古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:ビル・クリントン

 古村治彦です。

 2022年11月30日、江沢民元中国国家主席が96歳で死去した。一強体制を構築しつつある習近平国家主席にとっては、煙たい「長老」の1人だったということになるだろう。10月の第20回中国共産党大会に出席しなかったことで、色々と憶測が流れていたが、結局体調面で出席が叶わなかったということになるだろう。江沢民は天安門事件(1989年6月4日)前後の政治的な混乱状況の中から、鄧小平によって次期指導者に抜擢された。ヒールのイメージがあり、汚職の話が付きまとうということもあり、日本での評価は芳しくないが、江沢民は、政治的動乱状況を抑え、中国の改革開放と経済成長の道筋をつけた人物ということになる。

 以下で、江沢民についての記事を紹介する。江沢民は叔父が江上青という、国共合作時代の中国南部で創設された抗日軍である新四軍(国民革命軍新編第四軍)の指揮官という英雄だったことで、共産中国時代に徴用されることになった。叔父の戦友たちが共産中国で重職を担うことになり、江沢民は彼らの引き上げを受けて、ソ連に留学し、自動車製造の上級テクノクラートとして出世していた。

 1966年からの文化大革命では、紅衛兵側に参加せず、中国革命を成し遂げた先輩革命家たちと共に強制収容所で苦労するという道を選び、これが結果として、文革後に「信頼できる人物」という評価を得ることになった。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という言葉通りの人生だ。

 1985年に上海市長になり、その後、上海市党委書記に昇格し、中央政治局入りを果たした。そして、1980年代後半の政治的動乱状況の中で、最高指導者の座を射止めた。江沢民の指導の下で、中国は世界貿易機関(WTO)に参加し、輸出指導型経済を開始した。その後の急激な経済成長は誰もが知るところだ。その道筋をつけたのが江沢民ということになる。江沢民の基盤となったのが新四軍派閥だったということは、それが主体になって上海閥が形成されたということになる。

 江沢民の治政下で、汚職が激増し経済格差が拡大したという負の面はあった。しかし、中国を現在のような世界第2位の経済大国に導いたというのは、鄧小平という設計者がいたことは確かだが、江沢民が鄧小平の設計図を実行者として実現したという、その手腕はやはり評価されるべきだろう。

(貼り付けはじめ)

江沢民氏の追悼大会を北京で開催 習近平氏が追悼演説、功績たたえる

12/6() 12:10配信 朝日新聞デジタル

https://news.yahoo.co.jp/articles/c6a6255b16e32169298cda2c9715c2f38fdf4842

 1130日に死去した中国の江沢民・元国家主席(元中国共産党総書記)の追悼大会が6日午前10時(日本時間同午前11時)から北京の人民大会堂で開かれた。葬儀委員会の主任委員を務める習近平(シーチンピン)国家主席が追悼演説を行い、江氏の功績をたたえるとともに「社会主義現代化国家」の建設へ、団結を誓った。

 追悼大会は中国のテレビやラジオで中継され、政府や党の主要機関に半旗が掲げられる中、3分間の黙禱(もくとう)が行われた。哀悼を表するため全国一斉に汽笛や防空警報が鳴らされたほか、銀行間の債券市場や外国為替市場なども3分間取引が停止された。「ユニバーサル・スタジオ・北京」などの娯楽施設は6日の営業を休んだ。

 江氏は毛沢東、鄧小平両氏に続く国家指導者に位置づけられ、追悼大会は1997年に死去した鄧氏と同格の扱いで行われた。党・政府の幹部や各界の代表らが出席したが、前例に従い外国要人の参列はなく、市民の弔問も受け付けなかった。江氏の遺体は5日に火葬され、追悼大会には遺骨が置かれたとみられる。(冨名腰隆)

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江沢民は中国が世界の大国になるのを助けた(Jiang Zemin Helped China Become a Global Powerhouse

-揺るぎない手腕と批判に直面することへのいくらかの意欲によって、彼は中国を世界経済へと導いた。

ヴィクター・シン筆

2022年11月30日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/11/30/jiang-zemin-dead-obituary-china-ccp/

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江沢民中国国家主席がワシントンのホワイトハウス訪問(1997年10月29日)。

2002年に中国共産党総書記の座を退いた江沢民(1926-2022年、96歳で没)が、2000年に香港の記者を「単純過ぎ、かつ世間知らずだ」と叱責したエピソードを思い出すと、中国人は時々苦笑いを浮かべることがある。香港の次期指導者についての無邪気な質問に対する江沢民の大げさな返答は、困惑したようなつぶやきと多くの皮肉を引き起こした。香港の次期指導者について、何気ない質問に対しての江沢民の大げさな返答に困惑の声と皮肉が漏れた。

実際のところ、11月30日、上海で96歳の生涯を閉じた江沢民は、中国国民の生活を大きく変え、向上させた2つの重要な変遷を監督し、主導した。第一に、何十年もかけて互いに粛清し合い、時に大きな痛みと悲しみを与えた中国建国の革命家たちの影から国を平和的に導き出したことである。第二に、当初は躊躇しながらも、江沢民は市場経済を受け入れるようになった。中国がゼロ新型コロナウイルス政策の圧力に苦闘し、先週末には全国的な抗議運動が起こった後、江沢民の統治は多くの人にとって相対的な希望の期間となったように思われる。

江沢民は、その直前の鄧小平(Deng Xiaoping、1904-1997年、92歳で没)を含むどの指導者よりも、まず外国からの直接投資を歓迎し、最終的には世界貿易機関(World Trade OrganizationWTO)への加盟によって中国を世界経済に溶け込ませた。そして、世界貿易機関への加盟を実現し、中国を世界的な経済大国に押し上げた。

しかし、江沢民の生い立ちには、このようなダイナミックな役割を果たすことを示唆するようなものはほとんどなかった。

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習近平中国国家主席(左)と話す江沢民。2017年10月24日、北京の人民大会堂で開催された第19回中国共産党大会の終盤にて。

江沢民は江蘇省の揚州市で育った。当時、伝統的な農業中心主義と近代的な工業化経済の間で移行期にあった社会であり、政治的混乱が絶えない場所だった。揚州での子供時代、江沢民は中国医学の有名な開業医としての祖父の地位と富の恩恵を受け継いだ。彼の父親は訓練を受けた技術者で、西洋様式の企業で働き、家族に比較的快適な環境を提供していた。

しかし、江沢民に最も大きな影響を与えたのは、叔父の江上青(Jiang Shangqing、1911-1939年、28歳で死)であった。日本軍、国民党政府、軍閥と戦う共産主義者のリーダーとして、江上青は幼い頃からその浮き沈みの激しいキャリアを目の当たりにしてきた。江沢民が9歳になる前、日本が中国中央部を侵略する前、国民党当局は江上青が教えていた学校で共産主義のプロパガンダを広めたとして2度投獄している。

1930年代後半、日本軍が中国東部の主要都市を征服した後、共産主義ゲリラ軍は、安徽省、江蘇省、浙江省で日本の占領者に対して複雑な闘争を繰り広げた。共産軍は中国国民党軍と地主たちが組織する民兵と協力して戦った。共産党新路軍の地方司令官である張勁夫(Zhang Jingfu、1914-2015年、101歳で没)は、江上青を安徽省北部の共産党軍の副司令官という重要な地位に任命した。しかし、それからわずか数カ月後、江上青に対して個人的な恨みを抱いていた地元の地主が共謀して彼を殺害した。 1939年の彼の死の状況は不明のままだが、江上青は死後、故人の近親者に公式および非公式の利益を与える「革命的殉教者(revolutionary martyr)」という名誉を与えられた。江上青の場合、彼の甥であり、死後に養子となった江沢民は、彼の殉教者の地位の最大の受益者になった。

江沢民は叔父の活躍ぶりを聞かされていたはずだ。そして、革命は毛沢東の言うように「晩餐会ではない(not a dinner party)」ことも幼い頃から知っていた。江沢民は高校、大学の前半までほとんど政治から遠ざかっていた。しかし、1940年代半ば、国民党と毛沢東率いる中国共産党との間で内戦が激化すると、江沢民は密かに共産党に入党する。

1949年、中国共産党が国民党との内戦に勝利すると、江沢民と彼の世代の共産主義知識人たちは活躍の場を得ることができた。中国共産党の大軍は、文盲の農民兵が主力であり、国民党の官僚が去った後の中央・地方の複雑な官僚機構を動かすには力不足であった。中国共産党は、1949年以降、数千の工業会社を国有化し、統治上の問題をさらに深刻化させた。

中国共産党は、絶望的なまでの人材不足を補うために、1949年以前に入党した大学や高校の卒業生を直ちに権威ある地位に押し上げた。江沢民は、有名な上海交通大学の工学部を卒業し、1949年以前に働いていた上海のアイスキャンデー工場のチーフエンジニアになった。

殉職した叔父とのつながりが、江沢民のキャリアにさらなる追い風となった。新四軍で叔父の戦友だった汪道涵(Wang Daohan、1915-2005年、90歳で没)は、中国東部の工業会社を全て任された。そして、当時20代半ばだった江沢民をアイスキャンデー工場の最高経営責任者に抜擢した。この昇進は、江沢民の運命を汪道涵と新四軍閥が結びついたものだった。

1952年に汪道涵は、拡大していた第一機械省の副大臣に任命された。第一機械省は、中国におけるエンジンと通信機器の全ての民間生産を監督していた。江沢民は汪道涵の幕下に加わり、すぐに自動車製造の訓練のためにモスクワに派遣された。中国に戻ると、江沢民は第一自動車工場の上級職に任命された。このプロジェクトは、寒冷な気候の中国北東部の長春にあるソ連が支援した産業プロジェクトで、第一機械省が管理していた。次の10年間、第一自動車工場の上級職に就いた江沢民は、後に江の主要な支援者となった、周建南(Zhou Jiannan、1917-1995年、77歳で没)をはじめとする第一機械省の他の幹部たちと親しくなった。周建南は中国人民銀行総裁を務めた周小川(Zhou Xiaochuan、1948年-、74歳)の父親だ。
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当時、上海市長を務めた江沢民の写真(1985年10月)

毛沢東が1966年に文化大革命(Cultural Revolution)を開始し、中国政府と社会から「不純な(impure)」要素を排除した時、江沢民の有望なキャリアは運命づけられたように見えた。毛沢東は共産党高官の大多数を粛清し、第一機械省を含むほとんどの省庁を空洞化させた。江沢民が所属する第一機械省や他の​​省庁の若い幹部の一部は、上司と「闘う(struggle)」ために紅衛兵(Red Guards)を結成したが、江沢民は参加しなかった。その代わりに、江沢民は紅衛兵の批判の侮辱を受け、「5月7日幹部学校(May 7 cadre school)」(強制労働収容所に党がつけた婉曲的な名前)で厳しい 4年間を過ごした。

中国共産革命を成し遂げた上級のヴェテランと苦楽を共にするという江沢民の確固たる意志は、最終的に信頼できる若い同志としての彼の評判を強化することにつながった。激動の文化大革命の終盤、新四軍の派閥が鄧小平の新たな連合に加わり、権力を握って中国を統治するようになった。

汪道涵は、新4軍派閥の上級メンバーとして、重要な国務院の役職を次々と与えられた。そして、その後に上海市長に任命された。あらゆる段階で、汪道涵は彼の主要な弟子である江沢民を自分と一緒のペースで昇進させた。一方、江沢民の叔父である江上青の元新第四軍の上級司令官だった張勁夫は、中国で2番目に強力な経済機関である国家経済委員会(State Economic Commission)の局長になった。

汪道涵が対外貿易と対外直接投資を統括する新しい機関の責任者になると、江沢民もその機関の幹部になった。この経験を通じて、江沢民は、中国共産党内で数少ない対外貿易の専門家となることができた。1985年、汪道涵は上海市長を退任する際、後任に江沢民を据えるよう中央幹部に積極的に働きかけ、それを実現した。

江沢民にとって、上海市長就任は重要な出来事となった。上海市長は、上海市党委書記の1つ下の職位であるが、上海市党委書記になれば、自動的に政治局(Politburo)の局員の座に就くことができる。1987年、現職の上海市党委書記だった芮杏文(Rui Xingwen、1927-2005年、78歳で没)が北京の中央書記局に昇進すると、江沢民は芮杏文の後任として政治局入りを果たした。

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深圳経済特区創設10周年で北京において演説を行う江沢民(1990年11月26日)

1980年代末の政治的混乱状況での複数の出来事によって、江沢民は自分の野心以上にキャリア昇進加速させた。胡耀邦(Hu Yaobang、1915-1989年、73歳で没)、趙紫陽(Zhao Ziyang、1919-2005年、85歳で没)という2人の党最高幹部が、学生による抗議活動の奨励とイデオロギーの逸脱という「政治的誤り(political errors)」によって粛清され、新任の政治局員である江沢民の出番となった。1989年5月、江沢民は新四軍派閥とその盟友の支持を受け、外国貿易の専門家であることを武器に、失脚した趙紫陽の後継者として中国共産党の指導者に選ばれた。鄧小平は他の候補者を新総書記に推すこともできたが、新四軍派閥とその盟友の強い働きかけにより、江沢民を推すことになった。

江沢民の最初の数年間、不安と心配の連続であった。1989年6月4日、天安門事件で流血の弾圧を受け、中国共産党中央委員会(Central Committee)は、6月23日に急遽招集され、江沢民を総書記に「選出(vote)」した。鄧小平は数カ月で中央軍事委員会主席(chairmanship of the Central Military Commission)から退き、軍隊を指揮したことのない江沢民に軍の統制権を渡すと発表した。1989年11月末には、江沢民は中国共産党の最も重要な役職を全て名目上、兼任することになった。

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中国共産党総書記江沢民(左)は最高指導者を引退した鄧小平と握手している。1992年10月の北京での第14回中国共産党大会にて

鄧小平と親交のあった楊尚昆(Yang Shangkun、1907―1998年、91歳で没)と弟の楊白氷(Yang Baibing、1920-2013年、93で没)を中心とする人民解放軍幹部は、早くも軍部の権力強化に乗り出し、江沢民はますます人民解放軍の表看板(figurehead)に過ぎない存在になった。しかし、江沢民は革命家の子息である曾慶紅(Zeng Qinghong、1939年-、83歳)の協力を得て、1992年の第14回中国共産党大会で楊兄弟を権力の座から引きずりおろした。

この時、もう1つの危機が訪れた。1991年、鄧小平は国営経済の急速な規制緩和(deregulation)を提唱し、江沢民は窮地に立たされた。鄧小平は、国営企業で働いた経験から、鄧小平の主張を受け入れることに躊躇し、ライヴァルたちから厳しい批判を浴びることになった。しかし、江沢民はすぐに軌道修正し、鄧小平の自由化路線(liberalization drive)を支持することになる。

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1992年10月12日、第14回中国共産党大会の開幕で演説を行う江沢民

政治面で完璧な接近戦を得意とする戦士である江沢民の最大の功績は、振り返ってみると、彼が中国を革命時代から遠ざける一方で、その初期の時期を特徴付ける暴力を回避したことにあるかもしれない。

1989年から2002年まで江沢民が統治した中国では、高官の大規模な粛清は行われなかった。1997年に鄧小平が死去した際も、中国共産党の幹部はほとんど動揺することなく統治を続けた。遠華密輸事件(数十億ドル規模の文官・軍幹部が関与した事件)の反腐敗運動でさえ、数人の中国共産党幹部とその子女、そして福建省の数多くの下級幹部が罷免されたに過ぎない。

このような政治的安定が腐敗を生むことになったが、新興の民間企業や外資が国家レヴェルの激変にほとんど影響されずに成長することを可能にした。江沢民は、政治的謀略(political scheming)もさることながら、直感的な権力共有の意思によって、統治期間中、団結と前例のない政治的な平穏(tranquility)を維持した。

これに加ええて、江沢民は国家官僚としての経験を、中国の指導者としての経済政策に反映させることはなかった。鄧小平の規制緩和(deregulation)を支持し、上海の歴史的なウォーターフロントから対岸に経済特区を建設し、金融の分権化(decentralization)を支持した(その後、インフレにより金融統制が強化された)。1990年代から2000年代にかけての中国の成長にとってより重要なことは、江沢民が一貫して海外直接投資を支持し、台湾や香港を含む海外投資家への優遇策を支持したことである。

1990年代後半、WTO加盟交渉が過熱する中、江沢民は国営企業の中核層に対して、輸出量を大幅に増やす代わりに関税率の大幅な引き下げを受け入れるよう説得した。しかし、これは容易なことではなかった。新しい輸出の利益は、競争力のない国営企業ではなく、主に外国人投資家と民間企業にもたらされるからだ。しかし、江沢民の圧力と補助金増額の約束が功を奏し、中国はWTOに加盟した。

江沢民は、中国のエレクトロニクス産業で上級テクノクラートを務めた経験から、外国や国内の民間投資家たちが立ち上げた企業を含む中国のハードウェアおよびソフトウェア産業にも大きな支援を行っていた。例えば、国営小売業の多くを駆逐したアリババは、江沢民時代に創業し、後継者の胡錦濤(Hu Jintao、1942年-、79歳)の統治下でも繁栄を続けた。

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1993年11月20日、シアトルで開催されたアジア太平洋経済協力会議(Asia-Pacific Economic Cooperation conference)江沢民(左から3人目)とビル・クリントン米大統領(左から4人目)が他の各国首脳たちと共に

中国のWTO加盟は、中国の国営企業にストレスを与えたが、中国全体としては紛れもなく利益をもたらした。2000年から2019年末の間に、中国の輸出は2500億ドルから2兆5000億ドルへ、10倍も増加した。1人当たりの可処分所得も同様に同期間に8倍以上に増え、数億人の中国人、特に都市部に居住する人々の生活を大幅に向上させた。

振り返ってみれば、2000年に江沢民が香港の記者を罵倒したのも、あれほどの嘲笑を浴びるには値しなかった。ある意味で、このエピソードは江沢民支配の典型である開放性と自信を明らかにした。香港が既に中国の統治下にあったにもかかわらず、香港の自由な報道を容認し、記者と会って台本にない質問にも答えた。この記者の質問は気に入らなかったようだが、それ以上の処分は受けず、彼女は中国の指導者と対立したことを伝え続けた。

江沢民は、党の抑圧力で組織的な異論を封じ込める一方、知識人による政策批判には寛容だった。また、古典と現代、両方の外国文化を好み、外国からの訪問客にお気に入りの西洋のメロディーを聞かせるのが常だった。エイブラハム・リンカーンのゲティスバーグの演説を暗唱することもあった。このような特異性は、当時は鼻で笑われ、嘲笑されたが、現在の指導部層が、西洋文化や広い世界への江の純粋な関心を共有していないことは残念なことだ。

江沢民統治下の中国は自由でも民主的な場所でもなかったが、この地域の多くの人々は今では郷愁を覚えているかもしれない。江沢民の堅実性、彼の開放性、そして政権をマスコミや社会全体からの批判に晒す彼の意欲を人々は懐かしがっているのだろう。

※ヴィクター・シン:カリフォルニア大学サンディエゴ校国際政策・戦略大学院ホウ・ミウ・ラム記念中国・太平洋関係プログラム主任、准教授。著書に『弱者たちの連合:毛沢東の軍略から習近平の台頭まで(Coalitions of the Weak: Elite Politics in China From Mao’s Stratagem to the Rise of Xi Jinping)』がある。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 アメリカとキューバはキューバ革命以降、敵対関係にある。アメリカによる禁輸政策によってキューバは厳しい生活を強いられてきたが、バラク・オバマ政権で国交が樹立されて以降、関係は修復されてきた。しかし、ドナルド・トランプ政権は雪解けを逆行させ、バイデン政権もトランプ政権の姿勢を踏襲している。アメリカとキューバの関係は厳しい状態に戻っている。

 アメリカのキューバ政策は国内政治に影響を受けている。国内政治が外交政策に影響を与え、その逆もあるということは、ロバート・パットナムの言葉を借りれば「諸刃の外交(double-edged sword)」ということになる。具体的に述べていく。

 アメリカ政治においては、マイノリティグループが有権者として重要な役割を果たす。非白人のマイノリティグループ、例えばアフリカ系アメリカ人有権者、アジア系アメリカ人有権者は民主党の支持基盤となっている。最近では、スペイン語を母国語とするヒスパニック系有権者が存在感を増している。合法,違法での移民の数が多く、カトリック信者が多いことで避妊に消極的で子沢山ということもあり人口自体も増えている。ヒスパニック系は概して民主党の支持基盤となっている。

 その中で例外はキューバ系アメリカ人たちだ。キューバ系アメリカ人の多くは、キューバ革命勃発後にアメリカに逃れてきた人々だ。キューバ系の多くはフロリダ州に住んで。フロリダ州政治において存在感を保持している。キューバ系はキューバ革命から逃れてきた人々で、コミュニティはその時代の社会階層、階級をそのまま持ち込んでいる。そして、ヒスパニック系では珍しく、共和党支持者が多い。民主党が社会主義的だと見ているからだ。

 フロリダ州はアメリカ政治において重要な州である。大統領選挙ではフロリダ州で勝利することが重要になっている。民主、共和両党はフロリダ州で勝ちたいと考えている。そのために民主党は支持を受けられないキューバ系アメリカ人有権者を引き付けようとして、歴代政権はキューバに対して強硬な姿勢を取り続けた。ビル・クリントン、バラク・オバマ両政権が2期目にキューバに譲歩するような姿勢を見せたところ、その報復として、後継候補であるアル・ゴア、ヒラリークリントンがそれぞれフロリダ州で敗れ、大統領選挙で敗北を喫するということになった。そのために民主党としては、キューバ系アメリカ人有権者は気を遣わねばならない存在ということになる。

 アメリカ政治を見ていく場合には、マイノリティやイデオロギーに基づいた有権者のグループを見ていくことが重要である。

(貼り付けはじめ)

民主党がフロリダ州での勝利について忘れるべき理由(Why Democrats Should Forget About Winning Florida

-そうすればより良い対キューバ政策を採用することができるだろう。

ウィリアム・M・レオグランデ

2022年11月21日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/11/21/democrats-florida-republicans-cuban-american-cuba-trump-biden-obama/?tpcc=recirc_latest062921

民主党がアメリカ全土で予想以上に健闘した選挙の夜、フロリダはその例外として際立っていた。フロリダの海岸を汚した赤い波、つまりフロリダ政治に押し寄せた赤い波は、サンシャイン・ステートと呼ばれるフロリダ州がまだ競争力を持つかもしれないという民主党の幻想を一掃したのである。ロン・デサンティス州知事は、フロリダのヴェテラン政治家で、民主党候補の元知事のチャーリー・クリストに対して地滑り的な勝利を収めた。マルコ・ルビオ連邦上院議員も、民主党が擁立しうる最強候補の一人であったヴァル・デミングス連邦下院議員に対して大差で勝利した。民主党はフロリダ州の連邦下院28議席のうち20議席を失い、2020年に失った後、奪還を目指したフロリダ南部の主要議席(第27選挙区)を取り返すことができなかった。2021年、フロリダ州の近代政治史上初めて、有権者登録された共和党員が民主党員を上回った。民主党は、都市部の拠点であるタンパ、オーランド、マイアミではまだ競争力があるが、州全体では競争力を喪失した。2024年のフロリダ州で、ジョー・バイデン大統領や他の民主党の候補者たちが、デサンティスどころかドナルド・トランプ元大統領を倒すというシナリオは説得力を持たない。

民主党にとって、この暗い選挙状況に明るい兆しもある。フロリダが真っ赤に染まれば(共和党優勢になれば)、マイアミデイド郡のキューバ系アメリカ人有権者に関する予言ではなく、アメリカの外交政策上の利益に基づいてキューバ政策を再構築する自由が得られるからである。しかし、国内政治がアメリカの対キューバ政策を左右するという習慣を断ち切るのは難しいだろう。キューバ系アメリカ人が重要な支持基盤となった1980年代以来、民主党は40年にわたってこの問題に取り組んできたのである。

ビル・クリントン元大統領は、米国の対キューバ禁輸(embargo)が「失敗が証明された政策(policy of proven failure)」であることは、「半分でも頭脳を持っている人なら誰でも(anybody with half a brain)」知っていると認めている。しかし、1992年の選挙戦では、共和党のジョージ・HW・ブッシュ大統領(当時)を出し抜くために禁輸措置を強化する法案を支持し、1996年には禁輸措置を法律で定める法案に署名した。国家安全保障会議のメンバーを務めたリチャード・ファインバーグは「クリントンはどうしてもフロリダを守りたかったのだ。あれは最重要(numero uno)だった」と述べている。1992年、クリントンはフロリダ州で敗れたが、1996年には勝利している。

特にバイデン大統領の首席補佐官であるロン・クレインは、当時のアル・ゴア副大統領の首席補佐官であり、ゴア陣営の再集計委員会の顧問弁護士であった人物である。クリントンが6歳のエリアン・ゴンサレスをキューバにいる父親に返したことへの報復として、キューバ系アメリカ人は「懲罰投票(voto castigopunishment vote)」を行い、ゴアが大統領に就任することを阻止した。こうして、民主党の大統領候補がフロリダ州を制するには、少なくとも共和党の候補と同じくらいキューバに厳しくなければならない、という常識が生まれた。

バラク・オバマ前大統領は、2008年と2012年に、キューバ系アメリカ人の穏健派に対して、家族のつながり、送金や旅行に関する制限の緩和を支持する政策で、限定的にその常識に挑戦した。この戦略は成功し、オバマは2012年にキューバ系アメリカ人の約半数の票を獲得し、民主党にとって最高水準に達した。しかし、オバマでさえも、歴史的な国交正常化政策に着手したのは、無事再選を果たした後であった。

トランプがオバマのハヴァナとの和解を覆し、キューバ系アメリカ人の右派を動員することに成功したことで、一部の民主党議員はオバマの政策の人気は普通のことではないと説得された。バイデンは、共和党と同様にキューバに厳しくあろうとする既定の姿勢に戻り、トランプの経済制裁のほとんどをそのままにして、新たな制裁を追加した。バイデンは更に一歩進めて、キューバ政策を作る上で難民として国外に避難した人々に特権的な役割を与え、キューバ系アメリカ人を「重要なパートナー(a vital partner)」、「この問題についての最高の専門家(the best experts on the issue)」と呼んでいる。

このアプローチの無益さは選挙結果にも表れており、南フロリダのキューバ系アメリカ人を対象とした最近の世論調査がその理由を説明している。バイデンのキューバ政策はトランプと大差なく、圧倒的に支持されたにもかかわらず、回答者は72%対28%と圧倒的にバイデンへの不支持を表明したのだ。キューバ系アメリカ人の民主党に対する反感は、キューバ政策にとどまらず、外交・国内問題の広い範囲に及んでいる。キューバ系アメリカ人の共和党員は党員登録で民主党員を大きく上回り、今回の中間選挙の出口調査によると67%がルビオ(連邦上院議員)に、69%がデサンティス(州知事)に投票した。

フロリダ州で当面の間、民主党が選挙に勝てないので、民主党政権が国益に基づくキューバ政策を立案する自由を得たとしたら、その政策はどのようなものになるのだろうか?

体制転換(regime change)を推進する、あるいはキューバ政府をアメリカの要求に従わせるという前提から始まるだろうが、いずれのアプローチも50年以上前から連綿と続いてきた失敗の歴史がある。民主党の象徴であるフランクリン・D・ルーズベルト元大統領は、こう忠告した。「何かやれ。うまくいくなら、もっとやれ。うまくいったら、もっとやれ。うまくいかなかったら、他のことをやれ」。今こそ、他のことをする時だ。

国益に基づくキューバ政策は、アメリカとキューバが、逃れられない地理的条件によって、移民から環境保護、公衆衛生、麻薬の阻止など、協力によってのみ進展することができる重要な利益を共有していることを認識するものである。

国連でのほぼ満場一致の禁輸反対票が30年連続で記録されているように、ワシントンの敵対政策を支持する国は世界に存在しないことを認めることになる。多くのアメリカの同盟諸国、特にラテンアメリカで現在優勢な左派政権は、最近この地域を訪問したアントニー・ブリンケン米国務長官に語ったように、その政策に積極的に反対している。バイデン政権は、敵対的な政策に固執することで、5月の米州首脳会議の部分的なボイコットが示すように、その西半球の諸議題に関する議論を妨害した。これは、この地域における中国の影響力が高まっている瞬間である。

最後に、政治的・経済的に開かれたキューバを目指す現実的な政策は、ポスト・カストロ時代にキューバで進行している劇的な変化にアメリカがプラスの影響を与えようとするならば、キューバの新しい指導者や活気を増す市民社会と積極的に関わる必要があることを認識することであろう。

簡潔に述べるならば、アメリカの国益に基づく政策は、オバマが2014年12月17日に発表した政策、つまりバイデンが2020年の選挙戦で「大部分は戻す」と約束したが、そうしていない政策によく似ている。オバマの政策は、ラテンアメリカとヨーロッパのアメリカの同盟諸国によって歓迎され、潘基文前国連事務総長とローマ法王フランシスコの両者によって賞賛された。ここ数十年の米国の外交政策で、これほど普遍的な称賛を得たものは他にないだろう。もしバイデンが外交政策として意味のあるキューバ政策を作る用意があるならば、ハンドルを再発明する必要はない。ただ、ハンドルを付け戻すだけで良いのだ。

※ウィリアム・M・レオグランデ:ワシントンDCにあるアメリカン大学政治学教授。ピーター・コーンブルーと共著『キューバとのバックチャンネル:ワシントンとハヴァナとの間の交渉の隠された歴史(Back Channel to Cuba: The Hidden History of Negotiations between Washington and Havana)』がある。ツイッターアカウント:@WMLeoGrande

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(終わり)

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 古村治彦です。

 ヒラリー・クリントンの片腕として25年にわたり、彼女に仕え続けたフ―マ・アベディン(Huma Abedin、1976年-、46歳)が政治家を目指して始動した。アベディンはインド系のイスラム教徒の家に生まれ、英語、ウルドゥ語、アラビア語を話すことができる。
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ワシントンにあるジョージワシントン大学の学生だった1996年にホワイトハウスのインターンとなり、ファーストレイディ事務局に配属となり、ヒラリーと知り合い、ヒラリーのスタッフとなった。アベディンはヒラリーがその後、ニューヨーク州選出連邦上院議員(2001-2009年)、2008年の大統領選挙出馬(途中で撤退)、オバマ政権一期目の国務長官(2009-2013年)、2016年の大統領選挙出馬(本選挙で敗退)と目まぐるしく活動していく中、影のように寄り添ってきた。ヒラリー国務長官の首席補佐官、2016年の大統領選挙のヒラリー選対では副委員長を務めた。ヒラリーはアベディンについて「自分の娘のようだ」と語っている。
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 ヒラリーがそのまま大統領まで駆け上がれば、フーマもホワイトハウスで重責を担う可能性があった。恐らく、首席補佐官になった可能性が高い。しかし、ヒラリーの大統領の目を潰したのは彼女(というよりは彼女の元配偶者)だった。ヒラリーも夫ビル・クリントンの女性問題やスキャンダルにはさんざん悩まされたが、「娘」フーマもまた、夫の性的なスキャンダルのために大きな痛手を被ることになった。

ヒラリーが国務長官を務めていた2010年、フーマ・アベディンは、ニューヨーク州選出連邦下院議員(当時)のアンソニー・ウィーナー(Anthony Weiner、1964年-、57歳)と結婚した。ウィーナーは、1992年から1998年までニューヨーク市会議員を務め、1999年から2011年まで連邦下院議員(7回連続当選)を務めた。誰もが羨む民主党系エリートカップルの誕生だ。ウィーナーは7回連続で当選中、もう少しで連邦下院民主党の指導部に入れる位置にいた。アベディンは飛ぶ鳥を落とす勢いのヒラリーの最側近、ヒラリーが女性初の大統領になればホワイトハウス入りは確実だった。二人は幸せの絶頂にあったことだろう。しかし、それも長くは続かなかった。その後、人生が大きく暗転し、アンソニーは政治の世界だけではなく実生活でも転落していく。
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 2011年5月に、アンソニーは自身の下半身写真を手違いでツイッターに掲載してしまう。すぐに削除したが、すでに時遅しで拡散され、大問題になった。この時はハッキングされた可能性について言及していた。6月にはウィーナーが自身の性的な写真を複数の醸成に送っていたこと(セクスティング、セックスとテクスティングからの造語)を認め、議員辞職にまで追い込まれた。

 こうした事件もあったが、2011年末には二人の間に息子が誕生し、何とかやり直せるのではないかという時期だったと思う。以下に掲載するのは、その時に雑誌記事と一緒に掲載された幸せそうな写真である。
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ウィーナーは出直しとして2013年4月にニューヨーク市長選挙民主党予備選挙に出馬した。フーマも懸命に支援したが、結果は得票率が5%に届かず(1位のビル・デブラシオが40%)で5位に沈み、大惨敗となった。そこからアンソニーは坂道を転が地落ちるように転落していく。その後もウィーナーのセクスティングがたびたび報じられた。議員辞職後も偽名でセクスティングを行っていたことに多くの人々が驚き、呆れた。

2016年9月、ウィーナーが未成年(15歳)の女性に対してセクスティングを行っていて、その捜査の過程で彼のパソコンが押収されたという報道が出た。これは事実であり、2017年1月に児童ポルノ法違反で起訴され、9月にはニューヨーク州連邦地裁で禁固21カ月、罰金1万ドルの有罪判決を受けた。児童ポルノ法違反の裁判継続中に、フーマ・アベディンとアンソニー・ウィーナーの離婚が正式に成立した。

大問題となったのは、ウィーナーの事件からヒラリーのEメール問題が再燃したことだ。2016年10月、ウィーナーの事件に関係して、FBIが夫妻共同のパソコンを押収した。その中に残っていたアベディンのEメール約65万通のメールも捜査の対象とした。その中に、クリントンの自宅の私用メールサーバーが送受信したメッセージが何千通も含まれている可能性があることが発覚した。そのために、FBI長官ジェイムズ・コーミーは大統領選挙直前になって、捜査再開を命令した。FBIによるヒラリーEメール問題捜査再開のために、ヒラリーは大統領選挙に敗れたと言われている。アベディンにしてみれば、生き地獄、針の筵(むしろ)に座らされたような日々だっただろうことは容易に想像できる。

ウィーナーは服役していたが、模範囚ということで2019年に早期釈放となった。その後は、民間会社の社長を務めていたが、最近になって退任している。

 非常に劇的な展開の話だ。アベディンが「ほとんど死にそうになった」と述懐しているのも無理はない。2017年以降は表舞台から姿を消していたが、先月回想録を出版した。その中で、2000年代半ば(結婚前)に、名前を挙げていないある連邦上院議員から自室に誘われて、無理やりキスをされたという性的暴行の事実を告白し、マスコミで話題になった。アベディンの回想録出版やマスコミへの露出は「政治家を目指す」ためのものであるという見方が一般的だ。子育てもひと段落して、まだ40代半ばと若いうちに、政治家になるという意思を持つことは理解できる。

 夫やパートナーの女性問題(性的な問題)で悩まされる女性たちはどこの国にもたくさんいるだろう。フーマ・アベディンは、そうした「バカな男たちにさんざん苦労させられた」女性たち(ヒラリーを筆頭に)の支持を集めて、連邦下院議員くらいならば当選する可能性はある。また、彼女がヒラリーの子飼いということを考えると、現在、民主党内で存在感を増している進歩主義派(好戦的なヒラリーに対して批判を行っている)への刺客となる可能性もある。来年の中間選挙に向けて、彼女の動きを注目していきたい。

(貼り付けはじめ)

マ・アベディンが最新の著作の中でアメリカ連邦上院議員から性的暴行を受けたと告白(Huma Abedin writes in new book she was sexually assaulted by US senator

マイケル・スクニール筆

2021年10月27日

『ザ・ヒル』誌

https://thehill.com/homenews/senate/578649-huma-abedin-writes-in-new-book-she-was-sexually-assaulted-by-us-senator

マ・アベディン(Huma Abedin)は、ヒラリー・クリントンの下で長年にわたり補佐役を務めてきた。また、アンソニー・ウィーナー(Anthony Weiner)元連邦下院議員(ニューヨーク州選出、民主党)とは婚姻関係にあったが、今は離婚している。アベディンは新しく本を書き、その中で、2000年代中盤頃に、名前を明かしていないがある連邦上院議員に性的暴行を受けたと告白している。

アベディンは今回『両方/そして:多様な世界におけるある人生(Both/And: A Life in Many Worlds)』という本を出版することになった。その本の中で、アベディンは、「数名の連邦上院議員と補佐官たちとワシントンのあるレストランで夕食を取り、その後、議員の家に立ち寄ってコーヒーを飲むことになった」と書いている。

彼女の本は2021年11月2日に発売される。彼女の本の原稿を入手した『ガーガディアン』紙の本によると、彼女は、2人が彼のビル内に立ち寄った後に招き入れられ、上院議員から「ソファでくつろいでください」と言われたということだ。

 アベディンは、その議員がソファで彼女の隣に座る前にコーヒーを手渡し、その後、座ってきて、彼女にキスをし始めたと述べている。

アベディンは続けて次のように書いている。「それから、全てが全く変わってしまった。彼は私の右隣に座り、左腕を私の肩に回してキスをし、舌を私の口に押し込み、私をソファに押し付けた」。

アベディンは、議員を押しのけて「大変なショックだ」と言い、「この10秒間が消え去って欲しい」とだけ言った、と述べた。

アベディンは、「この議員は驚き、自分がこれまでの彼女の意思を読み違えってしまったことについて謝罪すると述べた」と書いている。彼女は更に、「悪い結末にならないようにして帰ると決めた」とも書いている。

アベディンは続けて次のように書いている。「私は20代の時にしか思いつかなかった言葉、ごめんなさいと言いながら、できるだけ平静を装ってその場を離れた」。

クリントンの補佐役アベディンはその議員を「数日間」避けたが、最終的には連邦議事堂で自身に性的暴行した議員とすれ違ってしまったと述べている。彼が「自分たちはまだ友人関係にあるか」と尋ねた時、彼女は頷いてしまったとも書いている。

The Clinton aide said she avoided the senator “for a few days” but ultimately crossed paths with him on Capitol Hill. She recalls nodding when he asked if they were still friends.

アベディンは、「事件を葬った」とも書いている。性的暴行の疑惑にまみれた2018年のブレット・カバノーの最高裁判事指名の手続き中、自身の性的暴行の記憶が蘇ってきたとも書いている。

Abedin also writes that she “buried the incident,” adding that her memory of the alleged assault came back to mind during proceedings for Brett Kavanaugh’s nomination to the Supreme Court in 2018, which was mired by allegations of sexual assault.

アベディンは、クリスティン・ブラジー・フォードが暴行を受けたとされる事件について、「“都合よく”記憶を変えていると非難されている」という記事を読んで、自分自身の嫌な記憶が蘇ったと述べた。

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アベディンはウィーナーに対する怒りで「ほとんど死にそうになった」と語る(Abedin says anger over Weiner 'almost killed me'

ジョセフ・チョイ筆

2021年10月31日

『ザ・ヒル』誌

https://thehill.com/homenews/media/579291-abedin-says-anger-over-weiner-almost-killed-me

ヒラリー・クリントンの選対で最高位の補佐役を務めたフマ・アベディンは、日曜日に放送されたテレビ番組に出演し、インタヴューに答えた。その中で、結婚相手だったアンソニー・ウィーナーについての怒りで「ほとんど死にそうになった」と述べた。

2017年、アベディンは、ウィーナーが未成年者に自分の淫らな画像を送っていたことが発覚し、ウィーナーとの離婚を申請した。2017年9月、ウィーナーは21ヶ月の実刑判決を受けた。また、性犯罪者として登録されることになった。ウィーナーは模範囚だったという理由で、景気よりも短い2019年に出所した。

CBSの番組「サンディ・モーニング」に出演し、司会者のノラ・オドネルから、離婚に至った数々のスキャンダルを起こしたウィーナーにまだ怒りを持っているのかと聞かれ、アベディンは「私はもうあの人と同じ空間では生きることができません」と答えた。

アベディンは「私は疲れ果てました。ほとんど死にそうになりました」と語った。

アベディンは、交際を始めて更に結婚の話をし始めた頃に、ウィーナーの携帯電話に入っていた別の女性からの「非常に誘惑的なメール」をめぐる出来事についてオドネルに詳細を述べた。

「私はショックを受けました。そして、すぐに彼にこれを見せて、これは何?説明してくれない?と言いました。彼は説明してくれました。彼は公的な人物であり、人々は常に彼とコミュニケーションをとっていたのですからね」とアベディンは語っている。

アベディンは、新しい回顧録『両方/そして:多様な世界におけるある人生』の中で、この時のことを "警告のサイン "と書いている。

二人が結婚して1年が経った2011年、ツイッターに投稿した性的な写真が別の女性に向けられたものであったことを認めた。アベディンは、スキャンダルによって匿名性が失われたことを嘆いた。

アベディンはオドネルに対して「私は匿名であることを好んでいました。私は自分自身について書かれたものを読みません。これまでも決して読みませんでした」と述べた。

アベディンは、2013年にウィーナーがニューヨーク市長選挙に出馬した際に、表向きは彼を支援しながら、「多くの傷を負っていった」と述べた。

彼女は現在のウィーナーとの関係について問われ、「良好」であり、彼の人生が上手くいくことを祈っているとも述べた。

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マ・アベディンは選挙で公職に就くことについて「私は全ての可能性について”ノー”とは言いません」と語る(Huma Abedin on bid for political office: 'I'm not saying no to anything'

マイケル・スクニール筆

2021年11月1日

『ザ・ヒル』誌

https://thehill.com/homenews/campaign/579396-huma-abedin-on-bid-for-political-office-im-not-saying-no-to-anything

ヒラリー・クリントンの長年の補佐役をつけ、アンソニー・ウィーナー元連邦下院議員(ニューヨーク州選出、民主党)と婚姻関係にあったフマ・アベディンは、いつの日か選挙に出て公職に就く可能性を排除しなかった。彼女はインタヴューの中で、「私は全ての可能性についてノーとは言いません」と答えた。

アベディンは、NBCの番組「トゥディ」に出演し、選挙に出て公職に就くかどうか質問された。彼女はテレビプロデューサーのションダ・ライムスの言葉を引用し、司会者のサヴァンナ・ガスリーに対して、「私にとって全てに対してイエスという年です。私は全ての可能性についてノーとは言いません」と答えた。

ガスリーが続けて、それはいつの日か選挙に出るということかと念押しをされると、アベディンは「そのことについては分からないということになりますね」と答えた。

彼女自身の将来全体についてどう考えているかと質問され、アベディンは、ガスリーに対して、本を書き、その宣伝活動を行っていることで、「全く新しい章」に入ったと答えた。アベディンは火曜日に『両方/そして:多様な世界におけるある人生』を発売する。

アベディンは次のように述べた。「私は人生で初めてのことをあなたと一緒に今やっているんですよ、サヴァンナ。私が大人になって初めてのことでおののいています。私は自分自身のことを明らかにして、それを公表しています。私は人生の次の章に進むことをとても楽しみにしているんですよ」。

アベディンは25年にわたりヒラリー・クリントンに仕えた。ホワイトハウスのファーストレイディオフィスでのインターンからワシントンDCでのキャリアをスタートさせた。そして、連邦上院、国務省、そして大統領選挙と様々な場所でヒラリーについていった。

政治に関わっている期間、アベディンは表舞台に出ないようにしていた。しかし、彼女はヒラリーとの関係を維持し続けた。しかし、現在、アベディンは政治に関わる可能性について排除していない。

アベディンの著作は既にマスコミの注目を集めている。『ガーディアン』紙が先週発表した抜粋には、2000年代中頃に、アベディンが名前を挙げていないある連邦上院議員から無理やりキスをされそうになったと書かれている。

アベディンは今週末に放送された「CBSサンディ・モーニング」に出演し、司会者ノラ・オドネルに対して、ウィーナーに対する怒りで「ほとんど死にそうになった」とも述べた。

ウィーナーが数々のスキャンダルを起こす中、アベディンは彼に寄り添い続けた。2011年に、ウィーナーは彼自身の性的に不適切な写真を多くの女性たちに送り付けたことを告白した後で、連邦下院議員を辞任した。

ウィーナーは2013年にも再びそうした写真を送った事実をつかまれた。アベディンは最終的に2016年に離婚した。この時、FBIはヒラリー・クリントンの補佐役だったアベディンのEメールをウィーナーのパソコンから発見した。このことによって、当時のFBI長官ジェイムズ・コーミーは、2020年大統領選挙の投開票日の11日前に、ヒラリー・クリントンのEメールをめぐる事件の捜査を再開させることになった。

捜査の再開によって、当時の共和党候補者ドナルド・トランプに対して、ヒラリーが大統領選挙で敗北を喫することになった、とヒラリー自信を含む多くの人々が確信している。

アベディンは、ウィーナーの捜査によって、ヒラリーのEメール問題の捜査が再開され、そのために大統領選挙で落選してしまった後、「大きな罪を背負って生きることになった」と述べ、更に、「私はその罪を背負って死んでいくことになるでしょう」とも述べた。

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 古村治彦です。

 

 先月末、第41代アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュが94歳で亡くなりました。若い人の中には、第43代アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュの父として認識している人も多いと思います。父ブッシュに関してはネガティヴなイメージが付きまといます。現職大統領で二期目を目指すも落選(ビル・クリントンが勝利)しましたし、何より、日本訪問中に晩さん会で卒倒する姿が報じられたことで、弱いイメージがついてしまいました。

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晩さん会での様子
 

 今回ご紹介する記事は、ジョージ・H・W・ブッシュを正当に評価した内容になっています。父ブッシュは共和党内部やマスコミから「弱虫」、「ヴィジョンもなくただただ慎重すぎる」という非難を浴びていました。湾岸戦争時にイラク軍に占領されたクウェートからイラク軍を撤退させ、そのままイラクに侵攻し、サダム・フセインを追い落とすこともできたはずですが、すぐに停戦しました。父ブッシュ政権に参加していたネオコン派(息子ブッシュの政権では最高幹部クラス)が大きく失望し、激怒しました。父ブッシュの慎重さを長男であるジョージ・Wも父の決断を激しく非難したという報道もなされました。


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父ブッシュと話すオバマ

 拙著『アメリカ政治の秘密』にも書きましたが、ジョージ・H・W・ブッシュを正当に評価していたのは、バラク・オバマ前大統領です。オバマ自身が、自分の目指す外交は、ジョージ・H・W・ブッシュ時代の外交だと述べたこともあります。共和党と民主党で所属政党は違いますが、共和党内のタカ派、ネオコン派よりも、オバマ大統領の方がはるかに父ブッシュを評価していました。アメリカ政治における派閥、グループに関しては、是非拙著『アメリカ政治の秘密』をお読みください。父ブッシュ政権の慎重な姿勢には、ジェイムズ・ベイカー国務長官の存在も大きく影響しました。経済が低調だったこともあり、父ブッシュは現職大統領でありながら、選挙に敗れるという恥辱にまみれました。

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ジェイムズ・ベイカーと父ブッシュ
 

 父ブッシュを破って大統領となったビル・クリントンはたびたび問題を起こし、また、下に掲載した記事にある通り、旧ソ連、ロシアに対して傲慢な態度を取りました。また、これは、妻であるヒラリー・クリントンにも引き継がれているのですが、外国の「民主化」を金科玉条のごとく掲げ、他国に介入するという驕慢さでした。クリントンの後には、息子ブッシュが当選し、アメリカ史上初めての親子での大統領となりましたが、彼の政権はネオコン派に牛耳られ、こちらもテロとの戦いと「民主化」を掲げ、海外で泥沼にはまる結果となりました。ヒラリーたち人道的介入主義派と息子ブッシュ政権内のネオコン派がアメリカの苦境を生み出したと言えます。それに対する反対の波がオバマを大統領に当選させたということになります。そのオバマが尊敬したのが父ブッシュであったということは皮肉であり、かつ当然のことと言えるでしょう。

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バーバラ夫人、父ブッシュ、ミシェル夫人、オバマ
 

 慎重で地味な姿勢はどうしても評価が低くなってしまいます。しかし、それを貫くということは、なかなかできることではありません。ある種の強さがなければできないことです。そういう意味では、ジョージ・H・W・ブッシュは強い人物だと言えるでしょう。そうしたジョージ・HW・ブッシュ元大統領の再評価はアメリカ国内でももっと進むことになるでしょう。

 

(貼り付けはじめ)

 

ジョージ・HW・ブッシュの誤解された大統領時代(George H.W. Bush’s Misunderstood Presidency

―第41代米大統領は思慮深かった。しかしかつては弱腰と嘲笑された。しかし、このような嘲笑を今でも覚えている人は少なくなった。

 

マイケル・ハーシュ筆

2018年12月1日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2018/12/01/george-h-w-bush-misunderstood-presidency-death/

 

それは1992年1月に起きた。アメリカは冷戦に続き湾岸戦争を勝利した。1か月後の1992年2月にソヴィエト連邦は公式に解体した。しかし、この当時のアメリカでは、勝利の高揚感の雰囲気は全くなかった。勝利の高揚感は後々出てくることになる。アメリカ経済は不況に見舞われ、そのためにブッシュは、10か月後の大統領選挙に敗北し、現職大統領だったにもかかわらず二期目を迎えることが出来なかった。第41代大統領ブッシュ自身は、サダム・フセインに対しては勝利を収めることが出来たがそれだけでは不十分で、経済面でより指導力を発揮しなければならないことを分かっていた。この当時、日本叩きが最高潮に達し、「アメリカの仕事はアメリカ人に」という言葉が時代の雰囲気を表わしていた。ポール・トソンガス連邦上院議員は1992年の選挙で「冷戦が終了し、勝利していたのは日本だった」と訴えた。

 

アメリカ製の自動車は世界中で売れ行きが悪く、特に日本ではそうだった。そこで、ブッシュは自動車会社のビッグ・スリーの代表者を引き連れて東京を訪問した。しかし、目的を達することは出来なかった。これがブッシュ大統領の一期のみの任期の終わりの始まりとなった。今でも人々の記憶に残っているイメージは、失敗に終わった東京における首脳会談で起きた出来事だ。長身の貴族然としたブッシュが公式晩さん会の席上で倒れ、日本の宮澤喜一首相から介抱を受けている姿だ。ブッシュは当日、テニスをプレーして脱水症状を起こしてしまった。そして、夕食会の乾杯で卒倒した。ブッシュの姿はアメリカの消化不良と過労を象徴するものとなった。

 

ジョージ・HW・ブッシュ元大統領は今週金曜日に94歳で亡くなった。ブッシュ元大統領に関しては、上記のような姿で人々に記憶されている。ブッシュ元大統領の時代は、ロナルド・レーガンとビル・クリントンに挟まれた、弱い大統領の奇妙な4年間だった。この4年間は冷戦終結とブッシュ元大統領が命名した「新しい世界秩序」の開始の時代であった。ブッシュ大統領が弱かったという評価は公平なものではない。ブッシュの評価となっている「弱さ」は、最高指導者の賢明な慎重さを示すものであって、このおかげで時代の転換を成功させ、時代の変化の中でもアメリカの優位性と世界の安定を維持することが出来たのだ。

 

ブッシュはよそよそしい、ワスプの典型的な人物として記憶されている。「サタディ・ナイト・ライヴ」でコメディアンのダナ・カーヴィーがブッシュ大統領を風刺した姿そのもの(コントの題名は「そんなに臆病にならないでよ!」)であった。また、私が所属していた雑誌『ニューズウィーク』誌が表紙にブッシュ大統領の姿と共に掲載したタイトル「“弱気の虫”と戦う(Fighting ‘The Wimp Factor)」もまた、ブッシュ大統領が弱い人物であったというイメージを人々に植え付けた。この言葉についてブッシュ家は今でも許していない。父ブッシュは第二次世界大戦の英雄なので、ブッシュ家が許さないのも当然だ。

 

ブッシュは第一次イラク戦争を勝利に導いた大統領として記憶されている。しかし、開戦から100時間で停戦し、アメリカ軍をバグダッドまで進軍させることはなかった。その当時、ブッシュの決断は多くの人々からは屈辱だ、ととらえられた。ブッシュの長男ジョージ・W・ブッシュは、1992年の大統領選挙で敗北した父に対して、過度に慎重すぎたために敗北したのだ、と非難したと報じられたことがある。サダム・フセインは権力を握り続け、父ブッシュはその翌年に自身の決断を正当化するために奔走することになった。父ブッシュは1999年に湾岸戦争に従軍した元兵士たちたちを前にして次のように説明した。「バクダッドまで進攻してイラクを占領すれば、アメリカは占領軍となる。アラブ人の土地でアメリカは孤立する。味方は誰もいないということになる。そうなれば結果は悲惨なものとなっただろう」。

 

もちろん、ブッシュ元大統領の思慮深さは正しかった。ブッシュ(父)大統領の言葉は、この当時、父の下で働いていた息子ジョージ・Wに対しての助言でもあったのだが、ジョージ・Wとアメリカが持ち続けた屈辱感があったために、父ブッシュの助言は聞き入れられることはなかった。ジョージ・W・ブッシュ大統領が、アフガニスタンにおけるアルカイーダ掃討作戦も終了していないうちに、イラクの「民主政体への転換」を目指して、イラクに侵攻し、占領するという決断を行ったことは、アメリカ史上最悪の戦略上の間違いと言っても差し支えないであろう。父ブッシュは息子の決断が史上最悪の間違いとなることを言い当てていたように見える。2003年のイラク侵攻直前の夏に、父ブッシュは『ウォールストリート・ジャーナル』紙に寄稿した論説の中で、ジョージ・Wにイラク侵攻を思いとどまるように主張した。論説の著者は、父ブッシュの大統領時代の国家安全保障問題担当大統領補佐官であり、分身とも言うべきブレント・スコウクロフトであったが、父ブッシュは論説に手を入れて完成稿にしたと多くの人々が考えた。

 

論説は「現在の状況でイラクを攻撃することは、イラクにおけるテロリスト組織を完全に破壊できない限り、私たちが現在取り組んでいる世界規模のテロリストとの戦いを大きな危険に晒すことになるだろう」という言葉で締めくくられている。

 

この言葉はそれから15年間の出来事を的確に示す碑文となった。

 

父ブッシュは今でも保守的なタカ派から疑惑の目を向けられている。冷戦終結に対処するにあたり、「彼は保守的な人物というにはあまりに穏健に過ぎた」というのが彼らの主張である。東ヨーロッパのソ連の影響圏とソ連自体が崩壊するという事態に直面した時、ブッシュとスコウクロフトはまた慎重さを発揮した。レーガン大統領のように華々しく勝利演説を行う時ではなかった。冷戦からの移行を「掌握し管理」しなければならなかった。それには相応の理由があった。崩壊したソ連から独立した各共和国から数千発の核兵器が流出していたのだ。ブッシュは、旧ソ連の民主的な体制への移行を促進するのではなく、スローダウンさせた。そして、ソ連最後の指導者となったミハイル・ゴルバチョフ、民主的に選ばれた彼の後継者ボリス・エリティンと協力して、内戦や危険な大量破壊兵器の拡散を引き起こす無秩序を回避しようと努力した。

 

繰り返すが、タカ派は激怒した。ウクライナでソ連軍の撤退に関する国民投票の準備が進められていた1991年8月1日、ブッシュはウクライナで演説を行い、その中で、「自滅をもたらすナショナリズム」に対して警告を発した。『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト、ウィリアム・サファイアはこの演説を「チキン・キエフ」演説と呼んだ。ブッシュは再び、「ヴィジョン」のないただただ慎重すぎる人物というレッテル貼りがなされた。

 

それから数十年が過ぎ、この父ブッシュの行動は、過度な慎重さと言うよりも先見の明の結果であったということが明らかになっている。アメリカの勝利の高揚感が20年続いたが、これはレーガン大統領でもブッシュ大統領でも、共和党所属の大統領が持たしたものではなかった。それは、民主党所属のビル・クリントン大統領のNATOをロシア国境まで拡大するという決断によってもたらされた。クリントン政権は1990年代初頭にロシア政府に対して自由市場に関する横柄な助言を数多く押し付けた。ロシアは「民営化」の時代となった。ロシアの一般国民はこれを「横領化(grabitization)」と呼んだ。民営化の結果は捻じ曲げられ、オリガルヒによる経済支配のドアを開くことになった。NATOの拡大、民主的資本主義のすばらしさを吹聴する単純な「歴史の終わり」メッセージを受けて、ロシア国内ではそれらに対する反発と西側の意図に対する疑義が大きくなっていった。この結果として、ロシア・ナショナリズムの旗の下でウラジミール・プーティンは権力を確固たるものとした。プーティンはロシア・ナショナリズムを利用してクリミア併合とウクライナ東部への侵攻を正当化した。

 

2016年の米大統領選挙への介入を計画した時、プーティンは、これは2014年のウクライナの選挙に対するアメリカの介入に対する報復なのだと考えたに違いない。当時のヴィクトリア・ヌーランド国務次官がウクライナの選挙の候補者たちを操る様子がテープに録音されていた。プーティンは2011年と2012年のロシアの選挙について考えたことだろう。この当時、ヒラリー・クリントン国務長官の下で、アメリカ政府の資金提供を受けた非政府組織が反プーティンのデモを称賛した。

 

アメリカ政府が独善性を弱め、ジョージ・HW・ブッシュに倣いもう少しだけ注意深くあれば、状況はより良い方向に進んでいたことだろう。

 

ジョージ・HW・ブッシュを際立たせているのは、彼の政治における勇敢さであった。いくつかの例外を除いて、彼は政策を政治によって歪めるということを拒絶した。1988年の大統領選挙で、民主党の大統領候補マイケル・デュカキスに対して、ウィリー・ホートンをテーマにした攻撃的CMを流したが、これは 例外的な行動である。このCMの内容は私たちが現在直面し、知りすぎるほど知っているアメリカの人種差別と恐怖心を煽るものであった。父ブッシュはイラクとソ連について、タカ派と勇敢に対峙した。彼の主張とやり方が正しかったことは証明されている。また、国内政策についても彼は圧力をはねのけた。1980年の米大統領選挙の共和党予備選挙で、ブッシュはレーガンに挑戦した。その際、サプライサイド経済学派の減税を行え、それでうまくいくという熱狂的な主張を「ヴードゥー経済学」とこき下ろした。これについても父ブッシュの主張は正しかった。

 

父ブッシュは常に先読みが出来る人であった。父ブッシュは、かつて述べたように、大統領が人々の支持を集めるには「ヴィジョンのように見えるもの」が必要だということを認識していた。彼は、人々が「湾岸戦争では不十分な勝利しか得られていない、サダム・フセインは権力の座に就いたままで、イラク国内のクルド人とシーア派を見捨てた」と言い出すことを分かっていた。父ブッシュは常に彼の決断は間違っていたと後悔していた。 彼は税制に関して中途半端であれば深刻な政治上のトラブルを引き起こすであろうということは分かっていた。そこで、増税はしないと公言した。「私の言うことをよく聞いてください!」と父ブッシュは大見得を切ったが、これを彼は終生悔いていた。しかし、結局造成するという決断を下した。彼は自身が正しいと考えたことを実行しただけのことだ。それは、レーガン時代に積みあがった巨額の財政赤字削減に取り組むことであった。

 

結局のところ、父ブッシュは世界を黒と白に分けるよりも、灰色として見ていたようだ。彼は規律や秩序を重んじる人物であったが、確実性に欠けた人物のように見られてしまった。

 

しかし、実際のところ、世界においては白黒はっきりつけられることは少なく、ほとんどが灰色だ。そんな中でも一つだけ確かなことがある。それは、指導者としてのジョージ・HW・ブッシュの謙虚さと慎重さが現在のワシントンにとって必要なものとなっているということだ。

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)

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