古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:『闇に葬られた歴史』


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 古村治彦です。



 今回は、副島隆彦著『闇に葬られた歴史』(PHP研究所、2013年)を皆様にご紹介いたします。この本は、歴史上の定説に対して異議申し立てをしている、正統派(オーソドキシー、orthodoxy)から排除された修正主義派(リヴィジョニスト、revisionist)の言説を取り上げて検討を加えた本です。大きく、第一部「戦国・江戸時代編」と第二部「古代編」とに分けられており、第一部には、第一章「信長殺しの真実」、第二章「家康のすり替わり説」、第三章「戦場の真実」、第四章「松尾芭蕉忍者(公儀隠密)説」が収められ、第二部には第五章「天皇とは北極星のことである」、第六章「日本建国は六八八年のことで、華僑が作った」、第七章「聖徳太子は蘇我入鹿である」がそれぞれ収められています。



 それぞれの章では、正統とされる歴史の定説に異議申し立てをした先達の業績が紹介され、それに副島先生の検討や分析が加えられています。先生の検討や分析の基礎となっているのは「覇権国―属国関係理論」であり、「世界規模の政治の動きから日本史を見る」ということです。日本はアジアの東の端にあり、世界から隔絶していたと考えられがちですが、国際政治の動きに無縁であったのではなく、大きな動きに合わせて歴史も動いていたと考えると、不自然なことが出てくる、それが本書で取り上げられている「修正主義的」な言説の数々です。詳しくは是非、『闇に葬られた歴史』を手にとってお読みください。



 政治学や国際関係論を専攻した私にとって特に気になった部分は、国際関係と絡めた主張です。例えば、第一章では、イエズス会が信長殺しを行ったという主張の部分です。ここにはポルトガルとスペインの勢力争い、イエズス会による日本の植民地化の動き、そして「天正少年遣欧使節」がローマ法王による「日本国王」の「オーディション」であったということです。そして、第四章で出てくる間宮海峡の地政学意味の部分です。樺太が半島であるか、島であるかはヨーロッパ各国をも巻き込む地政学上の重要なポイントであって、間宮海峡を日本側(公儀隠密であった間宮林蔵によって)が「発見」されたことが重要であって、その後、ロシアと日本側で樺太の辺りは「触らない」ということになったということには驚かされます。



 国際関係論は徳に歴史学の影響が強い分野です。歴史の事例研究が国際関係論の理論構築の基礎にあると言って良いでしょう。国際関係論という学問分野では、ツキティディスの『戦史』が必読文献になったり、中国の五胡十六国時代がケーススタディの対象になったりしています。歴史をよく知ることが国際関係において、最も間違いの少ない選択をすることができると言うことができます。



 そして、同時に国際関係をよく理解することが、歴史の解釈に対して大きな貢献ができると言うことができます。現在では、従来の欧米偏重の「ワールド・ヒストリー」から「グローバル・ヒストリー」へと重臣が少しずつ変化していますが、これは経済力や軍事力といった国際関係論で重視される要素を歴史学に加味していく作業でもあります。歴史は、特に一国の歴史となると、権力者によって都合の良いように書き換えられます。建国物語が公認の歴史ということになりますが、これは現実を無視した「物語」です。これに対して、異議申し立てを行う際に有力な武器となるのが国際関係の理論や知識です。



 本書『闇に葬られた歴史』の著者である副島先生は、歴史家ではありませんが、政治や国際関係の専門家であり、その観点から歴史を見て、検討や分析を加えています。歴史に関して異議申し立てを歴史家からの視点だけで行うのはどうしても限界があるはずです。現在は、どの学問分野でも「学際的(interdisciplinary)」の重要性が指摘されています。他の分野からの知見の導入が図られています。社会科学の中でも後発の政治学には、経済学、社会学、心理学の業績が導入されています。



 本書『闇に葬られた歴史』を素人による素人考えと切って捨てるのはこうした学問の大きな流れに逆行することであると私は考えます。



 副島隆彦著『闇に葬られた歴史』(PHP研究所、二〇一三年)を是非年末年始の読書計画にお加えいただければと思います。



(終わり)


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 古村治彦です。


 今回は、礫川全次著『史疑 幻の家康論』(批評社、2000年)を皆様にご紹介いたします。この本は、友人から貰った本の中に入っていたので入手したものです。また、『史疑』という本については、師である副島隆彦先生からお話を伺っていて、名前は知っていました。そして、『史疑』を基にして、副島先生は独自の徳川家康論を構築され、『闇に葬られた歴史』(PHP研究所、2013年)として刊行されました。


 村岡素一郎著『史疑 徳川家康事蹟』という本は、1902(明治35)年に徳富蘇峰主宰の民友社という出版社から出版された本です。その後、絶版となり、世の中から忘れ去られていたのですが、1958(昭和33)年に作家の南條範夫が古本屋で発見し、それを基にして、「願人坊主家康」という小説を書きました。また、『史疑』を基にして1986(昭和61)年、隆慶一郎が唯一の長編小説である『影武者家康』という小説を書いています。また、村岡素一郎の孫である榛葉英治(直木賞受賞作家)が『史疑』を口語訳した本を出しています。榛葉英治は、『史疑徳川家康』(雄山閣、1963年)という本も出しています。



 この『史疑 幻の家康論』は、『史疑徳川家康事蹟』を紹介した本です。著者であ礫川は、『史疑』という本について、①徳川家康の入れ替わり説の提示、②徳川家康が当時の卑賤な身分の出身であるという説の提示、③貴賤交代論の本であることの、3つのポイントで、この『史疑』は重要な本であると書いています。


 礫川の展開する主張で重要なのは、『史疑』が「貴賤交代論の書である」という点です。貴賤交代論というのは、「それまで社会を支配していた人々と、虐げられてきたもしくは卑しいとされていた人々が交代する。歴史はその繰り返しだ」と言うものです。そして、礫川は、この『史疑』で村岡素一郎は、徳川家康の出身が当時卑賎とされた身分であったことを指摘して、明治新政府の顕官たちの出自もまた卑賤なものであった、ということを指摘しているのだと主張しています。加えて、この貴賤交代論のために、『史疑』が言わば「禁書」として扱われてきた、出版元の民友社の徳富蘇峰さえも「禁書」として扱うことに協力したのだと主張しています。


 この部分は、「明治天皇すり替え説」「伊藤博文の出自は忍者説」と並んで、これからもっと調査が進められるべき(しかし調査が進むことはないだろうと思われる)、幕末から明治にかけての歴史の重要なテーマです。


 私たちが本やインターネットで見ることができる、松平家の家系図では「清康―広忠―家康」の順になっています。そして、家康の生母は水野忠政(尾張国知多郡の豪族)の娘、於大(おだい)の方となっています。於大の方は広忠と離縁させられ、久松俊勝と再婚しました。家康の異父弟たちは松平の性を与えられ、家康の家臣となったということです。

 しかし、『史疑』の中で、村岡素一郎は次のような論を展開しています。

(1)家康は駿府宮の前町生まれ。
(2)父親は諸国を放浪していた江田松本坊、母親はささら者の娘である於大、その母は於万
(源応尼)。ささら者は、戦場などでの雑用を行う人々であった。
(3)家康は祖母に養育され、仏門に入っていた。
(4)しかし、あることで破門され寺を飛び出し、放浪しているところを又右衛門という悪漢に捕まり、銭5貫で願人坊主であった酒井常光坊に買い取られる。
(5)家康(この時は世良田二郎三郎元信と名乗っていた)は19歳の時に駿府にいた松平家から今川家へのの人質であった竹千代(父は松平元康となっている)を誘拐し、遁走。祖母の源応尼は処刑された。世良田は家康の父江田松本坊の出身地の地名。
(6)家康は竹千代を尾張の織田家に引き渡そうとするなどの計略を用いた。
(7)「森山崩れ」という事件が起きる。松平元康が家臣に斬殺される。
(8)家康(このときは元信)が「元康の嗣子である竹千代君を奉侍している。竹千代君を奉じて岡崎城に入城したい」と言って岡崎城に入り込む。
(9)元康の死は秘密にされ、元信が元康の代わりをする。
(10)織田との和議が成立し、元康(元信が入れ替わった)は「松平蔵人家康」と改名。竹千代は信康と改名。
(11)家康時代になり、古くからの家臣が松平家から脱落していく。
(12)1566年に苗字を松平から徳川に改姓。
(13)1572年に家康、正室である築山殿と嫡子・信康を武田家との内通の容疑で殺害。


 私は、この村岡素一郎の徳川家康に関する主張については副島先生から数年前に口頭で説明を受けました。その時は、私の頭の悪さもあって、内容を理解できないままでした。しかし、今回、『史疑 幻の家康論』を読んでみて、なるほどその内容を理解することができました。この話は、当たり前の話ですが学校で習う歴史には出てきませんし、驚くべき内容で、「想像の産物」と片付けたくなるものです。

 しかし、私も資料が乏しい戦後史の研究をしていますと、ある本の一節、ある人がぽろっと言った一言から真実の断片がちらりと姿を見せていることを発見したという経験があります。村岡素一郎も『駿府政事記』という本を読んでいて、家康が家臣たちにある日、「自分は若い時に又右衛門という悪者に五貫文で売られて酷い目に遭った」と話したという一節からインスピレーションを得て、『史疑』としてまとめられることになる研究を始めています。私は自分の個人的な経験、直観から村岡素一郎の説は無視できないものであると思います。

 『史疑 徳川家康事蹟』は元々生硬な漢文で書かれており、読みにくいものだそうです。それを著者村岡素一郎の孫である榛葉英治が口語訳を出しています。それらを読むにあたり、まず入門編として、この『史疑 幻の家康論』を読むと理解が進み、有意義であると思います。

(終わり)

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