古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:原発

 古村治彦です。

 

 今回は、『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(児玉博著、小学館、2017年)をご紹介します。一気に読めてしまう好著です。

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テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅

 

 東芝は、不正経理問題や子会社ウェスティングハウスの破綻問題により、大きなダメージを受けました。日本を代表する電機メーカーで売り上げは6兆円、社員は20万人の大企業が破綻するかどうかの瀬戸際まで追い込まれてしまいました。日本で育ち、生きてきた人たちの多くは日曜日の夕方、テレビで「笑点」、「ちびまる子ちゃん」、「サザエさん」を見ているうちに夕ご飯という経験を持っていると思います。「サザエさん」のスポンサーが東芝でしたが、これも撤退するということになりました。私は、何か、日本の一部が失われるという感じがしました。


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 西田厚聰

 本書の主人公は、西田厚聰(にしだあつとし、1943-2017年)という人物です。西田は、31歳で東京大学法学政治学研究科の博士課程の学生という学究の道を捨て、東芝に海外現地採用社員(イラン)として入社し、後に社長・会長を歴任した異色の経歴の持ち主です。学歴は置いておいても、年功序列がまだまだ厳然と残っている時代に、大学に現役で入学し、4年で卒業した人よりも10年も遅れて入社した形の人が最終的に社長・会長になったというのは、大企業では他に例がないでしょう。大学入学時に1年浪人、大学卒業までに5年(1年留年)くらいまでだったら、ハンディにはならない、と言われますが、10年というのは想像もつかない絶望的な差です。10年の差を埋めるだけの力があったということは間違いないところで、『テヘランからきた男』でも、西田の器の大きさと頭脳明晰さ、突破力が随所に描かれています。

 

 西田厚聰は三重県の田舎で、教師の家に生まれました。子供の頃から努力家で、地元の尾鷲高校から二年浪人して早稲田大学に進学しました。二年の浪人で何をしていたのかは本に書かれていませんが、東大や京大を受験していたということです。早稲田大学の学生時代の話もあまり書かれていません。西田が進学した当時は60年安保も終息していた頃で、ブントも終わっており、学生運動が過激さを増していく頃でした。西田も学生運動に参加し、下宿を何度も変わったと書かれています。恐らく、過激な学生運動のセクトに関わり、セクト間での抗争に巻き込まれたのだろうと推察されます。

 

 早稲田大学では授業に出る余裕もなかったそうですが、ドイツ語で政治学の原書に挑戦するという一面もあったそうです。卒業後に東京大学大学院の修士課程に進学します。専攻は政治思想史、指導教授は福田歓一(ふくだかんいち、1923-2007年)でした。『政治学史』やアイザイア・バーリンの翻訳で知られた政治学の重鎮です。西田はドイツの思想家ヨハン・フィヒテ(Johann Fichte、1762-1812年)を専門にしていたそうです。福田は西田を厳しく指導し、原点を厳格に解釈することを教えたそうです

 

 西田は福田に非常に期待されていました。博士課程に進学する際に西田を含む2名が合格しましたが、福田は西田以外の学生に就職することを勧めたので、西田だけが博士課程に進学しました。そのままいれば東大は無理にしてもどこかの大学の専任講師はまず間違いなかったでしょう。西田が途中で博士課程を中退したのは、学部が東大法学部ではなかったので、東大教授にはなれないと考えたからだ、という話があるそうです。しかし、これは正しくないでしょう。そもそもそんなことは東大修士課程に入る時点で分かっていることです。ドラマ「白い巨塔」で描かれたような醜い出世争いや東大出身でなければダメということは西田には分っていたはずです。西田は学究の道から離れたことについて、迷惑がかかる人がいるということでその理由を絶対に話しませんでした。ですが、東大教授になれないと分かったからということはないと私は考えます。

 

 西田は東大大学院在学中に日本に留学生として来ていたイラン人学生ファルディン・モタメディと出会い恋に落ちたそうです。ファルディン・モタメディは日本思想史の大家である丸山眞男(1914-1996年)の薫陶を受けた人物です。丸山の著書『「文明論の概略」を読む』(岩波書店、1986年)にはファルディンが丸山の許で福沢諭吉の思想を勉強したいと述べるシーンが出てきます。

 

 西田は福田の期待に応えました。岩波書店の月刊誌『思想』に26歳で論文を掲載しました。これは政治思想の世界では大変なことです。しかし、西田は、イランに帰国したファルディンを追いかけて学究の途を捨てました。

 

 その頃、東芝はイランに合弁で電球工場を建設することになりました。日本人写真たちは苦労していたようですが、そこに現れたのが日本語をはじめ欧米諸国の言語が出来るファルディンでした。ファルディンは東芝の工場建設に関わるようになりましたが、自分の恋人がイランにやって来て結婚式を挙げる、彼を雇って欲しいということになりました。この人物が西田です。東芝側は、学者上がり(もしくは崩れ)は使いづらいと考えていたようですが、現地採用となりました。

 

 西田は社会経験は少ないのですが、学者臭くなく、好奇心旺盛、何事にも真剣に取り組む上に語学も堪能ということで、頭角を現していきました。そして、本社採用となりました。

 

 西田は本社ではノート型コンピューターを担当し、東芝の主力商品にまで仕立て上げました。ドイツを拠点にして、ヨーロッパ中を動き回り、ノート型パソコンとそれに搭載するOSを作り上げ、売って売って売りまくりました。西田の活躍は痛快な冒険譚になっています。私もアメリカ留学中にノート型パソコンを買い替えようと思い、アメリカ人の友人にどの機種が良いかな、と質問したところ、「東芝が良い、丈夫で壊れないよ、アメリカでのシェアも大きいし。君は日本人なのにそんなことも知らないの」と言われてしまい、恥ずかしい思いをしました。私が東芝のパソコンを使って10年以上なりますが、それはメリカの経験からであり、東芝のパソコン事業の成功させたのが西田です。

 

 2005年に社長となった西田が行ったのが2006年の原子力メーカーのウェスティングハウス社(WH)の買収でした。東芝はジェネラル・エレクトリック社(GE)と付き合いが古く、GEが作っている沸騰水型軽水炉(BWR)を採用していました。しかし、東芝は、世界の趨勢は、加圧水型軽水炉(PWR)だと考え、PWRを製造しているWH社の買収に踏み切りました。WH社と古くから付き合いがあったのは三菱重工業でした。東芝はWH社買収で、最後の最後で三菱重工業の横やりも入りましたが、最終的に6600億円での買収に成功しました。東芝は原子力分野で1位、半導体分野で3位という世界最大の電機メーカーとなりました。

 

 しかし、半導体は価格が下がり、リーマン・ショック後で需要も下がってしまい、売り上げが落ちてしまいました。結果、2009年に社長の座から退きました。その後、会長となりましたが、2011年3月11日の東日本大震災と原発事故で原発建設などがストプすることになりました。そして、WH社は破綻し、その影響を受けて東芝も危機的状況に陥りました。原発事業拡大を進めた西田に対する非難の声も出ました。しかし、東日本大震災までは、原発は気候変動に対する有効な解決策ということで、拡大していっていたのですから、西田の判断を後付けの理由で非難するのは間違っていると思います。

 

 さて、私は西田厚聰という人物を主人公に据えた本書『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』は、大学教育と企業の関係の在り方についてヒントがあるのだろうと思います。日本の大学は長年にわたりレジャーランドと呼ばれ、入るのは大変だが出るのは簡単、授業に出なくても単位を取ることが出来る、企業も大学で変に勉強されるよりも社会性を身に着けておいて欲しい、教育は入社してからこちらでビシビシやる、ということになっていました。そして、大学教育は十年一日のごとし、教授は使い古したノートを毎年毎年読むだけ、学生は試験前にノートのコピーを集め勉強するのはまだよい方で、何も準備せずにテストを受けて「単位をください」と書いてしまうなんてことになりました。大学側はどうせ学生のほぼ全員が企業に入るのだから厳しく学問を仕込むことなんか望まれていないのだから手を抜けばいいということになりました。

 

 しかし、最近では世の中が「世知辛く」なったのか、大学できちんと教育をして社会に送り出せ、企業で役立つ教育をせよ、ということになっています。これに対して、大学でどのような教育をすべきか模索されています。

 

 私は西田厚聰という人物の生き方がこの問題にヒントを与えてくれるのではないかと思います。西田は学問研究に没頭しながら、10年も遅れて企業に飛び込み、成功しました。彼は政治学を学び、その中には企業内で仕事をするうえで役に立った知識もあるでしょう。しかし、その細かい知識や理論などはほぼ役に立つことは無かったでしょう。

 

 私は西田が成功したのは、方法論と「頭脳を酷使する」経験があったからだろうと思います。学問は何か問題を設定しそれを解決するものです。そこで解決する方法はそれぞれの学問分野に存在するのですが、問題を設定し、解決するという方法論をきちんと身に着けていた、そして、その解決に向かって頭脳を使い切る、「頭脳を酷使する」ということを知っていたのだろうと思います。西田の学んだ政治思想史の方法論は、徹底した原典主義と時代背景を含めた根拠のある解釈です。西田が難しい技術書を読みこなし、何が重要なのかを理解し、周囲を驚かせたのはこうした方法論に忠実であった、そして頭脳を酷使することに慣れていたということが西田の特徴として挙げられるでしょう。

 

 大学で学生に教える際に、日本ではこれらの点があまり行われていないのではないかと思います。方法論(methodology)を身に着け、頭脳を酷使するということが大学内で行われるようになれば、社会や企業からの要求に応えられる卒業生を送り出すことが出来るのではないかと思います。

 

(終わり))

 

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 古村治彦です。

 

 私の仲間である相田英男さんのデビュー作『東芝はなぜ原発で失敗したのか』が2017年10月7日に発売となります。現役の原子力エンジニアである相田さんが、2011年3月11日の東日本大震災による翌日の福島第一原発の爆発事故や、東芝の経営危機について的確な分析をしています。原子力エンジニアの冷徹な目で、様々な現象を私たちに分かりやすく説明してくれています。原発や東芝の経営危機について知りたいと思っている方々には必読の書となっております。


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東芝はなぜ原発で失敗したのか

 

 以下に副島隆彦先生の推薦文、目次、あとがきを掲載いたします。ご参考にしていただき、是非、手に取ってお読みください。

 

(貼りつけはじめ)

 

推薦文                                 副島隆彦

 

 名門企業、東芝が経営危機に陥って、日本人はみんな驚き、心配している。

 

 本書、『東芝はなぜ原発で失敗したのか』の著者、相田英男氏は、現在、国内の大手重電機メーカーに勤務している。原子力発電機器に使用される金属材料の解析の専門家である。

機械材料の評価、分析を業務として行っている。原発の製造管理の本当の専門家である。

 

 相田氏は、2011年3月11日に起きた福島第1原発事故についても本書で優れた論究を行っている。

 

 そして、原発事故から4年後の2015年1月に、東芝の不正経理問題が起きた。新聞記事で騒がれた。この時から東芝の経営危機が表面化した。続いて2016年10月、東芝の子会社であるはずのウェスティングハウス社の7000億円( 64億ドル)にも上る赤字が表面化した。現在、会社再建の手続き( 米連邦破産法(べいれんぽうはさんほう)チャプター11(イレブン)条項の適用)に入っている。このために東芝本体が大きな打撃を受けている。東芝自体の再出発の目途(めど)が見えない。

 

 78年の歴史を誇る東芝(1939年創業)は、日本を代表する一流大企業である。ここの屋台骨が突如、グラグラと揺れて、私たちを驚かせた。本書『東芝はなぜ原発で失敗したのか』で相田氏は原子力技術に携わった専門家の目から、この重大な課題に鋭く切り込んでいる。東芝の経営危機について産業紙や経済誌にたくさん載ったあれらの東芝問題についての記事を書いた記者やジャーナリストたちとは、業界内部からの目を持つ相田氏の書き方は一味ちがう。

 

 相田氏は現役の原子力工学者であるとともに原子物理学を綿密に学んだ者としての、正確な知識を積み重ねて、「東芝が何なにゆえ故に大きく躓つまずいたか、その本当の理由」を追究して、大きく解明している。本書に見られるのは、そのための驚くべき理論構築力である。この本を読む者は、その筆致(ひっち)の妙(たえ)に驚くだろう。

 

 アメリカの原発メーカーの専業の草分けであるウェスティングハウス社が誇った原発「AP1000」の栄光の歴史、そして転落、蹉跌(さてつ)だけでなく、遠くわが国の原発製造の歴史の全体像までを論じている。

 

 東芝問題の真の原因をつくったのは、GE(ゼネラル・エレクトリック)という世界一の巨大電気メーカーだったのである。けしてウェスティングハウスという原発専門企業の破綻と、それが日本に及ぼした迷惑にとどまらないのだ。GEこそは東芝破綻の元凶であり、真犯人であった。

 

 この本を読むと、著者相田氏が、単に理科系の技術者であるにとどまらない、人並みならぬ文科系の教養人としての素そ よう 養までを持っていることがわかる。

 

 日本の原子力開発史の全体像までが見えてくる。本書を強く推薦する所以(ゆえん)である。

 

  2017年9月                           副島隆彦

 

=====

 

東芝はなぜ原発で失敗したのか 目次

 

推薦文 副島隆彦 3

 

第1章 東芝が原発事業で失敗した本当の理由

 

東芝とはどういう会社か 12

ビリヤード理論で見れば理解できる 17

ガスタービンがなぜ重要か 19

日本のタービンメーカーの試練 25

三菱重工の逆襲 30

巻きぞえを食わされた東芝 35

問題の核心は原発事業だった 40

 

第2章 ハゲタカたちの饗宴とその終結

 

「AP1000」の建設プロジェクト破綻の経緯 54

東芝より先に潰れていたGE 71

東芝はGEに見捨てられた 76

GEのエージェントだった西室泰三 83

東芝と同じく海外企業買収で躓いた日本郵政 88

 

第3章 今後の世界「原発」事業の行方

 

統一教会に入信し、中曽根のブレーンになった物理学者・福田信之 94

東芝、日立、三菱の実力と今後 97

フランス、ドイツ、ロシアの事情 107

中国の原発技術は、すでに日本を超えている 110

アメリカの原発建設はもう完成しない!? 112

 

第4章 歪められた原子力の導入 ―右と左の対立の狭間で―

 

福島原発事故を生み出した50年以上前の対立 116

武谷三男と素粒子論グループ 121

日本学術会議という団体 128

「札束でひっぱたく」の真実 139

原子力の三原則 148

左翼物理学者たちの排斥 153

矢内原提案と伏見の敗北 158

素粒子論グループ最後の抵抗 167

塵と化した反対運動 173

 

第5章 日本初の原発はテロの標的とされた ―原子力反対派よ、一度でよい、菊池正士に詫びよ―

 

「原子力の日」の前日に行われたストライキ 176

日本原子力研究所の発足 177

原子の火、灯る 180

嵯峨根遼吉、原研を去る 183

菊池正士の華麗なる経歴 185

紡がれる破滅への伏線 190

菊池理事長の嘆きと怒り 195

非情なる裁断 202

運命に絡め取られた菊池理事長 214

解体されゆく原研 217

その後のJPDR 225

JPDR失敗の真実 228

原研にも「設計」を熟知した研究者がいた 232

菊池の遺言 238

 

第6章 原発止めれば日本は滅ぶ

 

一瞬のうちに文明を葬り去るカルデラ噴火 246

巨大な自然災害に備えるための「新世代型」原発 250

科学とは副作用の強い薬のようなもの 257

 

おわりに「破滅へと宿命づけられた東芝と日本の原子力開発」 259

 

=====

 

おわりに「破滅へと宿命づけられた東芝と日本の原子力開発」        相田英男

 

 東芝の不正会計問題は、2015年前半から始まった。それから2年経って巨大な総合電機会社の存続を揺るがすまで広がった。こんな事態を誰が予想しただろうか。


 問題が発覚した以降の東芝は、坂道をころがり落ちるように破滅へと向かった。1.虎の子メディカル事業のキヤノンへの売却。2.ウェスティングハウスのチャプター11(日本の産業再生法に当たる)手続の申請。3.本社の管理部門と研究開発部門以外の実働部隊のすべてを別会社へ分離。4.最大の稼ぎ頭であるフラッシュメモリー事業の売却準備。これらの強烈な企業リストラを進めざるを得ない状況に追い込まれた。


 東芝は日本を代表する名門企業である。それでも一民間会社に過ぎないから、経営判断を失敗すると破綻に至る。これはおかしな話ではない。しかし私が強く感じるのは、ここに至る道は、東芝内部の当事者たちの努力では変えられない運命だったということだ。確かに2006年のウェスティングハウス買収以降に起きた、いくつかの不幸な出来事が重なって引き金を弾いた。それでもそれ以外のいつかのタイミングで、東芝はこの結末を迎えざるを得なかった。東芝という会社が1939年に誕生した瞬間から、今の結末がビルトインされていた。私にはそのように思えてならない。


 東芝の破綻を招いた重要な要素として、マスコミの記事と数冊の出版物で語られたとおり西室、西田、佐々木ら歴代社長たちの間の醜い確執と、それを取巻く重役たち、社外取締役、監査法人のメンバーの無能さが挙げられるだろう。


 しかし、彼ら東芝内部の人物たちが危機的状況を変えようと、いかに努力しても、動かしようのない強力なバイアスが、外部から東芝には掛かっていたのだ。企業の技術者社員が日々の仕事をする際にも、同じ目に見えない強い思考のバイアスを受けてきた。これは評論家の副島隆彦氏が提唱した「属国・日本論」につながる問題である。本書の前半では、アメリカの属国である日本論を元に、今回の東芝事件について説明した。もっと具体的には、属国・日本論の元のモデルである「ビリヤード理論」によって、東芝が破綻に至った理由について解説した。


 これは定められた運命だった、と私が感じるもう1つの出来事は、やはり2011年の3・11福島第1原発事故である。福島原発事故の概要についての説明は最小限にとどめる。不要だろう。事故を起こした原発の所有者である東京電力は、日本国中から非難が浴びせられ、勝俣恒久元会長ら旧経営陣3人の責任を追及する刑事裁判が、2016年6月末から始まった。


 しかし私は、福島原発の事故についての責任を、東電に対してのみ追及する風潮に、違和感をずっと感じている。東電と経済産業省(原子力委員会)と原発メーカーという原発推進派の責任は、確かに重い。しかし原発反対派も、これ見よがしに、「東電の経営陣は事故を当然ながら予見できていたはずだ」などと、声高に訴えることができるのか、という疑問が私の頭の中から消えない。この自己疑問に答えを出そうと私は福島事故の後から、戦後の日本が原子力を導入してきた歴史に関する文献を、少しずつ集めて読み込んだ。原発反対派に対する違和感を、福島事故が起こる前から私は感じていた。


 過去の文献を読み込んだ私の結論を簡単に言う。福島原発事故の責任は、東電だけでなく原発反対派にもある、ということだ。私の理解では、東電と同じくらい事故に対する責任が、原発反対派にもあると言わざるをえない。


 私がこんなことを主張しても、誰も相手にしないだろう。だが、私が本書で書いた真実を曲げることはできない。その証拠の1つが、今から53年前の1964年の衆議院科学技術振興委員会の議事録に、はっきりと記録されている。原発事故についての国会での審議の内容だ。この時も大きな事件が起きていた。反対派のメンバーは、反省などしなかった。事件そのものがなかったかのごとくその後も振るまい続けた。その結果が、53年後に福島原発のメルトダウン事故に繋がった。福島原発事故の原因は、50年前にビルトインされていたのである。


 本書の後半は、福島事故の引き金になったともいえる、53年前のこの「事件」の全貌と、それに至る戦後日本の原子力技術導入の歴史と人間模様について記した。この事件は、日本の原子力開発史上最も重要なイベントだったにもかかわらず、関係者とマスコミはほとんど取り上げなかった。体制派(原発推進派)と反対派の両方にとってあまりに都合が悪かったので、闇に葬って隠してしまった。ここまできたら、もうそうはいくか、である。


 私はこれまで重電会社の原子力に関する部門で、構造材料の強度の研究とそれの顕微鏡観察という材料分析を行ってきた。火力システムには直接関与しなかった。しかし、火力にも興味があったので、自分で勉強したり、電力会社の知人から話を聞いたりした。その知識を元にしてまとめたのが本書である。


 3・11以来、若い理科系の技術者たちの原子力開発への期待は薄れるばかりだ。しかし日本の原子力開発の過程で先人がやったことは、そこまで馬鹿でも無様でもない。困難に立ち向かい、砕け散りながらも、希望を繋ごうとした優れた者たちが、原子力ムラにもいた。この事実を、若い人に伝えることが私の願いである。この本に触れた若い人たちが、原子力を少しでも前向きに見てくれれば、私としてはとても嬉しい。

 

(貼りつけ終わり)

 

(終わり)

アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12






野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23


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