古村治彦です。

 今回は外交政策において「力の均衡(バランス・オブ・パワー、balance of power)」を前提にすることが重要だという内容の論稿を紹介する。著者は以前にもご紹介したスティーヴン・M・ウォルトだ。「力の均衡」について、ウォルトは論稿の中で、以下のように定義している。

(引用貼り付けはじめ)

力の均衡(バランス・オブ・パワー、balance of power)理論(あるいは脅威の均衡[バランス・オブ・スレット、balance of threat]理論)の基本的な論理は単純明快だ。各国が互いの脅威から各国を保護してくれる「世界政府」が存在しないため、各国は征服、強制、またはその他の危機に陥らないよう、独自の資源と戦略に頼らざるを得ないということになる。強力な国家や脅威を与える国家に直面した時、懸念を持つ国は自国の資源をより多く動員するか、同じ危険に直面している他の国家との同盟を模索し、より有利にバランス(均衡)に変えることができる。

(引用貼り付け終わり)

 簡単に言えば、世界各国は自身で脅威に対応せねばならず、そのためには脅威に直面している他国と同盟を組むこともあるということだ。その際に、その他コクトは国家体制などが全く異なってもそれは度外視される。自国の生き残りのため、そんなことは枝葉末節ということになる。その具体例が、第二次世界大戦で、アメリカとイギリスがソ連と組んだことであり、ソ連に対抗するための米中国交回復だ。アメリカは共産主義のソ連や中国とだって手を組むということだ。また、現在で言えば、アメリカは世界に民主政治体制を拡散しようと言いながら、自国に役立つ非民主国家についてはその体制転換を求めない。中東諸国や中央アジア諸国がそうだ。しかし、これらの国々が用済みということになれば、一気に体制転換を迫るということになる。

 アメリカの外交政策立案にはこのような流れがあるが、一方で、他国の体制転換を求める、もしくはイデオロギーの面で潔癖に過ぎるということもある。その具体例は、共和党であればネオコンと呼ばれる一派であり、民主党であれば人道主義的介入主義ということになる。民主政治体制の拡散に重きを置くために、かえって地域の不安定やアメリカ外交の失敗を招くということになったのは、記憶に新しいところだ。アフガニスタン侵攻やイラク戦争の失敗、アラブの春の失敗などが具体例だ。

 日本に引き付けて考えてみれば、何よりも過度な中国脅威論や台湾有事論の跋扈がそうなる。アメリカの一部の強硬派に煽動されて、そのお先棒を担いで、短慮にわっしょいわっしょいと対中強硬論を吐き、「台湾を助けるぞ」と意気込んで、アメリカにはしごを外されて、にっちもさっちもいかなくなるということが目に見える。思慮深く、かつ両方に着くという形でバランスを取ることが重要だ。それが大人の態度でもある。

(貼り付けはじめ)

誰が力の均衡(バランス・オブ・パワー)を恐れているのか?(Who’s Afraid of a Balance of Power?

-アメリカは国際関係の最も基本的な原則を無視し、自国に不利益を与えている。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2017年12月8日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2017/12/08/whos-afraid-of-a-balance-of-power/

もし、あなたが大学で国際関係論の入門レヴェルの講義を受け、教師が「力の均衡(balance of power)」について全く触れなかったとしたら、母校に連絡して返金を求めて欲しい。力の均衡という考えは、トゥキディデス(Thucydides)の『ペロポネソス戦争(Peloponnesian War)』、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbs)の『リヴァイアサン(Leviathan)』、古代インドの思想家カウティリヤ(Kautilya)の『アルタシャストラ(Arthashastra)』(「政治の科学」)に見ることができ、EH・カー(E.H. Carr)、ハンス・J・モーゲンソー(Hans J. Morgenthau)、ロバート・ギルピン(Robert Gilpin)、ケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)といった現代のリアリストたちの仕事の柱になっている。

しかし、このシンプルな考えは、その長い歴史にもかかわらず、アメリカの外交エリートたちから忘れられがちである。ロシアと中国がなぜ協力するのか、イランと中東のさまざまなパートナーとの間に何があったのかを考えるのではなく、権威主義(authoritarianism)の共有、反射的な反米主義、あるいはその他のイデオロギー的連帯の結果だとエリートたちは考えがちだ。この集団的健忘症(collective amnesia)によって、アメリカの指導者たちが知らず知らずのうちに敵同士を接近させるような行動をとり、敵を引き離す有望な機会を逃すことを助長する。

力の均衡(バランス・オブ・パワー、balance of power)理論(あるいは脅威の均衡[バランス・オブ・スレット、balance of threat]理論)の基本的な論理は単純明快だ。各国が互いの脅威から各国を保護してくれる「世界政府」が存在しないため、各国は征服、強制、またはその他の危機に陥らないよう、独自の資源と戦略に頼らざるを得ないということになる。強力な国家や脅威を与える国家に直面した時、懸念を持つ国は自国の資源をより多く動員するか、同じ危険に直面している他の国家との同盟を模索し、より有利にバランス(均衡)に変えることができる。

極端な例を言えば、均衡を保つための同盟を組むには、以前は敵とみなしていた国や、将来ライバルになると理解していた国とも一緒になって戦う必要が出てくることもある。第二次世界大戦中、アメリカとイギリスはソ連と同盟を結んだが、それは共産主義に対する長期的な懸念よりも、ナチス・ドイツを倒すことが優先されたからである。ウィンストン・チャーチルは、「もしヒトラーが地獄に侵入したら、私は少なくとも悪魔については下院で好意的に言及するだろう」と言い、この論理を完璧に表現した。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトも、第三帝国(Third Reich)を打ち負かすためなら「悪魔と手を握ってもいい(hold hands with the devil)」と、同じような心境を語っている。

言うまでもなく、「力の均衡」の論理は、アメリカの外交政策において重要な役割を果たし、特に安全保障上の懸念が明白な場合には、重要な役割を果たした。冷戦期のアメリカの同盟関係(NATOやアジアにおける二国間同盟のハブ&スポーク・システム)は、ソ連とのバランスを取り、封じ込めるために形成された。同じ動機で、アメリカはアフリカ、ラテンアメリカ、中東などの様々な権威主義政権を支援することになった。同様に、1972年にニクソンが行った対中開放も、ソ連の台頭を懸念し、中国との関係が深まればソ連にとっては不利になるとの認識から始まった。

しかし、その長い歴史と永続的な関連性にもかかわらず、政策立案者や専門家たちは、力の均衡の論理がいかに味方と敵の両方の行動を促すかをしばしば認識できないでいる。この問題の一つは、国家の外交政策は、その外部環境(直面する脅威の数々)よりもむしろその内部特性(指導者の性格、政治や経済のシステム、支配イデオロギーなど)によって形成されると考えるアメリカが持つ共通傾向に由来している。

この観点からすると、アメリカの「自然な」同盟国は、我々と価値観を共有する国である。アメリカが「自由世界のリーダー」であるとか、NATOが自由民主主義国家の「大西洋横断コミュニティ」であるとかいうのは、これらの国々が、世界の秩序がどうあるべきかという共通のビジョンを持っているからこそ、互いに支え合っているということを示唆しているのである。

もちろん、政治的価値の共有は重要ではないということではなく、民主政治体制国家間の同盟は、独裁国家間や民主国家と非民主国家間の同盟よりもいくぶん安定していることを示唆する実証的研究も存在する。しかし、国家の内部構成が敵味方の区別を決定すると仮定すると、いくつかの点で迷いが生じる。

第一に、価値観の共有が強力な求心力であると考えるならば、既存の同盟の中には結束力と耐久性を誇張してしまうものがある。NATOはその典型的な例である。ソ連の崩壊により、その主要な根拠が失われ、同盟に新たな使命を与えるための多大な努力も、繰り返される緊張の高まりを防ぐことはできなかった。NATOのアフガニスタンやリビアでの作戦がうまくいっていれば、事態は変わっていたかもしれない。しかし、そうはならなかった。

確かにウクライナ危機はNATOの緩やかな衰退を一時的に止めたが、このささやかな反転は、NATOをまとめる上で外的脅威(すなわちロシアへの恐怖)が果たす中心的役割を強調しているに過ぎない。「価値観の共有」だけでは、大西洋の両岸に位置する約30カ国の有意義な連合体を維持するには不十分であり、トルコ、ハンガリー、ポーランドがNATOの基盤であるはずの自由主義的価値観を放棄するような状況では、それが顕著となる。

第二に、力の均衡(バランス・オブ・パワー)の政治を忘れてしまうと、他の国家(場合によっては非国家アクターたち)が自分に対して手を組んだときに、驚くことになりがちだ。2003年、ブッシュ政権は、フランス、ドイツ、ロシアが協力して、安保理でイラク侵攻の承認を得ようとしたのを阻止した。この措置は、サダム・フセインを倒すことが、逆に自分たち(フランス、ドイツ、ロシア)を脅かすことになりかねないと考えたからだ(実際、そうなってしまった)。しかし、アメリカの指導者たちは、これらの国々がサダムを排除し、この地域を民主的な路線で変革する機会を握り、利用しようとしない理由を理解できなかった。ブッシュ大統領の国家安全保障問題大統領補佐官を務めたコンドリーザ・ライスが後に認めたように、「単刀直入に言えば次のようになる。我々は単に理解していなかった」ということだ。

アメリカのイラク侵攻後、イランとシリアが手を組んでイラクの反乱軍を支援したときも、アメリカ政府は同様に驚いた。ブッシュ政権の「地域変革(regional transformation)」の努力を失敗させることは、イランとシリアにとっては完全に理にかなっていたにもかかわらず、だ。アメリカのイラク占領が成功すれば、イランとシリアはブッシュの次の標的になっていただろう。彼らは、脅威を受けた国家がするように(力の均衡理論が予測するように)行動しただけだ。もちろん、アメリカ人にはそのような行動を歓迎する理由はないが、それに驚くべきではなかった。

第三に、政治的・思想的な親和性に着目し、共有する脅威の役割を無視することは、敵対者を実際以上に一体化した存在として見ることを助長する。アメリカの政府高官や評論家たちは、敵対する国同士が主に道具的・戦術的な理由で協力していることを認識する代わりに、敵は一連の共通目標への深い関与によって結びつけられているとすぐに思い込んでしまう。以前であれば、アメリカ人は共産主義世界を強固な一枚岩とみなし、どの国の共産主義者も全てがクレムリンの信頼できるエージェントであると誤解していた。この間違いは、中ソ対立を見逃した(あるいは否定した)だけでなく、アメリカの指導者たちは、非共産主義の左翼がソ連に対してシンパシーを持っている可能性が高いと誤解していたのである。ソ連の指導者たちも逆の立場で、アメリカの指導者たちと同じ間違いを犯し、非共産圏の第三世界の社会主義者に取り入ろうとしたが、しばしば裏目に出て失望することになった。

この誤った直感は、残念ながら今日でも、「悪の枢軸(axis of evil)」(イラン、イラク、北朝鮮が同じ統一運動の一部であると示唆した)という言葉や、「イスラムファシズム(Islamofascism)」のような誤解を招く言葉の中に生き続けている。アメリカ政府高官や専門家たちは、過激派を多様な世界観や目的を持った、競争し合う組織として見るのではなく、敵が全て同一の行動指針に基づいて行動しているかのように日常的に発言し行動している。これらのグループは、共通の教義によって強力に結束しているとは言えないし、しばしば深いイデオロギー的分裂や個人的対立に苦しみ、共通する確信よりも必要性から力を合わせているに過ぎない。しかし、全てのテロリストが一つの世界的な運動における忠実な兵士であると仮定すると、彼らは実際よりも怖く見えてしまう。

更に悪いことに、アメリカは過激派の分裂を促す方法を探す代わりに、過激派同士を接近させるような行動や発言をしばしばしている。分かりやすい具体例を挙げれば、イラン、ヒズボラ、イエメンのフーシ、シリアのアサド政権、イラクのサドル運動の間には、ささやかなイデオロギー的共通点があるかもしれないが、これらのグループはそれぞれ独自の利益と課題を抱えており、彼らの協力は、まとまった、あるいは統一したイデオロギー戦線としてよりも、戦略同盟として理解するのが最も適切だろう。サウジアラビアやイスラエルがアメリカにそのようにするように望む、敵対勢力に対して全面的な圧力をかけることは、敵対する全ての国々に、互いに助け合う理由をさらに増やすだけのことだ。

最後に、力の均衡(パワー・バランス)の力学を無視することは、米国の地政学的な最大の利点の一つを無駄にすることだ。西半球で唯一の大国である米国は、同盟国を選択する際に大きな自由度を持ち、その結果、同盟国に対して大きな影響力を持つことができる。地理的な孤立がアメリカに提供する「自由な安全保障」を利用すれば、地域的な対立が発生したときにそれを利用し、遠い地域の国家や非国家主体がアメリカへの関心と支援を求めて競争することを促し、現在アメリカに敵対する諸国の間に楔を打ち込む機会を警戒し続けることができる。このアプローチには、柔軟性、地域情勢に対する高度な理解、他国との「特別な関係」を嫌うこと、そして、意見の異なる国を悪者にしないことが必要だ。

残念ながら、米国は過去数十年間、特に中東において、正反対のことをしてきた。柔軟性を発揮する代わりに、同じ同盟諸国に固執し、相手を安心させることよりも、自分たちが最善と考える行動を取らせることに腐心してきた。エジプト、イスラエル、サウジアラビアとの「特別な関係」を深めてきたが、そうした親密な支援の正当性は弱まってきている。そして、時折の例外を除き、イランや北朝鮮のような敵対国を、脅したり制裁したりすることはあっても、対話することはない存在として扱ってきた。その結果は、残念ながら明白だ。

読者の皆さんにお知らせ。私は本を書き上げるため、この『フォーリン・ポリシー』誌での職務を短期間休止します。2018年2月にコラムを再開する予定ですが、世界の出来事が私を再び戦いに引きずり込むことがない限り、このコラムを再開します。それまで静かにお待ちいただくよう、よろしくお願いします。皆さんにとって楽しい休暇と平和で豊かな2018年になりますようにお祈りします。

※スティーヴン・M・ウォルトはハーヴァード大学ロバート・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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ビッグテック5社を解体せよ

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