ダニエル・シュルマン
講談社
2015-10-28



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 トルコと中東をめぐる大きな問題になっているのはクルド人問題です。クルド人は国家を持たない最大の民族と呼ばれており、トルコやイラク、イランにそれぞれ居住しています。今回のご紹介する記事は、クルド人たちはセーヴル条約によって自分たちの国家が作られるはずだったのに、トルコ側についてヨーロッパ列強と戦ったではないかという内容になっています。

 

 しかし、もっと根源的に言うならば、中東、オスマントルコ帝国の地域に国境線を引いてしまったこと自体に問題があったのではないか、と私は考えます。セーヴル条約ではなく、サイクス・ピコ条約によって中東は切り刻まれたのですが、それによって起きた多くの問題は連関し、解決するには複雑な状況になっています。

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サイクス=ピコ条約を忘れよう。セーヴル条約で現在の中東の状況を説明する(Forget Sykes-Picot. It’s the Treaty of Sèvres That Explain Modern Middle East

―95年前の今日、ヨーロッパ諸国はオスマントルコ帝国を分割した。セーヴル条約は1年も持たなかったが、その影響は現在も残っている。

 

ニック・ダンフォート筆

2015年8月10日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2015/08/10/sykes-picot-treaty-of-sevres-modern-turkey-middle-east-borders-turkey/

 

 95年前の今日、ヨーロッパ諸国の外交官たちは、パリ郊外のセーヴルの陶器工場に集まり、オスマントルコ帝国の灰から中東を作り直すための条約に調印した。この計画はすぐに崩壊し、私たちはこの条約についてほとんど記憶していない。しかし、長く続かなかったセーヴル条約は現在においてもその姿を垣間見ることが出来る。セーヴル条約は現在も議論が続いているサイクス・ピコ条約と同じくらいに重要である。この忘れ去られた条約の記念日が過ぎようとしている時、中東やトルコについて考えるべきだと思う。

 

 1915年、イギリス軍はガリポリ半島を通ってイスタンブールまで進軍した。この時、イギリス政府はオスマントルコ帝国の終焉を予期した。それはいささか時期尚早だった。ガリポリの戦いはオスマントルコ帝国が第一次世界大戦で得た数少ない勝利となった。しかし、1920年までに、イギリスの予測は正しいことが証明された。連合国軍の軍隊がオスマントルコの首都を制圧した。そして、戦争に勝利した列強の代表者たちは、オスマントルコ帝国の領土を分割し、それぞれが影響下に置くことになった。セーヴル条約によってイスタンブールとボスポラス海峡は国際管理とされた。一方、アナトリア半島の一部はそれぞれギリシア、クルド、アルメニア、フランス、イギリス、イタリアに割譲された。ヨーロッパ列強がどのようにして、そしてどうして中東の分割計画の実現に失敗したのかをみることで、私たちは、中東地域の現在の国境線について、そして今日のクルド人のナショナリズムと現在のトルコが直面している政治的な挑戦の間の矛盾についてより良く理解できる。

 

 セーヴル条約の締結から1年もしないうちに、ヨーロッパ列強はこの条約によって持たされたものは利益よりも苦痛を与えるものであったのではないかと疑いを持つようになった。外国による占領に抵抗する固い決心の下、オスマントルコ帝国陸軍の将校ムスタファ・ケマル・アタチュルクはオスマントルコ軍の再編に着手し、数年に及ぶ外国軍との厳しい戦闘を経て、セーヴル条約の条項遵守を矯正してきた外国軍を撤退に追い込んだ。その結果、現在のトルコが誕生した。新しい国境線は1923年のローザンヌ条約によって公式に決定された。

 

 セーヴル条約は西側ではその存在はほぼ忘れ去られている。しかし、トルコではその影響が今でも残っている。トルコで起きるナショナリズムに基づいた偏執的な主張が起きるたびにそれを増長させてしまうのがセーヴル条約の存在で、学者たちの中にはこれを「セーヴル症候群」と呼ぶ人たちもいる。セーヴル条約の存在によって、トルコはクルド人による分離独立主義に神経を尖らせることになる。そして、1920年のアナトリアに対する計画を正当化するためにヨーロッパ各国の外交官たちが使ったアルメニア人大虐殺は歴史的に事実かどうかよりも反トルコ共同謀議であるとトルコが考える理由になっている。トルコは植民地支配に対して激しい戦いを続けたが、これがトルコの反帝国主義的ナショナリズムの基礎となった。最初に対イギリス、冷戦期は対ロシア、現在は対アメリカが反帝国主義的ナショナリズムの標的となってきた。

 

 しかし、セーヴル条約の影響はトルコにだけ留まらない。これが中東史においてセーヴル条約をサイクル・ピコ条約に含むべき理由なのである。中東地域の諸問題は全てヨーロッパ列強が白紙の地図に国境線を引いたことから始まっているという広く受け入れられている考えに対して、もう一度考え直す時にセーヴル条約を見ていくことは重要なのだ。

 

 ヨーロッパの列強は彼らがいつでも中東から離れても国益を確保することが出来る国境を作り出したことに満足していたのは間違いない。しかし、セーヴル条約の失敗によって、彼らは満足いく結果を得ることが出来なかった。ヨーロッパ列強の政治家たちがアナトリア半島の分割で国境線を引き直そうとした時、彼らの試みは失敗した。対照的に、中東においては、ヨーロッパ列強は国境線を引くことに成功した。ヨーロッパ列強はその強大な武力を使って抵抗する勢力を排除することが出来た。オスマントルコ帝国陸軍の将校で口髭を生やした、シリア人のナショナリスト、ユセフ・アル・アズマは、アタチュルクの軍事的成功を真似て、マサラムの戦いでフランス軍を破ったが、ヨーロッパ列強によるレヴァント分割計画はセーヴル条約の内容通りに進められた。

 

 もし中東にまた違った国境線が引かれていたら、中東はより安定したか、より人々に対する攻撃は少なかっただろうか?必ずしもそうとは言えない。セーヴル条約のレンズを通して歴史を見てみると、ヨーロッパ列強の引いた国境線と中東の不安定さとの間には因果関係があるという以上の視点を得ることが出来る。ヨーロッパ列強によって強制された国境線を引かれた地域は、植民地支配に対して抵抗するには脆弱になったり、組織化できなくなったりする。トルコはシリアやイラクに比べてより豊かにもそして民主的にもなれなかった。それは、トルコが正しい国境線を得るという幸運に恵まれたからだ。トルコがヨーロッパ列強の計画の実施を阻止することに成功した諸要素、オスマントルコ帝国から継承した軍隊と経済的インフラは、トルコが強力で中央集権的なヨーロッパ様式の国民国家を建設するための要素ともなった。

 

 当然のことながら、クルド人のナショナリストたちのほぼ全員がトルコの現在の国境線は間違っていると主張するだろう。実際、クルド人が国家を持てなかったことはオスマントルコ帝国滅亡後の中東地域に引かれた国境線における致命的な失敗だと主張する人々もいる。しかし、ヨーロッパの帝国主義者たちはセーヴルでの会議でクルド人国家建設を試みたが、クルド人の多くはアタチュルクと一緒にセーヴル条約の履行阻止のために戦った。私たちが今日認識しているように、政治的な忠誠心は国家アインでティティを乗り越えることが出来るということは記憶されるべきだ。

 

 セーヴル条約で建国されるはずであったクルド国家はイギリスのコントロール下に置かれたことは間違いないところだ。クルド人のナショナリストの中には、これに魅力を感じた人々もいたが、他の人々は、イギリスの支配を受けながらの「独立」は問題だらけだと考えた。従って、彼らはトルコのナショナリズム運動と共に戦った。信仰心の厚いクルド人たちにとって、キリスト教国による植民地化よりも、トルコやオスマントルコ帝国の支配が続いた方がましだと考えた。その他のクルド人たちは、より現実的な理由から、イギリスが家と土地を奪われたアルメニア人たちの帰還を支援するのではないかと憂慮した。クルド人の中には、彼らが建国のために戦った国が期待に反してよりトルコ的で、より世俗的になると分かった時に後悔した人々もいた。一方、様々な圧力を受けて、新国家が提供するアイデンティティを受け入れることを選ぶ人たちもいた。

 

 トルコ人のナショナリストたちの多くは、セーヴル条約によってオスマントルコ帝国が解体された過程と同じ道筋で現在のトルコが解体されるのではないかという恐怖心を持っている。一方で、クルド人のナショナリストたちの多くは現在でも自分たちの国家を実現することを夢見ている。同時に、現在のトルコ政府は、オスマントルコ帝国が持っていた寛容と多文化主義を排除している。一方、クルド人の分離主義の指導者アブドラ・オカランは、獄中にある時に社会学者ベネディクト・アンダーソンの著書を読み、国家は全て社会的に構成されたものに過ぎないという考えに行きついたと述べている。トルコの与党である公正発展党(AKP)と親クルド派の国民民主主義政党(HDP)はそれぞれここ10年の間、クルド人有権者たちに対して「我が党への投票は平和のための投票になる」と訴えてきた。両党は、どちらの党がより安定したそして包括的な国家を作ることで長年にわたり続いた衝突を解決できるかを争っている。つまり、アメリカ人の多くが中東におけるヨーロッパが作った「人工的な」国家について議論している時、トルコは一世紀に渡って存在してきた「人工的な国家」が現実のものであることを証明しようという欲望を乗り越えようとしている。

 

 言うまでもないことだが、ここ数週間にトルコで起きた暴力は、ナショナリズム後の合意の壊れやすい要素の崩壊の危険をはらんでいる。公正発展党はクルド人政治指導者たちと警察官たちを銃撃したクルド人ゲリラの逮捕を要求している。興味深いのは、トルコ人ナショナリストとクルド人ナショナリスト双方は、よく似たしかし相容れない立場に立つようになっている。95年にわたり、トルコはセーヴル条約に対する勝利によって政治的、経済的利益を得た。しかし、この成功を続けるにはより柔軟な政治モデルを必要とする。この政治モデルは国境線と国家アイデンティティを巡る戦いをつまらないものにすることに貢献することが出来る。

 

(終わり)