古村治彦です。

 

 今回は、『外務省革新派―世界新秩序の幻影』を皆さまにご紹介します。現在、私は、戦前の日本の2つの外交政策の潮流である大日本主義と小日本主義を代表する人物である森恪と石橋湛山について調べています。その中で、本書もまた非常に重要な研究成果を提供してくれています。

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外務省革新派 (中公新書)

 

 本書は、戦前の外務官僚である白鳥敏夫(1887―1949年)を中心にして、戦争直前の外務省の中堅層をなした「外務省革新派」の動きと日本外交について詳述し、分析しています。白鳥敏夫はイタリア大使として日独伊三国軍事同盟締結に奔走しました。また、英米追従外交を批判し、「東亜新秩序」の建設、新しい国際秩序の構築を主張しました。戦後はA級戦犯に指名され、終身禁固刑の判決を受けましたが、すぐに病気のために亡くなりました。白鳥は昭和殉難者として靖国神社に祀られました。2006年に発見された「冨田メモ」によると、昭和天皇はA級戦犯の合祀に不満を表明し、「松岡や白鳥までもが」と発言していたことが明らかになりました。昭和天皇は、国際秩序の動揺に乗る形で、国際秩序を破壊しようとして失敗した文官を特に許してはいなかったのだろうということが推察されます。

 

 日本外交の大きな分岐点となったのは、1919年のヴェルサイユ講和会議です。この時、日本は戦勝国として、世界の五大国へと大きく飛躍しました。しかし、大規模な国際会議に主要メンバーとして参加した経験に乏しい日本代表団は質量ともに不足し、また、「サイレント・パートナー」と呼ばれるほどに積極性を欠きました。

 

 この時に少壮外交官たちはこの現状を打破すべく、1919年に「外務省革新同志会」を結成しました。注意して欲しいのは、この会に集った人々は、本書で規定している「外務省革新派」ではなく、その人世代上の先輩たちで、「大正版革新派」でした。彼らは人事の刷新、採用方法の改革や情報部門の創設などを主張し、その一部は実現されました。

 

 その後、1920年代の日本の外交は、幣原喜重郎外相の唱えた「協調外交」「幣原外交」と呼ばれ、「英米主導の国際秩序を守る」ということに重点が置かれました。日本が最も進出しやすい場所にあったのが中国だった訳ですが、1922年からのワシントン体制(中国に関する条約)のために、英米主導で日本の進出を抑える、東アジア体制が確立され、日本が特権的に、排他的に新たに進出する場所はありませんでした。「日本の国力の伸張のためにはこの体制は邪魔だ」と考える人々が出てきました。そうした中に、1910年代、1920年代に外務省に入省した若手の外交官たちがいました。最も目立った動きをしたのが白鳥敏夫でした。

 

 1920年代後半から1930年代にかけて大正版革新派だった人々が外務省幹部になります。有田八郎、広田弘毅、重光葵といった人々です。彼らは基本的に幣原外交路線を継承していきます。それに対して、昭和版外務省革新派は、1933年に僚友会を結成し、やはり人事の刷新や機構改革を訴えます。いつの時代も若手は上の世代に不満を持つようで、大正時代には批判する側だった人々も昭和に入り、批判される側になりました。

 

 白鳥は外務官僚ながら、マスコミにも頻繁に登場し、これまでの幣原外交(英米追従外交)を批判し、満州事変の正当化や日独伊三国同盟を主張しました。白鳥は外交における異端児、革命児として知られていくようになります。この時、白鳥を評価していたのは、政友会所属の政治家、森恪(彼は白鳥の掲げた「アジアに帰れ」を多用します)や陸軍の鈴木貞一(「背広を着た軍人」として名を馳せ、後に企画院総裁となる)で、1930年代からの外交で派手な動きを展開します。

 

 外務省革新派といっても、一人ひとりの考えは様々で、統一されたものではありませんでした。また、革新派は中堅から下の少壮外交官たちで、陸海軍の中堅クラスと違って、彼らが外務省を牛耳るまでにはいきませんでした。しかし、ナチスドイツによってヨーロッパの秩序が破壊された状況は、アジアにおける新秩序の機会と捉えられました。アジアの植民地をうまくすれば日本が奪取する、独立させて、日本が盟主となる新しい体制に組み込む、ということが考えられました。白鳥は北進論をすぐに南進論に切り替えました。

 

 このようなアジアの新秩序構築を目指すために、外務省革新派は「アジアに帰れ」をスローガンにし、英米追従打破を主張しました。外務省革新派は、「日本の国力の伸張」を主張しました。そして、ヨーロッパで起きた秩序を壊すような大戦争を利用して、アジアに日本中心の新秩序を形成し、それを利用して、日本の国力を伸張させようとしました。そのためのスローガンが「新秩序」「皇道外交」「アジアに帰れ」が使われるようになりました。

 

 当時の外交官たちの多くは、ドイツがヨーロッパを席巻してもそれは一時的なものである、ということをしっかりと見抜いていました。ですから、外務省の幹部、また日本のエスタブリッシュメントの多くが、軍部や世論に引きずられながらも、何とか英米との協調の方向に進めようとしていました。彼らの中にはその点で「リアリズム」があり、そのために冷静に状況を判断できていました。

 

 しかし、華々しいスローガンや手厳しい非難が、仰々しい「理念」「哲学」といったイデオロギーで語られると、それに熱狂してしまう人々が多く出ます。「アジアに新秩序を建設して、白人支配から人々を解放するのだ」という理想主義に酔う人々が多くいました。

 

 私は外交に関して、こうした使命感を高揚するような理想主義的外交は国を誤ると考えています。外交はあくまでリアリズムで行うべきであって、そのためには外国に対しても、自国に対しても冷酷な目で事実を掴み、決して過小評価も過大評価もせず、分析を行って、政策を決定すべきものと考えます。

 

 そして、自国民には国が置かれているポジションを伝え、自国について決して過大評価だけはしないようにということをすべきだと思います。これはもちろんマスコミの役割ですが、政府もまたそのように広報すべきです。

 

 現在の安倍政権の外交とマスコミの報道ぶりを見ていると、危惧されることが多いというのが私の考えです。

 

(終わり)