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 古村治彦です。

 

 今回は、『昭和の三傑 憲法九条は「救国のトリック」だった』(堤堯著、集英社文庫、2013年)を皆様にご紹介したいと思います。

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 著者の堤堯(つつみぎょう、1940年~)は、東大卒業後、文藝春秋社に入社。『諸君!』『文芸春秋』の編集長を歴任した人物です。子供の時に太平洋戦争を経験し、その記憶が残っている人です。

 

 本書で取り上げられているのは、鈴木貫太郎(1868~1948年)、幣原喜重郎(1872~1951年)、吉田茂(1878~1967年)の三名の首相経験者です。それぞれは毀誉褒貶が激しい、もしくは低評価の人々です。そうした低評価や批判に対して、著者の堤堯は反論をしています。

 

 鈴木貫太郎に対する最大の批判は、「もっと早く降服していれば、原爆投下とソ連の参戦を招かずに済んだはずだ」というものです。特にポツダム宣言が発表された後、鈴木首相が「黙殺する(ignorereject)のみ」としたために、アメリカは原爆投下を決定したという批判は今でもあります。

 

 堤堯は、昭和20年春の段階で終戦(敗戦)にまでもっていくのは大変なことで、軍からの抵抗が激しく、とても尋常な方法では終戦まで持っていくことはできなかった。戦う姿勢を示しながら、それでも終戦に向かうためには、鈴木首相の胆力と演技力と、大胆な発想(最後は天皇の決断である「聖断」を仰ぐ)、「腹芸」が必要であったと主張しています。鈴木首相の腹芸がなければ、日本は米ソによって分割統治されていたかもしれないと指摘しています。

 

 幣原喜重郎に関しては、「日本国憲法第九条はアメリカ側(ダグラス・マッカーサー元帥率いるGHQ)に押し付けられたのか、日本側から言い出したものなのか」という疑問が常に付きまとい、保守派からは低い評価しか受けない人物です。

 

 堤堯は、当時の諸外国の対日世論は強硬であり、特に天皇に対して何らかの責任を取らせる、もしくは退位や流罪、処刑を求める声が大きかったことを指摘しています。しかし、現場(日本占領)の最高指揮官である、ダグラス・マッカーサーは、日本の占領統治のためには天皇の存在が不可欠であるということは分かっていて、何とかしたいと思っていたということです。そこで、幣原は、天皇の存在を守るために、そして、米ソ冷戦、代理対決の危険を予測して、日本はそれには巻き込まれないようにするために、「戦争放棄をマッカーサーに進言し、一世一代の名演技で、驚き渋るマッカーサーを籠絡した」と堤堯は書いています。そして、米ソの対立の激化、朝鮮戦争の勃発で、マッカーサーをはじめとするアメリカ側は「幣原にやられた」と気付くことになるのです。

 

 一つ興味深かったのは、幣原喜重郎の自伝が発刊された際に、幣原の息子があとがきを書いているのだそうですが、徹頭徹尾、「憲法九条はアメリカから押し付けられたもので、父が発案したものではなく、父は苦しんでいた」と主張しているのだそうです。幣原家に対しては保守派からの相当の攻撃があり、家族も嫌なめに遭遇したのだろうということが想像できます。そう思うと、日本を救うことになる憲法九条を発案した幣原喜重郎を再評価し、家族の労苦をしのぶことが必要だと私は考えます。

 

 吉田茂は毀誉褒貶が激しい人物ですが、「アメリカ占領中は再軍備にひたすら反対しながら、晩年は核武装まで言い出した」という「極端な姿勢の変化」を批判されることがあります。また、吉田首相の政権運営が独断的であり、時に周囲を計算高く利用していたために、人々の人気はありませんでした。

 

 堤は、吉田首相がアメリカらの日本の再軍備(と朝鮮戦争への派兵)を頑なに拒否できたのは、憲法九条があったからだと書いています。また、サンフランシスコ講和会議の後に締結された日米安保条約もアメリカを「番犬」として使うための方便であったということになります。

 

 しかし、この点に関しては、日米安保条約は吉田茂だけがプレシディオの米海軍基地(現在は映画監督スティーヴン・スピルバーグが率いるドリームワークスの本拠地となっています)に引き立てられるように連れて行かれ、下士官食堂で署名「させられた」ということがどうも真実に近いのではないかと言われています。帰ってきて「池田君、大変なことになった」とぶるぶる震えながら吉田首相が話したという証言もあります。アメリカも馬鹿ではありませんから、憲法九条と引き換えに、米軍駐留を認めさせられた、仇を取られたというのが正しいのではないかと考えます。著者の堤堯は、吉田茂をやや神格化して書いているのではないかと思います。

 

 本書のサブタイトルである「憲法九条は『救国のトリック』だった」こそが堤堯の言いたいことです。憲法九条があったことで、戦後日本はアメリカの戦争に付き合わずに済み、アメリカを「お番犬」として利用できたのです。アメリカからの再軍備(と朝鮮戦争への派兵)を吉田首相がとことん拒否できたのは憲法九条があったからだと堤堯は書いています。この点は全くその通りだなと肯定できます。しかし、そこからがいけません。

 

 著者の堤堯は、憲法九条は「トリック」であり「擬態」であるのだから、国力もついた現在は、その変更もやむなしという主張です。しかし、私は堤の「憲法九条ができた時に、これで自分は戦争に行かないで済むと思った」という心からの叫びこそを重視したいと思います。彼もまた子供時代に戦争を体験し、空襲の中を逃げまどい、大きくなったら戦争に行って死ぬんだと思っていたそうです。この時代の子供たちの多くはそう思っていたことでしょう。そのような安堵感を持った堤は実際に戦争に行かずに70歳を超える年齢まで生きることが出来ました。これから戦争が起きても、まず最前線に行く必要はないし、一流出版社の重役まで務めた人物ですから年金もたくさんもらえるでしょう。

 

 そうした人物が「若者たちよ、死んで来い」と言う訳です。これはズルいことだし、卑怯なことです。石原慎太郎にも感じることですが、自分たちが助かったら、あとは知らないという独善的かつ卑怯な言動や振舞いをすることがこの世代の保守派にはあります。国を憂い、偉そうなことを述べていますが、「結局自分たちがいちばんおいしい思いをした」という思いを胸に死んでいくだけの人々です。

 

 それなら、自分の真情を少しでも吐露して、自分たちの化けの皮を剥いで新で行って欲しいと思います。堤堯は「憲法九条ができて、助かった、自分は戦争に行かずに済むと思った」と書いています。この一行があるだけで、まだ石原慎太郎よりはずっとましです。しかし、結局は偉そうなことを書く。だから本当の意味で信頼も得られないし、胡散臭さを消すことができないのだと思います。

 

 私は、日本がアメリカの属国である以上、擬態、トリックを続けていくことが重要であると思います。「戦争放棄」「他国の領土には侵攻しないしできない」と言い続けることが、現在でも、大きな負担や他国からの恨みを避けるために有効であると考えます。そのためにこそ、憲法九条は改正する必要はないし、集団的自衛権の行使容認も認めるべきではありません。ここが崩れてしまえば、堤防にあいた小さな穴となって、アメリカの下請け化がどんどん進んでいくということになります。それこそが日本にとって大きな不幸になります。

 

 日本の保守派の中には、自分たちのことをリアリスト(現実主義者)だと自称する人々が数多く存在します。彼らは集団的自衛権の行使を容認し、「アメリカと一緒になって」中国に対抗して、いざという時には中国と一戦交えることも辞さない、昔の言葉で言えば「暴戻支那は膺懲すべし!」と意気軒昂です。日本単独では無理なので、アメリカと一緒になってという点が味噌です。

 これはアメリカにとって渡りに船で、「じゃぁ色々とやってもらいますよ。今まで通りに米軍基地も置いておいてもらいますし、思いやり予算(
host nation’s support)も続けてもらいますし、加えて自衛隊の米軍統合運用(米軍下請化)もやってもらえるそうで、ありがたいこと」ということになります。なぜ近隣諸国との緊張を高め、負担を自ら増やして何の得も利益も得られないことをすることが、「リアリスティック(現実的)」なのでしょうか。日本語の格言に「損して得取れ」というものがありますが、今の状態は「損してもっと損しろ」です。自分たちの思いこみや希望、他人任せの、他人を犠牲にしての愛国心を満足させる行為のために、国全体を危機に陥れ、滅亡に進ませるという点で、彼らはリアリストでもなんでもなく、「夢想主義者」でしかありません。

 

(終わり)