当の専門家となりました。また、1950年代:国防総省のスタッフの中心となって「日米安保条約・国防総省案」を作成しました。これを「マグルーダー原案」と言います。1959年には大将昇進し、在韓国連軍司令官兼第八軍司令官に就任しました。

 

 マグルーダーは兵站の専門家として、1956年に日本を「米軍の兵站工場」にする計画を立てました。そして、極東米軍の兵站のために、日本の大企業(トヨタ自動車や三菱重工業)に大量発注を行い、また、これらの企業の経営指南と生産性向上のためにアメリカから専門家を招へいしました。こうした生産性向上の動きが「日本生産性本部」の誕生につながりました。そして、日本の労働組合の穏健化も進めました。

 

 このマグルーダーという人物は日本の戦後政治史において重要な人物です。是非、『戦後アメリカの対日労働政策と地域共闘組織の対抗』をお読みください。

 

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日本の戦後、特に連合国(ほぼアメリカ一国)による占領時代について知りたい方は、『日本占領史
1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(福永文夫著、中公新書、2014年)をお読みください。この本には占領下の日本の歴史が網羅されています。副題が「東京・ワシントン・沖縄」とありますが、戦後史であまり語られてこなかった1945年から1952年までの沖縄の歴史が書かれていますが、これは大変価値があることだと思います。また、ワシントン(国務省と国防総省、ホワイトハウスの対立)と東京(日本占領当局であるSCAP[GHQ]の対立)の対立ということも描かれています。

 

 GHQでは、民政局(GS)のホイットニー・ケーディスと参謀第2部(G2)のウィロビーの争いがありました。GSは革新的、急進的な改革を志向し、G2はそれに対して批判的でした。ワシントンでは、国務省と国防総省で対立がありました。国務省は日本の占領を想起で終了したいと考えていましたが、国防総省は、日本の占領の継続、日本国内の米軍基地の継続使用を強硬に主張していました。こうしたことは他の本でも書かれています。この本は沖縄の1945年から1952年までの歴史に多くのページが割かれており、ここに価値があると考えます。

 

 沖縄では悲惨な地上戦が展開され、多くの人々が犠牲となりました。沖縄の民間人は収容所に入れられ、その後、解放されましたが、自分の土地に戻ってみると、そこは米軍基地にされていたという人々が多くいました。この米軍基地として接収された土地ですが、日本が独立を回復する1953年までは戦争状態の継続を理由に使用料を払われていなかったということを知り、アメリカでも官僚主義とは酷いものだし、勝者は理不尽なものだと改めて強く怒りを覚えました。

 

 沖縄は日本とアメリカの狭間で忘れられた存在となっていた時期もあり、米軍が直接軍政を敷く状態が続きました。そうした中で、沖縄の人々の自治も米軍が認める範囲でだけ認められ、また、琉球政府も創設されましたが、あくまで、米軍の意向を実施するだけの機関でした。そして、日本は1953年に独立を果たしましたが、沖縄は米軍の軍政下に置かれたままとなりました。

 

 私は歴史的な経緯も考え、沖縄独立という選択肢があってもよかったと思っています。現実としては、日本の一部であることが沖縄にとっても経済的に良いということもあるかもしれませんが、その地理的環境から、独立してもやっていけるのではないかとも考えています。私の場合はその調査研究をしたことがないので空想の夢物語の範囲でしかないのですが。

 

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 日本占領史の裏面史としては、『占領史追跡』(青木冨貴子著、新潮文庫、2013年)をご紹介します。この本は、戦後日本で活躍したコンプトン・パケナム(
Compton Pakenham、1893―1957年)という人物の評伝となっています。パケナムはアメリカの雑誌『ニューズウィーク』誌の創刊に参加した人物で、日本生まれで日本語が堪能であったことから戦後『ニューズウィーク』誌の日本支局長を務めました。

 

 パケナムは日本の神戸生まれで、イギリスの名家パケナム家の支流にあたる人物です。中国のチーフ-・スクールで教育を受け、イギリスに帰国し、第一次世界大戦に参戦します。奇跡的に生き残り、その後、アメリカにわたり大学で教鞭を執ります。しかし、彼は経歴を詐称していました。「有名なパブリックスクール[上級階級の子弟向けの寄宿進学準備校]のハーロースクールから、王立陸軍士官学校で学びオックスフォード大学で博士号を取得したという触れ込みで全米各地の大学で教鞭を執っていました。昔は学位の確認などいい加減だったのだろうと思われます。

 

 著者の青木氏は、パケナムの上司であったニューズウィーク誌の外信部長ハリー・カーン(ロッキード事件でも名前が出ました)について調べている過程で、カーンの遺族から、パケナムの日記を渡され、これが『占領史追跡』につながりました。

 

 パケナムは自分が育った日本が大きく変貌していること、彼がもともと知っていた野村吉三郎海軍大将(太平洋戦争開戦時の駐米日本大使)が困窮している姿を目撃し、占領軍の行っている日本改革に批判的となり、マッカーサー批判記事を展開し、日本への入国禁止措置を取られるほどになりました。

 

 パケナムはアメリカにいるハリー・カーンと連絡を密にとりながら、ジャーナリストとしての仕事と諜報の間を行き来しながら仕事をしていました。

 

パケナムは、昭和天皇の意向をアメリカにつなぐチャンネルの結節点となっていました。このチャンネルは、昭和天皇―松平康昌(宮内府式部官長、越前松平家、貴族院議員、昭和天皇の側近)―パケナム―ハリー・カーン―ジョン・フォスター・ダレス(ディーン・アチソン国務長官顧問、国務長官)とつながっていました。松平はしばしばパケナムの自宅を訪ね、皇太子(今上天皇)の留学先問題や東京裁判における天皇訴追の問題などを相談するという形で、昭和天皇の意向をパケナムに伝え、彼を通じてアメリカに伝えていました。

 

昭和天皇はマッカーサーともつながりながら、冷戦開始とともに変化しつつあった国際環境に日本を適用させようとして動いています。

 

 パケナムは吉田茂の再軍備反対路線に反対し、吉田はサンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の締結後には引退し、その後は鳩山一郎が首相になると考え、鳩山にも接触していました。また、鳩山の後には岸信介が首相になると予想していました。こうした点で、政治的な嗅覚が鋭い人物であったことが分かります。

 

 パケナムはニューディーラーが主導した戦後日本の改革に反対する潮流に属し、戦前の日本から存続したエスタブリッシュメントと繋がりながら、日本の改革の急進性を中和させた人物、逆コースの実現に貢献した人物であると言えます。

 

 戦後日本では、このように表と裏の顔を使い分ける胡散臭い人物たちが活躍した時代もありました。『東京アンダーワールド』(ロバート・ホワイティング著、松井やより訳、角川文庫、2002年)というニコラ・ザペッティという人物を主人公にした本も合わせてお読みいただければと思います。

 

東京アンダーワールド (角川文庫)
ロバート ホワイティング
角川書店
2002-04


(終わり)
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 古村治彦です。  

 『ザ・フナイ』2017年5月号が発売になりました。『ザ・フナイ』は、日本の経営コンサルタントの草分けである故船井幸雄先生が創設した船井本社が発行する月刊誌です。4月号、5月号で、副島隆彦先生、船井勝仁氏との鼎談を掲載していただきました。5月号には鼎談の後半部です。

 宜しくお願い申し上げます。

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 ザ・フナイ 2017年 05 月号 [雑誌] 雑誌 – 2017/4/3

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(終わり)








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 古村治彦です。

 今回は『日本会議の正体』という本を皆さんにご紹介します。このブログでは、以前に『日本会議の研究』という本を皆様にご紹介しました。今回の本もまた、日本会議をテーマにしています。私の個人的な感想では、『日本会議の正体』の方が私の興味関心、問題意識を満足させてくれるものでした。私の興味関心は、日本会議を支える宗教界、特に神社本庁の関わりと財政的支援や日本会議の源流となった80年代くらいまでの生長の家の活動や主張などでしたが、これらについて、著者の青木氏は丹念に追っています。『研究』と『正体』を読むと、現在の日本社会と日本政治の状況が掴めると思います。そして、現状は無関心ではいられないと思わせてくれます。


 
 

 日本会議の事務局を支えているのは、生長の家の信者であった椛島有三事務総長をはじめとする人々です。『日本会議の研究』では、椛島有三、安東巖、伊藤哲夫といった生長の家の信者で若い時から草の根保守運動に関わってきた人々について丁寧に描かれていました。『日本会議の正体』では、日本会議を動員や財政面で支える神社本庁の動きについて詳しく描かれています。私が驚くのは、明治神宮の動きです。

 

明治神宮はお正月ともなれば初詣客が押し寄せその数は日本一です。また、神宮球場(東京六大学野球、東都大学野球、東京ヤクルトスワローズの本拠地で恐らく日本で一番忙しい球場でしょう)や明治記念館(結婚式場として有名)といった優良施設を都心に構え、その売り上げが110億円にも上るということです。そして、豊富な資金力や動員力を使って、日本会議や日本会議が行うイヴェントを支えているということです。明治神宮に初詣に行く人や明治記念館で結婚式を行う人の中には、神社本庁や日本会議が目指す改憲に反対の人もいるでしょうが、そうした人たちのお金もこうした運動に使われていることになるということは驚きでした。

 

 この『日本会議の研究』では、生長の家の開祖である谷口雅春の教えや主張についても紙幅が割かれています。「谷口雅春」「生長の家」という言葉は知っていましたが、私が物心つくころには、生長の家は政治から撤退し(1983年、優生保護法の改正で自民党が努力をしなかったことが原因だそうです)、それ以降は、政治とは距離を取り、現在はリベラル寄りで、安倍政権に批判的になっているとのことです。

 

 谷口雅春が書いた本が『生命の實相』で、これはこれまでに約1900万部も出た本だそうです。病気になった人たちがこの本を読んで治ったという体験を持つのだそうで、鳩山一郎元首相も脳出血で倒れ体が不自由になってから読んでいたそうです。生長の家は、出版宗教と呼ばれていたほどで、多くの本やパンフレットを出して布教をしていました。こうなると、ある程度本を読むことができる、慣れている、好きだという人たちが多くなり、インテリが多いとも言われていたそうです(開祖の谷口雅春は早稲田大学中退で、文章がうまかったということです)。

 

 谷口は戦後、GHQから執筆追放処分となりましたが、1969年に『占領憲法下の日本』という本を出しました。推薦文は三島由紀夫が書いています。三島は、自分の祖母も病身で、枕元には『生命の實相』があったとその中で書いています。この本の中で、谷口は次のように書いているそうです。「すなわち『主権は国民にありと宣言し』の原稿占領憲法の無効を暴露する時機来たれりと宣言し、『国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗に承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ』(帝国憲法発布勅語)と仰せられた本来の日本民族の国民性の伝統するところの国家形態に復古することなのである」。

 

 この言葉は、現在、自民党内部でも強硬派と呼ばれる西田昌司議員や稲田朋美議員が述べている、「国民主権が間違っている」「国民の生活が第一なんて政治は間違っている」という発言の源流であることが分かります。そして、彼らはこれまでの人類の発展と進歩の歴史に逆行しようとしています。自民党の片山さつき議員もこうした人々の仲間の1人です。こうした人々が作ったのが「自由民主党憲法改正草案」です。この立憲主義とは何かも理解していない人々が作った文書については、『憲法改正のオモテとウラ』(舛添要一著、講談社現代新書、2014年)と『自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!』(小林節、伊藤真編集、合同出版、2013年)で厳しく批判されていますので、これらをお読みください。




  

 稲田議員は『日本会議の正体』の後半部でインタヴューに応じています。日本会議関係者のほとんどがインタヴューを拒否した中で、自民党政調会長であった稲田氏がインタヴューを受けたことには敬意を表したいと思います。稲田氏は、インタヴューの中で、日本会議や生長の家の元信者(原理主義者たち)とは微妙な温度差を見せています。政教分離であるとか、南京事件に対する評価などでは穏健な考えを示しています。しかし、こうしたインタヴューに答え、原理主義者たちに比べて比較的穏健な考えを述べれば、印象が良くなるという計算もあるでしょうから、言葉を額面通りには受け取ることはできません。

 

 青木氏は『日本会議の正体』の最後で、日本会議の正体について「戦後日本の民主主義体制を死滅に追い込みかねない悪性ウィルスのようなものではないかと思っている。悪デイであっても少数のウィルスが身体の端っこで蠢いているだけなら、多少痛くても多様性の原則の下で許容することもできるが、その数が増えて身体全体に広がりはじめると重大な病を発症して死に至る」と書いています。

 

 体が弱っている時に、そうではない時には何ともないのに、大きな病気を発症することがあります。今、日本は国力を落としながら、先進国としてどう着地しようかと迷っている状況です。1960年代からの奇跡の経済成長時期とバブル崩壊までの時期で日本は相当な国富を貯めこんだはずです。それを少しずつ使いながら、システムを転換させる時期に来ています。しかし、私たちが不安に思っているのは、「貯めこんだ国富が残っているのか」「それを使えるのか」ということです。具体的には、アメリカ国債やカリフォルニア州債に化けている国富を取り戻すことができるのかということです。

 

今、私たちは「昔はよかった」という思いに駆られることが多くあります。日本は衰退しつつあるという現実を痛みを持って受け止めています。これは、人間の体で言えば、体力が落ちている状態と同じです。そうした時に、えてして、排外主義、外国との戦争に活路を見出すという動きが起きてきたことは世界の歴史が証明しています。

 

 今、日本は体力を落として弱っています。経済の低迷と少子高齢化による社会構造の変化といった「体調の変化(年相応の高齢化)」が体が弱っています。その弱った体で菌の均衡状態が崩れてしまっている状況です。それは国会の議席数を見ても明らかです。このような状況を脱し、早く均衡に戻れるようにしなくては、この状況を利用されてしまって、再び外国とぶつけられてしまって、亡国の道を進むということもあり得ます。

(終わり)




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 古村治彦です。

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唐牛伝 敗者の戦後漂流

 

 今回は、1960年の日米安全保障条約改定時に、全学連委員長として活動した、唐牛健太郎(かろうじけんたろう、1937―1984年)の評伝を皆様にご紹介します。著者の佐野眞一は、ノンフィクションライターとしていくつもの著作を発表していますが、橋下徹氏を巡る評伝で謹慎することになりました。今回の評伝は佐野氏の復帰作です。この復帰作は、素晴らしい出来であると私は考えます。一気に引き込まれ、読み切ってしまいました。それは、主人公である唐牛健太郎の魅力と共に、佐野氏の筆力もあるでしょう。

 

 唐牛健太郎は、1960年の安保改定の時に活動した、全学連(大学の学生自治会の全国組織)の委員長として「活躍」しました。国会前に集まった学生たちの指導者として、演説で学生たちを動かしました。この60年安保では、東大の学生だった樺美智子さんが死亡し、多くの負傷者を出し、また逮捕者も出てしまいました。唐牛もまた逮捕され、大学も卒業できず、その後、南は与論島(沖縄返還前は日本最南端)から北海道の厚岸(あっけし)まで日本全国を渡り歩く、安定しない生活を続けました。一方、60年安保で全学連の指導者であった人々の多くは、唐牛とは対照的に、大学を卒業し、社会的にステータスの高い仕事に就きました。

 

 唐牛健太郎という名前と響きは、50年代後半から60年代にかけて青春時代を過ごした人々にとって、輝かしいものであったそうです。唐牛が晩年、徳洲会病院グループの総帥・徳田虎雄の選挙参謀になったとき、徳洲会の医師たちは、唐牛に会うことに感激し、徳田虎雄が激怒したという話も残っています。

 

 唐牛健太郎は、北海道・函館出身(戦前の武装共産党の指導者でその後転向し、戦後はフィクサーとなった田中清玄と同郷)です。婚外子で、8歳の時に父親は病死し、芸者としてその美貌が有名であった母は郵便局勤務で、生活を支えました。唐牛がハンサムで、「石原裕次郎よりもハンサムだ」として、映画会社からスカウト受けるほどであったというのは、母親の美貌を受け継いだからと言えるでしょう。

 

 中学時代は勉強も出来て、運動(野球)もできるという優等生タイプの少年で、高校は地元の名門・函館西高校に進学。高校時代に文学に耽溺し、煙草を吸うというような不良っぽい学生になっていて、昔を知る同級生たちが驚いたということです。煙草を吸いながら、難しい本を読むというのは高校生のある種のモデルとも言うべきものでしょう。大学入試では英語が不得意だからと1人だけフランス語で受験して、それで北海道大学に入学できるのですから、不良っぽいとは言いながら、勉強もちゃんとできていたということでしょう。いますよね、勉強している感じじゃないのに、勉強ができちゃう人。私の高校時代もいましたが、羨ましかったことを思い出します。

 

 北大入学後はすぐに休学して上京し、アルバイトをしながら、演劇をやろうとしていたようです。ハンサムで人を惹きつける力がある唐牛にとっては、もしかしたら、俳優が向いていたのかもしれません。しかし、東京で砂川闘争に参加し、人生は大きく変わります。翌年に北大に復学し、教養部自治会委員長や全北海道の大学の自治会連合会の委員長になります。これは彼が天性の魅力を持ち、人に指導者として押し上げられるタイプであったことを示しています。

 

 日本の大学学生自治会は共産党の指導の下にありました。しかし、1950年代後半、日本共産党の方針に反発する若い人たちが出てきて、日本共産党から飛び出していきました。1953年に革命的共産主義者同盟(革共同、後に革マル派の指導者となる黒田寛一や作家となる太田竜がいました)が結成されました。また、1958年には共産主義者同盟(共産同、ブント)が結成されました。そして、1960年の日米安保条約改定時の学生たちを率いたのがブントに指導された全学連でした。

 

  このブント(党[partei]に対する同盟[Bund])の中心人物が、東京大学医学部の学生だった島成郎(しましげお)です。そして、その他にも青木昌彦、香山健一、柄谷行人、西部邁 森田実といったそうそうたる人物たちがいました。1960年にブントは解体します。指導部の人々はそれぞれが学業に戻ったり、就職したりしていきました。そして、1966年に第二次ブントが結成されますが、これも後に解体します。

 

 1963年2月26日にTBSラジオでラジオドキュメンタリー番組「ゆがんだ青春/全学連闘士のその後」(取材者・ディレクター:吉永春子)が放送され、ブントが資金面で、田中清玄などから援助を受けていたことが暴露されました。この番組で流された録音は、吉永の取材というよりは、録音をしていることを隠しての盗聴録音であり、それが放送されました。ブントの資金面を担当していた東原吉伸が、早稲田大学の近くにある蕎麦屋「金城庵(現存・三島由紀夫も早稲田での講演の後に訪問したことがある)」で、同窓のよしみで気楽に吉永と会って、裏話をしてしまいました。これで、当時のブントの指導者たちは激しい批判に晒されました。

 

 唐牛はブント解体後に、革共同に参加しましたがすぐに脱退し、その後は、太平洋単独ヨット横断をした堀江健一と会社を設立したり、田中清玄の会社に入ったり、居酒屋を開業したり、漁師をやったり、コンピューター会社のセールスマンをやったり、徳洲会の創設者・徳田虎雄の選挙参謀をやったりと波乱万丈の人生を送りました。彼は有名になってしまい、大学にも戻らず、いわゆる一般的な仕事に就くことが大変でした。ブントの他のメンバーたちが社会的エリートに「復帰」していく中で、自分だけが罪を背負って、自分を罰するかのように生きていったように思います。結局、「学生さんのお遊び」から突き抜けることができず、空理空論を克服できなかった他の人々に比べ、唐牛は、実生活に基づいた意識をずっと持ち続けたのだろうと思います。

 

 ブントが主導する全学連の全国委員長の人選は、島成郎が行いました。彼は、唐牛健太郎に目をつけ、北海道まで説得に行っています。この当時も、「なんで東大、京大、もしくは東京の早稲田の学生が全国委員長ではないんだ」という不満や批判の声があったそうですが、唐牛をスカウトしてきた島の眼力はさすがというしかありません。しかし、それが唐牛の人生にとって果たして良かったのか悪かったのか、分かりません。母一人子一人で育った唐牛は母をとても愛し慕っていましたが、その母を心配させ、悲しませる方向に進んでしまったとも言える訳ですから。しかし、これは全く母と息子の間の愛情の深さを知らない人間の浅薄な考えかもしれません。唐牛のお母さんは最後まで唐牛を信じて、彼の好きなように生きることを望んだのかもしれません。唐牛の口癖は、「何か面白いことはないか」というものだったというのは皆の証言は一致しています。彼のこの精神は母親にも伝わっていたかもしれません。また、自分の決めた道を進み続けるという生き方を貫いた唐牛を育てたお母さんであるならば、彼の生き方を肯定したことでしょう。もちろん、これも浅薄な勝手な妄想かもしれません。

 

 作者の佐野氏は、60年安保に参加した若者たちの心情について、「一方で反米意識に心を吸引されながら、一方でアメリカのような豊かな国になりたいという意識も拭えなかった」と書いています。反米運動でもあった60年安保の指導者たちから学究の道に入り、アメリカ留学をする人物たちが出たのは、上記のような申請があったのだろうと思います。

 

 唐牛がエリートに「戻る」ことを拒否して、47年間の短い生涯を流浪のものとしたのは、こうしたエリートたちに対する無言の批判があったのだろうとも思います。「結局、エリートに戻って、庶民を弾圧する側に与するのか、君たちは」「俺は弾圧される側に残るよ」ということだったかもしれません。

 

 また、私の師である副島隆彦先生は、著書『日本の秘密』の中で、60年安保のブントには、アメリカから資金が流れていたということを指摘しています。この点について、島成郎氏に会った時に直接質問したそうです。島氏からは「今は言えない」という答えをもらったのだそうですが、島氏は何も言わないままに世を去りました。

 

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