古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:ザルカウィ




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12






 ザルカウィの死によって、アルカイーダに逆風が吹くようになった。スンニ派の諸部族の多くがザルカウィのシャーリア支配に反発し、反撃を始めた。デイヴィッド・ペトレイアス(David Petraeus 1952年~)大将率いる米軍は、反乱軍の反乱軍に資金や物資を援助する、「覚醒(Awakening)」作戦を展開した。スンニ派の諸部族は、以前はアメリカと戦うことを望んだが、アルカイーダと戦うことを望むようになった。このような諸部族は「イラクの息子たち(Sons of Iraq)」と呼ばれた。そして、ザルカウィ自身がそうであるように、アルカイーダの指揮官たちの多くが外国生まれである事実が喧伝された。イラクのスンニ派の人々は、アメリカに協力することで以前犯した犯罪が免罪になると考えた。更に、破壊されたスンニ派居住地域の再建に有利な政府との契約が結べ、バグダッドにおける政治権力を共有できるとも考えた。

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ペトレイアス
 
 

 ペトレイアスの「覚醒」作戦は、多数の米軍の投入に支えられていた。そして、それはある時点まではうまくいっていた。ザルカウィ率いるアルカイーダの外国人メンバーたちは、ザルカウィの死によって落胆し、イラクを出ていった。しかし、ペトレイアスの作戦は、イラク国内での暴力対決を減少させ、アメリカ軍の撤退を可能にするために立てられたものであって、ザルカウィが始めたシーア派とスンニ派との間の軋轢を修復するためのものではなかった。アメリカの政治家や軍司令官たちは、2つのグループの間で政治的な対話ができるようなスペースを作ると語ったが、しかし、こうした試みは気まぐれな結果を生み出しただけだった。平和な状態を続けるという使命は、イラクの選挙を経て成立した政府に任された。この政府を率いているのは、ヌーリー・マーリキー(Nouri al-Maliki, 1950年~)首相である。

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マリキ

 アメリカが気付いたように、マリキとシーア派の政治連合は、イラクの復興よりもスンニ派に対する逆襲を行うことに関心を持っていた。「イラクの息子たち」は約束された給料の支払いを拒否された。諸部族の指導者たちは政府との約束を反故にされた。バグダッドでは、スンニ派の政治家たちは無視され、度々恥をかかされ、時には処刑された。スンニ派の政治家で最高位の職(副大統領)に就いていた、タリク・アル=ハシミ(Tariq al-Hashimi 1942年~)はテロリズムにかかわった容疑で告発された直後に国外脱出した。彼にはすぐに開かれた欠席裁判で死刑を宣告された。

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ハシミ 

 

 マリキ首相は、イラクの警察と軍隊の幹部にシーア派を登用し、その中には民兵組織に属し、スンニ派の人々を殺害した人々がいる。スンニ派の憎悪は再び高まり、アルカイーダの再登場を許す土壌となった。

 

●イスラム国:最初はイラク、続いてシリア

 

 2011年までに、アメリカ軍はイラクから完全に撤退した。アルカイーダはアブー・バクル・アル=バグダーディによって支配されるようになった。そして、アルカイーダは、外国での展開から、イラク国内での展開にシフトした。バグダーディは名前が示すように、イラク人である。外国人がいなくなったことで、「イラクの息子たち」とその親族たちは、アルカイーダに対する憎悪を忘れることが容易になった。ここにもう一つの名前の変更が行われた。アルカイーダは、イラク・イスラム国(Islamic State of IraqISI)として知られるようになった。

 

 バグダーディはザルカウィの戦術を採用し、それを拡大した。シーア派は彼にとっての主要な攻撃目標であり続けたが、警察署や軍隊の駐屯地、検問所、新兵募集事務所といった場所に自爆テロ攻撃を繰り返した。一般人に対する攻撃も続けられた。イラク・イスラム国家の幹部は、「イラクの息子たち」だった人々が占めるようになった。その多くがサダム・フセイン時代の軍隊の司令官や将兵であった。これによって、バクダーディの手兵たちは、寄せ集めの反乱軍ではなく、軍隊の雰囲気を纏うようになった。

 

 バグダーディに許には数千人の武装勢力が集結し、シリアで、対シーア派の第二戦線を開いた。シリアでは、バシャール・アル=アサド(Bashar al-Assad 1965年~)大統領に対する大規模な反乱が起きていた。バグダーティと彼の宣伝者たちにとって問題だったのは、アサドとアサド軍の司令官たちの多くが、シーア派の一派であるアラウィー派(Alawites)であることだった。イラクから百戦錬磨の兵士たち(battle-hardened)を送り込んだことで、イラク・イスラム国家は、シリア国内の反アサド勢力の中で、最も戦闘力の高い武装勢力グループとなった。そして、シリア各地でアサド軍と激しい戦闘を繰り広げた。バグダーディは彼のグループを「イラク・シリア・イスラム国(Islamic State in Iraq and SyriaISIS)」と改称した。これは、彼の更なる野望を示すものであった。彼が掲げる黒い旗にはアラビア語で「神だけが存在されている(There is no god but god)」と書かれている。 そして、多くの人々が預言者ムハマンドの紋章だと信じているマークが大量に作られ、そこかしこに貼られている。


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アサド

●イスラム国:最後の戦い?

 

 ザルカウィがイラクを掌握したように、バクダーディはシリアを掌握した。バクダーディは、イスラム国家が支配するシリアの町や村、特にラッカー県で厳しい弾劾を始めた。2014年初頭、アサド軍が再編成し、反撃を始めた。2014年5月、アサド軍はホムスを再奪取した。ホムスは反アサド蜂起の象徴的な場所であった。これは反アサド派に大きなダメージとなった。

 

 しかし、バグターディは、自分の生まれ育った国でのより大規模な、そして大胆な攻撃を計画していた。翌月のモスル奪取はイラク・シリア・イスラム国の進化の新たな段階を示した。イスラム国は、自爆攻撃で攻撃員を死に追いやらなくても、勢力範囲を獲得し、コントロールすることができるし、それを望むようになったのだ。バグダーディは、この機会を捉え、自分自身を「カリフ(教皇)」の地位に任じ、グループを「イスラム国(Islamic State)」に改名した。これには、バグダーディの地中海からペルシア湾までの地域全体を支配するという野望が示されているのだ。

 

 バクダーディは攻撃対象を拡大していった。イスラム国は、シリアでキリスト教徒やクルド人のような宗教、民族少数派と対峙したが、彼らへの対処について何か決まった方針はないように見えた。戦闘員たちは自分たちの判断で行動する自由があった。しかし、モスルでは、「カリフ(教皇)」からの命令が下った。非イスラム教徒は特別な税金を払うか、立ち去るか、改宗するか、さもなければ死刑にすべし、というものであった。最後の2つの選択肢が奨励された。モスルに古くからあるキリスト教の共同体が最初に攻撃対象にされた。そして数千人のキリスト教徒がモスルを脱出した。イスラム国が拡大していくにつれて、少数派の人々は自分たちに危機が迫っていることを認識するようになっていった。

 

 現在までにイスラム国家とバクダーディは世界のマスコミの注意を引き、連日報道されている。こんなことになるなどザルカウィは想像すらしていなかっただろう。世界中の人々は次のような疑問を持っていることだろう。あんな人々を地獄に突き落とすような奴らは一体どこから出てきたんだ?

 

(終わり)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






 

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回から2回にわたり、イラクとシリアのイスラム国についての論稿をご紹介します。分かりやすい内容となっています。お読みいただければ、状況が少しは理解できると思います。

 

==========

 

イラクとシャームのイスラム国(ISIS):その短い歴史について

―情熱的な空想から殺人集団になるまでのテロリスト・グループの進化

 

ボビー・ゴウシャウグ(Bobby Ghoshaug)筆

2014年8月14日

『ジ・アトランティック(The Atlantic)』誌

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/2/

 

イラク全土の掌握という危機を招来させたスンニ派武装勢力であるが、2014年7月初めにモスルに殺到した時、突然地上に出現したように人々には思われた。しかし、「イスラム国(Islamic State)」という簡単な名前に最近変えたグループは、1990年代初めから、様々な名前と様々な形で存続してきたのだ。その歴史は、政治的、宗教的な理想主義者たちが殺人集団になるまでの、現代のテロリズムがどのように進化してきたかを語るもの勝ちなのである。

 

●「タウヒードとジハード集団」(Jama'at al-Tawhid wal-JihadJTJ):初期段階

 

 このグループは、20年以上前に、ヨルダン生まれのアブー・ムスアブ・アル=ザルカウィ(Abu Musab al-Zarqawi 1966~2006年)の情熱的な空想から生まれた。ザルカウィは町のチンピラであったが、1989年にムジャヒディーン(mujahideen)に参加すべくアフガニスタンに向かった。しかし、ソ連と戦うためには時期が遅すぎた。彼はヨルダンに戻り、それ以降数十年にわたり、国際的な「聖戦(jihad)」暴力運動における指導者として活動した。彼はアフガニスタンに戻り、テロリスト養成のための訓練キャンプを作った。1999年にはオサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden 1957~2011年)に会ったが、彼のテロ組織アルカイーダ(al-Qaeda)には参加しなかった。

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ザルカウィ 

 
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ビン・ラディン
 

 2001年にアフガニスタンのタリバン(Taliban)政権が崩壊し、ザルカウィはイラクへの避難を余儀なくされた。ブッシュ政権がアルカイーダがイラク国内にいてサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937~2006年)大統領とつながっていることの証拠として使われるまで、ザルカウィの存在はほとんど知られていなかった。 実際には、ザルカウィは組織に属しておらず、自分自身でテロ組織を構築しようとしていた。2003年にアメリカはイラクに侵攻した。その直後、現在のイスラム国の前身となる組織を作った。それがタウヒードとジハード集団(Jama’at al-Tawhid w’al-Jihad、英語で直訳すると、一神教と聖戦の党[the Party of Monotheism and Jihad])である。この組織のメンバーのほとんどがイラク人ではなかった。

 

 ザルカウィの発言内容なビン・ラディンとよく似ていいたが、彼の攻撃対象は全く別であった。そのスタートの時点から、ザルカウィの愛情はイスラム教徒同胞、特にイラクの人口の多数を占めるシーア派に向けられた。ビン・ラディンとアルカイーダはシーア派を異端(heretics)と見なしていた。しかし、シーア派を殺害対象とすることはほとんどなかった。

 

 ザルカウィの意図は、イラク国内でシーア派にとって最も神聖な祈りの場所であるイマーム・アリ・モスクを爆破することであった。爆破事件が起きた時、私はその現場にいた。 多くの生存者たちは「どうして私たちなのだ?アメリカ人がそこら中にいるというのに、どうして私たちなのだ?」と言っていたことを記憶している。

 

 一つの理由、それは「とても簡単にできたから」である。シーア派は反撃する能力を持っていなかったために、攻撃対象にされやすかった。また、そこには政治的な計算もあった。サダム・フセインの失脚後、長年イラクの権力構造を支配したスンニ派の政治家たちに代わって、シーア派の政治家たちが権力を掌握した。ザルカウィはシーア派に対するスンニ派の憎悪を利用して、協力者を作り上げ、自分たちのグループにとっての安全な隠れ家を探そうとしたのだ。それはうまくいった。ザルカウィは、シーア派が多く住む地区や町にあるモスク、学校、カフェ、市場で自爆攻撃を繰り返した。

 

●アルカイーダ:その勃興と衰退

 

 2004年までには、ザルカウィは国際「聖戦」運動におけるスーパースターとなった。それは、イラク国内で自爆攻撃を繰り返し行っていたからだ。そして、オサマ・ビン・ラディンの信認を得た。ザルカウィは自分が率いる組織をビン・ラディンのアルカイーダに合流させた。この組織は、「メソポタミア・アルカイーダ(al-Qaeda in Mesopotamia)」と呼ばれる。これとアフガニスタンの類似組織「マグレブ・アルカイーダ(al-Qaeda in the Maghreb)」と混同してはならない。

 

 しかし、ザルカウィの参加後すぐに、アルカイーダの幹部たちは、ザルカウィの一般人を攻撃対象にすることに不安を持つようになった。2005年、ビン・ラディンの右腕アイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri, 1951年~)はザルカウィに手紙を送り、その中で彼の戦術を窘めた。しかし、ザルカウィはそれを無視した。昨年、ザワヒリはISISの新しい指導者アブー・バクル・アル=バグダーディ(Abu Bakr al-Baghdadi 1971年~)の過度な残忍性に苦しめられた。そして、そのことを注意したのだが、今回もそれは無視された。

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バグダーディ 

 

 2006年春頃までに、ザルカウィは自分ことを「アミール(Emir イスラム教国の首長)」や反乱軍の司令官以上の存在だと考えるようになっていた。彼は精神的な指導者にもなりたいと思うようになっていた。ザルカウィの「首長」としての後継者バグダーディも同じ考えに取り憑つかれた。そして、モスルを奪取した後、自分自身を「カリフ(教皇)」に任じた。ザルカウィは自分の協力者たちに対してだけでは飽き足らず、女性はヴェイルを必ず着用することや犯罪者には斬首刑で臨むことなど、イスラム宗教法シャーリア(sharia)のザルカウィによる厳しい解釈にスンニ派の人々は従うべきだと主張するようになった。これに抵抗する場合、たとえスンニ派の指導的な立場にある人でも処刑された。

 

 しかし、ザルカウィの野望は2006年6月に突然幕を閉じることになった。アメリカ空軍の戦闘機が2発の500ポンド爆弾を、バクダッドから北に20マイル行ったところにあったザルカウィの隠れ場所に落としたのだ。

(つづく)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23








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