古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:イエズス会

 古村治彦です。

 

 今回は、『ザビエルの見た日本』という本をご紹介します。この本は、イエズス会神父で上智大学教授を務めたピーター・ミルワードが「先輩」「先達」「先駆者」フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier、1506-1552年)の書簡をまとめたものです。

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ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

 
 ザビエルという名前は多くの日本人が知っています。本の表紙にある彼の肖像画を記憶している人も多いでしょう。日本にキリスト教を伝えた人物です。1549年に鹿児島にやってきました。鹿児島の種子島にポルトガル人商人によって鉄砲が伝えられたのが1542年です。これで日本が西洋に「発見」されたことになります。逆に言うと、西洋が日本に「発見された」ということにもなります。

 

 ザビエルは日本に来る前に、マラッカ海峡のマラッカで日本人に出会います。そして、インドのゴアに戻ります。ゴアでは日本人のアンジロウ(鹿児島生まれ)が洗礼を受けて、パウロ・デ・サンタ・フェという名前をもらいました。これが1547年のことです。そして、ザビエルは日本人たちを連れて日本に向かい、1549年に到着しました。

 

 ザビエルは鹿児島、平戸、山口、京都、豊後(大分)と転々としながら布教活動に励みますが、1551年末には日本を離れます。その後、ゴアに戻り、中国布教を目指して関東に向かいますが、そこで亡くなりました。1542年のことでした。ザビエルの生涯は約46年、そのうち日本にいたのは2年ほどのことでしたが、日本史の中でも屈指の「有名人」となりまいた。ザビエルは日本布教を目指しましたが、日本に影響力の強い中国にキリスト教を布教したほうが、日本に布教しやすいということになり、中国を目指しましたが志半ばで亡くなりました。

 

 ザビエルは日本人に大きな期待をしていました。「日本人はキリスト教に改宗するだろう。それは日本人が知的好奇心にあふれ、理性的であるから」と彼は考えていました。ザビエルは日本に着き、日本人と直接交流することで、喜びとともに困惑も覚えたようです。

 

 日本人が知的好奇心にあふれているというのをプラスの面とすると、マイナスの面は、ザビエルたちを昼夜分かたず多くの日本人が質問攻めにしてしまうということになります。ザビエルは食事をする時間も眠る時間も祈りの時間もなかったそうです。また、食べ物が会わないということもあったようです。

 

 日本人たちはザビエルに対して様々な質問をしました。「神が全てを作ったのなら、悪である悪魔を作ったのはどうしてか」「洗礼を受けずに亡くなった私の先祖は地獄から出られないのか、救われないのか」といった質問をしています。ザビエルは2番目の質問に対して、「出られない、救われない」と答え、日本人たちを困惑させています。「人間を憐れんで、救ってくれるはずの神がどうしてそんな酷いことをするのか」「既に亡くなった親族が救われないなんて」ということになります。神と個人の対話が基本のキリスト教と、日本人の生活様式は齟齬をきたしたといえるでしょう。

 

 ザビエルは自身と希望をもって日本に布教に来ましたが、最初の期待が大きかった分、失望も大きかったようです。ザビエルはパリ大学の助教授の座を捨て、イグナティオ・ロヨラによって目覚めさせられ、東洋まで布教の旅に出た情熱の人で、その点は日本人を感動させたようですが、キリスト教の教理は日本人にはあまり受け入れなかったようです。

 

 私たちが自分以外の人間を見る場合に、勝手な理想をそこに投影すると後で勝手に失望を味わってしまいます。あるがままの姿を受け入れずに、自分の中にあるフィルターを通して見てしまうことで、「こう動くはずなのに、うまくいかない」と勝手に怒ったり、悲しんだりします。それは外国に対しての私たちの見方にも言えることです。

 

また、ザビエルが最初に会った日本人たちは外国に出て、キリスト教に興味関心を持っており、彼らはザビエルに過剰に同調し、ザビエルが聞きたい話を察知して話したことでしょう。そうなると、ザビエルは自分の中でこうあって欲しいという日本の姿を勝手に描き、持つようになるでしょう。その理想と現実のギャップに彼は苦しんだはずです。しかし、ザビエルは熱意の人ですから、それを直接吐露することはありませんでしたが、苦しいというようなことは手紙の行間から読み取ることが出来ます。

 

私たちがザビエルから学べることは、外国を見る際に、決して理想的なイメージを勝手に作らないということだと思います。現在の日本と近隣諸国との関係はまさに、日本が勝手に持ったイメージを押しけての反発という面が大きいと思います。もちろん逆もまたしかりですが。

 

(終わり)

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 古村治彦です。

 

 先日、話題になっている明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社、2014年)を読みました。私の師である副島隆彦先生、仲間の多くも本書を読んで色々と話をしていたので、乗り遅れないためにも読みました。読んでみたら大変面白い内容でした。


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 著者の明智憲三郎氏は、本能寺の変(1582年)で主人公、明智光秀の子孫で、長年大手電機メーカーに勤務しながら、本能寺の変やその周辺時代のことを独自に研究されてきたそうです。そして、その研究の成果がこの『本能寺の変 431年目の真実』ということになります。著者の明智氏は、自分の研究手法を「歴史捜査」と名付け、資料に徹底的に当たりながら、矛盾点や解釈のおかしな点を洗い出し、より自然な史料解釈を行っています。

 

 本能寺の変と言えば、天下統一に向けてまい進していた織田信長が重臣の一人だった明智光秀に滞在先の京都の本能寺を急襲され殺害された事件です。その後、当時、中国地方の雄・毛利氏攻めをしていた羽柴(豊臣)秀吉が「中国大返し」と呼ばれる、短期間での帰還を果たし、山崎の戦で明智軍を撃破し、明智光秀は居城の坂本城への退却途中に、落ち武者狩りの農民に殺害されました。

 

 「三日天下」という言葉や、信長が最後に「敦盛」を舞って自害するというドラマのシーンを通じて本能寺の変は日本人の多くに知られている事件であると思います。この事件で天下統一の主導権は羽柴秀吉に移った訳ですが、「本能寺の変が起こらなかった、もしくは失敗していたら、織田信長はどのように天下統一を果たし、日本をどんな国にしたのだろうか」ということを歴史好きの方々は空想を巡らせたことがあるのではないかと思います。

 

 私は師である副島隆彦先生と電話で話している時に、本能寺の変について知っていることを話してみるように言われ、知っていること、覚えている限りのことを話したところ、「良く知っている方じゃないか」と言われました。後で、この『本能寺の変 431年目の真実』を読んでみたところ、明智氏が挙げている「定説」を副島先生に話していたことが分かりました。

 

 明智氏はこの「定説」に挑戦しています。詳しくは是非読んでいただきたいと思います。このブログでは、私が気になった点を幾つかご紹介したいと思います。

 

 乱暴に大づかみなことを言うと、「織田信長は武田勝頼を滅ぼし、信濃と甲斐まで勢力を伸ばした。この機に乗じて、これからの天下統一、そして織田家政権の存続にとって邪魔になるであろう徳川家康を暗殺しようとした。その企てに明智光秀を引きいれた。しかし、明智光秀はこの機会を逆に利用して、信長を暗殺しようとした。その理由は深いつながりがある四国の長宗我部を助けること、そして、信長がイエズス会から聞いたスペインによるコンキスタドーレに感化されて温めていた、唐入りを阻止することであった」というのが、本書の主張となります。

 

私がまず驚いたのは以下の点です。明智光秀の重臣・斎藤利三(大奥制度を整備し、三代将軍徳川家光の養育係となった春日局・ふくの父親)と四国の英雄・長宗我部氏のとの間に深い宴席関係があったことは初耳でした。そして、信長の長宗我部討伐の意向が、明智光秀(長宗我部と信長をつなぐ「取次」役)と長宗我部に大きな危機感を与えたことが、信長に対する謀反を決行する一つの理由になったと著者の明智氏はしています。

 

次に驚いたのは、織田信長は、イエズス会からスペインのコンキスタドールの話を聞いて、「唐入り(朝鮮半島と中国への侵略)」を思いついたと明智氏という主張です。この唐入りという途方もない、そして成功の確率が低い作戦に明智光秀は「ついていけない」と考えたのは自然だと思います。自分が属する、土岐氏の栄光を復活させ、平和に暮らしたい、そのために織田信長に人生を賭けてそれが成功しつつあるというのに、そこからもっと苦しく、恐らく無残な失敗に終わるであろう(慶長・文禄の役でそれは証明されました)唐入りなんてさせられたら、と思えば絶望感が襲ってきたことでしょう。なるほどと思わされた主張です。

 

 著者の明智氏は、織田信長がイエズス会に好意的であったために、日本にいるイエズス会側も織田信長に対して好意的であったという主張をしています。イエズス会は、信長にアフリカから連れて来られた黒人奴隷(黒坊主という記述もあり、使役されるだけの奴隷ではないと思います)を献上しています。信長はこの奴隷を気に入り、彌助と名付けて、小姓として自分の身辺に置いています。彌助は本能寺の変にも遭遇し、本能寺から脱出を許され、二条城に行き、信長の長男。信忠のために奮戦しているところを明智軍に捕えられましたが、南蛮寺に送られたということになっています。この彌助が証言したことで、信長の最期の様子が伝っているのです。その後の行方は分かっていません。

 

 この彌助(黒坊主とも呼ばれているのでもしかしたらイエズス会の会士であったかもしれません)の存在がどうも重要だと思われます。彌助は日本語もできたそうですし、信長の身辺にいつもいた訳ですから、様々な最高機密情報をイエズス会にもたらしていたでしょうし、信長にも色々な情報をもたらしていたと思います。彌助を使えば、信長をある方向に誘導することは可能なのではないかと考えます。

 

 ついでに、明智光秀と細川藤孝(細川幽斉)の関係も重要だと思います。明智光秀が細川藤孝の足軽から身を興したこと、細川藤孝の息子・忠興と明智光秀の娘・珠(ガラシャ)が結婚していることから、明智と細川は深い関係にあったと言えます。しかし、細川は本能寺の変後、明智光秀に従っていません。これはどうしたことでしょうか。織田政権では、細川と明智は身分として逆転しています。昔の主人であった細川が明智の下風に立つという感じになっています。ここのところが一つの原因でしょうか。

 

 また、細川氏とイエズス会の関係も気になるところです。細川ガラシャの存在が重要なのだろうとは思います。ここのところはまだ考えがうまくまとまっていません。

 

 本書『本能寺の変 431年目の真実』を読んで色々なことを考え、また空想を巡らせることができました。それは個人としては大変楽しい経験でありました。

 

 「日本は国土が狭く、地形的に守りにくい」ということに初めて気づいたのが織田信長なのではないかと私は考えます。ポルトガルやスペインの戦艦を見て、「こんな船ができてしまって、それに大砲まで備え付けられている。これでは沿岸部を守ることはできない。そして、こんな優勢な武器を持っている敵にひとたび上陸を許せば、国土全部を制圧されないにしても、貿易に必要な港湾は全て押さえられてしまう。それでは国が立ちいかない」と考えたのではないかと思います。そこで「攻撃は最大の防御」ということに思い至ったのではないかと考えます。

 

 織田信長を取り扱った小説を読みと、父・信秀の教えとして「国境を一歩でも踏み出て戦をすべし」ということを守り、桶狭間の戦いのときに籠城論を唱える重臣たちをこの教えを持って叱正しています。織田信長は「攻撃は最大の防御」という考えを堅持していたと言えます。そこに、イエズス会からコンキスタドーレの話を聞いたとなると、「狭い日本にいても仕方がない、もっと広い大陸に出なくては。今の日本の軍事力(武器を洗練させ、訓練も多く積んでいる)ならいけるのではないか」と考えたのだろうと思います。

 

 しかし、周囲はついていけなかった。日本国内の天下統一で良しとしましょうという雰囲気があったのではないかと思います。また、イエズス会は信長を利用しようとしたのではないかと思います。その当時の中国は世界最高の国であって、恐らくヨーロッパの軍事力をもってしても征服などということはできないということは分かっていたと思います。そこで、中国の力がどれほどのものか、その実力を測定するために、信長にコンキスタドーレの話をし、唐入りを着想させたのではないかなんて考えてしまいます。

 

 夏休みの読書計画の中に加えても損はしない一冊です。

 

(終わり)












 

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