古村治彦です。

 今回はジョージ・オーウェルの秀逸なスポーツ論を紹介したい。それは「スポーツ精神」というタイトルの短い論説(エッセイ)だ。これは、『あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫)』と『一杯のおいしい紅茶-ジョージ・オーウェルのエッセイ (中公文庫)』のどちらにも入っている。もしお読みになりたいという人はどちらかを手に取ればよい。『あなたと原爆』の方が政治的な内容で、『一杯のおいしい紅茶』の方は生活に関連したエッセイが多い。今回は『あなたと原爆』から引用していきたい。
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 ジョージ・オーウェル(George Orwell、1903-1950年、46歳で没)と言えば、やはり『一九八四年〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』『動物農場〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』で有名だ。これらは政治・社会風刺、ディストピア小説の金字塔だ。

 「スポーツ精神」はイギリスの左翼系雑誌『トリビューン』誌12月14日号に掲載された。『トリビューン』誌は1937年に新聞として創刊され、後に雑誌となった。オーウェルは1943年に文学編集者として雇われコラムを執筆した。1945年まで勤めた。その後も1947年までコラムやエッセイを寄稿した。

 1945年秋にソ連のサッカーティームであるディナモ・モスクワがイギリスを訪問し、各地で強豪ティームと対戦した。その中にはアーセナルも含まれていた。ディナモもアーセナルも現在まで存続している有名ティームだ。サッカーに詳しくない私でも名前くらいは知っているほどだ。ウィキペディアによると、「1945年、ソビエト連邦のクラブとして初となるイギリス遠征を行い、カーディフ・シティを10-1、アーセナルを4-3で破り、チェルシー、レンジャーズと引き分けた」とある。ディナモ・モスクワは2勝2引き分けの結果を残した。しかし、ディナモ・モスクワは予定を切り上げて帰国してしまったようだ。

 第二次世界大戦直後、ソ連のサッカークラブがイギリスを訪問したのは、第二次世界大戦後で戦勝国同士、親善を深める目的であったはずだ。しかし、この時には既に英ソ関係は険悪化していたようだ。ディナモ・モスクワとイギリスの各クラブの試合では、殴り合い、喧嘩騒ぎ、観客の悪口雑言、ブーイングで「無秩序」「無法」状態になったそうだ。

 そこにまた、「イギリスとソ連ではどちらがサッカーの力は上か」というようなことも絡んできた。オーウェルは「それからアーセナルのチーム編成について、このナショナリスティックな時代特有の議論が巻き起こった。すなわち、戦ったチームはロシア人たちが言うように本当にイギリス代表チームだったのか、あるいはイギリス人たちが主張するように単にリーグの一クラブチームだったのか、という議論である」(38-39ページ)と書いている。

 続いてオーウェルはスポーツ、特に国家を代表するティームが行うスポーツについて次のように書いている。長くなるが引用する。

(引用はじめ)

 スポーツというのは国と国の間に親善の気持ちを醸成し、世界中の一般市民がサッカーやクリケットの試合で出会うことができたなら、戦場で顔を合わすことなどないだろう、という意見を耳にするといつも不思議に思う。国際的なスポーツ大会が憎悪による馬鹿騒ぎに陥ったケース(一九三六年の[ベルリン]オリンピックがいい例だ)をたとえ知らずとも、そうなりがちであることは一般的原則から推測することが可能ではないか。

 今日(こんにち)行われているほとんど全てのスポーツは、競争的なものである。勝つために参加するのであり、勝つための最大限のどりょくをしないのであれば、試合することにほとんど意味がない。村の芝生(しばふ)で、地元への忠誠心などまったくなしに両サイドに分かれてサッカーをする場合には、単に娯楽や運動のために楽しむことも可能であろう。しかし、威信の問題が持ちあがり、自分たちが負けた場合にじぶんのみならず自分の帰属するより大きな集団までもが面目を失うと感じるやいなや、我々の心中に非常に野蛮な戦闘本能が引き起こされてしまうのである。学校対抗のサッカーの試合に出たことのある者なら誰でも理解できるだろう。国際レベルでは、スポーツとは率直に言って疑似戦争だ。しかし重要なのは選手の姿勢ではなく、むしろ観客の態度である。そしてその観客の背後にある、こういったばかばかしい競争で怒りの炎を燃やして、走ったり跳ねたりボールを蹴ることが国家の美徳の照明であると、短期間であっても信じさせてしまう国家の態度こそが問題なのだ。(40-41ページ)

(引用終わり)

 更に、重要な部分を引用したい。

(引用はじめ)

 こういったこと(引用者註:イギリスとアメリカでスポーツが巨大化していき、それが各国に伝播したこと)全体がナショナリズム、つまり自分自身をより巨大な権力の単位と同一化して全てを競争的な名声を通して見るという狂気じみた現代的な慣習と、切っても切れない結びつきを持っているという事実には、ほぼ疑いの余地はない。(43-44ページ)

(引用終わり)

 オーウェルの論稿は現在にも通じるものだ。日本のテレビに出てきて、オリンピック推進論を唱える、オリンピック関係者たちは、オーウェルの文章を読んで、自分たちのやっていることを省みた方が良い。どれほど醜悪なことをやっているか、自分で自分がイヤになるならまだましで、何とも感じないようならば、それは病膏肓に入る、露骨に言えば、もう手遅れということである。

 オリンピックはナショナリズムを高揚させる装置として利用されてきた。冷戦期を振り返れば、ソ連や中国、東ドイツといった東側陣営の国々はメダル獲得数を社会主義、共産主義の優位の証明としてきた。しかし、その陰でアスリートに対するドーピングが国家を挙げて研究されてきた。アスリートの健康は二の次、国家の威信が第一ということになった。近年はナショナリズムに加えて商業主義、拝金主義、消費主義も絡み合って、オリンピックの持つ醜悪さがより酷くなっている。その集大成が2020年東京オリンピック(2021年開催)だ。

 「オリンピックは平和の祭典」「復興五輪「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証明」などというものは、本質を覆い隠すための美辞麗句に過ぎない。オリンピックは、ナショナリズムを利用して、人々の劣情を掻き立て、お金を使わせ、森喜朗氏やIOC会長トーマス・バッハなどオリンピックお貴族さまと電通に贅沢をさせるための装置でしかない。オーウェルのスポーツ論はそのことを私たちに気づかせてくれる。内村鑑三の言葉をもじって言えば「スポーツで食うのは良いが、スポーツを食い物にするのは間違っている」といいうことになる。その間違った方向に日本だけではなく、世界中が進んでいる。

(終わり)

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