アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12


 

 古村治彦です。

 

 今回から2回に分けて、国際関係論の分野の泰斗であるスティーヴン・ウォルト教授のナショナリズムに関する論稿をご紹介したいと思います。

 

 ナショナリズムは日本語にしにくい言葉で、そのままカタカナにしました。本稿は、ナショナリズムの長所と短所、更に現在までの日本を含む東アジアの状況が良くまとめられているものです。

 

 現在のウクライナ、ロシア情勢も含めて、国際情勢や各国の対外政策を考える上で示唆に富んだ内容となっていると思います。

 

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国家的愚かしさ(National Stupidity

 

国際政治の分野では、個人の生活と同様、馬鹿げたプライドは命取りになるのである(In international politics, pride goeth before a fall.

 

スティーヴン・M・ウォルト筆

2014年1月14日

フォーリン・ポリシー誌

http://www.foreignpolicy.com/articles/2014/01/14/national_stupidity_nationalism_china_american_exceptionalism

 

国際的な出来事を動かす最も強力な力は何であろうか?多くの要素があることが考えられる。しかし、それらの中でもナショナリズムは強力な候補ということになる。人類は、様々な「国民(nations)」(いくつかの共通点を有する人々が同じ“想像の共同体(imagined community)”の一部であると考える)として分かれているという考えがある。そして、これらさまざまに分かれた国民は自分たちの「国家(state)」を持つ権利があるという考えも存在する。この各国民が自分たちの国家を持つという考えがヨーロッパ型のシステムを形成した。そして、イギリス、フランス、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ソ連の各帝国の崩壊につながる反植民地革命を鼓舞した。更には、こうした2つの考えは、国家の数がここ数十年間、着実に増加し、この動きが止まらないことの説明にもなっている。

 

 ナショナリズムは必ずしも悪いことではない。国民としての強い感情を持つことは、多くの美点を有する。ナショナリズムの存在によって、社会は集合行為(collective action)が抱えるジレンマを乗り越えることができる。ナショナリズムの存在によって、ある国の国内で競争関係にある諸グループが共通の善のために犠牲を払うことに同意し、様々な違い(宗教など)に対して寛容になることができる。ナショナリズムの存在によって、国民を共通する目的のために努力させることができる。その結果、国家的な希望の実現と経済成長の達成が促進される。フランス革命以降に世界が発見したように、ナショナリズムは軍事力の源泉となる。愛国心によって軍隊に参加する兵士たちは、傭兵や忠誠心がバラバラの兵士たちよりも激しく奮戦する。

 

しかし、ナショナリズムは良いことばかりを持っているのではない。建国神話や主張は、ある国の肯定的な業績にスポットライトを当てるが、否定的な間違った行為を無視する傾向にある。つまり、全ての国々は、「砂糖がまぶされた」歴史を語っているのである。著名な政治学者の故カール・W・ドイチェは次のように述べている。「国民とは、過去に関する誤った考えと近隣諸国に対する憎悪でまとまった人々のことである」。この特徴によって全ての国々は他国のことが見えない状況に陥りがちになる。また、同じ出来事や事件を他国がどうして時刻と全く違う見方をするのか理解しがたい状況を生み出す。

 

一例を挙げれば、アメリカ人が「イランアメリカ大使館人質事件(Iranian Hostage Crisis)」と呼ぶ事件をイラン人は「アメリカのスパイの巣窟退治(Conquest of the American Spy Den)」と呼ぶ。これは何も驚くに値しない。この事実が私たちに教えているのは、ある特別な事件をアメリカとイランはそれぞれどのように捉えているかということだ。自国の過去を綺麗に抹消することで、ある国は、他国がどうして時刻に対して懐疑的なのかという理由も忘却してしまうのだ。集団的な記憶喪失によってある国は、他国の現在の態度を最悪の形で受け止めてしまうことになる。アメリカ人のほとんどはアメリカが南米に対して何度も侵攻を行ったことなど忘れてしまっているが、メキシコ人、グアテマラ人、ニカラグア人などはそのことを忘れてはいない。

 

 ナショナリズムの存在によって、既存の紛争の解決が難しくなる。特にある問題に対して争う国々の主張が真っ向から対立している場合に解決は困難になる。このような状況に陥れば、紛争当事国同士は、自国の主張はひたすらに正しく、相手国の主張は、全く正当な根拠のない攻撃的なものだと考えるようになる。イスラエルとパレスチナの関係を見ればよく分かると思う。更に言えば、このような態度に陥れば、妥協に到達するために必要となる柔軟性を外交官たちが発揮する機会を失うことになる。それは、完全なる勝利以外のあらゆる合意は、国家の神聖な価値に対する裏切りと見なされるからだ。

 

最後になるが、過激なナショナリズムは自信過剰の炎の燃料となる。国家的なイデオロギーは、ある国が他国とは違い、他国に対して優越しているという姿を描き出しがちである。実際、ナショナリズムを越えたプライドは、何よりも国民に対して「トルコ人で良かった」「フランス人で良かった」「日本人で良かった」「タイ人で良かった」「アイルランド人で良かった」「エジプト人で良かった」「ロシア人で良かった」という感情を植え付けるようになる。アメリカ人もそのように考えがちである。アメリカの「例外主義(exceptionalism)」という思想の存在がそれを示している。このような考えが主流となれば、あとは「他国など我が方に比べて大きく劣っており、戦場において容易く撃破できる」という結論まで一直線である。

 

 つまり、ナショナリズムには多くの長所があるにもかかわらず、ナショナリズムは国家的愚かしさの源泉となる場合がある。更に悪いことに、何の批判も加えられないナショナリズムは、ある国に利益とならない、間違った行為を行わせることになる。ナチス・ドイツや帝国主義下の日本といった極端な例を見てみれば、劇毒性のある超ナショナリズム的な信条は、国家的な厄災をもたらし、数百万の人々が苦しんだり、亡くなったりするということが分かる。

 

 グローバライゼーションとヨーロッパ連合のような国民国家の枠組みを超えた構造の出現によって、こうした危険は過去の遺物となったと主張する人々がいる。10億人がフェイスブックを利用するようになった時代に、国民や民族の違いなど問題にならないとも主張している。しかし、そうではないのだ。本論の後半で取り上げた国家的愚かしさについて考慮してみて欲しい。

(続く)