古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:イラク

ダニエル・シュルマン
講談社
2015-10-28



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 ジョージ・W・ブッシュ前大統領時代の副大統領で、実質的には「大統領」であった、ネオコンの重鎮、ディック・チェイニーが「イラク侵攻は正しかった」と発言しました。「イラク侵攻の目的はサダム・フセインの排除であって、それが達成されたので世界はより平和になった」と述べました。

 

 アメリカは国連がイラクを査察しても大量破壊兵器が出こなかったにもかかわらず、「いーや、隠している」「製造する気だ」と難癖をつけて強引にイラク侵攻を行いました。そもそもの目的は大量破壊兵器を見つけるためにイラクまで攻め入ったのですが、全く見つかりませんでした。

 

 そして、イラクは混乱に陥り、アメリカ軍が撤退した後、イスラム国が台頭し、中東の騒乱は終わっていません。これで「世界はより良い場所になった」とチェイニーは言っています。彼らの考える「素晴らしい世界」は、現実としては血なまぐさい世界なのです。

 

 そして、安倍晋三首相はこうしたネオコンの考える「素晴らしい世界」の実現に貢献するために、安保法制を通そうとしています。こうして日本を「美しい国」にしようとしています、血塗られた世界の実現に貢献する国として。

 

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チェイニー:「イラクについて私は正しかった」(Cheney: 'I was right about Iraq'

 

ジェシー・ブライネス筆

2015年9月2日

『ザ・ヒル』誌

http://thehill.com/blogs/blog-briefing-room/252612-cheney-i-was-right-about-iraq

 

ディック・チェイニー前米副大統領は、ジョージ・W・ブッシュ前大統領時代に行われたイラク侵攻を支持したことは正しかったと述べた。

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ディック・チェイニー

 

フォックス・テレビのコメンテーターで、本誌のコラムニストであるジュアン・ウィリアムズは水曜日、フォックス・ニュースの「ザ・ファイヴ」に出演した時、チェイニーに「人々は、ディック・チェイニーはイラクに関して間違いを犯したと言っている。それなのに人々はイランに関してあなたに話を聞こうとする。その理由は何だと思いますか?」と質問した。

 

チェイニーは「それはイラクに関して私が正しかったからですよ」と答えた。

 

 彼は続けて次のように語った。「私たちの目的はサダム・フセインを排除することでした。そして私たちはそれに成功しました。彼がいなくなったことで、世界はより良い場所になったんですよ」

 

 チェイニーはまた、アメリカがイラクに侵攻したことで、リビアの指導者であったムアンマール・カダフィは2003年に武器開発プログラムを放棄し、遠心分離器を廃棄し、ウランの貯蔵を止め、核兵器開発を止めたことを指摘した。また、アメリカはパキスタンの核開発プログラムの主要人物であったアブドル・カディール・カーンを逮捕したことも指摘した。

 

 チェイニーは「ですから、私たちはイラクに侵攻した時、多くのことを成し遂げたのです。多くの人々はこうしたことを話したがりませんが、私たちは正しいことをやったんです。私は絶対に正しいことをやったと確信しています」と述べた。

 

 チェイニーと娘のリズ・チェイニーは国家安全保障に関して書いた新刊の宣伝をしており、オバマ大統領が進めたイランとの核開発を巡る合意を批判している。

 

 イラク戦争は、2016年の米大統領選挙に出馬しているジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事にとって大きな問題になっている。

 

 ジェブ・ブッシュは最初、兄であるジョージ・W・ブッシュ前大統領を支持しようとしながらも、彼は自分独自の外交政策を推進すると主張した。

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左から:ジョージ・W・ブッシュ前大統領、
ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、
ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事 

 

 今年の5月、ジェブ・ブッシュは「現在分かっていることが当時も分かっていたなら、私だったらイラクに関与しなかっただろうし、イラクに侵攻することもしなかっただろう」と発言したが、同時にフセインを排除したことで、世界はより安全になったとも述べた。

 

 今週初め、チェイニーはイラク侵攻に関して「謝罪しない」と述べた。そして、水曜日の夜、過去を振り返ってもイラク侵攻は正しい決断であったと再び述べた。

 

(終わり)







 




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23


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イスラム国に関する5つの神話

 

ダニエル・バイマン筆

2014年7月3日

ワシントン・ポスト紙

http://www.washingtonpost.com/opinions/five-myths-about-the-islamic-state/2014/07/03/f6081672-0132-11e4-8572-4b1b969b6322_story.html

 

※ダニエル・バイマン:ジョージタウン大学安全保障研究プログラム教授兼部ブルッキングス研究所サバン記念中東政策研究センター研究部長

 

イラク・シリア・イスラム国(The Islamic State of Iraq and SyriaISIS)はロックバンドよりも頻繁に名前を変えている。 スンニ派の急進グループは、シリア国内で戦い、サウジアラビアとレバノン国内での攻撃を計画している。このグループは現在、戦う場所を変えて、イラク国内にも浸透し、「イスラム国(Islamic State)」と名乗るようになった。イラクとシリアにおいて、イスラム国はシーア派や他の宗教グループの人々を背教者として殺害している。また、同じスンニ派の人々をイラク政府の協力者として殺害している。彼らの残虐性は、彼らの目的と本当の危険性から人々の目をそらさせる効果がある。「汝の敵を知れ」精神を発揮し、本稿では、イスラム国についての神話を除去することにしたいと思う。

 

1.イスラム国はアルカイーダの一部だ

 

イスラム国とアルカイーダは長期にわたり、複雑な関係を築いてきた:かつては緊密な同盟関係にあったが、現在は敵意剥き出しの敵対関係になっている

 

 イスラム国の様々な名前は、アルカイーダとの間の緊張関係を示している。ジハーディスト・グループは、2003年のアメリカによるイラク侵攻直後にイラクを離れた。そして、その多くがアブ・ムサブ・アル=ザルカウィの下に集結した。ザルカウィはヨルダン出身で、アルカイーダとは協力関係を保っていたが、その一部ではなかった。ザルカウィは2004年10月にオサマ・ビン・ラディンに忠誠を誓った。そして、ザルカウィのグループはイラクでアルカイーダという名前を使うようになった。この当時、さるかうぃのグループは、アルカイーダの指導者の一人、アイマン・アル=ザワヒリと衝突を起こしている。ビン・ラディンはアメリカを攻撃対象にするように主張したが、ザルカウィと彼の後継者たちは地域での戦いに集中するように主張した。ザルカウィはイラク国内のシーア派と戦い、スンニ派に対しては、味方に引き入れるのではなく、テロ攻撃を敢行した。

 

 アルカイーダとイスラム国との間には、戦術、戦略、指導者層に関して違いを持った。イスラム国の指導者アブ・バクール・アル=バグダーディは、斬首と磔という手法を採用している。そして、バグダーディは中東諸国の政権やライヴァル関係にある諸グループを攻撃対象にし、ザワヒリが主張した「遠くにある敵」、アメリカへの攻撃しようという主張を完全に無視した。

 

 これらの相違点がシリアで明らかになった。ザワヒリは、比較的抑制的なジャブハット・アル=ナスーラをアルカイーダの代理人に任命した。バグダーディは、自分のグループがイラク、シリア、レバノン、ヨルダンでジハーディスト運動に参加すべきだと考えた。ナスーラとバグダーディがそれぞれ率いる2つのグループはお互いを刺激し合い、数千人を殺害していると言われている。

 

 イラク国内での劇的なキャンペーンの成功によって、バグダーディはザワヒリを追い越すことになった。アルカイーダは無人攻撃に追いかけ回されている。一方、バグダーディは、自分は背教者たちとの戦いを指導しているのだと主張している。彼の主張は中東地域の人々の人気を得ることになった。

 

2.イスラム国の建国の意味するところは、このグループが統治する準備ができている

 

 イスラム国は現在、シリア東部とイラク西部をコントロールしている。これらの地域の大部分は砂漠地帯である。しかし、イスラム国はシリアのラッカ、イラクのモスルといった重要な都市を統治している。イスラム国は、イスラム法の過激な解釈に基づいた統治によって正統性を増加させようとしている。そして、それによってより多くの志願兵と財政上の支援者を募ろうとしている。

 

 イスラム教徒のテロリストたちは各地で統治に成功している。ハマスは7年間にわたりガザを支配し、ヒズボラはレバノンの一部を何十年にわたり実質的に支配している。これら2つのグループは学校、病院、基本的な住民サーヴィスを運営している。しかし、イスラム国の前身組織が10年前にイラク西部を支配した時、その統治は破滅的な失敗に終わった。彼らが示した残虐さと無能さによって、イラク国内のスンニ派は遠去かった。スンニ派はジハーディストを除去するための「覚醒運動」に参加した人々であった。

 

 イスラム国は、バグダッドにあるシーア派が支配するイラク政府からの差別的取扱いに恐怖をいただいているスンニ派にアピールする可能性が高い。しかし、イスラム国から逃れている中流階級のビジネスオーナーや技術者たちであって、彼らは基本的な社会サーヴィスを運営する人々である。最終的に、イスラム国は略奪をしたり、闇市場で石油を売却したり、大規模な飢饉が阻止するための基本的なサーヴィスを作ったりした。しかし、混同してはならないのは、イスラム国が効率的な国家ではないということである。

 

3.シリアのアサド政権はイスラム国にとって憎き敵である。

 

 シリアの大統領バシャール・アル=アサドの政府は、テロリストとの戦争を宣言した。一方、イスラム国は自分たちをシリア国内のスンニ派イスラム教徒の守護者と自認し、アサド政権のような「背教者」政権と戦うと主張した。しかし、両者ともにシリア国内の穏健な反体制派の存在を敵視している。アサド政権は、この穏健派の勢力を弱めることで、政権にとって長期にわたる脅威を弱めることができる。

 

 アサド政権は、イスラム国が支配している地域での軍事行動を控えている。そして、空軍を使って、イスラム国と戦っている穏健派反体制グループに対する空爆を行ったり、イスラム国から石油を購入したりしているもしイスラム国が存在しなければ、アサド政権はそのような存在を作り出したことであろう。実際には、アサドはそのような行動を取ったのだ。3年前にシリア国内で内戦が始まった時、この戦いは、残虐さと不正義に嫌気が差した市民による蜂起だと言われた。アサド側は、この戦いはテロリストたちに対する戦いだと主張した。そして、アサド側の表現と戦術によって、内戦を変容させたスンニ派イスラム教徒たちの間で反動が起きた。イスラム国のようなグループが台頭したのだ。シリア国民は、アサド政権か、急進的なイスラム主義か、いずれかを選ばねばならないという悲惨な状況に追い込まれた。

 

 イスラム国はイラク国内で勢力を伸ばしている。これに合わせて、イスラム国とアサド政権との間の戦術上の同盟関係は終結を迎えることになるだろう。アサドはイスラム国が強大になり過ぎていると考えることだろう。イラク政府はアサドの同盟者であり、シリアとイラクとの間の国境地帯の支配権を失うことで、イラクからアサド政権に供給されていた物資や兵員の補給をイスラム国が遮断することになった。

 

4.イスラム国は手に負えない戦闘集団である

 

 イスラム国はモスルを掌握し、バグダッドに向けて進軍している。イラク国内におけるイスラム国の成功は、イスラム国の強力な軍事組織を基礎にしている。実際にはイスラム国は1万人の戦闘員しか有していない。モスルのような都市を攻撃した時は、1000人以下しか動員しなかった。

 

 イスラム国が軍事的な勝利を収めることができたのは、イラク軍の脆弱さとノウリ・アル=マリキ首相の政策の失敗があったからだ。アメリカは、イラク軍に対して数億ドル規模の軍事援助を行った。数字上はイスラム国を圧倒しているはずだった。落とし穴だったのは、イラク軍は戦わない存在であったことだ。マリキ首相は、能力のある人物ではなく、自分に忠実な人々を政治的に重要な地位に就けた。マリキ政権はイラク国内のスンニ派を差別しているので、イラク軍のスンニ派兵士の士気は低下している。彼らは自分たちを差別する政府を守るために戦いたくないと思っている。

 

 イラク軍にシーア派教徒が参加することで、多くの地域でイスラム国の進撃が止められている。イラク政府がより多くのグループを取り込み、穏健なスンニ派を味方に付けることができたら、そして、イラク軍がより統一性が取れるようになったら、イスラム国の拡大は止まり、縮小に進むようになった。これらは大きな仮定なのではあるが。

 

5.イスラム国はアメリカを攻撃したがっている。

 

 2009年にイラク国内の刑務所から釈放された後、バグダーディはアメリカ軍の刑吏たちに対して、「ニューヨークで会おう」と語った。この発言にアメリカ政府関係者は凍りついた。2014年5月25日、アメリカ市民でアブ・マンスール・アムリキと自称したモネル・ムハマド・アブサルハはシリア国内で自爆攻撃を行った。イスラム国の幹部たちの中には、ヨーロッパ国籍の人々が多く含まれている。彼らは自分のパスポートを使えば、容易にアメリカ国内に潜入することができる。また、イスラム国に参加し、シリアに渡った100名以上のアメリカ市民の中の1人がアメリカに戻り、攻撃を実行する可能性が存在する。

 

 イスラム国は潜在的にアメリカに対する脅威となっている。諜報関係者や治安関係者たちは常に警戒を怠らないにしなければならない。しかし、現在のところ、イスラム国はアメリカを攻撃対象にしている訳ではなく、西洋諸国との戦いを重視している訳でもない。実際のところ、これがイスラム国をアルカイーダから分離させた理由なのである。「ニューヨークで会おう」と言ったバグダーディの発言は誤って伝えられたものである可能性が高く、冗談である可能性もある。彼を担当した看守たちの多くはニューヨークの出身者たちであった。より重要なことは、イスラム国の行動を見ていると、彼らが西洋諸国からの参加者たちを、中東地域での戦いに投入したいと考えていることが分かる。イスラム国にとって、イスラム国の創設と維持、そして背教者たちとの戦いが最優先なのである。

 

 イスラム国はイラクと地域の安定に対する脅威になっている。しかし、オバマ政権はイスラム国の謀略宣伝を鵜呑みにしないように気を付けるべきだし、イスラム国の勢力は増大していくということを前提にしなければならない。

 

(終わり)








 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12






 ザルカウィの死によって、アルカイーダに逆風が吹くようになった。スンニ派の諸部族の多くがザルカウィのシャーリア支配に反発し、反撃を始めた。デイヴィッド・ペトレイアス(David Petraeus 1952年~)大将率いる米軍は、反乱軍の反乱軍に資金や物資を援助する、「覚醒(Awakening)」作戦を展開した。スンニ派の諸部族は、以前はアメリカと戦うことを望んだが、アルカイーダと戦うことを望むようになった。このような諸部族は「イラクの息子たち(Sons of Iraq)」と呼ばれた。そして、ザルカウィ自身がそうであるように、アルカイーダの指揮官たちの多くが外国生まれである事実が喧伝された。イラクのスンニ派の人々は、アメリカに協力することで以前犯した犯罪が免罪になると考えた。更に、破壊されたスンニ派居住地域の再建に有利な政府との契約が結べ、バグダッドにおける政治権力を共有できるとも考えた。

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ペトレイアス
 
 

 ペトレイアスの「覚醒」作戦は、多数の米軍の投入に支えられていた。そして、それはある時点まではうまくいっていた。ザルカウィ率いるアルカイーダの外国人メンバーたちは、ザルカウィの死によって落胆し、イラクを出ていった。しかし、ペトレイアスの作戦は、イラク国内での暴力対決を減少させ、アメリカ軍の撤退を可能にするために立てられたものであって、ザルカウィが始めたシーア派とスンニ派との間の軋轢を修復するためのものではなかった。アメリカの政治家や軍司令官たちは、2つのグループの間で政治的な対話ができるようなスペースを作ると語ったが、しかし、こうした試みは気まぐれな結果を生み出しただけだった。平和な状態を続けるという使命は、イラクの選挙を経て成立した政府に任された。この政府を率いているのは、ヌーリー・マーリキー(Nouri al-Maliki, 1950年~)首相である。

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マリキ

 アメリカが気付いたように、マリキとシーア派の政治連合は、イラクの復興よりもスンニ派に対する逆襲を行うことに関心を持っていた。「イラクの息子たち」は約束された給料の支払いを拒否された。諸部族の指導者たちは政府との約束を反故にされた。バグダッドでは、スンニ派の政治家たちは無視され、度々恥をかかされ、時には処刑された。スンニ派の政治家で最高位の職(副大統領)に就いていた、タリク・アル=ハシミ(Tariq al-Hashimi 1942年~)はテロリズムにかかわった容疑で告発された直後に国外脱出した。彼にはすぐに開かれた欠席裁判で死刑を宣告された。

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ハシミ 

 

 マリキ首相は、イラクの警察と軍隊の幹部にシーア派を登用し、その中には民兵組織に属し、スンニ派の人々を殺害した人々がいる。スンニ派の憎悪は再び高まり、アルカイーダの再登場を許す土壌となった。

 

●イスラム国:最初はイラク、続いてシリア

 

 2011年までに、アメリカ軍はイラクから完全に撤退した。アルカイーダはアブー・バクル・アル=バグダーディによって支配されるようになった。そして、アルカイーダは、外国での展開から、イラク国内での展開にシフトした。バグダーディは名前が示すように、イラク人である。外国人がいなくなったことで、「イラクの息子たち」とその親族たちは、アルカイーダに対する憎悪を忘れることが容易になった。ここにもう一つの名前の変更が行われた。アルカイーダは、イラク・イスラム国(Islamic State of IraqISI)として知られるようになった。

 

 バグダーディはザルカウィの戦術を採用し、それを拡大した。シーア派は彼にとっての主要な攻撃目標であり続けたが、警察署や軍隊の駐屯地、検問所、新兵募集事務所といった場所に自爆テロ攻撃を繰り返した。一般人に対する攻撃も続けられた。イラク・イスラム国家の幹部は、「イラクの息子たち」だった人々が占めるようになった。その多くがサダム・フセイン時代の軍隊の司令官や将兵であった。これによって、バクダーディの手兵たちは、寄せ集めの反乱軍ではなく、軍隊の雰囲気を纏うようになった。

 

 バグダーディに許には数千人の武装勢力が集結し、シリアで、対シーア派の第二戦線を開いた。シリアでは、バシャール・アル=アサド(Bashar al-Assad 1965年~)大統領に対する大規模な反乱が起きていた。バグダーティと彼の宣伝者たちにとって問題だったのは、アサドとアサド軍の司令官たちの多くが、シーア派の一派であるアラウィー派(Alawites)であることだった。イラクから百戦錬磨の兵士たち(battle-hardened)を送り込んだことで、イラク・イスラム国家は、シリア国内の反アサド勢力の中で、最も戦闘力の高い武装勢力グループとなった。そして、シリア各地でアサド軍と激しい戦闘を繰り広げた。バグダーディは彼のグループを「イラク・シリア・イスラム国(Islamic State in Iraq and SyriaISIS)」と改称した。これは、彼の更なる野望を示すものであった。彼が掲げる黒い旗にはアラビア語で「神だけが存在されている(There is no god but god)」と書かれている。 そして、多くの人々が預言者ムハマンドの紋章だと信じているマークが大量に作られ、そこかしこに貼られている。


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アサド

●イスラム国:最後の戦い?

 

 ザルカウィがイラクを掌握したように、バクダーディはシリアを掌握した。バクダーディは、イスラム国家が支配するシリアの町や村、特にラッカー県で厳しい弾劾を始めた。2014年初頭、アサド軍が再編成し、反撃を始めた。2014年5月、アサド軍はホムスを再奪取した。ホムスは反アサド蜂起の象徴的な場所であった。これは反アサド派に大きなダメージとなった。

 

 しかし、バグターディは、自分の生まれ育った国でのより大規模な、そして大胆な攻撃を計画していた。翌月のモスル奪取はイラク・シリア・イスラム国の進化の新たな段階を示した。イスラム国は、自爆攻撃で攻撃員を死に追いやらなくても、勢力範囲を獲得し、コントロールすることができるし、それを望むようになったのだ。バグダーディは、この機会を捉え、自分自身を「カリフ(教皇)」の地位に任じ、グループを「イスラム国(Islamic State)」に改名した。これには、バグダーディの地中海からペルシア湾までの地域全体を支配するという野望が示されているのだ。

 

 バクダーディは攻撃対象を拡大していった。イスラム国は、シリアでキリスト教徒やクルド人のような宗教、民族少数派と対峙したが、彼らへの対処について何か決まった方針はないように見えた。戦闘員たちは自分たちの判断で行動する自由があった。しかし、モスルでは、「カリフ(教皇)」からの命令が下った。非イスラム教徒は特別な税金を払うか、立ち去るか、改宗するか、さもなければ死刑にすべし、というものであった。最後の2つの選択肢が奨励された。モスルに古くからあるキリスト教の共同体が最初に攻撃対象にされた。そして数千人のキリスト教徒がモスルを脱出した。イスラム国が拡大していくにつれて、少数派の人々は自分たちに危機が迫っていることを認識するようになっていった。

 

 現在までにイスラム国家とバクダーディは世界のマスコミの注意を引き、連日報道されている。こんなことになるなどザルカウィは想像すらしていなかっただろう。世界中の人々は次のような疑問を持っていることだろう。あんな人々を地獄に突き落とすような奴らは一体どこから出てきたんだ?

 

(終わり)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回から2回にわたり、イラクとシリアのイスラム国についての論稿をご紹介します。分かりやすい内容となっています。お読みいただければ、状況が少しは理解できると思います。

 

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イラクとシャームのイスラム国(ISIS):その短い歴史について

―情熱的な空想から殺人集団になるまでのテロリスト・グループの進化

 

ボビー・ゴウシャウグ(Bobby Ghoshaug)筆

2014年8月14日

『ジ・アトランティック(The Atlantic)』誌

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/2/

 

イラク全土の掌握という危機を招来させたスンニ派武装勢力であるが、2014年7月初めにモスルに殺到した時、突然地上に出現したように人々には思われた。しかし、「イスラム国(Islamic State)」という簡単な名前に最近変えたグループは、1990年代初めから、様々な名前と様々な形で存続してきたのだ。その歴史は、政治的、宗教的な理想主義者たちが殺人集団になるまでの、現代のテロリズムがどのように進化してきたかを語るもの勝ちなのである。

 

●「タウヒードとジハード集団」(Jama'at al-Tawhid wal-JihadJTJ):初期段階

 

 このグループは、20年以上前に、ヨルダン生まれのアブー・ムスアブ・アル=ザルカウィ(Abu Musab al-Zarqawi 1966~2006年)の情熱的な空想から生まれた。ザルカウィは町のチンピラであったが、1989年にムジャヒディーン(mujahideen)に参加すべくアフガニスタンに向かった。しかし、ソ連と戦うためには時期が遅すぎた。彼はヨルダンに戻り、それ以降数十年にわたり、国際的な「聖戦(jihad)」暴力運動における指導者として活動した。彼はアフガニスタンに戻り、テロリスト養成のための訓練キャンプを作った。1999年にはオサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden 1957~2011年)に会ったが、彼のテロ組織アルカイーダ(al-Qaeda)には参加しなかった。

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ザルカウィ 

 
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ビン・ラディン
 

 2001年にアフガニスタンのタリバン(Taliban)政権が崩壊し、ザルカウィはイラクへの避難を余儀なくされた。ブッシュ政権がアルカイーダがイラク国内にいてサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937~2006年)大統領とつながっていることの証拠として使われるまで、ザルカウィの存在はほとんど知られていなかった。 実際には、ザルカウィは組織に属しておらず、自分自身でテロ組織を構築しようとしていた。2003年にアメリカはイラクに侵攻した。その直後、現在のイスラム国の前身となる組織を作った。それがタウヒードとジハード集団(Jama’at al-Tawhid w’al-Jihad、英語で直訳すると、一神教と聖戦の党[the Party of Monotheism and Jihad])である。この組織のメンバーのほとんどがイラク人ではなかった。

 

 ザルカウィの発言内容なビン・ラディンとよく似ていいたが、彼の攻撃対象は全く別であった。そのスタートの時点から、ザルカウィの愛情はイスラム教徒同胞、特にイラクの人口の多数を占めるシーア派に向けられた。ビン・ラディンとアルカイーダはシーア派を異端(heretics)と見なしていた。しかし、シーア派を殺害対象とすることはほとんどなかった。

 

 ザルカウィの意図は、イラク国内でシーア派にとって最も神聖な祈りの場所であるイマーム・アリ・モスクを爆破することであった。爆破事件が起きた時、私はその現場にいた。 多くの生存者たちは「どうして私たちなのだ?アメリカ人がそこら中にいるというのに、どうして私たちなのだ?」と言っていたことを記憶している。

 

 一つの理由、それは「とても簡単にできたから」である。シーア派は反撃する能力を持っていなかったために、攻撃対象にされやすかった。また、そこには政治的な計算もあった。サダム・フセインの失脚後、長年イラクの権力構造を支配したスンニ派の政治家たちに代わって、シーア派の政治家たちが権力を掌握した。ザルカウィはシーア派に対するスンニ派の憎悪を利用して、協力者を作り上げ、自分たちのグループにとっての安全な隠れ家を探そうとしたのだ。それはうまくいった。ザルカウィは、シーア派が多く住む地区や町にあるモスク、学校、カフェ、市場で自爆攻撃を繰り返した。

 

●アルカイーダ:その勃興と衰退

 

 2004年までには、ザルカウィは国際「聖戦」運動におけるスーパースターとなった。それは、イラク国内で自爆攻撃を繰り返し行っていたからだ。そして、オサマ・ビン・ラディンの信認を得た。ザルカウィは自分が率いる組織をビン・ラディンのアルカイーダに合流させた。この組織は、「メソポタミア・アルカイーダ(al-Qaeda in Mesopotamia)」と呼ばれる。これとアフガニスタンの類似組織「マグレブ・アルカイーダ(al-Qaeda in the Maghreb)」と混同してはならない。

 

 しかし、ザルカウィの参加後すぐに、アルカイーダの幹部たちは、ザルカウィの一般人を攻撃対象にすることに不安を持つようになった。2005年、ビン・ラディンの右腕アイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri, 1951年~)はザルカウィに手紙を送り、その中で彼の戦術を窘めた。しかし、ザルカウィはそれを無視した。昨年、ザワヒリはISISの新しい指導者アブー・バクル・アル=バグダーディ(Abu Bakr al-Baghdadi 1971年~)の過度な残忍性に苦しめられた。そして、そのことを注意したのだが、今回もそれは無視された。

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バグダーディ 

 

 2006年春頃までに、ザルカウィは自分ことを「アミール(Emir イスラム教国の首長)」や反乱軍の司令官以上の存在だと考えるようになっていた。彼は精神的な指導者にもなりたいと思うようになっていた。ザルカウィの「首長」としての後継者バグダーディも同じ考えに取り憑つかれた。そして、モスルを奪取した後、自分自身を「カリフ(教皇)」に任じた。ザルカウィは自分の協力者たちに対してだけでは飽き足らず、女性はヴェイルを必ず着用することや犯罪者には斬首刑で臨むことなど、イスラム宗教法シャーリア(sharia)のザルカウィによる厳しい解釈にスンニ派の人々は従うべきだと主張するようになった。これに抵抗する場合、たとえスンニ派の指導的な立場にある人でも処刑された。

 

 しかし、ザルカウィの野望は2006年6月に突然幕を閉じることになった。アメリカ空軍の戦闘機が2発の500ポンド爆弾を、バクダッドから北に20マイル行ったところにあったザルカウィの隠れ場所に落としたのだ。

(つづく)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23








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