古村治彦です。

 
『元老―近代日本の真の指導者たち』(伊藤之雄著、中公新書、2016年)を皆さまにご紹介します。 


 日本の戦前の政治において、重要な役割を果たしたのが元老(げんろう)です。主に内閣総辞職後の後継総理大臣に関して天皇から諮問を受けて、候補者を奉奏するという役割を果たしました。また、国家にとって重要な決定にも参画しました。

 

 この元老は大日本帝国憲法にもまた法律にも規定がない「地位」でした。元老と考えられているのは、伊藤博文(長州、総理大臣)、黒田清隆(薩摩、総理大臣)、山縣有朋(長州、総理大臣)、松方正義(薩摩、総理大臣)、井上馨(長州、外務卿・内務大臣)、西郷従道(薩摩、海軍元帥・海軍大臣)、大山巌(薩摩、陸軍元帥・陸軍大臣)、西園寺公望(公家、総理大臣)です。明治維新をけん引した「元勲」の中でも、第1世代である、維新の三傑である西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充以外の、第1.5世代、第2世代が元老となっています。元勲と元老は重なっていますが、元勲が全て元老になっていません。

 

 私は出身が早稲田大学で、どうしても身びいきで大隈重信は元老であったのかどうか、が気になります。維新直後、大隈が築地に構えた屋敷に居候した井上馨、隣に住んで朝食のたびに大隈家に来ていた伊藤博文は、大久保利通系で、大隈が兄貴分でありました。しかし、明治14年の政変で大隈は失脚(それまで筆頭参議兼大蔵卿として日本の最高実力者でした)してしまい、それ以降は在野の政治家として立憲改進党から憲政党まで、英国流の立憲君主制を主張しました。大隈は明治の元勲たる資格(明治維新に参加、薩長土肥の一角である肥前のリーダー、大蔵卿として通貨「圓」の導入など)はあると思いますが、元老とはなっていません。

 


 元老とは、時代別には伊藤博文、山県有朋、西園寺公望といった有力者が他の有力者を選び出して、元老として遇し、内閣総辞職後の後継内閣の総理大臣について天皇から下問され、それに対して適任者を奉答するという役割を果たしました。大隈は2回目の総理大臣退任後に天皇から詔勅を受けてはいますが、他の元老とは異なった文面の詔勅であり、かつそれ以降、後継総理の奉答に加わっていないために、元老とは言えないようです。大隈は更に、自分が総理大臣を退任するに当たり、後継として加藤高明を推薦し、その実現を通して元老に対して挑戦しようとしましたが、この企ては成功しませんでした。

 

 元老たちはやがて年齢を重ね、次々と鬼籍に入っていきました。その間に、日本は弱小国から国際連盟の常任理事国となり、軍事力の面でも英米から警戒され、軍縮会議では3巨頭国の1国となりました。内政面では、政党政治が整備され、政友会と民政党の二大政党が議会での多数を争い、内閣を組織するようになりました。憲政の常道という状態が出てきました。こうなると元老の仕事はないようなものです。多数党の代表者を総理大臣にするだけのことですから、何もあれこれ悩む必要もないのです。

 

 最後の元老となった西園寺は元老を補充するのではなく、天皇の側近くに仕える内大臣と枢密院議長などが話し合って天皇に総理大臣の候補者を推薦するという非公式な制度、更には前官礼遇を受ける総理大臣経験者や枢密院議長経験者たちといった「重臣」が話し合って決める制度を作りました。政党政治が機能していれば、このような制度は必要はないですし、二大政党制が日本でも定着して発展していくと西園寺は考えていたのではないかと思います。

  


 憲法に規定がない、非公式な、「非立憲的な」存在である元老が、「憲政の常道」に従った政治の運用を行い、政党政治が確立するまでの時間を稼ぎ、橋渡しをしようとしたというのが、著者伊藤教授の主張です。更に言うと、元老は、天皇が立憲君主制下の君主として行動する際の指針を示し、必要な場合には、歯止めとなってきました。

 

 しかし、1930年代の危機の時代に入り、西園寺が期待をかけた政党政治は自滅の途を進みます。民政党は金解禁で日本経済を失速させ、政友会は陸軍に癒着してファシズムの進行に手を貸しました。五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、衆議院の多数党が内閣を組織するという政党政治(憲政の常道)は終わりました。その後、斎藤実、岡田啓介と穏健な海軍大将が政党によらない内閣を組織しました。政友会、民政党両党ともに、ライヴァルに選挙で勝利するために、それぞれ、岡田内閣の内閣審議会に参加して与党化する(民政党)、天皇機関説攻撃と憲政の常道違反で岡田内閣倒閣と民政党攻撃する(政友会)ということを行い、結局、政党政治の途を閉ざすことになりました。


 こうした姿を最晩年の西園寺は病を抱えながら、無力感を持って眺めていたことでしょう。『元老』で伊藤教授は、1937年の段階で、西園寺は老齢などを理由にして元老としての責務を果たすことを放棄したようだと述べています。そして、フランスでの留学生活以降、彼が確信していた国際協調、世界の流れとしてのデモクラシー、政党政治、議会政治が日本で定着するように細心の注意を払いながら行ってきた努力が水泡に帰す様子を眺めながら、最後の元老としてこの世を去ることになることに無常を感じたのではないかと思います。私は、西園寺が目指した「上からの民主化」路線はやはり不自然であったのではないかと思います。しかし、大正デモクラシーからの政党政治の経験が戦後に活かされたという見方も出来ると思います。

 

 元老は憲政と国際協調という2つの原理を日本政治に植え付けるための存在であり、そうした存在が亡くなった時点で戦前の日本は失敗を犯しました。現在、元老のような存在はありません。日本が再び失敗を犯さないようにするためには、私たち自身が賢くならねばなりません。

 

(終わり)


 
アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22