古村治彦です。
2023年12月27日に最新刊『』(徳間書店)を発刊しました。2024年の世界で注目を集める、ウクライナ戦争、パレスティナ紛争、米中関係、アメリカ大統領選挙とアメリカ政治について網羅的にまとめました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
ジョー・バイデン政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官ジェイク・サリヴァンが、シカゴ大学教授ジョン・ミアシャイマーとハーヴァード大学教授スティーヴン・ウォルトを批判している論稿をご紹介する。ジョン・ミアシャイマーについては、最新刊『』でも詳しくご紹介している。スティーヴン・ウォルトは、このブログでもよくご紹介している。両教授は、国際関係論(International Relations)という学問分野の大物であり、リアリズムという学派に属している。また、アメリカとイスラエルとの関係、アメリカ国内の親イスラエル勢力を分析した『イスラエル・ロビー』の著者としても知られている。サリヴァンは、民主党系の外交政策専門家であり、私は1作目の著書『アメリカ政治の秘密』(PHP研究所)でいち早く注目した。
ジェイク・サリヴァン
スティーヴン・ウォルト(左)とジョン・ミアシャイマー
サリヴァンは、両教授それぞれの著作の内容や主張について、反対論を展開している。その反対論の内容は、アメリカが世界の警察官を辞めてしまうのは駄目だ、世界各国の民主化を合法・非合法の手段で推進すべきだ、中国とロシアに対しては厳しい態度で、その権威主義的な政治スタイルの転換を求めるべきだ、アメリカが外交的な力を維持するために、アメリカ軍の規模や世界転換を維持すべきだという内容だ。これらの主張は、民主党のヒラリークリントン系の「人道的介入主義派(Humanitarian Interventionism)」の主張そのものである。著書『アメリカ政治の秘密』で私は、あメリカ外交の潮流を「リアリズム(民主・共和)対共和党系のネオコンサヴァティヴィズム(Neoconservatism)・民主党系の人道的介入主義」の対立と分析した。この論稿の構造も、「ミアシャイマーとウォルト(リアリズム)対サリヴァン(人道的介入主義)」である。
アメリカの国力や影響力が落ちており、世界の警察官としての役割を維持することはできない。バラク・オバマは大統領在任中にそのことをはっきりと述べている。しかし、民主党系の外交政策コミュニティは、今でも世界中を民主化し、非民主的な体制の国々の体制転換(regime change)を行おうと必死だ。しかし、そのような彼らの目的は既にばれている。そして、彼らの願いと実際の国力や影響力との間の乖離は大きくなるばかりで、その乖離はやがてアメリカに大きな災厄をもたらすことになる。アメリカの力を維持しようとあがけばあがくほどに、アメリカは苦しむことになる。
(貼り付けはじめ)
より多くかより少なくか、あるいは違うことをするか?(More, Less, or
Different?)
-アメリカの外交政策はどこへ向かうべきか、そしてどこへ向かうべきでないか
ジェイク・サリヴァン筆
2019年1・2月号(発行日:2018年12月11日)
『フォーリン・アフェアーズ』誌
https://www.foreignaffairs.com/reviews/review-essay/2018-12-11/more-less-or-different
2016年11月以来、アメリカの外交政策コミュニティ(foreign policy
community)は自己探求の長期的な旅に乗り出し、リベラルな国際秩序の過去、現在、未来、そしてアメリカがどこに向かうのかという関連問題に関する論稿でこのような出版物のページを埋め尽くしている。大戦略(grand strategy)はここから始まる。一般的な感情は、同じことだけを求めるものではない。大きな問題は、ここ何年もなかった形で議論の対象となっている。アメリカの外交政策の目的は何だろうか? 対応するアプローチの変更を必要とする根本的な変化が世界に起きているだろうか?
この真剣で思慮深い会話に、スティーヴン・ウォルトとジョン・ミアシャイマーがそれぞれ新しい本を携えて登場し、それぞれがアメリカ外交政策の失敗についての長年の議論を新たな激しさで展開している。ウォルトの著書は『善意の地獄:アメリカの外交政策エリートと米国の優位性の衰退(The Hell of Good Intentions: America’s Foreign Policy Elite and the
Decline of U.S. Primacy)』というタイトルであり、ミアシャイマーの著書は『大いなる妄想:リベラルな夢と国際的な現実(The Great Delusion: Liberal Dreams and International Realities)』というタイトルだ。タイトルは、民主政治体制の促進(democracy promotion)、人道的介入(humanitarian
intervention)、国家建設(nation building)、NATOの拡大(NATO expansion)に反対するという、彼らが展開する主張についての明確なヒントを与えている。彼らの主張とは制限とオフショア・バランシング(restraint and offshore balancing)である。
2冊の本はそれぞれ、何か新しいことが含まれている。ウォルトの著書には、外交政策コミュニティに対する広範な攻撃が含まれており、様々な病理に囚われて国を迷わせている聖職者たちの暗い絵が複数の章にわたって描かれている。一方、ミアシャイマーは政治理論に目を向け、リベラリズム、ナショナリズム、リアリズムの関係を探求する。リベラリズムはナショナリズムとリアリズムに変更を加えたり、廃止したりすることはできず、この3つが交わる場合には、後者の2つが前者よりも優先される、と彼は主張している。ミアシャイマーは、アメリカ政治で理解されているようなリベラリズムではなく、古典的な意味でのリベラリズムについて語っていることをわざわざ強調しているが、「ソーシャルエンジニアリング(social engineering)」に対する彼の繰り返しの攻撃は、彼がそれを両方の意味で使っている可能性があることを明らかにしている。ミアシャイマーにとって、 3つの主義(isms)は最終的に、リベラルな覇権戦略(strategy of liberal hegemony)は必ず失敗する、そして実際にアメリカに失敗をもたらしているという結論に達するための代替ルートを提供する。
著者2人は多くの正当な指摘を行っている。しかし、彼らの本には、イラク戦争のような明らかな間違い(clear mistakes)と、外交政策のような面倒なビジネスではよくある不完全な選択肢から生じる欠陥のある結果(flawed outcomes)とを区別できないという問題もある。彼らはまた、あまりにも頻繁に風刺画の誘惑に負けて介入について揶揄し、制度構築(institution building)を軽視するが、これは冷戦後のアメリカのアプローチのより永続的かつ広範な特徴であった。しかし、最大の失望は、どちらの著者も、現在外交政策コミュニティを巻き込んでいる新たな議論や、アメリカの今後の戦略に関するやっかいな疑問に実際には取り組んでいないことだ。
●悪意と集団(BAD FAITH AND THE BLOB)
ウォルトとミアシャイマーは、長い間、外交政策論議の中心的存在であった。2007年に単行本として出版されたアメリカ・イスラエル関係に関する2人の共同論争はさておき、2人は言論に不可欠な偶像打破(因習破壊、iconoclasm)を提供し、前向きな外交政策を支持する人々に、議論を研ぎ澄ませ、間違いについて考えさせ、彼らが避けて通りたいような難しい問題に直面させてきた。ミアシャイマーは、この新著を含め、あまりに多くのリベラルな国際主義者たち(liberal internationalists)が、ナショナリズムとアイデンティティの永続的な力と闘うことに失敗してきたことを指摘するのに、とりわけ力を発揮してきた。最近の歴史は、ミアシャイマーがより正しく、アメリカ外交がより間違っていることを証明している。この点や他の多くの点に関して、実務家たちはこれらの学者(そして学界全般)に対して、たとえ最終的に同意することにならなくても、より多くの意見を聞き、より徹底的に検討する義務がある。同じ意味で、これらの学者たち(そして学界全般)は、政策立案者たちに対して、立案者たちがたとえ決定において多くの失敗するにしても、誠意と誠実な奉仕を行う義務がある。
これが、ウォルトの議論の新たな側面を非常に厄介なものにしている理由だ。ウォルトは、彼の軽蔑の対象である「外交政策コミュニティ」を「定期的に国際問題に積極的に関与する個人および組織」と定義している。それより広い定義を思いつくのは難しい。しかしその後、ウォルトは多くの名前を挙げる。彼はシンクタンク、擁護団体、財団、そして「ブロブ(集団、blob)」を構成する特定の個人のリストでページを埋め尽くしているが、この用語はもともとオバマ政権で国家安全保障問題担当大統領次席補佐官だったベン・ローズが作った用語だが、ウォルトは繰り返し受け入れ、引用している。そして、彼の本のタイトルには「善意(good faith)」というフレーズが出てくるが、彼はそれ以外のものを考えている。「外交政策の専門家のほとんどは真の愛国者である」という必須の条件を付けた上で、ウォルトは彼らの意思決定の重要な動機と考えられるものに焦点を当てている。ウォルトは次のように書いている。
「アメリカ政府が海外で忙しくなればなるほど、外交政策の専門家の仕事は増え、世界的な問題への対処に充てられる国富の割合も増え、彼らの潜在的な影響力も大きくなる。外交政策がより抑制的になれば、外交政策コミュニティ全体の仕事は減り、その地位や存在感は低下し、著名な慈善団体の中には、こうしたテーマへの資金提供を減らすところも出てくるかもしれない。この意味で、リベラルな覇権主義と絶え間ないグローバルな活動は、外交政策コミュニティ全体にとっての完全雇用戦略を構成している」。
完全な開示を行う。ウォルトは間違いなく私にこのグループに分類しているようだ。したがって、私は彼の非人道的な主張を完全に客観的に評価することはできない。しかし、経験と常識から、それはまったく間違っていることが分かる。ウォルトは、国防総省や国務省やシチュエーション・ルームで、積極的な外交政策が国益と国際平和と進歩に関する世界大義にかなうと心から信じている外交官や公務員(もちろん政治任命者たち)と並んで働いたことはない。もしそうなら、彼は何がこれらの当局者を駆り立てているかについての見解を修正するだろうと私は確信している。
政府の行動に偏りがあるのは事実だ。しかし、ウォルトは、実務家たちが直面する決断にどれだけ苦悩しているか、そして何かを増やすか減らすか、あるいは違うことをすることのメリットについてどれほど熱心に議論するかを学ぶことになるだろう。自分の主張に反して、中東からの撤退に関するウォルト自身の考えを含め、非正統的な考えが実際にワシントンで審議されること、そして彼の提案が政策にならないのは、考慮されないからではないということに彼は驚くだろう。ウォルトは、因果関係の連鎖が、彼が想定しているものとは逆の方向に走っているという証拠を見つけるだろう。政策立案者たちは、外交政策が彼らの職業であるため、より野心的なアプローチを主張しない。彼らは、外交政策が野心的なことを達成できると信じているため、外交政策を自分の仕事にする傾向がある。実務家たちが学界にいる批評家たちを風刺することは、何の利益にもならない。逆も同様だ。
ウォルトは、外交政策の専門家たちの意図や動機が、彼らの見解が不変であることを意味し、彼らが学び、適応し、成長することができないという主張は間違いである。
ウォルトは、集団(ブロブ、blob)に悪意があると決めつけることで、2016年以降の外交政策コミュニティの変化を見逃している。彼は、ワシントンの外交政策協議があまりにもしばしば集団思考(groupthink)にとらわれてきたこと、従来の常識がいかに硬化し、そこから逸脱することがいかに困難であるか、地政学的傾向や民主政治体制の生来の魅力に関する多くの基本的前提があまりにも長い間当然のものとされてきたことなどについて、合理的な指摘をしている。しかし、外交政策の専門家たちの意図や動機が、彼らの見解が不変であることを意味し、彼らが学び、適応し、成長することができないというのは間違いである。
ウォルトもミアシャイマーも、ワシントン外交政策のコンセンサスにおける最近の重心の変化を無視している。2018年の討論会の内容は2002年の討論会の内容と同じではない。例えば、アメリカのイラク侵攻に対する彼らの情熱的な主張は、時間が経ったように凍結されているように見える。外交政策コミュニティのほとんどは、中東で再び選択の余地がある紛争が起こることに反対するだろう。現在の議論は、直接的な軍事力への依存を減らし、効果的な対テロ戦略をどのように追求するかについて争われている。国内への投資を重視する必要があるという彼らの主張にも同じことが当てはまる。2016年以来、リベラルな国際主義者たち(liberal internationalists)は外交政策と国内政策の関係についてより明確に考察するようになった。
●火星出身の政策立案者たち(POLICYMAKERS ARE FROM MARS)
政策立案者たちにとって、ウォルトとミアシャイマーをどう扱えばいいのかが分からないことが多い。彼らは、ヨーロッパからの軍事的撤退のような思い切った行動によるバラ色の結果を含め、そのアプローチについて、彼らが描くリベラルな国際主義者(liberal internationalists)の誇張された肖像に似た確信をもって約束する。そして、彼らの議論のスタイルは、現在の問題を煽ることだ。彼らは、あらゆる問題、悲劇、予期せぬ副作用の責任をアメリカの意思決定者たち(U.S. decision-makers)になすりつける一方で、到達した成果や回避された災難はすべて当然だと考える。そのため、意図しない結果につながる行動は、意図しない結果につながる不作為とは異なる扱いを受ける。リビアへの介入は、ヨーロッパにおける難民危機に予期せぬ形で貢献したが、シリアへの介入の欠如もそうだったかもしれない。
これらの断絶が核心的な課題の一因となっている。学者たちの批評に対して政策立案者たちが行う議論は、全て反事実に寄りかからざるを得ない。もしワシントンがNATOを拡大していなかったら、現在ウクライナで起きていることはバルト海沿岸やポーランドで起きていただろうか? もし1990年代に日本から撤退していたら、今中国に対してどのような対応を取ることができていただろうか?
「もっと悪いことが起きていただろう!」というのは、議論の場では決して楽しい主張ではない。戦後のドイツと日本のケースを考えてみよう。ミアシャイマーは彼の著作の中盤でほんの少し言及しただけで、それを軽視している。もしアメリカが1945年にウォルトとミアシャイマーの処方箋に従ってアメリカ軍を撤退させ、ヨーロッパとアジアに自国の問題を自力で解決させていた場合の20世紀後半を想像してみて欲しい。そうであれば、この地域は現在とははるかに違った様相を呈していただろうし、おそらくははるかに暗い様相を呈していただろう。
ウォルトとミアシャイマーの基本的な戦略的前提は、アメリカの撤退はおそらく世界をより危険なものにするだろうが、その地理的条件とパワーを考えれば、アメリカは結果として生じるリスクを回避することも、有利になるように操作することもできる、ということのようだ。この論理の厳しさはさておき、それが正しいかどうかは全く分からない。ウォルトは、20世紀前半のオフショア・バランシング[offshore balancing](ウォルトが好む地域安全保障への手をかけないアプローチ)には「安心できる歴史(reassuring history)」があることの証明として、20世紀前半の例を挙げている。しかし、アメリカを巻き込むことが必至となった2つの破滅的な世界大戦以上に心強いものがあるだろうか。1930年代を成功とするアプローチを受け入れるのは難しい。
政策立案者たちとこの2人の学者の会話が火星と金星のような関係にある理由は他にもある。ウォルトとミアシャイマーは、世界各地からアメリカ軍をアメリカ本国に帰還させ、トラブルが発生したときに再びアメリカ軍を派遣するためにかかる費用をごまかすことができる。ウォルトとミアシャイマーは、イランのような国が核兵器を保有することで生じる不安定性を軽視することができる。一方、政策立案者たちは、地域の軍拡競争やテロリストの手に爆弾が渡る可能性など、最悪のシナリオを考える。アメリカの外交政策からリベラリズム(liberalism)を排除することを主張することはできるが、政策立案者たちは、アメリカの戦略だけでなく、アメリカのシステムがリベラリズムを指し示しているという事実に対処しなければならない。例えば、ニューヨーク・タイムズ紙は中国共産党の汚職調査を止めようとはしないし、パナマ文書の公開はNATOの拡張と同様にロシアのプーティン大統領の怒りを買った。最後に、ウォルトがジョージ・W・ブッシュ大統領、バラク・オバマ大統領、ドナルド・トランプ大統領は外交政策へのアプローチにおいて基本的に見分けがつかないと書くとき、彼は極端な一般性のレヴェルで行動しており、その分析は意味を失っている。
しかし、ある意味、そんなことは気晴らしのようなものだ。現実主義者たち(realists)とリベラルな国際主義者たち(liberal internationalists)の間の戦線(battle lines)は、あまりにもよく描かれており、議論もよくリハーサルされているので、今さら多くを付け加えることは難しい。過去25年間、ワシントンがウォルトとミアシャイマーのアプローチを採用していたら、現在の状況はどうなっていたかをめぐって争うことは、今後25年間、ワシントンが何をすべきかを議論することほど生産的ではない。また、政策立案者たちがいくつかの単純なルールに従いさえすれば、物事を正しく進めるのは簡単だと主張する一方で、ミアシャイマーとウォルト両著者は今日のアメリカ外交の中心的な議論、つまり、集団(ブロブ、blob)が2016年以来格闘している厄介な問題については驚くほど何も語っていない。
第一は、悪化する米中関係をどのように形成し、対立に転じることなく、アメリカの利益を増進させるかである。中国をアメリカ主導の秩序に統合することを前提とした、アメリカの戦略コミュニティにおける「責任ある利害関係者(responsible stakeholder)」たちのコンセンサスは崩壊した。新たなテーマは、ワシントンは中国を見誤ったということであり、今日の合言葉は「戦略的競争(strategic competition)」である(ただし、中国がソ連と違って失敗する運命にある訳ではないと仮定するならば、何のための競争なのかは明確でない)。中国に対する好意的な見方から暗い見方へと、振り子(pendulum)がこれほど速く揺れ動くのを見るのは幻惑的である。このような新しい状況下でどのように行動すべきか、という指針は、驚くほど不足している。
ウォルトは基本的に両手を上げて、「アジアはアメリカのリーダーシップが本当に「不可欠な(indispensable)」唯一の場所かもしれない」と書いている。("indispensable "と
"leadership "という言葉が大嫌いなウォルトにとって、これは極めて重要な発言である)。もしウォルトが、現代最大の国家安全保障問題に例外を設けなければならないのであれば、彼のアプローチ全体を見直す必要があることを示唆している。流行する前から中国タカ派だったミアシャイマーは、中国に関してはリアリズムと自制は乖離せざるを得ないと主張してきた。しかし、この最新刊では、「リベラルな覇権(liberal hegemony)」を破壊することに固執するあまり、中国の台頭の継続を応援している。国際システムから見た議論としては正しいかもしれないし、そうでないかもしれないが、国益を考えるアメリカの政策立案者たちにとっては特に有益ではない。また、どちらの著者も、政策立案者たちが伝統的な安全保障上の考慮事項と同様、経済、テクノロジー、アイデアに関する新たな分野での競争に備える助けにもなっていない。地政学(geopolitics)がサイバースペース、宇宙、経済、エネルギーなど、拡大する領域にわたって展開される中で、これは彼らの分析における深刻なギャップである。
この欠陥は、第一の問題と表裏一体となった第二の難問につながる。それは、 アメリカの主要な競争相手は、どの程度組織的に非自由主義(illiberalism)を輸出しているのか、そしてアメリカの戦略にとってどのような意味があるのか。アメリカ進歩センター(Center for American Progress)のケリー・マグザメンと共著者たちのような専門家たちは、中国とロシアがともに権威主義モデル(authoritarian models)を維持するという最優先の目的を持っていることをより強調している。ブルッキングス研究所のトーマス・ライトが言うように、中国とロシアは「権威主義にとって世界をより安全な場所にするために、自由で開かれた社会(free and open societies)を標的にするという目的を共有している」のであり、したがって、アメリカの外交政策は、大国間競争(great-power competition)の中で、民主政治体制の擁護を最重要視する必要がある。
ウォルトもミアシャイマーも、アメリカの主要な競争相手は主として現実主義的な考えに従って行動しており、国内政治は主要な要因ではないと仮定している。その結果、ミアシャイマーが言うように、アメリカの「民主政治体制を広めようとする衝動」に対して後ろ向きとなる批判を展開し、ますます野心的で、組織化され、効果的になっていく独裁政権から民主政治体制を守るという課題にはあまり触れていない。外交政策コミュニティの新たな診断は間違っているかもしれないし、誇張されているかもしれないが、もしそうなのであれば、この2人の著者はどちらもその理由を説明していない。アメリカの競争相手がアメリカの経済・政治システムに圧力をかけるために行っている、直接的な選挙干渉(direct election interference)から、影響力を高めるための手段として汚職(corruption)や国家資本主義(state capitalism)を戦略的に利用することまで、さまざまな慣行を扱っていない。そして、現在流行しつつある診断が正しいとすれば、NATOを解体し、ヨーロッパから撤退し、志を同じくする同盟諸国にアメリカからの恩寵を獲得するよう指示するという彼らの望ましい戦略は、本当に論理的な次のステップとなるのだろうか?
ミアシャイマーは、「海外でのリベラリズムの追求は、国内でのリベラリズムを弱体化させる」と主張している。しかし、国内での影響(盗聴、政府機密、「ディープ・ステート」)に関する彼が提示する現代の例は、テロとの戦いに関するものであり、リベラルなプロジェクトとは言い難い。このことは、3つ目の難しい問題を提起している。テロリズムがもたらす客観的な脅威と、アメリカ国民が感じる主観的な脅威とのギャップに、意思決定者はどのように対処すべきなのか?
ウォルトもミアシャイマーも、より平和主義的な国民を対外的な軍事的冒険に引きずり込む、血に飢えた外交政策共同体の精巧な風刺画を描いている。しかし、海外でのテロとの戦いとなると、リベラルな国際主義(liberal internationalism)に懐疑的な政治家たちに後押しされた国民は、テロリズムを軍事力の行使を必要とする緊急の、さらには存亡にかかわる優先事項であると考える。外交政策コミュニティは、そのような要求を推進するというよりも、むしろそれに応えつつある。
オバマのイラクでの経験について考えてみよう。2011年、オバマはウォルトとミアシャイマーの脚本を参考に、アメリカ軍を残らず撤退させた。そして2014年夏、ISIS(イスラム国)がモスルに押し寄せ、アメリカ国民の意識の中心に躍り出た。オバマ大統領の国家安全保障ティームにいた私たちは、アメリカ軍の武力で対応すべきかどうか、どのように対応すべきかについて活発な議論を交わした。2人のアメリカ人ジャーナリストが斬首された後、国民はISISを封じ込めるためではなく、ISISを打ち負かすための迅速かつ決定的な行動を求めた。ISISを封じ込めるためではなく、ISISを打ち負かすための、迅速かつ決定的な行動を求めた。しかし、テロ問題の政治的側面と、扇動者に影響されやすいという性質は、政策立案者がテロを他の国家安全保障上の課題とは異なるカテゴリーに位置づけなければならないことを意味し、脅威の客観的尺度には限界があるということである。今後数年間の戦略や資源に関する議論では、このダイナミズムをいかに管理するかが重要になる。ウォルトにとってもミアシャイマーにとっても、これは盲点(blind spot)である。
もう1つの盲点は、政策立案者たちが現在取り組んでいる4つ目の問題だ。それは、国家間の地政学的な競争が激化し、各国から力が拡散していく中で、政策立案者たちは、全ての国家が共有する主要な脅威に対処するための効果的なメカニズムをどのように設計すればよいのだろうか?
気候変動、疫病の流行、大量破壊兵器の拡散、そして再び世界的な経済危機が起こるリスクに対処するためには、協力が必要である。少なくとも、このような集団行動を動員するという文脈においては、ミアシャイマーは、外交政策コミュニティの多くの人々の動機となる理論が、古典的自由主義よりも、制度(institutions)、相互依存(interdependence)、法の支配(rule of law)を重視する古典的共和主義(classical
liberalism)に近いかもしれないことを見逃している。また、ウォルトもミアシャイマーも、アメリカのリーダーシップなしには、あるいは健全な制度に根ざした健全なルールなしには、あるいは非国家主体や準国家主体の役割を考慮することなしには、このような協力がどのように実現するかについて説得力のある説明をしていない。
ウォルトとミアシャイマーは共に、効果的な外交に敬意を表しているが、どちらもアメリカの大幅な縮小がアメリカの外交遂行能力を損なうことはなく、どのように強化するのかについて、信頼できる説明を与えていない。例えば、ウォルトはイラン核開発に関する合意を気に入っているようだが、壊滅的な制裁と軍事力による確かな脅威が合意の実現に果たした役割についてはほとんど評価していない。外交における安心感と決意を示すことは、アメリカ軍を世界規模に展開することの重要な利点であり、それがウォルトにとって、リビアのような間違いを犯しにくくすることと、成功した外交に従事しやすくすることのどちらをより重視するのかという疑問を生む。イランとの交渉のような外交の成功とは何を意味するのか?
ウォルトとミアシャイマーが指針を示さなかった最後の分野は、人道的介入(humanitarian
intervention)の将来についてである。これは驚くべきことだ。過去25年間を経て、ワシントンは、人道的な理由によるアメリカの軍事介入に必要な条件があるとすれば、それは何なのかという問いに取り組んでいる。過去の介入を批判することは、リベラルな国際主義に反対する両学者にとって中心的な柱となっている。しかし、両者ともそのような介入は決して試みるべきではないと言い切ってはいない。ミアシャイマーのリビア作戦に対する批判は、大虐殺を止めるためにアメリカが介入すべきではなかったというものではない。それどころか、虐殺の脅威は「偽りの口実(false pretext)」、つまり全てでっち上げだったと断じている。これは彼にとって、本当の問題を避けるための都合のいい方法である。
ウォルトに関しては、「戦争を防止し、大量虐殺を食い止め、他国を説得して人権パフォーマンスを向上させる」ためにアメリカの力を行使することには、驚くほど肯定的である。実際、彼は「(1)危険が差し迫っており、(2)アメリカに予想されるコストが控えめで、(3)アメリカの人命に対する外国の人命の重要度が高く、(4)介入が事態を悪化させたり、無制限の関与につながったりしないことが明らかな場合には、大量殺戮を阻止するために武力を行使することを容認する」という。これらは、過去四半世紀にわたってアメリカが追求してきた人道的介入のそれぞれに、政策立案者たちが適用してきたのと同じ基準である。(イラクは人道的理由による戦争ではなかったので別のカテゴリーに属する)。冷戦後の様々な介入は、主として最初の3つの基準を満たすものであった。ウォルトは4つ目の基準について、これ以上の指針を示していない。この基準は、行動すべきか(リビア)、行動すべきでないか(シリア)をめぐる議論の大半を占め、困難なトレイドオフの大半はここにある。人道的介入にも戦略的動機がありうることを、どちらの学者も考慮していないという問題もある。シリアを焼け野原にすることは、大量の人命を失う危険性があるだけでなく、ウォルトとミアシャイマーが重要と考えている1つだけでなく2つの地域(ヨーロッパとペルシャ湾)を不安定化させる危険性もある。
●新たな収束(THE NEW CONVERGENCE)
これら難問のリストは、全てを網羅しているとは言い難い。トランプ時代は、より広範な国際環境の変化とともに、多くの仮定を再び議論の対象としている。特にウォルトは、進歩主義者、自由主義者、そしてアカデミックな現実主義者が、リベラルな国際主義者を打ち負かすために力を合わせる絶好の機会だと考えている。実際の潮流は別の方向に進んでいるようだ。ヴァーモント州選出のバーニー・サンダース連邦上院議員やマサチューセッツ州選出のエリザベス・ウォーレン連邦上院議員による外交政策論評をはじめ、最近の多くの論考は、左派と中道の一種の収束への道を指し示している。この収束は完全なものとは言い難いが、いくつかの共通の優先事項が明らかになりつつある。国際経済政策の分配効果に対する関心の高まり、汚職や泥棒政治(クレプトクラシー、kleptocracy)、ネオファシズムとの闘いへの集中、軍事力行使よりも外交の重視、民主的同盟国への永続的な関与などである。おそらく最も重要なことは、左派と中道が、リベラル・プロジェクトの多くの成功が、世界的な貧困と疾病に対する進歩や、フランスとドイツの間の永続的な平和のように、競争する運命にあるのではなく、ヨーロッパ連合(EU)を形成するという、深遠なものであったという事実に対する認識と、この認識を共有しつつあることである。
このことは、ウォルトとミアシャイマーが今後の議論において果たすべき役割を否定するものではない。第一原則を重視する彼らの姿勢は、多くのことが争点となっている現在、特に重要である。異なる考え方をするようにという彼らの忠告は、変化の激しい時代には有益である。政策立案者たちはこれらの本を読み、彼らの主張を慎重に検討すべきである。そして、ウォルトとミアシャイマーは、誠意と好意を持って、この先数十年にどのように取り組むべきかについて、政策立案者たちと難問に取り組む機会を歓迎すべきだ。
※ジェイク・サリヴァン:カーネギー国際平和財団上級研究員。2011年から2013年まで国務省政策企画本部長、2013年から2014年まで国家安全保障問題担当米副大統領補佐官を務めた。
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