古村治彦です。
今回は、『ザビエルの見た日本』という本をご紹介します。この本は、イエズス会神父で上智大学教授を務めたピーター・ミルワードが「先輩」「先達」「先駆者」フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier、1506-1552年)の書簡をまとめたものです。
ザビエルという名前は多くの日本人が知っています。本の表紙にある彼の肖像画を記憶している人も多いでしょう。日本にキリスト教を伝えた人物です。1549年に鹿児島にやってきました。鹿児島の種子島にポルトガル人商人によって鉄砲が伝えられたのが1542年です。これで日本が西洋に「発見」されたことになります。逆に言うと、西洋が日本に「発見された」ということにもなります。
ザビエルは日本に来る前に、マラッカ海峡のマラッカで日本人に出会います。そして、インドのゴアに戻ります。ゴアでは日本人のアンジロウ(鹿児島生まれ)が洗礼を受けて、パウロ・デ・サンタ・フェという名前をもらいました。これが1547年のことです。そして、ザビエルは日本人たちを連れて日本に向かい、1549年に到着しました。
ザビエルは鹿児島、平戸、山口、京都、豊後(大分)と転々としながら布教活動に励みますが、1551年末には日本を離れます。その後、ゴアに戻り、中国布教を目指して関東に向かいますが、そこで亡くなりました。1542年のことでした。ザビエルの生涯は約46年、そのうち日本にいたのは2年ほどのことでしたが、日本史の中でも屈指の「有名人」となりまいた。ザビエルは日本布教を目指しましたが、日本に影響力の強い中国にキリスト教を布教したほうが、日本に布教しやすいということになり、中国を目指しましたが志半ばで亡くなりました。
ザビエルは日本人に大きな期待をしていました。「日本人はキリスト教に改宗するだろう。それは日本人が知的好奇心にあふれ、理性的であるから」と彼は考えていました。ザビエルは日本に着き、日本人と直接交流することで、喜びとともに困惑も覚えたようです。
日本人が知的好奇心にあふれているというのをプラスの面とすると、マイナスの面は、ザビエルたちを昼夜分かたず多くの日本人が質問攻めにしてしまうということになります。ザビエルは食事をする時間も眠る時間も祈りの時間もなかったそうです。また、食べ物が会わないということもあったようです。
日本人たちはザビエルに対して様々な質問をしました。「神が全てを作ったのなら、悪である悪魔を作ったのはどうしてか」「洗礼を受けずに亡くなった私の先祖は地獄から出られないのか、救われないのか」といった質問をしています。ザビエルは2番目の質問に対して、「出られない、救われない」と答え、日本人たちを困惑させています。「人間を憐れんで、救ってくれるはずの神がどうしてそんな酷いことをするのか」「既に亡くなった親族が救われないなんて」ということになります。神と個人の対話が基本のキリスト教と、日本人の生活様式は齟齬をきたしたといえるでしょう。
ザビエルは自身と希望をもって日本に布教に来ましたが、最初の期待が大きかった分、失望も大きかったようです。ザビエルはパリ大学の助教授の座を捨て、イグナティオ・ロヨラによって目覚めさせられ、東洋まで布教の旅に出た情熱の人で、その点は日本人を感動させたようですが、キリスト教の教理は日本人にはあまり受け入れなかったようです。
私たちが自分以外の人間を見る場合に、勝手な理想をそこに投影すると後で勝手に失望を味わってしまいます。あるがままの姿を受け入れずに、自分の中にあるフィルターを通して見てしまうことで、「こう動くはずなのに、うまくいかない」と勝手に怒ったり、悲しんだりします。それは外国に対しての私たちの見方にも言えることです。
また、ザビエルが最初に会った日本人たちは外国に出て、キリスト教に興味関心を持っており、彼らはザビエルに過剰に同調し、ザビエルが聞きたい話を察知して話したことでしょう。そうなると、ザビエルは自分の中でこうあって欲しいという日本の姿を勝手に描き、持つようになるでしょう。その理想と現実のギャップに彼は苦しんだはずです。しかし、ザビエルは熱意の人ですから、それを直接吐露することはありませんでしたが、苦しいというようなことは手紙の行間から読み取ることが出来ます。
私たちがザビエルから学べることは、外国を見る際に、決して理想的なイメージを勝手に作らないということだと思います。現在の日本と近隣諸国との関係はまさに、日本が勝手に持ったイメージを押しけての反発という面が大きいと思います。もちろん逆もまたしかりですが。
(終わり)