古村治彦です。

 

 今回は1956年の日ソ共同宣言調印までの動きをまとめた本『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』(松本俊一著、佐藤優解説、朝日選書、2012年)を読んで学んだことや感じたこと、更に昨日から考えたことを書きたいと思います

 

 本書は、1966年に朝日新聞社から出版された『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』を新たなタイトルにし、更に元外交官の佐藤優(さとうまさる、1960年~)氏の解説を付けて出版されたものです。

 


 本書の主題は、日ソ国交回復に向けた交渉と1956年の日ソ共同宣言調印までの動きです。1955年1月に動き出した日ソ国交回復の動きは、ロンドンとモスクワでの交渉を経て、1956年10月の日ソ共同宣言の調印で終わります。この2年間の動きを、当事者である松本俊一が克明に描き出しています。

 

 私が今回この本を読もうと思った理由は、今年の12月15日に安倍晋三首相がロシアのウラジミール・プーティン大統領を地元の山口県に招待し、下関にある有名な料亭旅館である春帆楼(しゅんぱんろう、日清戦争後に、日本側代表・伊藤博文、清国側代表・李鴻章が下関条約について話し合った場所)で、日露間にとって、なかなか取れない棘のようになっている領土問題を解決する意向であるということを受けて、60年前にはどのような交渉が行われたのかを知りたいと思ったことです。

 

 今回の日ロ交渉では、安倍首相の参謀役となっている鈴木宗男元議員は、歯舞、色丹の返還と+アルファで日ロ平和条約締結まで行きたいと考えているようです。この鈴木氏の懐刀となっているのが今回ご紹介する本の解説をしている佐藤優氏です。

 

(貼り付けはじめ)

 

2島+アルファ」で解決を=北方領土交渉で鈴木宗男氏

 

時事通信 10/29() 14:57配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161029-00000051-jij-pol

 

 ロシア外交に詳しい鈴木宗男元北海道・沖縄開発庁長官は時事通信のインタビューに応じ、北方領土交渉について、歯舞群島と色丹島の返還に加え、国後島の共同統治などで合意する「2島プラスアルファ」の解決策が現実的だとの考えを明らかにした。

 

 

 鈴木氏はプーチン政権要人らとパイプがあり、安倍晋三首相と北方領土問題をめぐり意見交換を重ねている。

 

 平和条約締結後の歯舞、色丹2島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言について、鈴木氏は「プーチン大統領も認めている。ここがスタートラインだ」と指摘。その上で「何がプラスアルファで出てくるかで判断すべきだ」と述べ、国後島の共同統治のほか、同島への経済特区導入や元島民の自由往来、周辺海域の漁業権獲得などをロシア側が受け入れれば、平和条約締結に踏み切るべきだと主張した。

 

 鈴木氏は、国後、択捉両島について「その2島を返せ、と声高に唱えることは現実的ではない」との認識を表明。「ロシアの世論調査で8割が(北方領土を)返す必要がないと言っている。全部返すなら、プーチン氏は大変なリスクを負う」と語った。 

 

(貼り付け終わり)

 

 2つ目は、2016年11月20日に私が所属する「副島隆彦を囲む会」が主催いたしました第36回定例会で、鳩山由紀夫元首相をお迎えしての講演会を開催したことです。鳩山元首相の祖父にあたる鳩山一郎元首相が熱意を持って進めた日ソ交渉について知りたい、そして、鳩山由紀夫元首相は、普天間基地の移設問題で最終的に辞任に追い込まれましたが、「祖父・鳩山一郎元首相の日ソ国交回復の時にはどんな好条件と悪条件があったのか、そして、普天間基地移設問題で孫の鳩山由紀夫元首相が退陣することになったのが、それはどんな条件が足りなかったせいなのか」について考えたいと思ったことです。

 

 本書の著者、松本俊一(まつもとしゅんいち、1897~1987年)は、生粋の外交官です。1921年に東京帝国大学法学部卒業後に外務省に入省しました(24歳)。本書の解説をしている佐藤優氏によると、松本俊一は、当時の主流派である「ABC外交官(アメリカ[America]、イギリス[Britain]、中国[China]を主な勤務地とする外交官)」ではなく、フランス語圏を勤務地とする外交官でした。在ベルギー外交官補、アントワープ領次官補、在フランス大使館などフランス語圏を勤務地としています。現在の言い方で言うと、フレンチ・スクールに属していたということになります。

 

戦時下の1942年には、東條英機内閣で外務大臣となった重光葵の下で、外務次官を務めます(45歳)。また、終戦を決めた鈴木貫太郎内閣では外相の東郷茂徳の下で再び外務次官となります(48歳)。

 

 その後、公職追放となりますが、1952年に解除となり、外務省顧問に就任し、続いて、戦後初の駐英国日本大使に就任します。1955年の総選挙では、鳩山一郎(1883~1959年)率いる日本民主党から立候補して当選、代議士となります(58歳)。代議士になった直後、鳩山首相(鳩山内閣は1954年12月10日に成立)から、日ソ国交回復交渉の全権に起用されました。その後、1956年の日ソ共同宣言まで、日ソ交渉に関わり続けました。

 

 松本俊一は、1958年に岸信介内閣で内閣官房副長官に就任しますが、1963年の総選挙で落選してしまいます(66歳、3期連続当選でストップ)。その後、再び、外務省顧問となり、1965年にはヴェトナム戦争の調査団として、ヴェトナムを訪問し、報告書を提出、その中に、「アメリカの敗北は避けられない」と書き、物議をかもしました。また、この年から1969年まで日本アラブ協会会長も務めました。対米従属を第一とする戦後の主流外交官とは一線を画す存在であったと言えます。それは、彼が今でいうところのフレンチ・スクールに属していたからであろうと思います。ヴェトナム戦争の調査団に抜擢され、アメリカの敗北を予想できたのも、フランス語が堪能であったので、アメリカ側からの情報だけではなく、地元ヴェトナム人の声を理解できたからだと思います。

 

 日ソ共同宣言調印に至る過程にはいくつかの段階があります。

 

1.はじまり(ソ連側からの接触と日本側の交渉開始決定):1954年12月―1955年5月

2.ロンドン交渉(松本俊一全権とヤコフ・マリク全権との間の交渉):1955年6月―1956年3月

3.漁業交渉(河野一郎全権[農水相]とニコライ・ブルガーニン首相との間の話し合い):1956年3月―1956年5月

4.モスクワ交渉(重光葵全権とドミトリー・シェピーロフ全権との間の交渉):1956年7月―9月

5.モスクワ交渉(鳩山一郎首相とブルガーニン首相、ニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記との間の交渉):1956年9月―10月

 

 日ソ国交回復は1954年12月に鳩山一郎内閣が発足してから動き出すことになります。日ソ国交回復はソ連側からの打診で始まりますが、日本側としても、シベリアに抑留されている日本人の帰還を実現させるためにソ連への接触が必要でした。しかし、鳩山政権成立まで、日ソがコンタクトを取るという雰囲気にはありませんでした。太平洋戦争の最終盤にソ連がまだ効力を持っていた日ソ不可侵条約を無視して満州と樺太、千島列島に侵攻し、日本人を多数連行してシベリアに抑留して強制労働させていたことに反感がありましたし(これについては今でも日本側には残っていると言えます)、冷戦が始まり、アメリカ率いる西側自由主義陣営に属することになった日本が軽々にソ連と交渉することは難しいという事情がありました。また、上記のような理由から、吉田茂や重光葵といった外務省出身の政治指導者たちにはソ連に対しての不信感もありました。

 

 鳩山一郎は日ソの国交回復(日ソ平和条約[戦争状態を止める条約]締結)と抑留された日本人の帰還、国連加盟を主張していました。ソ連側は鳩山政権成立が日ソ交渉を始めるタイミングだということで、鳩山一郎に話を持ちかけました。そして、鳩山一郎は代議士に当選したばかりの、外交官出身(米英系ではないフレンチスクール)の松本俊一を交渉全権に抜擢しました。

 

 1955年から松本俊一全権とヤコブ・マリク全権による交渉がロンドンで開始されました。焦点は日本人抑留者の早期帰還、国連加盟と北方領土問題でした。抑留者の期間に関しては、双方ともに異論はなかったわけですが、北方領土(国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島)の返還問題では日ソ双方の意見は平行線をたどりました。歴史的経緯から見れば、これらの島々は日本に帰属すべきものですが、実質的にはソ連が占領している状態です。

 

 ソ連側としては、歯舞群島と色丹島の返還(国後島、択捉島はソ連に)で手を打って、それで日ソ平和友好条約を締結するつもりでした。松本全権も、「この条件での交渉妥結、平和条約締結が妥当」という判断を下しました。しかし、国内の反鳩山である吉田茂をはじめとする人々はこのような条件には絶対反対でした。

 

 その後、1956年7月に重光葵外相(松本俊一の外務省・代議士を通じての先輩)が全権としてモスクワに乗り込んでのドミトリー・シェピーロフ(外相)全権との交渉が開始されました。重光葵は四島返還を強硬に主張し、松本と対立していました。しかし、モスクワ交渉を通じて態度を豹変させ、「二島返還を可とする」という内容の電報を日本に送ることになります。この時、重光は首相の座を狙っており、日ソ交渉妥結、日ソ平和条約締結を自分の手柄にしようとし、強い態度で交渉に臨み、しかし、最後まで頑張ったが最後は妥協せざるを得なかったが成果は得たという演出をしようとしたのではないか、と松本は推測しています。しかし、日本に残っていた鳩山首相や側近の河野一郎農相は、重光の態度豹変を受け入れられない(二島返還に反対ではないが)、もっと頑張るようにと返事を送りました。

 

 このモスクワ交渉が行われている1956年8月19日、重光外相はロンドンの米国大使館を訪問し、ジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談しました。この時、ダレス長官は、「日本が国後島と択捉島を放棄するのなら、サンフランシスコ講和条約第26条に基づいて、沖縄をアメリカに併合する」と述べました。これは「ダレスの恫喝」と呼ばれるものです。サンフランシスコ講和条約第26条では、日本がある外国と戦後処理で講和条約締結内容以上の利益を与える場合には、講和条約締結国にもそれと同程度の利益を与えられねばならない、というもので、貿易協定における最恵国待遇と同じような内容であると言えます。

 

 沖縄をアメリカに併合されてはたまりません。また、これはアメリカが二島返還で妥協しての日ソ平和条約締結を望んでいないことのシグナルであるということになり、日ソ平和条約締結を諦め、共同宣言方式で、領土問題は残っていることを確認しながら、国交回復ということになりました。

 

 日本の日ソ平和条約締結を阻止する形になった、ジョン・フォスター・ダレスは、日弁安保体制の「設計者」とも言える人物です。ダレスは、日米安保体制の根幹を「アメリカが、日本国内の好きな場所に、必要な規模で、いつでも、そして必要な期間に基地を置くことが出来る」ことに設定しました。そして、この状況は残念ながら全く変わっていません。この戦後の日本の「対米従属」「植民地化」の枠組みを決めたダレスが、日本の独自外交である日ソ交渉を阻害したのは、「日ソ間で大きな懸案を残すことで、日本がアメリカから離れないようにする」という目的もあったと思われます。

 

 昨日、沖縄に配備されていたオスプレイが墜落大破するという事件が起きました。翌日から安倍晋三首相とウラジミール・プーティン大統領との間で北方領土問題に関して「新しいアプローチ」づくりによる問題解決を目指す交渉が行われるというタイミングで事件は起きてしまいました。

 

また、日露首脳会談の前に、既に北方領土返還はほぼ不可能であるという内容の報道もなされています。それは、ロシア側が北方領土を返還した場合に、そこに米軍基地を置くのかという問いをし、それに対して、日本側は「その可能性を排除できない」と答えたことで、ロシア側が態度を硬化させたというものであり、「ロシア側は日本が独自に決定できない」ことに懸念を持っているというものでした。

 

 ロシアにしてみれば、自分が持っている限りは絶対に米軍基地など作らせない需要な地域を日本に引き渡して、そこに米軍基地が作られてしまえば、歴史に残るほどの大失態になります。ですから、返還をする場合には慎重の上にも慎重を期して、米軍基地を作らせないという確約が欲しいですし、それがないなら、わざわざ返還する必要はないということになります。現実的には米軍基地が作られる可能性はかなり低い、ほぼないと言っても、そこをうやむやにしたままにはできません。

 

 日本側にしてみれば、北方領土返還と日露平和友好条約締結は、戦後処理の大きなパートということになります。しかし、「米軍基地を作らせない」ということを日本が独自に決めることはできません。それは、日米安保体制の根幹は、その設計者であり、日ソ交渉の妥協を阻害したダレスが設定したように、「日本国内の好きな場所に米軍基地を作ることが出来る」ということだからです。北方領土をその例外にしてしまうと、つまり、日本国内に米軍基地を作ることが出来ない場所が出現すると、その「例外」が「前例」となってしまい、日米安保体制の根幹を崩すアリの一穴になってしまう可能性が出てきます。

 

 日米両国内の日米安保体制維持によって利益を得ている人々、既得権を持っている人々にしてみれば、これは大変危険なことです。

 

 このように考えていくと、二島返還+アルファか、四島返還かということ以前に、「日本の領土となることは、米軍基地建設がされる場所になること」ということになり、これは、領土交渉や国境画定交渉において大きな障害となります。

 

 近代国家を構成する三要素は、国民、国土、国境であり、その中で主権が存在します。主権とは、国家を構成する枠組みや形を決める権利ですが、日本にはそれを独自に決められないということであり、この点では残念ながら、近代国家の要件を実質的に一部書いている半主権国家と言うことができ、これは属国、従属国と言い換えることができると思います。

 

 日本は、経済規模は世界有数の大きさであるが、半主権国家である、という前提から物事を見ていくということの重要性を改めて認識しています。

 

(終わり)