古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 本の紹介

 古村治彦です。

 

 今回は、悪名高い薩摩藩の行った「密貿易」と「贋金づくり」についての最新研究を参照しながら見ていきたいと思います。2018年のNHKの大河ドラマは、西郷隆盛(さいごうたかもり、1828-1877年)を主人公にした「西郷どん(せごどん)」です。原作は林真理子の小説『』です。1990年の「飛ぶがごとく」や2008年の「篤姫」と同じく、鹿児島が舞台になります。

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西郷どん! 並製版 上

 

 私も鹿児島生まれ、鹿児島育ちですが、私くらいの年代(40代)でも鹿児島弁はだいぶ使わなくなりました。「西郷」を「せご」と呼ぶ人は多くないと思います。また、「さぁ(様)」や「どん(殿)」を使う人も私の周りにはいませんでした。イントネーションは鹿児島弁独特のものでしたが、単語などはほぼ標準語と同じものを使っていました。「ぐらしか(かわいそう)」「むぜ(かわいい)」といった言葉は聞けば分かりますが、使いませんでした。鹿児島弁はイントネーションを残してだいぶ使わなくなっています。そのうち、イントネーションも変化していくかもしれません。

 

 私は大河ドラマ『西郷どん』を見ていませんが、見ている人たちからの話やツイッターなどでの感想を見ていると、今回のドラマではところどころで史実に基づいた描写があるようです。最新の研究成果が使われているようです。


 今回は徳永和喜著『海洋国家薩摩』(南方新社、2011年)と 
『偽金づくりと明治維新 薩摩藩偽金鋳造人安田轍蔵』(新人物往来社、2010年)をご紹介します。徳永和喜氏は1951年生まれ、九州大学から文学博士号を授与されています。鹿児島県の公立高校の教師を務め、その後、鹿児島県歴史資料センター黎明館の学芸課長、鹿児島大学、鹿児島国際大学の非常勤講師を歴任し、現在は鹿児島市立西郷南洲顕彰館館長を務めています。

 

 徳永和喜著『海洋国家薩摩』(南方新社、2011年)には、鹿児島と東アジア諸国との関係が詳しく描かれています。『海洋国家薩摩』の最新研究の結果をもとに、アジアと薩摩のつながりをご紹介していきます。

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海洋国家薩摩

 

 薩摩は歴史上、日本と東味が交錯する場所としての役割を果たしてきました。それは戦国時代から江戸時代になっても変わりませんでした。島津氏は直轄地とした山川港で朱印船貿易を行いました。中国からの商人たちが多数やって来て、薩摩藩内の各地で暮らすようになりました。島津家では中国貿易で中国商人たちとトラブルが起きた場合には、中国人商人に訴状を提出させ、鹿児島城下の臨済宗寺院の大龍寺住職だった南浦文之(ルビ:なんぽぶんし 1555-1620年)に照会し解決すると定めました。

 

 山川港は指宿、開聞岳の麓にある天然の良港です。島津氏は戦国時代に、三州統一(薩摩、大隅、日向)を行う過程で、地元の豪族であった頴娃氏から山川港を奪い取り、直轄地としました。それ以降、明治維新期まで、薩摩藩の海外貿易、琉球口貿易の拠点となりました。

 

 鹿児島には薩南学派と呼ばれる儒学の一派が形成されました。その創始者は、臨済宗の禅僧であった桂庵玄樹(ルビ:けいあんげんじゅ、1427-1508年)です。桂庵玄樹は現在の山口県で生まれました。京都で学んだ後、山口に帰り、その後、明に遊学しました。1478(文明10)年に島津家に招かれ、薩摩で儒学を教えました。南浦文之は孫弟子にあたります。

 

どうして日本の辺境である薩摩で儒学が盛んになったのでしょうか。しかも禅僧が儒学を教えるというのは何とも奇妙な話です。ここで簡単に言うと、禅僧たちは中国貿易において文書記録係、通訳をしていました。だから、貿易を行っていた、日本の辺境の領主たちは、禅僧を招いていました。そして、多くの禅僧が集まり、育っていきました。

 

 また、江戸時代まで山川港では南蛮貿易も行われていました。山川港にはイエズス会の司祭と修道士が駐在していました。島津氏はキリスト教の布教は禁止していましたが、イエズス会が教会を建設し、聖職者たちを滞在させることを認めていました。それはポルトガルをはじめとするヨーロッパ各国と南蛮貿易を行うことで、莫大な利益を得ようとしていたからでした。1561(永禄4)年に島津貴久(るび:しまづたかひさ 1514-1571年)がイエズス会インド地方区長宛てに出した書簡には、「安全を保障し、便宜を図るので是非ポルトガル人に来て欲しい」ということが書かれています。

 

 江戸幕府成立後の1609(慶長14)年、薩摩藩は琉球へ侵攻し、支配下に置きました。琉球は中国の王朝に臣属し、朝貢(ルビ:ちょうこう)を行っていました。これを冊封(ルビ:さくほう)体制と呼びます。薩摩藩は琉球を支配するによって石高が増加し、琉球口貿易を独占できました。幕府は長崎を唯一の窓口を独占しましたが、実際には対馬・宗氏の朝鮮口貿易、薩摩・島津氏の琉球口貿易、蠣崎氏(松前氏)の松前口貿易が認められていました。従って、薩摩藩が行った琉球口貿易は厳密に言えば「密貿易」ではありません。薩摩藩から輸出品を琉球に運び、琉球が進貢船を中国に出す。持ち帰ったものを薩摩が日本国内で売りさばくことで利益を得ましたが、これは幕府に認められた貿易でした。

 

 ただ、幕府が認めた以上の量の物資を買い入れて輸出し、中国からの輸入品を国内で売りさばくことは「密貿易」となります。そして、薩摩藩は厳しい財政状態もあり、恒常的に「密貿易」を行わねばならない状態でした。薩摩藩では輸出品の主力である昆布を集めるために、富山(越中)の売薬商人たちに薩摩入国と商売を認める代わりに、昆布の収集を命じました。売薬商人たちは北前船のネットワークを通じて、昆布を集め、薩摩に売り渡しました。

 

 薩摩藩は、琉球に通じる奄美群島の各島に唐通辞と朝鮮通辞と呼ばれた中国語通訳と朝鮮語通訳を自前で養成し、配置しました。これは、難破船や漂着船を保護するためということが名目にかかげられていましたが、実際には、対外情報集と密貿易用の人材であったと考えられます。また、薩摩藩では、長崎のオランダ通辞を招聘しての蘭通オランダ語通訳の養成にも着手していた。薩摩藩のオランダ語通訳は後に英語も学ぶようになっていった。

 

薩摩藩は斉彬藩主時代から貨幣鋳造で利益を出そうとしていました。貨幣鋳造が薩摩藩の資金力の第三の柱となりました。徳永和喜著『偽金づくりと明治維新 薩摩藩偽金鋳造人安田轍蔵』(新人物往来社、2010年)、『海洋国家薩摩』(南方新社、2011年)に、斉彬から久光時代にかけて行われた貨幣鋳造の歴史が詳しく書かれています。この研究の基になっているのは、斉彬と久光の側近として活躍した市来四郎(ルビ:いちきしろう 1829-1903年)が残した『市来四郎文書』です。

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偽金づくりと明治維新

 

市来四郎は明治維新後も久光に仕え続け、自分が関わった薩摩藩の幕末の歴史を記録として残した人物だ。市来は斉彬時代には、集成館事業に関わった。また、琉球に渡り、対外交渉にもあたった。久光時代には、貨幣鋳造、後には偽金づくりに関わることになる。貨幣鋳造に関しては小松帯刀も藩政の責任者としてかかわっている(高村直助著『小松帯刀』、106-107ページ)。

 

 貨幣鋳造計画は斉彬時代に始まります。薩摩藩はそもそも偽金ではなく、幕府から許可を得て貨幣を鋳造する計画を持っていました。これは、外国船来航に伴う警備の強化のために膨大な資金が必要となり、その資金を得るために貨幣を鋳造し、出目を稼ごうというものでした。しかし、1858(安政4)年に斉彬が死去したことで、貨幣鋳造計画は中止となりました。貨幣鋳造計画が再始動したのは1862(文久2)年からです。

 

 貨幣鋳造計画再始動の中心となったのは、斉彬の側近であった市来四郎と安田轍蔵(ルビ:やすだてつぞう)という人物だった。安田轍蔵は桑皮を原料とした布(木棉、きわた)を開発し、1861年に幕府から製造許可を得た。安田は、木棉の決済手段として薩摩藩が持っていた琉球通宝計画に目をつけ、薩摩藩に召し抱えられました。安田は安納信正、久世広周、水野忠精といった老中、小栗上野介忠順といった幕閣に食い込んでいました。安田の根回しもあり、薩摩藩に琉球通宝鋳造の許可が下りました。琉球通宝は、幕末に流通した銅銭である天保通宝の一種とされました。天保通宝1枚は100文とされたが実際には80文で流通しました。江戸時代の通貨単位を大まかに書くと、「1両=4分=16朱=4000文」となります。

 

琉球通宝の製造について、幕府は「3年間で100万両」を許可したが、実際には3年間で300万両分を製造した、と市来四郎は証言しています。薩摩藩では琉球通宝という文字を天保通宝と変えて製造するようになりました。これは偽金ということになります。薩摩藩ではさらに、二分金という金貨の偽金づくりも行いました。銅の台の上に金メッキをするというものでした。偽物の二分金を貿易の支払代金などに使ったと言われています。

 

 幕末の薩摩藩の資金力の3つの柱となったのは、琉球口貿易、黒糖の専売、貨幣鋳造(偽金づくり)でした。これらの事業で獲得した資金が蒸気船になり、鉄砲になり、近代的な工場群となりました。そして、1858年から1868年の幕末最後の10年で、これらを整備し、発展させたのが島津久光と小松帯刀を代表とする側近たちでした。この資金力の上に薩摩藩は強大な軍事力を有し、雄藩として存在感を発揮することが出来ました。沖永良部島から政治の表舞台に復帰し、薩摩藩の軍事司令官となった西郷隆盛は、久光と小松帯刀らによって整えられた条件があって輝いたと言えます。

 

 大河ドラマ『西郷どん』を見て、鹿児島の歴史に興味を持った方は今日ご紹介した本も読んでいただけますようによろしくお願いいたします。

 

(終わり)


※私の仲間である石井利明さんのデビュー作『福澤諭吉フリーメイソン論』が2018年4月16日に刊行されます。大変充実した内容になっています。よろしくお願いいたします。

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 古村治彦です。

 

 今回は、SNSI研究員である石井利明(いしいとしあき)氏のデビュー作『福澤諭吉 フリーメイソン論』(石井利明著、副島隆彦監修、電波社、2018年4月16日)を皆様にご紹介します。

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(仮)福澤諭吉 フリーメイソン論

 

 石井利明氏は私たちの仲間で、これまで出した論文集の中で、福沢諭吉についていくつも論稿を発表してきました。今回、石井さんの福沢諭吉(1834-1901年)研究の集大成が一冊にまとまり、世に出ることになりました。

 

本書の最大最重要の特徴は福沢諭吉とフリーメイソンとの関係を明らかにしたことです。このことについて、著者の石井氏は「日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた」と簡潔に書いています。

 

 私の個人のお話で申し訳ないのですが、私は早稲田の出身で、学生時代から野球の早慶戦に行っています。慶應の応援は力強く、また華麗なものです。私もいつの間にか、慶應義塾の塾歌(校歌)や有名な応援歌「若き血」を歌えるようになりました。

 

慶應義塾にはほかにも多くの素晴らしい応援歌がありますが、私が個人的に好きなのは「我ぞ覇者」です。その一番の歌詞は「雲を破りて 世を照らさんと 見よや見よ自由の 先駆われ 独立友呼べば 自尊と我応え おお 共に起たん 吾等が義塾」です。この歌詞こそ福澤諭吉が慶應義塾を創設した精神「自由」「独立自尊」がよく表現されていると思います。

 

 以下に推薦文、まえがき、目次、あとがきを掲載します。参考にしていただき、是非手に取っていただければと思います。よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

推薦文

                                   副島隆彦

 

 本書『福澤諭吉フリーメイソン論』は、誰よりもまず慶応義塾大学出身の皆さんに読んでいただきたい。

 

 福澤諭吉(一八三四~一九〇一、天保五~明治三四)は真に偉大な人物である。幕末と明治期の日本が生んだ、本当にとびきり一番の、大人物である。だが、福澤先生のなにが偉大であり、なにが賞賛に値するのかを、いまの私たちはまったく知らない。誰も教えてくれない。何も教わっていない。

 

 非礼を承知で私は書くが、慶応大学出で の人々であってさえ、福澤先生の偉大さの理由と根拠を知らない。入学当初から、誰からも教わっていない。『学問のすすめ』と『福澤翁自伝』を読め、読めと言われるだけだ。福澤先生の「日本国の独立自尊(どくりつじそん)」の思想を、今に受け継ぐ人々が今の日本にいるのか。

 

 この本を読んでいただければ、いろいろなことがわかる。真贋(しんがん)の判定は、この本を読んでくださった読者がする。何故(なにゆえ)に、福澤先生は日本が生んだ大(だい)学者、碩学(せきがく)にして行動者、実践家、温厚な教育者にして大実業家であったか。これらのことが、この本にすべて書かれている。

 

 著者の石井利明君は慶応出でではないが、一所懸命にあらゆる文献を読み、深く調査して福澤諭吉の思想の真髄にまで迫って、この偉人の真実を掘り当てている。この本を読んでくださればわかる。そして、私と一緒に驚いてください。福澤諭吉の生い立ちから人格形成期、そして晩年の大成者としての実像(六七歳で逝去)までを見事(みごと)に描ききっている。

 

 石井利明君は、私が主宰する学門道場およびSNSI(副島隆彦国家戦略研究所)の創立時からの人であり、研究員としても高弟であり古参である。

 

 思い出せば、もう七年前の、二〇一一年三月一一日の東日本大震災、そして福島第一原発の爆発事故の直後一九日に、私は死を覚悟して、とりあえず石井君ひとりを連れて現地を目指した。そして原発から七キロメートルのところで目視しながら放出された放射線量を現場で正確に計測した。それがごく微量であることを知った。このことを即刻、インターネットで発信し、日本国民に知らせた。「日本国は救われた」と。このあともほかの弟子(研究員)たちも引き連れて三度、福島第一原発正門前に到達して随時、放射線量を正確に測った。口はばったい言い方だが、あの時の私たちは、一八三七(天保八)年二月、大阪で決起した大塩平八郎中斎(ちゅうさい)一門の覚悟と同じだった。「とにかく大事故の現場に行って、自分の目で真実を見極めなければ。国家と国民の存亡の危機に際しては我が身を献げなければ」の一心だった。これらの事績(じせき)の記録と報告はすでに数冊の本にして出版している。

 

 どんな人にとっても目の前の日常の逃げられない生活の苦労がある。石井君にも私にもある。それでも誠心誠意、緻密な真実の福澤諭吉研究を、一〇年をかけて石井利明君がやりとげ、書き上げてくれて、私は心底嬉しい。私が全編にわたってしっかり朱筆を入れたので、私、副島隆彦との共著と考えてくださっていい。

 

 日本人は、真に日本国の偉人福澤先生の実像と学門の高さの真実にいまこそ触れなければ済まない。万感の想いをもって本書推薦の辞とする。

 

=====

 

はじめに

                                    石井利明

 

 福澤諭吉は世界基準(ワールド・ヴァリューズ)で評価すべき人物である。

 

 この一点において、今までの、数多ある福澤諭吉の人物評伝は片手落ちである。

 

 このことは、世界史と日本史が学問分野で分かれているための構造的な問題である。江戸末期から明治維新に活躍した人物や起った事象を真に理解するには、西洋史、中国史、日本史に橋を架けなければならない。

 

 しかし、市井の学者たちには、この橋が架けられない。だから、書くものがつまらない。事実に肉薄できない。ここに、歴史学者ではない石井利明が、10年の歳月を費やしてたどり着いた考えをまとめた、この本の大きな意義がある。

 

 慶応義塾大学で学んだ卒業生たちは、まずは、この本を読んで世界基準の福澤諭吉の偉大さを理解して下さい。

 

 福澤諭吉の人生のハイライトは、日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた。ここに福澤諭吉の生涯の大きな意義がある。この大きな世界基準の枠組みが理解できれば、福澤諭吉の一生が大きく理解できる。と同時に、フリーメイソンに対する、我々日本人の理解が、いかに表層的で浅はかなものであったのか、も理解できる。福澤が生きた19世紀のフリーメイソンは、断じて、闇の勢力などではない。それは間違った理解だ。

 

 福沢諭吉は、生涯にわたって自らが唱えた日本国の「自立自尊」の道のど真ん中を歩んだ人物である。こんな日本人は、福澤の後にも先にも居ない。後にも先にもいないということは、副島隆彦氏が提唱した「帝国・属国」関係が、それだけ厳しいことの現れだ。

 

 この厳しい現実は21世紀に生きる、我々日本人が現在直面している大きな課題である。福澤諭吉の生涯を正しく理解することは、日本国がこれからどのように歩むべきかの大きな道標になる。

 

=====

 

福澤諭吉フリーメイソン論 大英帝国から日本を守った独立自尊の思想

 

推薦文 副島隆彦 

 

はじめに 

 

第一章 世界規模のフリーメイソン・ネットワーク

 

●諭吉の父、福澤百助

●諭吉が憎んだ幕藩体制は親の敵

●福澤諭吉の先生たち

●攘夷論者の野本真城から、開国派の白石(しらいし)照山(しょうざん)へ 

●中津藩の蘭学研究 

●オランダ語の化物、前野良沢(まえのりょうたく) 

●『解体新書』翻訳の真相 

●長崎出島のカピタン(オランダ商館長)たち 

●日本に来た最初のフリーメイソン 

●日本を開国しようとした田沼(たぬま)(おき)(つぐ) 

●開国和親派と攘夷主義の暗闘

 

第二章 長崎出島と幕末の開国派ネットワーク

 

●開国か攘夷か、揺れる中津藩 

●黒船来航で攘夷に傾く世論 

●長崎出島と密貿易の巨大利権 

●諭吉もスパイとして長崎に送り込まれた 

●大坂、緒方洪庵の適塾時代 

●日米修好通商条約と尊王攘夷 

●アヘン戦争の本当の原因 

●アヘン戦争と幕末維新の共通性 

 

第三章 ユニテリアン=フリーメイソンとアメリカ建国の真実

 

●渡米を熱望した諭吉 

●東アジアの貿易戦争で大英帝国を破ったアメリカ 

●諭吉のアメリカ行きを支えた人たち 

●ジョン万次郎の帰国とペリー来航 

●万次郎を育てたユニテリアン=フリーメイソン 

●ユニテリアン、そしてフリーメーソンリーとは何ものか? 

●アメリカ独立革命を戦ったのはユニテリアン=フリーメイソン 

●諭吉が理解したアメリカ建国の真実 

 

第4章 文久遺欧使節の諭吉とフリーメイソンの関係

 

●アメリカから帰国し、幕府に出仕 

●文久遺欧使節としてヨーロッパへ 

●フランスでの諭吉とフリーメイソン 

●英国での諭吉とフリーメイソン 

●諭吉、ロシアでスパイにスカウトされる 

 

第5章 攘夷の嵐を飲み込む大英帝国の策謀

 

●攘夷派の動向と一八六三年の福澤諭吉 

●下関事件と薩英戦争 

●文久三年の政治状況 

●一八六四年の福澤諭吉 

●四カ国連合艦隊下関砲撃 

●一八六五年からの福澤諭吉 

●第二次長州征伐の真実と諭吉の対応 

 

第6章 明治維新と慶応義塾設立

 

●一八六七年、幕府最期の年の福澤諭吉 

●福澤塾の移転と慶応義塾の誕生 

●戊辰戦争と幕府内部のイギリス勢力 

●日本の自立に必要なものは経済力 

●『学問のすすめ』刊行 

 

第7章 福澤諭吉と宣教師たちの本当の関係

 

●福澤諭吉とユニテリアン医師・シモンズ 

●宣教師A・C・ショーの正体 

●半開の国と定義された明治日本 

●福澤諭吉が尊敬したフリーメイソン、ベンジャミン・フランクリン 

 

第8章 日本の独立自尊と近代化のために

 

●日本の中央集権化に対抗した福澤諭吉 

●西南戦争は反逆ではなく、明治政府の内戦 

●交詢社設立の真の目的とは? 

●国際社会に認められる文明国の条件 

●憲法草案と明治一四年の政変 

●息子二人のアメリカ留学 

●ユニテリアン教会の宣教師ナップの招聘(しょうへい) 

●ユニテリアン教会の修道院として始まったハーヴァード大学 

●慶応義塾とハーヴァード大学の連携と大英帝国からの独立自尊の大戦略 

●アメリカの変質と、その後の福澤とユニテリアンの関係 

●晩年の福澤は帝国主義の思想を持っていたのか? 

 

おわりに

 

福澤諭吉年譜

 

=====

 

おわりに

 

 本書『福澤諭吉 フリーメイソン論』の書名にギョッとする人は多いだろう。それでも、この本を手にとって読んでくださる方々に、私は、心からの敬意を表します。

 

 私の福澤諭吉研究は、二〇〇八年に、「これまで知られていない福澤諭吉の真実の姿を、石井くん、丹念に調べて描いてみなさい」と、私が師事している副島隆彦先生から言われたことから始まった。

 

 福澤諭吉という偉大なる人物を私ごときが簡単に扱あつかえるのか、大きな不安があった。しかし、私はこの大人物の、これまで日本社会でまったく知られていない、知られざる側面を大胆に表に出した。

 

 二〇〇一年から始まった福澤諭吉の脱亜入欧(だつあにゅうおう)論をめぐる「安川・平山論争」が続いていた。私の考えは本文でずっと説明したが、「日本の昭和のアジア侵略まで福澤諭吉のせいにするな!」である。一九〇一年まで生きた人であり、民間人であることを貫いた福澤諭吉に、その後の日本の帝国主義の責任まであるとする安川寿之輔と、彼の意見に同調する人々は元々精神の歪んだ人々である。

 

 安川氏に丁寧に反論して文献を挙げて説明し、論争に勝利した平山洋氏を私は支持する。と同時に、私は碩学(せきがく)丸山真男と、小泉信三が福澤諭吉を上品に「自由」と「愛」の体現者であったように描いたことにも反対する。福澤諭吉が生きた一九世紀(一八〇〇年代)の自由や愛は、西洋近代の啓蒙(けいもう)(エンライトンメント)を受けて光り輝きながらも、幕末以来の血生臭いものだった。この辺りの感覚が理解できないと福澤諭吉の実際の生涯はわからない。

 

 私は福澤諭吉を研究してみて、さらに彼を深く尊敬する。彼の表おもて裏うらのない、綺麗事や偽善とは対極にある生き方に感服した。こんな真っ正直な日本の知識人を私は、福澤諭吉以外に知らない。この余りの真っ正直さが、あれこれと誤解も招いたのである。

 

 これまで出版された福澤諭吉の自伝、評伝からは、真実の福澤諭吉の姿が伝わってこない。

ここに、学者ではない私が、福澤諭吉の評伝を書く意味がある。この本には、私がコツコツと自力で掘り起こした諸事実によって照らし出される真実の福澤諭吉が詰まっている。私は、真実の福澤諭吉の姿を皆さんになんとしてもわかってほしい。この明治開国期の日本の偉人の本当の姿を文献証拠から味わっていただき、国民的課題として大きく福澤先生を見直してゆきたい。福澤の人格形成とともにあったのはアメリカ、そしてヨーロッパのフリーメイソンの思想である。日本の学者たちは勇気がないから、福澤先生と三田会(みたかい)、フリーメイソンの関連をあえて遠ざけて無視しようとする。これでは、フリーメイソン思想と福澤諭吉の深いつながりから見える明治期の全体像がわからない。

 

 天主教(てんしゅきょう)(ローマ・キリスト教会。隠れキリシタンたち。その中心が耶蘇[やそ]会=イエズス会)の伝統とはまったく別にあったフリーメイソン思想の日本への伝来は、一七七〇年代に遡ることができる。フリーメイソン=ユニテリアン思想は、豊後(ぶんご)中津(なかつ)や大阪堂島の交易人の系譜の人である福澤諭吉にまで伝わったのだ。

 福澤諭吉とフリーメイソン組織の深いつながりを、こうして微力な私が掘り当て、捜し出したことで日本人が世ワールド・ヴァリューズ界基準の歴史、思想を理解する一助になるだろう。読者をこの知的冒険に誘いざなうことができるなら私の本望である。

 

 この本を苦心して書き上げる上でSエスNエヌSエスIアイ学門道場主催者の副島隆彦先生と電波社書籍部編集長の岩谷健一氏にたいへんお世話になった。この場を借りて、厚くお礼を申し上げます。

  二〇一八年二月一〇日                        石井利明

 

(貼り付け終わり)


※私が学生時代に所属していましたサークル(地方学生の会)の先輩でお世話になっている森和也氏の書籍が発売されました。ぜひ手に取ってお読みください。 よろしくお願いいたします。

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 古村治彦です。

 

 今回は最近読みました『白い航跡』をご紹介します。吉村昭(1927-2006年)は歴史的な事実を小説とする手法で知られた歴史作家です。日露戦争の日本海海戦のバルティック艦隊を詳細に描いた『海の史劇』は初めて読んだときに衝撃を受けたことを覚えています。

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新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)

 

 『白い航跡』は、東京慈恵会医科大学の創設者である高木兼寛(たかきかねひろ、1849―1920年)を主人公としています。高木は日向国穆佐(むかさ)村(現在の宮崎県宮崎市)に生まれました。大工の棟梁の家に生まれましたが、学問好きであり頭脳明晰の少年で、大工仕事を手伝いながら学問に没頭しました。

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 高木は身分制度が厳しい時代に、このまま田舎で大工の棟梁で終わりたくないと考え、医者になることを決意しました。医者は出自に関係なくなれ、良い暮らしができると考えました。そして、18歳の時に鹿児島に出て蘭方医石神良策の門下に入りました。20歳の時に、戊辰戦争が勃発し、薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍しました。鳥羽伏見の戦いから東北地方に転戦し、会津若松攻めにも参加しました。どの戦いも激戦で、多くの死傷者が出ました。高木は銃弾が降り注ぐ中で、負傷者の応急手当に従事しました。

 

 高木は野戦病院で西洋医学を駆使した治療を目の当たりにして自分の無力さを痛感し、かつ、薩摩藩が協力関係を持っていたイギリス公使館から派遣された公使館付医師ウィリアム・ウィリスが重傷者を救っていく姿に感動し、是非進んだ医学を学びたいと熱望するようになりました。戊辰戦争後、宮崎に帰還した高木は、薩摩藩が1869年に設立した開成所洋学局に入学し、英語と医学の基礎を習得しました。薩摩藩はウィリアム・ウィリスを鹿児島に招き、医学校を設立しました。高木は医学校に入学しましたが、頭脳明晰さと真摯な姿勢、英語をウィリスに認められ、片腕的存在となりました。

 

1872年、高木は恩師石神の引きで海軍に入り、海軍軍医となりました。高木はウイリアム・ウィリスの教えを受け、英語と実戦的な医療技術に秀でており、海軍内でもすぐに頭角を現しました。海軍は創設当初から薩摩藩出身者が重職を占めており、薩摩藩の軍医として従軍した高木は順調に出世を重ねていきました。また、薩摩藩はイギリスと関係が深く、ウィリアム・ウィリスを鹿児島に招いたこともあり、海軍の医療はイギリス式が採用されていたこともあり、高木には良い環境と言えました。

 

日本の西洋医学受容に関しては、ドイツ式かイギリス式かということで争いが起きました。戊辰戦争でウィリアム・ウィリスが多くの負傷者を救ったこともあり、当初はイギリス式が採用されることになっていました。しかし、ドイツの医学の方が進んでいるという意見も出て、どちらを採用するか、新政府に迷いが出ました。オランダ系アメリカ人の宣教師で、長崎で大隈重信や副島種臣を教えたグイド・フルベッキは、「ドイツ医学の方が進んでいる」という意見を述べ、最終的にドイツ式が採用されることになりました。ウィリスが鹿児島の医学校に招かれたのも中央に居場所がなくなったためでした。しかし、海軍の医療に関してはイギリス式が採用されました。

 

 当時のドイツ医学とイギリス医学の違いは、ドイツの方が基礎研究を重視し、学理を重視するというもので、イギリス式はより実践的な医療を重視するというものでした。ドイツ医学からみれば、イギリス医学は実践を重視するあまりに「軽い」もののように低く見られていたようです。

 

 1875年、軍医少監(少佐相当官)となっていた高木にイギリス留学の話が舞い込みます。そして、セント・トーマス病院付属医学校に留学しました。高木は下宿と学校の往復のみというストイックな姿勢で勉学に励み、常に成績優秀者として表彰と賞金を受ける学生として、イギリス人学生たちからも尊敬を受けるほどでした。セント・トーマス病院では実際の診療にもあたり、より実践的な医療技術も習得しました。高木は内科、外科、産科の医師資格を取得し、1880年に日本に帰りました。

 

日本に帰国後、高木は順調に昇進を重ね、海軍軍医学校長や病院長を歴任し、1883年には海軍軍医務局長、1885年には海軍軍医総監に就任しました。海軍軍医のトップにまで昇り詰めました。

 

 最高幹部クラスの海軍軍医となった高木が取り組んだのが脚気の治療と予防でした。海軍では脚気患者が多数出て、危機的状況にありました。実際に出動、戦闘となった時に、戦艦の乗組員の多数が脚気で動けないとなればどうしようもないということになります。実際に朝鮮半島をめぐり、中国(清帝国)と緊張が高まった際に、朝鮮半島に出動した軍艦では多くの脚気患者が出て、実際の戦闘になっても船を動かすことすらできない状況にまでなってしまいました。この時は実際の衝突は起きず、何とかごまかすことが出来ましたが、日本海軍は装備以前の問題で兵員の健康問題を抱えてしまうことになりました。

 

 この当時、ドイツ医学系の東京大学医学部と陸軍軍医たちは、脚気の原因は細菌だと考えていました。夏になると脚気患者数が増え、海軍でも士官よりも兵士クラスで患者数が多く出るということから、不衛生な場所で脚気の原因菌が繁殖するのではないかと考えられていました。しかし、原因菌の特定には至っていませんでした。

 

 高木はイギリス海軍では脚気の患者が出ないこと、日本伝統の漢方医たちの中に「脚気の原因は米だ」という主張があることなどから、食事、特に副菜を摂らない大量の米食が問題なのではないかと考えるようになりました。現在は日本でも米離れと言われ、米の消費量は減少していますが、昔は1日に5合や6合の米を少ないおかずで食べていました。海軍でも兵士たちに白米を支給し、白米など食べられない貧しい家庭出身の兵士たちは喜んでいました。また、副菜に関しては相当分のお金を兵士たちに支給して勝手に買わせていたのですが、米でおなか一杯になるし、節約の意味もあって、ほとんどの兵士がこのお金を貯金に回していました。そのため、兵士たちは米食に偏った食事をしていました。

 

 高木は海軍の食事を西洋式に改めることを訴え、パン食、肉食、牛乳の摂取を主張しました。しかし、経費がかさむこと、兵士たちが洋食を嫌がることなどの問題もあり、海軍醸造部も高木の訴えには理解を示しつつも実行には躊躇していました。高木は伊藤博文や有栖川宮幟仁親王といった明治政府の最高幹部、要人たちに直訴する形で海軍の食事制度を改善していきました。1883年から海軍内で食事が改革され、これに合わせて脚気患者も減少していきました。しかし、東大医学部や陸軍部では海軍の取り組みと高木の主張を激しく非難しました。陸軍軍医総監であった石黒忠悳や後任の森林太郎(森鴎外)は高木を厳しく糾弾しました。

 

 1883年にコルベット艦龍驤が練習航海を行いました。ニュージーランド、南米、ハワイを周航したのですが、多くの脚気患者を出しました。高木は1884年にコルベット艦筑波に食事を改善した状態で同じコースでの航海をしてもらうという実験を行いました。その結果は、脚気患者はほぼ出なかったという結果になり、高木の主張は海軍内で確固とした立場を確保することになりました。

 

 高木は海軍で軍医教育や将兵の衛生や健康、脚気患者の減少に取り組みながら、同時に海軍外での医療と医療教育にも取り組みました。1881年に慶應義塾医学所(前年に廃止されてしまっていた)の所長だった松山棟庵と医学団体成医会と医師養成機関である成医会講習所を創設しました。福沢諭吉は医学に関して英国式を支持しており、そのために慶應義塾の中に医学所を創設していたのですが、資金難などのために廃止せざるを得ない状況でした。日本国内でドイツ医学が優勢となる中で、イギリス医学の拠点とすべく、高木と松山はこれらの団体を創設しました。これが後に東京慈恵会医科大学へと発展していくわけですが、私の勝手な考えでは、現在の私立医学部の名門である慶應義塾大学医学部と東京慈恵会医科大学は今でも友好関係にあるのではないかと思います。

 

 1882年には、高木は自身が学んだセント・トーマス病院を範とする有志共立東京病院を創設しました。セント・トーマス病院では貧しい患者には無料、もしくは廉価で治療を施していましたが、東京病院もそのような形態を採用しました。東京病院では海軍軍医も診療にあたり、最新の医療が受けられるとして患者が殺到したということです。医者はただ本を読むだけでは技量は上達しないので、できるだけ多くの機会を海軍軍医たちに与えて、技量上たちの場にしたいという考えもあってのことでしょう。東京病院は1887年に明治天皇の皇后(昭憲皇太后)を総裁として迎え、皇后から「慈恵」の名前が与えられ、東京慈恵病院となりました。

 

 高木はまた、セント・トーマス病院で看護婦が豊富な医学知識と確固とした医療技術を駆使して活躍している姿に感銘を受け、日本でも看護婦を要請すべきだと考えていました。1885年に東京病院に付属の看護婦教育所を創設しました。

 

 これらの組織団体が後に東京慈恵会医科大学に発展し、現在に至っています。高木兼寛は東京慈恵会医科大学の創立者ということになります。ドイツ医学が優勢の中で、実践を重視するイギリス医学の拠点を作りたいという高木の意志が東京慈恵会医科大学にまで発展したということになります。

 

 1888年には日本にも博士号が作られ、文学、法学、工学、医学の各分野から4名ずつに博士号が授与されることになり、高木はその中に入り、医学博士となりました。日本ではドイツ医学優勢で傍流として虐げられていましたが、やはりロンドンで学んできたことと日本海軍内で脚気患者を減少させた功績を国家として無視することはできませんでした。

 

 1892年に高木は海軍を退き、貴族院議員となりました。また、1905年には男爵に叙せられました。日清・日露戦争で日本海軍が各戦闘で勝利を収めることが出来たのは、脚気患者を減らすことが出来たということになり、高木の功績に対して華族に叙せられることになりました。そのままの時代が続けば、頭脳明晰であった高木も父の跡を継いで大工の棟梁で終わるはずであったのが(大工の棟梁も素晴らしい仕事ですが)、明治維新という日本の勃興期に人生が重なった人物でした。

 

 高木は後にアメリカ・ニューヨークに今でもある名門コロンビア大学の招聘受けて渡米、更にヨーロッパ各地を歴訪しました。自分が学んだロンドンのセント・トーマス病院も訪問しました。高木は各地で歓迎を受け、いくつもの大学で講演し、名誉博士号を授与されました。日本では東京大学医学部と陸軍によってドイツ医学優勢となり、傍流とされているが、海外ではこんなにも評価されているということで高木は自信を取り戻しました。

 

 晩年は診療以外に一般教育と講演に力を注ぎました。自分が相手にされない医学界向けではなく、一般の人々に医療や衛生について話をし、更には道徳などについても話をするようになりました。また、この頃から日本の伝統に回帰するようになり、禊(滝行など)を好んで行うようになりました。また、日本の粗食(雑穀の入ったご飯や味噌など)が素晴らしいと言うようになりました。ロンドンまで行って近代学問を学んだ高木もまた日本人であったということになるでしょう。

 

『白い航跡』を読んで思うことは、イギリスとドイツの学問の方法論の違いということです。イギリスは帰納的であり、ドイツは演繹的であり、かつ、イギリスは形而下を重視し、ドイツは形而上を重視するという大きな違いがあり、哲学的に言えばイギリス経験論とドイツ合理主義の違いということが言えると思います。

 

たまたま生まれた時代と場所によって、高木はイギリス医学、森鴎外はドイツ医学を学びました。そして、お互いが自分の学んだ医学の優位性を確信しました。彼らは脚気をめぐって、それぞれの学問に忠実に向き合い、お互いに争いました。高木はドイツ医学を学んだ医学者たちからは冷笑をされたり、激しい非難を受けたりました。陸軍軍医たちは、最近接に固執し、麦飯を同流することに反対し、麦飯の効果を検証しようとする試みにも「天皇陛下の軍隊を実験に使うとは許せない」などと言いだす始末でした。とても科学者、医学者の発言とは思えません。

 

陸軍の長州閥の大物で後に総理大臣となった陸軍大臣寺内正毅は脚気を患っており、個人的には麦飯を食べていたという笑えない笑い話のような話もあります。寺内は日清戦争で指揮官として出征、自身も脚気患者となり、また部下たちからも多くの脚気患者を出しました。当時の陸軍では大量の米飯が継続されていましたが、海軍に比べて膨大な数の脚気患者を出すに至りました。皮肉なことに現地で調達した精米していない米に雑穀を混ぜた、食事に「恵まれなかった」部隊では脚気患者が少なかったということもありました。

 

東大医学部系や陸軍軍医たちの姿を見ていると、患者が実際に出て死亡していくのに、自分たちの学んだ学問に合わないからと言って、麦飯の効果を検証することすら邪魔をするというのは、異常なことです。彼らは人々を助けるために医学者になったのではなく、自分の頭脳明晰さと権力のために医学者になったのではないかと疑いたくなるほどです。そして、自分の学んだ学問の方法論にこだわるのは恐ろしいことであり、かつ、学問研究から離れているとされる宗教的な進行にすら似ているように感じられます。また、学問は間違ったり、失敗することが重要であり、そこから新しいものが生み出される(「失敗は成功の母」という言葉もあります)はずですが、実際には無誤謬性に凝り固まった宗教や信仰のようになってしまっている、これは現状でもそのようなことがあると思います。

 

 本書を読んで、学問とは何かということと人の人生は偶然と時代の産物なのだということを考えさせられます。

 

(終わり)



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 古村治彦です。

 

 今回は、『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(児玉博著、小学館、2017年)をご紹介します。一気に読めてしまう好著です。

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テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅

 

 東芝は、不正経理問題や子会社ウェスティングハウスの破綻問題により、大きなダメージを受けました。日本を代表する電機メーカーで売り上げは6兆円、社員は20万人の大企業が破綻するかどうかの瀬戸際まで追い込まれてしまいました。日本で育ち、生きてきた人たちの多くは日曜日の夕方、テレビで「笑点」、「ちびまる子ちゃん」、「サザエさん」を見ているうちに夕ご飯という経験を持っていると思います。「サザエさん」のスポンサーが東芝でしたが、これも撤退するということになりました。私は、何か、日本の一部が失われるという感じがしました。


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 西田厚聰

 本書の主人公は、西田厚聰(にしだあつとし、1943-2017年)という人物です。西田は、31歳で東京大学法学政治学研究科の博士課程の学生という学究の道を捨て、東芝に海外現地採用社員(イラン)として入社し、後に社長・会長を歴任した異色の経歴の持ち主です。学歴は置いておいても、年功序列がまだまだ厳然と残っている時代に、大学に現役で入学し、4年で卒業した人よりも10年も遅れて入社した形の人が最終的に社長・会長になったというのは、大企業では他に例がないでしょう。大学入学時に1年浪人、大学卒業までに5年(1年留年)くらいまでだったら、ハンディにはならない、と言われますが、10年というのは想像もつかない絶望的な差です。10年の差を埋めるだけの力があったということは間違いないところで、『テヘランからきた男』でも、西田の器の大きさと頭脳明晰さ、突破力が随所に描かれています。

 

 西田厚聰は三重県の田舎で、教師の家に生まれました。子供の頃から努力家で、地元の尾鷲高校から二年浪人して早稲田大学に進学しました。二年の浪人で何をしていたのかは本に書かれていませんが、東大や京大を受験していたということです。早稲田大学の学生時代の話もあまり書かれていません。西田が進学した当時は60年安保も終息していた頃で、ブントも終わっており、学生運動が過激さを増していく頃でした。西田も学生運動に参加し、下宿を何度も変わったと書かれています。恐らく、過激な学生運動のセクトに関わり、セクト間での抗争に巻き込まれたのだろうと推察されます。

 

 早稲田大学では授業に出る余裕もなかったそうですが、ドイツ語で政治学の原書に挑戦するという一面もあったそうです。卒業後に東京大学大学院の修士課程に進学します。専攻は政治思想史、指導教授は福田歓一(ふくだかんいち、1923-2007年)でした。『政治学史』やアイザイア・バーリンの翻訳で知られた政治学の重鎮です。西田はドイツの思想家ヨハン・フィヒテ(Johann Fichte、1762-1812年)を専門にしていたそうです。福田は西田を厳しく指導し、原点を厳格に解釈することを教えたそうです

 

 西田は福田に非常に期待されていました。博士課程に進学する際に西田を含む2名が合格しましたが、福田は西田以外の学生に就職することを勧めたので、西田だけが博士課程に進学しました。そのままいれば東大は無理にしてもどこかの大学の専任講師はまず間違いなかったでしょう。西田が途中で博士課程を中退したのは、学部が東大法学部ではなかったので、東大教授にはなれないと考えたからだ、という話があるそうです。しかし、これは正しくないでしょう。そもそもそんなことは東大修士課程に入る時点で分かっていることです。ドラマ「白い巨塔」で描かれたような醜い出世争いや東大出身でなければダメということは西田には分っていたはずです。西田は学究の道から離れたことについて、迷惑がかかる人がいるということでその理由を絶対に話しませんでした。ですが、東大教授になれないと分かったからということはないと私は考えます。

 

 西田は東大大学院在学中に日本に留学生として来ていたイラン人学生ファルディン・モタメディと出会い恋に落ちたそうです。ファルディン・モタメディは日本思想史の大家である丸山眞男(1914-1996年)の薫陶を受けた人物です。丸山の著書『「文明論の概略」を読む』(岩波書店、1986年)にはファルディンが丸山の許で福沢諭吉の思想を勉強したいと述べるシーンが出てきます。

 

 西田は福田の期待に応えました。岩波書店の月刊誌『思想』に26歳で論文を掲載しました。これは政治思想の世界では大変なことです。しかし、西田は、イランに帰国したファルディンを追いかけて学究の途を捨てました。

 

 その頃、東芝はイランに合弁で電球工場を建設することになりました。日本人写真たちは苦労していたようですが、そこに現れたのが日本語をはじめ欧米諸国の言語が出来るファルディンでした。ファルディンは東芝の工場建設に関わるようになりましたが、自分の恋人がイランにやって来て結婚式を挙げる、彼を雇って欲しいということになりました。この人物が西田です。東芝側は、学者上がり(もしくは崩れ)は使いづらいと考えていたようですが、現地採用となりました。

 

 西田は社会経験は少ないのですが、学者臭くなく、好奇心旺盛、何事にも真剣に取り組む上に語学も堪能ということで、頭角を現していきました。そして、本社採用となりました。

 

 西田は本社ではノート型コンピューターを担当し、東芝の主力商品にまで仕立て上げました。ドイツを拠点にして、ヨーロッパ中を動き回り、ノート型パソコンとそれに搭載するOSを作り上げ、売って売って売りまくりました。西田の活躍は痛快な冒険譚になっています。私もアメリカ留学中にノート型パソコンを買い替えようと思い、アメリカ人の友人にどの機種が良いかな、と質問したところ、「東芝が良い、丈夫で壊れないよ、アメリカでのシェアも大きいし。君は日本人なのにそんなことも知らないの」と言われてしまい、恥ずかしい思いをしました。私が東芝のパソコンを使って10年以上なりますが、それはメリカの経験からであり、東芝のパソコン事業の成功させたのが西田です。

 

 2005年に社長となった西田が行ったのが2006年の原子力メーカーのウェスティングハウス社(WH)の買収でした。東芝はジェネラル・エレクトリック社(GE)と付き合いが古く、GEが作っている沸騰水型軽水炉(BWR)を採用していました。しかし、東芝は、世界の趨勢は、加圧水型軽水炉(PWR)だと考え、PWRを製造しているWH社の買収に踏み切りました。WH社と古くから付き合いがあったのは三菱重工業でした。東芝はWH社買収で、最後の最後で三菱重工業の横やりも入りましたが、最終的に6600億円での買収に成功しました。東芝は原子力分野で1位、半導体分野で3位という世界最大の電機メーカーとなりました。

 

 しかし、半導体は価格が下がり、リーマン・ショック後で需要も下がってしまい、売り上げが落ちてしまいました。結果、2009年に社長の座から退きました。その後、会長となりましたが、2011年3月11日の東日本大震災と原発事故で原発建設などがストプすることになりました。そして、WH社は破綻し、その影響を受けて東芝も危機的状況に陥りました。原発事業拡大を進めた西田に対する非難の声も出ました。しかし、東日本大震災までは、原発は気候変動に対する有効な解決策ということで、拡大していっていたのですから、西田の判断を後付けの理由で非難するのは間違っていると思います。

 

 さて、私は西田厚聰という人物を主人公に据えた本書『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』は、大学教育と企業の関係の在り方についてヒントがあるのだろうと思います。日本の大学は長年にわたりレジャーランドと呼ばれ、入るのは大変だが出るのは簡単、授業に出なくても単位を取ることが出来る、企業も大学で変に勉強されるよりも社会性を身に着けておいて欲しい、教育は入社してからこちらでビシビシやる、ということになっていました。そして、大学教育は十年一日のごとし、教授は使い古したノートを毎年毎年読むだけ、学生は試験前にノートのコピーを集め勉強するのはまだよい方で、何も準備せずにテストを受けて「単位をください」と書いてしまうなんてことになりました。大学側はどうせ学生のほぼ全員が企業に入るのだから厳しく学問を仕込むことなんか望まれていないのだから手を抜けばいいということになりました。

 

 しかし、最近では世の中が「世知辛く」なったのか、大学できちんと教育をして社会に送り出せ、企業で役立つ教育をせよ、ということになっています。これに対して、大学でどのような教育をすべきか模索されています。

 

 私は西田厚聰という人物の生き方がこの問題にヒントを与えてくれるのではないかと思います。西田は学問研究に没頭しながら、10年も遅れて企業に飛び込み、成功しました。彼は政治学を学び、その中には企業内で仕事をするうえで役に立った知識もあるでしょう。しかし、その細かい知識や理論などはほぼ役に立つことは無かったでしょう。

 

 私は西田が成功したのは、方法論と「頭脳を酷使する」経験があったからだろうと思います。学問は何か問題を設定しそれを解決するものです。そこで解決する方法はそれぞれの学問分野に存在するのですが、問題を設定し、解決するという方法論をきちんと身に着けていた、そして、その解決に向かって頭脳を使い切る、「頭脳を酷使する」ということを知っていたのだろうと思います。西田の学んだ政治思想史の方法論は、徹底した原典主義と時代背景を含めた根拠のある解釈です。西田が難しい技術書を読みこなし、何が重要なのかを理解し、周囲を驚かせたのはこうした方法論に忠実であった、そして頭脳を酷使することに慣れていたということが西田の特徴として挙げられるでしょう。

 

 大学で学生に教える際に、日本ではこれらの点があまり行われていないのではないかと思います。方法論(methodology)を身に着け、頭脳を酷使するということが大学内で行われるようになれば、社会や企業からの要求に応えられる卒業生を送り出すことが出来るのではないかと思います。

 

(終わり))

 

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 古村治彦です。

 

 2018年3月2日に副島隆彦先生の最新刊『米軍の北朝鮮爆撃は6月! 米、中が金正恩体制破壊を決行する日』(光文社)が発売になります。首都圏の大型書店では3月2日か3日には店頭に並ぶ予定です。それ以外の地域の大型書店では、配送のトラックとの兼ね合いもあり、5日に店頭に並ぶものと考えられます。

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米軍の北朝鮮爆撃は6月! 米、中が金正恩体制破壊を決行する日

 

 以下にまえがき、もくじ、あとがきを掲載します。参考にしていただき、手にとってご覧ください。よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

まえがき   

 

アメリカは北朝鮮に対して、堪忍袋の緒が切れつつある。自分たちを核兵器で脅す国の存在を許さない。

 

私は、すでに去年(2017年)の4月に、「(日本人よ)心配するな! 安心せよ。北朝鮮の核ミサイルは日本に飛んでこない」という文を書いて公表した。その主な内容は、「北朝鮮の核ミサイル関連施設への米軍の爆撃は、来年の4月であろう」とするものだった。このことを私は自分の本の中に書いた。

 

だが、この米軍爆撃は、どうも2カ月先の6月に延びたようだ。その理由は、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、北朝鮮の独裁者金正恩(キム・ジョンウン)にベッタリとくっついて救援に向かって、「崇高な南北統一」、あるいは「民族統一」という世界中の人々が甘く考えることのできない、大きな球を、世界政治に投げ込んだからである。だからズルズルとこのあと、緊迫したまま数カ月が経ってゆく。アメリカと北朝鮮の睨み合いは最終局面に入ってゆく。

 

こうなると金正恩としては、ますます絶対に核ミサイルを手放さない。手放したら自分たちの体制が即座に破壊されると分かっている。だから、同じ民族(同族)である韓国と抱きしめ合うことで、アメリカおよび中国からの強い圧力に抵抗している。

 

だがそれでもトランプと習近平は、もう、今の危険きわまりない金正恩体制を許すことはない。超大国であるアメリカと中国は、金正恩と文在寅を自分たちと対等の話し相手(交渉相手)だとは認めていない。こんなチビコロ国家の指導者なんか、大国の力で叩きのめしてやると考えている。

 

私は去年4月の自説では、「アメリカは相手に先に手を出させる。北朝鮮から韓国に通常ミサイルを撃たせる。それを合図に米軍のバンカーバスター(地中貫通型大型爆弾)搭載の巡航ミサイルによる一斉の、北朝鮮の核関連施設へのピンポイント(精密)攻撃が行われる」と書いた。だがその後の状況をみていると、戦争勃発(攻撃開始)の合図は、世界中からの注視と監視のもとにあるから、簡単にはできない。開戦の大義名分をアメリカと中国はすぐには作れない。だから少なくとも国連(ユナイテッド・ネイションズ)の安全保障理事会(安保理。世界の軍事問題を取り扱う)の拡大会議で、秘密の緊急の決議をすることで、北朝鮮への爆撃を実施するしかない。秘密でやらないと北朝鮮(金正恩)に察知されたら、先にアメリカ本土に核ミサイルを発射されてしまう。そうなったらアメリカの負けだ。1950年6月の朝鮮戦争の勃発のときは、すぐに国連の総会(ジェネラル・アセンブリー)での決議で、国連軍が作られた。そして北朝鮮軍および中国軍と戦った。だが、あのとき正式の国連軍(The UN Force)であったか分からない。あのときの緊急の総会は、「平和のための結集」と呼ばれて、ソビエト・ロシアとその家来(衛星国)であった東ヨーロッパ諸国には知らせないで、抜き打ちで行った決議である。

 

だから、今回の北朝鮮への爆撃も、国連軍(国連憲章51条に基づく)と呼ばれるかどうか分からない。たぶん呼ばれないだろう。だが今回は、5大国のうちの2つであるロシアと中国も反対に回らない。北朝鮮は孤立無援になっている。だから、6月には我慢の限界で米軍が北朝鮮への爆撃(ボンバードメント)を敢行するだろう。

 

私は、青年時代から左翼あるいは、急進リベラル派である。だから平和主義者(パシフィスト)で戦争反対の考えで生きてきた。だが、年齢に応じて少しだけ保守化した。

 

ところが、なぜ、今回の北朝鮮に対する米と中の軍事行動(外科的手術)による強制処分に賛成するのか。「お前は反戦平和と言っているくせに、なぜ戦争に賛成するのか」と非難されるだろう。私は本書で徹底的に反論し説明する。私の目から見て、かえって不可解なのは、いつもはあれほどに強く北朝鮮の政治体制の独裁主義と共産主義の非人間性を憎み、嫌っている、人々がなぜ大声をあげて「北朝鮮の現体制をさっさと崩壊させるべきだ」と主張しないのか。それが私から見たら逆に不可解である。

 

なぜ石原慎太郎氏のような愛国保守の人たちが、今回、黙りこくっているのか。「核ミサイルを日本に落とすなど言語道断である。今こそ北朝鮮の共産主義体制を打倒する。そのために自分たちも米軍と一緒に漁船を仕立てて北朝鮮を攻めるぞ」と言わないのか不思議である。そのような勇ましい右翼の人士が、たったひとりも出て来ない。このことが私はかえって不思議でならない。

 

私の期待と予測では、米軍の爆撃と中国軍の侵攻から1カ月以内に、急いで金正恩体制を崩壊させ、金漢率(キム・ハンソル、後述する)と取り替えて新しい穏健な政治体制に作り替えることが良い。それが今も飢餓状態にある2000万人の北朝鮮国民を急いで救出することになる。

 

私の考えでは、北朝鮮はミャンマーのような穏やかな中進資本主義の国になって、外国資本(外資)をたくさん導入して、国内のあちこちの鉱物資源を掘ることから始めて、急いで国を建て直すのが一番いい。中国共産党でさえそのように考えている。今のままの過激な北朝鮮の、自分勝手で極端な共産主義を続けられるのは、世界にとって迷惑である。

 

北朝鮮の核兵器問題で一番怒っているのは、中国である。中国の習近平である。北朝鮮から北京まで800キロしかない。日本まではだいたい1100キロだ。中国が一番怒っている。だから私の去年4月の予言でも、「米軍による核施設爆撃があった、その直後に中国軍が北の国境線と西側の海岸線から侵攻(進撃)するだろう。中国兵が5万人ぐらい死ぬだろう。国境の地雷原を突破しなければいけないからだ」「1979年の中国・ベトナム戦争(中越戦争)の再来である」と書いた。今も私のこの予言(近未来予測)に変わりはない。中国の習近平はそこまでやると覚悟している。本書でいろいろと説明する。

 

だから米軍の爆撃は、今年の6月であろう。アメリカ国民にとって大切な独立記念日である7月4日(ジュライ・フォース)よりは前にトランプ大統領は爆撃命令を出す、と私は判断した。

 

=====

 

目次

まえがき

 

第一章      北朝鮮爆撃はなぜ6月なのか? 副島隆彦の予言は当たるか

南北融和ムードが戦争モードにガラリと変わる  18

心配するな、慌てるな。日本に核ミサイルは飛んでこない  25

アメリカは攻撃の前に北朝鮮に先に撃たせる  26

中国が金正恩体制を崩壊させる  29

米軍のシリア攻撃は北朝鮮への警告だった  38

日本は「局外中立」を宣言すべきだ  43

「管理された小さな戦争」しか起こらない  46

習近平が金正恩を許さない  50

われ、北朝鮮潜入を企てる  54

 

第二章   高永喆(元韓国国防省分析官)と緊急対談   米軍の通信傍受体制から、北朝鮮の新体制まで白熱討論

南北急接近でも米軍は6月空爆を実行する  62

「本番」をにらんで米空母が6隻態勢で集結  73

アメリカは北朝鮮に先に攻撃させる  78

キッシンジャーがコントロールする米・中・露の「第二次ヤルタ体制」  83

「スモール・ウォー」(小さな戦争)で終わる  88

日本や韓国に被害は出ない  91

北朝鮮と友好関係にある瀋陽軍区の兵士が進撃する  95

中国軍は38度線を越えない  103

 

第三章   2018年6月、北朝鮮体制崩壊へのシナリオ

ワシントンDCに届く核ミサイルは完成間近  110

戦争が始まる前には一切報道しないことになっている  115

トランプが「私の将軍たち」と信頼する3人の元軍人  120

韓国が演習に参加しなければ米軍が単独でやる  123

朝鮮戦争の頃から変わっていない南北境界線  125

1カ月以内で片づける  128

核兵器保有の主権を持つ北朝鮮を止められるのは国連だけ  131

爆撃後、米軍はすぐに朝鮮半島から手を引く  135

平昌五輪後に米韓軍事演習は実施される  138

キッシンジャーがお膳立てした「北朝鮮処理」  141

核兵器開発管理の枠組みが決まったのは2015年1月  146

キッシンジャーの人生最後の大仕事  149

ヒラリーなら世界が火の海になっていた  153

世界の3巨頭による「第二次ヤルタ会談」が開かれる  154

習近平は「死ぬのを恐れるな」と演説した  157

金正恩体制変更までのシナリオ  159

マティスが「戦争計画」を明言  162

 

第四章   トランプの本音は北朝鮮問題を1カ月でさっさと片づけたい

「アメリカ・ファースト!」の本当の意味  167

第二次大戦の時からあったアメリカの「国内問題第一主義」  172

ロックフェラー・グローバリズムと闘ったリンドバーグの思想  175
なぜトランプは「イスラエルの首都はエルサレム」と言ったのか  177
ヒラリーたちの「グローバリズム」とは「地球支配主義」である  179
アメリカは「世界の警察官」から降りる  182

 

第五章   習近平「北朝鮮処理のあと、西太平洋を中国に渡せ」

 江沢民や胡錦濤よりも格上となった習近平  189

「中国夢」を掲げて次の世界覇権国を目指す  194

対抗する「共青団」勢力を骨抜きに  196

習近平派がまとめて台頭  197

習近平独裁を支える政治警察長官  199

「一帯一路」構想とAIIBが突進する  200

「中国崩壊論」が崩壊した  205

政界より先に嵐が吹き荒れた中国軍の人事  207

日本は「アジア人どうし戦わず」を貫け  220

 

あとがき

 

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あとがき 

 

「まえがき」で書いたことの続きである。不思議なことに、「なに。北朝鮮の核ミサイルが日本に飛んでくるだと。断じて許せん。北朝鮮を征伐に行く」という日本人がひとりも出て来ない。何故なのだ。私はこんなことを考えながらブツブツとこの本を書いていた。日本人は本当にフヌケになってしまった。全てのことが他人事なのである。  

 

日本人の韓国、北朝鮮に対する考えは複雑である。まったく同じような顔と体つきをした人間どうしなのだから、もっと仲良くすればいいのに。と言っても、そんなに簡単なことではない。反共右翼や保守的な考え方の人たちは、「北朝鮮の裏にいるのは中国だ」「中国が必ず北朝鮮を助けるはずだ」「だからアメリカは中国とぶつかる」と考えている。私のこの本は、このような人たち相手にも書かれている。リベラル派が多い知識層の日本人は、すでに5年ぐらい前から「どうも朝鮮人韓国人は、中国のことが嫌いなようだ」と分かってきた。私のような世界政治の研究をずっとやってきた人間は、中国と朝鮮の長い争いや戦いの歴史を知っている。15世紀に世宗大王(朝鮮王国の名君)がハングルという新しい文字を作って、国語にしたのには深い理由がある。それは、何があっても朝鮮民族は中国・漢民族に吸収合併されない、という強い民族防衛の思想があるからだ。この考えは今も変わらない。朝鮮・韓国人は、人口が3分の1に減るまで戦っても絶対に中国には屈服しない、という固い意志を持っている。韓国人の知人にちょっと聞いたくらいでは口にしないが、本心である。今の韓国の若者たちは、北朝鮮問題に対して、全く無関心を装っている。「自分たちが生活していくだけでも大変なのに。とても北朝鮮の人たちまでは助けられない」と思っている。だから北朝鮮問題に対しては、何もしゃべらないで口を閉ざしている。

 

だがよく考えてみればこの態度は、日本国民もほとんど同じである。日本人は、北朝鮮問題に対して黙っている。今もそうだ。「独裁体制の気持ちの悪い国だね」と、ささやき合ってきた。ところが去年から北朝鮮の核ミサイルが自分たちにも飛んでくる可能性が高まってきた。そうなると他人事では済まなくなってきた。だが、それでも今の日本にはどうすることもできない。黙ってじっと事態の推移を見守るしかない。国際社会(=世界)が、何とかしてくれるだろうと待っているしかない。何とかしてくれる、とは問題を処理する? 片付ける? 危険を取り除く? ということか。

 

この本の中に書いたが、1月4日に、習近平は、中国軍の幹部たちを集めて「死ぬことを恐れるな」と演説している。同じ日の1月4日に、トランプ大統領は「南北対話が行われている間は、アメリカはいかなる軍事行動も取らない」と明言した。文在寅韓国大統領との電話会談である。ということは、南北対話が終わったら軍事行動を取る、という意味である。国連での手続きもちゃんとそれまでに取る、という意味だ。マティス国防長官は同じ1月4日に、「平昌オリンピックの後には必ず米韓合同軍事演習を行う。それまで延期する」と言った。ロシアのプーチン大統領は、1月11日に「金正恩はゲームに勝っている。この若者は、なかなかの政治家である」と持ち上げた。ロシアは巧妙に自分の取り分を確実に確保しようとしている。北朝鮮の体制変更後のこの地域(リージョン)での自国の経済的利益を得るだろう。広大なシベリアの大開発というロシアにとって大きな国家戦略の一環である。  プーチンは、アメリカが言う「朝鮮半島の非核化」即ち、北朝鮮から核兵器を取り上げて、現体制の作り変え(レジーム・チェンジ)に反対しない。北朝鮮を穏やかな中進国に作り変えるというトランプと習近平の計画に反対しない。

 

なぜならば、トランプと習近平とプーチンの、世界の三大国の3巨頭は、すべてヘンリー・キッシンジャー博士(94歳)の教え子のようなものであり、今の世界はキッシンジャー戦略で動いているからである。この本でずっと説明してきた。キッシンジャーが1954年(31歳)のときに書いた「限定的核戦争論」という論文のとおりのことが今起きており、それに対応する形で刻々と世界は動いている。キッシンジャーは、すでに64年前に「5大国以外の国々がやがて核兵器を持つようになる。それでもできる限りそれらを奪い取らなくてはならない。それが世界が安定して維持されるために必要な世界戦略である」と書いた。現実の世界は、この非情な論理で動いている。私たちは甘い考えを持つべきではない。   トランプと習近平とプーチンによる3巨頭の「第二次ヤルタ会談体制」は、私の自説である。私のこの理論以外にどんな世界体制論が現在あるだろう。私の主張は日本の言論界でほとんど無視されているように見える。しかし本当は私が最先端を行っており、国内言論を先導(かつ煽動、笑)しているのである。このことを知っている人はたくさんいる。だが、皆、黙っている。

 

私にとってはすでに北朝鮮の核問題は終わっている。その次に、アメリカ(トランプ)と中国(習近平)との、激しい闘いが待っている。それは台湾と南シナ海のスプラトリー・アイランズ(南沙諸島)の問題である。この一部に東シナ海の尖閣諸島が入る。去年11月9日の北京での米中会談で、トランプが、「中国は少しは世界に遠慮して、南沙諸島の軍事人工島を撤去しなさい」と言った。そうしたら習近平が、「アメリカの方こそ遠慮しなさい。いつまでも世界の海を支配しなくてもいい。米海軍はグアムまで引っ込みなさい」と言ったようだ。世界のトップの政治家どおしの言い争いというのは、本当はこのように分かり易いものなのである。

 

中国は、今のままの巨大な経済力の成長をどうせ続ける。だからそれに見合った軍事力の増大で、アメリカを圧して「西太平洋(ウエスト・パック。ハワイより西)は中国に任せなさい」と言っている。この問題が北朝鮮の次の問題としてすでにせりあがってきている。私の大きな結論では、トランプ大統領は、アメリカ国内の立て直しの方が重要であるから、アジア諸国から軍事力を徐々に撤退しようと考えている。「もうこれ以上余計な軍事出費をアメリカはかけられない」と分かっている。だから中国の要求に少しずつ応じて行かざるを得ない。これは〝アメリカの衰退〟を表している。

 

この事態に日本の保守派や反共右翼たちはいきり立っている。「アメリカは、なぜ中国とロシアの伸長に対して本気で対決しようとしないのだ」と強く不満に思っている。だがこれらの旧式の古い考えの人々は、やがて現実対応力を失って衰退していく。私たちは、北朝鮮後のことを急いで考えなければいけない。

 

この本は緊急出版に近い本である。台本作成から3週間という突貫工事に俊敏に対応してくれた担当編集者の光文社出版企画編集部の田尾登志治副編集長に格段のご支援をいただいた。ライターの市川昭彦氏が、幸運にも韓国軍の国防省で長年、戦争兆候の調査分野におられた高永喆氏との対談を実現してくださった。米澤仁次局長にはこの本が時宜にかなって迅速に出版されることで万全のご配慮をいただいた。記して感謝します。

 

2018年2月10

副島隆彦

 

(貼り付け終わり)

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