古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:国際関係論

 古村治彦です。

 今回は少し難しい話になる。と言っても、「そんなことは当たり前ではないか」ということでもある。そして、「学者たちは物事をどんどん細かくしていって、かえって物事が見えなくなり、大きな理解ができなくなっているんだ」ということが分かってもらえる話になると思う。

 政治学という学問は大きなくくりであり、その中に様々な学問分野がある。方法論、比較政治、政治思想、日本政治やアメリカ政治など一国の国内政治、国際関係論といった分野が存在する。そして、それぞれの中でまた細分化がなされている。政治学の教授もしくは研究者というのは政治学全体の大隊の知識は持っているが、当然のことながら自分の専門を深く研究することになる。そうなると、たこつぼ的な状況が出てきてしまうのは仕方がない。医学を例にして考えてみても、内科から外科、泌尿器科、産婦人科、皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科などなど多岐にわたる。それぞれを全て極めた医師は存在しなのではないかと思う。

 政治学に統合されたアプローチが必要という議論がある。これは理解できることであるが、これは非常に難しいことだ。政治学を含む社会科学の目的とは、社会で起きる様々な現象を分析し説明することから最終的には法則の発見であるが、これは大変に難しい。法則とは全ての環境で機能するもので、これが分かれば「予測」ができるということになるが、人間が絡む社会においてはそのような予測は難しい。統合されたアプローチは今のところ不可能である。

 ただ、政治という人間の営為ということになればそうも言ってはいられない。国家を運営する、政策を立案し、実行するということになれば、諸理論に経験や知識をプラスして、「大戦略」を作らねばならない。専門家のような狭く深い見方ではなく、深さは少なくても広さは気宇壮大なものであるべきだ。

 アメリカの外交政策や安全保障政策分野で考えてみると、弁護士や外交官として経験を積み、もしくは研究者として研究をしながら、抜擢されて国務次官補代理や国防次官補代理になって外交や安全保障の分野で経験と専門性を高め、評価を高めていくパターンが多い。そうした中で、専門性と知識と経験を高め、より多くの材料や要素を取り入れながら、また時には多くの材料を取捨選択しながら、政策を立案し、政策判断を下すということになる。

 日本に「大戦略」があるだろうか? 残念ながら見当たらない。場当たり的でかつアメリカの言いなりになっておけばよいということが大戦略の代わりになっている。しかし、それではアメリカの衰退が進む中で、羅針盤がない中で公開をする船と同じになってしまう。つまり、どこの港にも着けないということになる。

(貼り付けはじめ)

大戦略は十分に壮大ではない(Grand Strategy Isn’t Grand Enough

―世界最高の国家安全保障の専門家たちは、外交政策のあらゆる側面を研究することを知っている。しかし、それだけでは十分ではない。

アラスディア・ロバーツ筆

2018年2月20日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2018/02/20/grand-strategy-isnt-grand-enough/?utm_content=bufferf8a38&utm_medium=social&utm_source=facebook.com&utm_campaign=buffer

大戦略(Grand Strategy)は、外交政策と国家安全保障の専門家たちにとってよく知られている概念だ。大戦略の意味は長年にわたり膨張してきた。専門家の中には、肥大化しすぎてもはや役に立たないと考える人もいる。しかし、それは間違いである。大戦略の本当の問題は、それが十分に壮大でない(not grand enough)ということだ。

19世紀、大戦略とは実際に戦争をすることであった。一つの作戦地域にいる司令官は、敵を倒すための戦略を持っており、最高司令官は、多くの作戦地域に軍隊を展開するための大規模な計画を持っていた。ある文筆家は、1904年に、大戦略とは「陸上と水上にある国家の全武力」のことだと説明した。

総力戦の到来で、その概念は拡大した。エーリッヒ・ルーデンドルフ元帥が主張したように、戦争の勝利が国家の物理的、精神的な力の総動員に依存するならば、戦時計画も同様の大規模な範囲を持つべきであると考えたのである。BH・リデル・ハートは、大戦略を「社会・経済活動のあらゆる側面を戦争目的の達成に向けて指導する国家政策」と定義した。他の専門家も1942年に、「大戦略の基本は戦争と戦争が起こる社会との相互関係である」 ということに同意している。

冷戦が始まると、その概念は再び拡大した。大戦略は、依然として社会のあらゆる資源を動員することに関係していた。しかし、その目的はより曖昧になった。2度の世界大戦期間中、各国首脳は実際の戦争に関心を寄せていた。対照的に、第二次世界大戦後、各大国は数十年にわたる地位の優位をめぐる争いに巻き込まれた。このように、今日の大戦略は、トーマス・クリステンセンが定義するように、平時においても戦時においても「力と国家の安全を高めるために設計された国内および国際政策のフルパッケージ」である。

大戦略の理論化は、実際の意思決定のあり方とほとんど関係がない、と批判する人々もいる。現実の世界では、国内政策と国際政策の適切な調整はほぼ不可能であるという議論もある。指導者たちは先見性を備えていないし、明確に定義された目標に向かって安定したコースを維持することはない。むしろ、現状維持(status quo)を変化させ、実験をし、危機から危機へ移らせることが多い。

このような批判は、ほとんど見当違いである。漸進主義(incrementalism)や実験主義(experimentalism)は、不確実性(uncertainty)や政治的党派性(political polarization)がある状況では、多くは妥当な反応ということになる。更に重要なのは、実際の政策の方向性が不規則であったり、効果がなかったりするからといって、指導者たちが戦略を軽視していることにはならないことである。戦略的に振る舞おうとしても、それがあまり得意でない指導者もいる。しかし、下手な作家がやはり作家であるように、無能な戦略家もやはり戦略家である。また、どんなに綿密な計画を立てていても、出来事によって混乱に陥ることがある。

指導者たちは状況に応じて戦略を立てなければならない。世界は激動する危険な場所であり、指導者たちは重要な利益を損なわないようにするために、外交領域を無視することはできない。指導者たちは外交に携わらなければならない。それぞれの決断は、目的と手段、そして他の決断への影響について、何らかの計算(some calculation)によってなされなければならない。これらは、大戦略の基本である。専門家は戦略の質を高めようとするが、指導者たちが戦略的に行動しようとする衝動は既に存在している。

しかし、ここに難しさがある。国内政治の世界もまた同様に裏切りの世界だ。現実主義の大御所マキャベリは、君主は二つの恐怖を持たねばならないと警告した。「一つは臣下に由来する内なる恐怖、もう一つは外国の権力に由来する外なる恐怖」である。民主政治体制国家では、内政に不手際を起こした指導者たちは次の選挙で放り出される。独裁国家では、クーデター(coups)で倒される。また、不器用な指導者は、突然、国家が崩壊していることに気がつくこともある。外交の危機が指導者たちを戦略に向かわせるのなら、内政もまたその通りである。

これは容易に想像がつく。指導者たちは、秩序、繁栄、正義、そして自らの任期中の生存といった、国内の重要な利益に対する脅威を管理するための政治プログラムを常に洗練させている。彼らは、これらの利益を確保するために、社会的資源を動員し、政策手段を調整しようとする。言い換えれば、彼らは国内大戦略(domestic grand strategy)を策定する。指導者の中には、これをうまくこなす者もいるが、全ての指導者が大戦略策定を行うよう駆り立てられる。

これら2つの大戦略、外交分野の大戦略と国内分野の大戦略は、相互に密接に関係している。国内の平穏(tranquility at home)は経済成長に依存しており、国家の指導者たちは資源と市場を海外に求める。国内世論が揺れ動く中で、対外戦争は開始され、もしくは中止される。選挙権の拡大、福祉国家の建設、公民権の保護など、指導者たちは国内で譲歩を行い、海外でのキャンペーンへの支持を高める。主要な同盟諸国との貿易協定を強化するために、国内の規制権限が削減されるなどなどが行われる。この2つの大戦略の絡まり方のスタイルは無限大に存在する。

しかしながら、ここで私たちは概念的な問題に直面する。もし、外交と国内の二つの大戦略があるとすれば、どちらか一方が本当の大戦略ということになるのだろうか。また、指導者たちは本当にこのように考えているのだろうか。私たちはこれらの問いに対する答えを知っている。指導者たちはマキアヴェッリの言う2つの恐怖を別々の箱に入れてはいない。彼らは両方を同時に管理し、国内と海外の圧力を同時に調整する首尾一貫したアプローチ、すなわち統治のための単一の戦略(single strategy for governing)を探し求めている。

レーガン主義(Reaganism)は、国内と国外を切り離すことができない単一のドクトリンであった。クリントン主義(Clintonism)もそうだった。トランプ主義(Trumpism)、プーティン主義(Putinism)、「習近平思想(Xi Jinping thought)」も同様だ。

従来の大戦略は、決して大戦略ではない。より大きなものの一面であり、統治するための全体的な戦略である。このことを認識し、大戦略の概念をそれなりに拡張している専門家もいる。ピーター・トルボウィッツは、大戦略を「国家指導者たちが行政権力を維持・強化しようとする手段」であり、単に外交政策上の目標を追求するための手段ではないと定義している。また、アンドリュー・モナハンは最近の著書で、大戦略を「国家の利益を促進するために国家のあらゆる資源を用いることであり、認識されている敵や現実の敵から国家を守ることも含まれる」と定義している。これらの定義は、国家戦略をより広く、より統合的に見るために、分析を一段階上に進めようとするものである。しかし、結局のところ、大戦略の研究は、国家安全保障と外交政策の問題に留まっているのが通常の姿だ。

これはある程度、学問的な便宜の問題だ。学界には、国内政策と外交政策を二分する長い伝統がある。しかし、このような概念的な区分は、指導者が実際に考える方法とは関係がない。リアリズムでは、統治のための戦略についてより広い視野が求められる。

より広範な視点を持つことには3つの利点がある。1990年代に予測された市場民主主義(market democracy)が世界的に拡大し、それに収れんする(convergence)という予測は実現されていない。大国の統治戦略が再び大きく相違する時代に突入している。今後数十年間、競合する各国家戦略の利点をめぐる議論が展開されるであろう。20世紀初頭、1930年代、そして冷戦期、私たちはこれらの時代にそうした議論を経験している。どの国の改革者も、ライヴァル国のパフォーマンスに対する判断に影響を受けるだろう。その際、改革派は内政と外交を切り離して考えることはない。その際、改革派は内政と外交を分けて考えるのではなく、他国の実績を総合的に判断する。学者の役割は、このような世界的な議論を構成する手助けをすることである。私たちの理論的ツールキットが現実の会話を反映したものであれば、より効果的にこれを行うことができる。

国策に関する従来の常識が崩れた瞬間に、戦略を大きく把握することは有効だ。アメリカは今、このような瞬間に苦しんでいる。国内政策と外交政策についての古い共通理解(consensus)が崩れ、その断片を新しい構成に組み直すのに苦労している。国家政策の全体的なデザインについて話し合う必要がある。内政や外交の部分を切り離して考えるべきではない。そのためには、大戦略よりも大きな器が必要である。

広範な視野が持つ3つ目の利点は何だろうか?それは「真実性(Verisimilitude[ヴェリシミリチュード]、訳者註:英語ではtruthlikeliness)」だ。近代大戦略の父と呼ばれるマキャベリは、外交政策や内政の指針として『君主論』を書いたという訳ではない。この本は国家戦略全般の指南書(guide to statecraft in toto)だったのだ。しかし、現実主義者にとっては、この課題から逃れることはできない。指導者に区分けは許されないし、学者もそうであってはならない。

(貼り付け終わり)

(終わり)

※6月28日には、副島先生のウクライナ戦争に関する最新分析『プーチンを罠に嵌め、策略に陥れた英米ディープ・ステイトはウクライナ戦争を第3次世界大戦にする』が発売になります。


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 古村治彦です。

 2022年2月24日からのウクライナ戦争について理解する上で、国際関係論のリアリズムに基づいた分析は非常に有効だと私は考えている。現在のリアリズムを代表する、ジョン・J・ミアシャイマーとスティーヴン・M・ウォルトの論稿を数々ご紹介しているのはそのためだ。
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ウォルト(左)とミアシャイマー

 今回、ウォルト教授が「どうしてリアリズムは憎まれるのか」というテーマで書いた論稿をご紹介する。リアリズムはウクライナ戦争を理解する上で重要な分析を提供してくれる。また、このような事態を引き起こすことになるので、EUNATOを東方に拡大することでロシアを刺激するな、と警告を発してきた。そして実際に戦争という悲劇が起きてしまった。

 リアリズムは基本的に物事を悲観的にとらえる。明日に向かって希望がある、理想に向かって良くなるという考え方をしない。そのために、どうしても「暗く」なってしまう。それが嫌われる原因になってしまう。しかし、これは私個人の意見であるが、物事を過剰に心配しすぎるのは良くないが、心配を持ちながら対処するのは人生において重要なことではないかと思う。「転ばぬ先の杖」という言葉もある。悪いことが起きると備えておくことは人生訓として重要だ。これで理想主義的な考えを持つ人々に好かれない。

 リアリズムはどのような形態の国家でもあっても、それが一般的に「良い国家」と見られていようが、「悪い国家」と見られていようが、国家は生存と国益のために行動し、生存と国益が危ういとなればどんなことでもするという考え方だ。それがたとえ民主国家であろうが、独裁国家であろうがそれは変わらないと考える。このような考えをすれば、自国至上主義的なナショナリストたちに嫌われる。

 そして、リアリズムに基づく予測や分析が正しいほどに嫌われることもある。それは、リアリズムの予測や分析が「暗い」ものであるからだ。しかし、結局それらが当たってしまうというところに現実世界の厳しさがある。現実世界がそのように厳しいものだというところから世界観を構築することが「転ばぬ先の杖」ということになるだろう。

(貼り付けはじめ)

人々は何故リアリズムをそこまで憎むのか?(Why Do People Hate Realism So Much?

-この学派が全てを説明できる訳ではない。しかし、この学派の信奉者たちは、ウクライナ戦争が勃発するかなり前からウクライナをめぐり戦争が起きる可能性を予測していた。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年6月13日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/06/13/why-do-people-hate-realism-so-much/

政治学者ロバート・ギルピンは、かつて「誰も政治的リアリストを愛さない」と書いた。ウクライナの悲劇が現実主義バッシングを引き起こした今日、彼の嘆きは特に適切であるように思われる。バッシングをしている人物たちの一部を挙げる。『アトランティック』誌のアン・アップルバウムとトム・ニコルス、コロンビア大学教授で本誌コラムニストアダム・トゥーズが『ニュー・ステイツマン』誌に掲載した論稿、トロント大学のセヴァ・ガニツキー教授、ランド研究所のマイケル・マザールといった人々がリアリズムを批判した。アメリカと世界の政策について常に最も洞察力のある主張をする、オブザーバーの一人である『フィナンシャル・タイムズ』紙のエドワード・ルースでさえ、最近「外交政策の“リアリズム”派は最近酷い報道を受けているが、そのほとんどは当然といえば当然だ」と論評している。

この怒りの多くは私の同僚で以前共に著書を出したジョン・J・ミアシャイマーに向けられたものだ。怒りの理由の一つはロシア・ウクライナ危機を引き起こしたのは欧米が大きな役割を果たしたからだという彼の見解が、彼は「親プーティン」になっているのだという奇妙な主張と、彼の攻撃的リアリズム(offensive realism)の理論に対する重大な誤読に基づくものだ。

もう一人の怒りの対象は元国務長官ヘンリー・キッシンジャーである。キッシンジャーは最近、モスクワとの和平交渉、ウクライナの領土問題での妥協、ロシアとの永久的な断絶の回避などを求める発言を行っている。こうした発言は現実主義の道徳的破綻を露呈したものと見なされている。以下に述べるように、キッシンジャーは現実主義の伝統の中では外れ者であるが、リアリズムの批判者たちにとっては都合のよい引きたて役の対象であることは間違いない。

この皮肉は見逃せない。リアリストたちの中にはいろいろな考えがあるが、リアリストたちは全体として西側の対ロシア、対ウクライナ政策が深刻な事態を招くと繰り返し警告していた。しかし、NATOの門戸開放政策がヨーロッパの恒久平和につながると主張する人々は、その警告を平然と無視したのだ。戦争が始まり、人命が失われ、ウクライナが破壊されている現在、NATOの開放的な拡大を支持する人々は、理想主義的な幻想を捨て、これらの問題について、ようやく冷静にそしてリアリズムに基づいて考えているだろうとリアリストたちは考えた。しかし、その逆が起きている。NATOを拡大すればヨーロッパに広大な平和地帯が生まれると信じていた人々は、ロシアが完全に敗北し、大きく弱体化するまで戦争を続けるよう主張している。

この現象は、アメリカ国内でリアリズムがほぼ人気がないことを考えれば、それほど驚くことでもない。国際関係学の重要な伝統としてリアリズムは認識されているが、かなりの反感を買うこともある。例えば、2010年にカリフォルニア大学サンディエゴ校のデイヴィッド・レイク教授が世界国際関係学会の会長講演で、リアリズムやその他のパラダイムを「宗派(sects)」「病理(pathologies)」と批判し、「重要な研究」から注意感心をそらすものだと指摘した。1990年代、リベラルな価値観が世界に広がっていると多くの人が信じていた頃、政治学者のジョン・ヴァスケスは『アメリカ政治学レヴュー』に浩瀚な論文を発表し、リアリズムは「退化した」研究プログラムであり、破棄されるべきものであると主張した。

それでは、何故これほど多くの人々がリアリズムを激しく憎むのだろうか? 私はこの問題に関して最も客観的な判断ができないかもしれませんが、次のように考えている。

リアリズムというのは、たとえ穏健なものであっても、政治に対してより暗い見方をする。人間には救いようのない欠陥があり、個人や人々が形成する社会集団の利害対立を全て排除する方法はないと想定しているのだ。さらに、リアリズムの全てのバージョンは、合意を強制し、国家が互いに攻撃するのを防ぐことができる包括的な世界的権威の不在から生じる不安を強調する。暴力が起こりうる場合、部族、都市国家、ストリートギャング、民兵、民族、国家など、あらゆる種類の人間集団は、自分たちをより安全にする方法を模索し、つまり、権力争いに強く傾斜していくことになる。

批判者の一部が主張するのとは逆に、リアリストたちはこれらの特徴を、国家がとりうるあらゆる行動を決定する鉄則とは考えていない。また、協力が不可能であるとか、国際的な制度に価値がないとも考えていないし、人間が自国の利益を守るために様々な選択をする主体性を欠いているとも考えていない。リアリストたちは、国際的な無秩序(つまり、包括的な中央政府の不在)が国家間の競争と競合の強力な誘因を生み出すと主張している。

多くの人々にとってこのような悲観的な人間観を受け入れることに抵抗があるのは理解することは難しくない。特にそうした悲観的な状況から抜け出す術はないとなれば尚更のことだ。しかし、本当の問題は、「リアリズムは国際政治についての正確に見る考え方なのか?」ということだ。人類の歴史を通じて起こり、今日まで続いている紛争や争い、そして国家が自国の安全保障に懸念を持つ傾向を考えると、リアリズムの明白な根拠は強い。

第二に、リアリズムがパワーポリティクスを重視することから、リアリズムの支持者たちは軍事力に過度に固執し、タカ派的な解決策を好む傾向があると考える人が多い。しかし、この考え方は誤りである。キッシンジャー(彼はヴェトナム戦争ではタカ派で、2003年のアメリカのイラク侵攻を支持した)を除けば、最も著名なリアリストたちは概してハト派に傾いていた。ジョージ・F・ケナン、ラインホルド・ニーバー、ウォルター・リップマン、ハンス・J・モーゲンソー、ケネス・ウォルツはいずれも米国のヴェトナム参戦について早くから批判しており、彼らの学問的後継者たちは2003年のブッシュ政権のイラク戦争への進撃に強硬に反対した。

第三に、リアリズムは、倫理的・道徳的配慮に無関心である、もしくは敵対的であるとさえ見なされている。リアリズムの理論的枠組みが明示的に価値や理想を組み込んでいない以上、この主張には一部の真実がある。リアリズムとは、その名の通り、世界をありたい姿ではなく(not as we might like it to be)、「ありのまま(as it really is)」に世界を捉えようとするものである。しかし、マイケル・デッシュやその他の専門家たちが指摘するように、リアリストの多くは深い道徳的コミットメントに導かれており、国際政治の悲劇性と、そうでない行動を取るべきという圧力にもかかわらず道徳的に行動しようとすることの重要性の両方を意識している。リアリストたちにとって、高貴な目標や善意は、その結果としての選択がより大きな不安や人間の苦しみをもたらすのであれば、十分なものではないということになる。

第四に、リアリズムがアメリカで不人気なのは、アメリカの例外主義(American exceptionalism、アメリカは唯一無二の道徳的存在であり、常に人類のより大きな利益のために行動するという考え)の広範な信条と相反するためだ。リアリストたちにとって、中央政府のない世界で安全と独立を維持する必要性から、まったく異なる特徴を持つ国家が驚くほど似たような行動を取ることがよくある。例えば、アメリカと旧ソヴィエト連邦は、国内秩序、政治イデオロギー、経済システムの面でこれ以上ないほど異なっていた。しかし、冷戦時代の競争の圧力により、それぞれが大規模な同盟を結び、それを主導し、できる限りそれぞれのイデオロギーを広め、何万もの核兵器を作り、他国に介入し、破壊的な代理戦争を行い、外国の指導者を暗殺するようになった。競争の中にあって、この全く異なる2つの国は、むしろ類似した外交政策を生み出した。

確かに、リアリストたちは、国際政治は国内政治と無関係ではないと認識している。例えば、ナチス・ドイツとエドワード朝時代のイギリスとの間には重要な違いがあることを理解している。しかし、リアリストたちが世界を「良い」国家と「悪い」国家に分け、世界の問題のほとんどを後者のせいにしているのに対し、リアリストたちは、確立された民主政治体制国家でさえ、自国の重要な利益が危うくなると、他国に対して恐ろしいことをすることを認めている。

例えば、1960年代、ジョンソン政権は南ヴェトナムが共産主義世界の一部になることを心配し、太平洋を渡って戦うために50万人近い兵士を送り込んだが、そのうちの5万8千人は帰って来なかった。米軍はナパーム弾や枯葉剤を使用し、約800万トンの兵器を投下した。それがうまくいかないと、ニクソン政権はカンボジアに侵攻し、脆弱な政府を弱体化させ、大量虐殺を行うクメール・ルージュ政権を知らず知らずのうちに手助けしてしまった。ヴェトナムは弱小国であり、アメリカ本土から8000マイル以上離れていた。しかし、その指導者たちは、これらの行動がアメリカの国家安全保障のために必要であると自分たちに言い聞かせていたのだ。

1979年7月、それから10年も経たないうちに、カーター政権は、ニカラグアの民衆蜂起が親アメリカの独裁者アナスタシオ・ソモサを倒したことに危機感を持った。それは、2014年2月にウクライナのマイダン蜂起が親ロシアのヴィクトール・ヤヌコビッチ大統領を倒したのと同じである。1981年1月に政権の座に就いたレーガン政権は、ロシアがウクライナの分離主義勢力民兵を支援したように、反政府軍(コントラ)を組織して武装化することで対応した。ニカラグアは人口400万人の貧しい国であったが、アメリカはこれを深刻な脅威とみなした。ニカラグアは人口400万人の貧しい国であったが、アメリカはこれを脅威とみなし、コントラ戦争で約3万人のニカラグアの人々が犠牲になった(人口比では約250万人のアメリカ人が犠牲になったことに相当する)。

これらのアメリカの過去の不正行為の例は、今日のロシアの行為を少しも正当化するものではない。もし私たちが一貫しているならば、これらの行動(イラク侵攻を含む)は全て、戦略的・道徳的な理由から徹底的に非難されるべきものである。しかし、どのようなタイプの政府であれ、脅威を感じれば、その恐怖が時に幻想であったとしても、残忍なことを行うものだということを思い起こさせるものである。しかし、アメリカのように自らを徳の高い国だと考え、トップが過ちを認めたり、その責任を受け入れたりすることがほとんどない国では、アメリカの指導者が時に今日のウラジミール・プーティン大統領のような行動を取ってきたことを人々に思い出させることは、おそらく人々を説得する最善の方法ではないだろう。

この現象は戦時中に特に顕著であり、国民の支持を集めたいという自然の欲求から、政府は自国の大義を完全な正義であると表現し、敵対者を悪の権化のように描き出すことになる。ウクライナの悲劇にアメリカの過去の行動が関係している可能性を示唆することは、プーティンの侵攻の決定やロシア軍の行動を弁解するものではないが、この紛争を残忍な侵略者と無実の犠牲者、そして後者の善意と同様に無実の友人との単純な道徳劇として捉えようとする人々からは厳しい反応が出るに違いない。

リアリストたちは、悪事が行われること、一部の国家が他国よりも悪い行動をとることを認識している。しかし、全ての国家が不完全な世界で安全保障のために競争し、いかなる国の行動も非難を浴びない訳ではないことも理解している。このため、リアリストたちは、外交と妥協を、意見の相違を管理し、軍事力を使わずに相違を解決するための重要な手段であると考える。これに対して、リベラル派やネオコン派などの理想主義者たちは、世界のあらゆる問題の原因が悪い指導者や政権にあると考え、唯一の解決策は悪人を一掃することということになる。しかし、問題は、悪とみなされる政府を排除しようとすると、多くの人々が殺されることになる。そして、現在のウクライナ戦争のように、より広範で危険な紛争に発展しかねない状況もある。

最後に、リアリズムが不人気なのは、その支持者が正しいという厄介な傾向を持っているからである。もちろん、常にという訳ではないが、外交政策とは不確実性が蔓延する複雑な活動であり、政策立案者たちの指針となる様々な理論はせいぜい粗雑なものでしかないからだ。例えば、私自身を含め、ほとんどのリアリズムたちは、NATOが冷戦後も存続し、拡大していることに驚いた。

しかし、NATOの拡大、ペルシャ湾の二重封じ込め、イラク戦争、ウクライナの核放棄という不運な決断、中国の台頭の意味、アフガニスタンでの国づくりの愚かさなど、いくつかの例を挙げれば、リアリストたちは正しかったのである。

リアリズムを批判する多くの人々と比べれば、これは悪い記録ではない。しかし、多くの国家が多かれ少なかれリアリズムの描く通りに行動し続けたとしても、リアリズムがより一般的になるとは思えない。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト、ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー記念国際関係論教授。

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(終わり)

※6月28日には、副島先生のウクライナ戦争に関する最新分析『プーチンを罠に嵌め、策略に陥れた英米ディープ・ステイトはウクライナ戦争を第3次世界大戦にする』が発売になります。


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 古村治彦です。

 少し古い記事になるが、国際関係論の専門家382名を対象にして昨年12月から今年1月にかけて実施されたアンケート(英語ではクエスチョナリー、questionary)の結果をまとめた記事をご紹介する。このアンケートでは「ロシアが実際にウクライナに侵攻すると考えるか」「もしロシアによるウクライナ侵攻が起きたらアメリカはどのような対応をすべきと考えるか」という質問がなされた。

 結果としては、「ロシアのウクライナ侵攻が起きると考えるか」については、「イエス」が約56%、「分からない」が約24%、「ノー」が約20%だった。今回の調査対象となった専門家たちの間で、約半数が起きると考えていた。今年1月の時点ではロシアはウクライナ国境に軍を集結させていたが、専門家たちの半数は戦争が起きると考えていた。しかし、4割以上はそのようには考えていなかったということで、予測は難しいものであったと言えるだろう。「ロシアはウクライナ東部の独立を宣言した地域に軍を派遣するがそれ以上は進まない」という質問であれば「イエス」はもっと増えただろう。現在ロシア軍はウクライナ東部への注力を開始しており、結局東部確保ということになりそうである。

 続いて、「戦争が起きたらどのような対応をすべきか」と質問については、現在も行われている制裁(約90%)と武器や物資の供与(約72%)という選択肢が圧倒的な支持を得ている。アメリカ軍が直接ロシア軍と対峙することにはほとんどの専門家たちは賛成していない。やはり第三次世界大戦までエスカレートすることを恐れてのことだろう。「ロシア軍に対するサイバー攻撃」という選択肢を支持した専門家が約40%ということが興味深い。サイバー戦争は実際に人が無残に殺害される姿は見なくて済むが大きな効果がある攻撃である。サイバー攻撃が現代の戦争にとって重要なオプションになっていること、直接銃を撃ったり、ミサイル攻撃をしたりすることよりも心理的な負担が少ないので支持しやすいと考えられることが示唆されている。

 今回のウクライナ戦争について、発生の可能性については専門家たちの間でも意見は半々だった。そして戦争へのアメリカの対応は直接対峙することではなく、制裁と武器や物資の供与に留めるべきだという考えが大多数の専門家たちの答えだった。しかし、決定的な状況の大きな変化をもたらす方策がないままに武器や物資の供与を続け、しかもロシアからの天然資源の輸入を完全に止めないので代金は支払い続けているという状況では、人々の苦しみは続き、しかも西側諸国の人々の税金(これから重税が襲い掛かるだろう)で武器は大量に買われてウクライナで使われ続け、儲かって仕方がないのが軍需産業であり、益々栄耀栄華を誇るのは軍産複合体である。ウクライナのヴォロディミール・ゼレンスキー大統領が停戦を受け入れる姿勢を全く見せていないのでこのような状況がしばらく、下手をすると年単位で続くことになる。私たちが現在のような状況を耐えていけるのかという問題になってくる。

(貼り付けはじめ)

調査:ロシアはウクライナに侵攻するか?(Poll: Will Russia Invade Ukraine?

-国際関係論(International Relations)の学者たちはモスクワが軍事力を使用する可能性が高いとが、ワシントンは抑制的であるべきだと考えている。

イレイン・エントリンジャー、ガルシア・ブレインズ、ライアン・パワーズ、スーザン・ピーターソン、マイケル・J・ターニー筆

2022年1月31日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/01/31/poll-russia-ukraine-invasion-crisis-biden-response/

この6週間、ロシアはウクライナ国境周辺の軍事配備を強化し、アメリカとNATOが外交的要求、具体的には、NATOがウクライナに加盟を認めず、ロシア国境へ向けた更なるNATO拡大を停止するという法的拘束力のある約束をしないなら行動すると脅迫している。2021年12月、アメリカはNATOの門戸開放政策に変更はないと答えた。

その後、アメリカとロシアの外交官たちによる直接会談が連続して行われたが、ウクライナとの国境付近には10万人以上のロシア軍が展開している。軍事力を抑止する方法を模索する中で、多くのアナリストやジョー・バイデン米大統領までもが、ロシアがそのような行動に出ることを予測している。しかし、ロシアの脅しはハッタリで、攻撃してこないだろうという見方もある。

国際関係の専門家たちは今後何が起こると予測し、アメリカはどう対応すべきなのだろうか? ウィリアム・アンド・メアリー大学グローバル・リサーチ・インスティテュートとデンヴァー大学シーセンターが共同して設置しているティーチング、リサーチ、アンド、インターナショナル・ポリシープロジェクトは、大規模な調査の一環として、アメリカの大学・カレッジの国際関係論研究者たちにロシア・ウクライナ危機に対する見解を尋ねた。以下に報告する結果は、2021年12月16日から1月27日の間に362名の専門家たちから得られた回答に基づいている。

回答者たちは、ロシアがウクライナで軍事力を行使することを約3対1の差で予想しているが、真に不確実であるとする回答も少数派であるがある程度の割合を占めている。それにもかかわらず、国際関係論研究者たちは概して、アメリカは直接的な軍事衝突を避けるべきであると考えている。おそらく驚くべきことに、回答は調査期間中あまり変化せず、これらの予測はヘッドラインや日々の現地の変化に敏感ではないことが示唆された。

バイデン政権も国際関係論の専門家たちと同じように考えているのかもしれない。ロシアがウクライナに侵攻する可能性は高いが、不確実性も多く残っている。ロシアがウクライナに侵攻する可能性は高いが、不確実性が大きい。ロシアにコストをかけつつ、エスカレートのリスクを抑える対応を選択することが課題である。その点では、ウクライナへの軍事支援やロシアへの大幅な経済制裁など、アメリカがこれまで取ってきた措置の一部は、国際関係論の専門家たちからも広く支持されている。

●戦争発生の可能性はどれくらいか?(How likely is war?

今後1年間にロシアがウクライナ軍やウクライナ領の未占領地域に対して軍事力を行使するかという質問に対して、国際関係論の専門家たちの56%がイエスと答え、ノーと答えたのはわずか20%であった。56%は圧倒的なコンセンサスではないが、紛争の平和的解決を望む人々にとって安心できる数字ではないことは確かである。専門家たちの回答は、ウクライナで武力紛争が激化する可能性が高いことを示唆している。

国際安全保障に専門性を持つと答えた回答者は、国際安全保障を専門としない回答者(51%)よりも、ロシアが武力を行使すると予測する傾向が強い(62%)。一方、ロシアや東欧を専門とする地域研究の専門家たちは、同僚と大きく異なる予測をしている訳ではない。ロシアが軍事力を行使するとの回答は、地域研究専門家の60%に対し、他の回答者は58%であった。

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●戦争についてアメリカは何をすべきか?(What should the United States do about it?

国際関係論の研究者たちは、現在の抑止努力が失敗し、ロシアがウクライナで軍事力を行使した場合、米国は自制すべきだという意見に圧倒的に同意している。この調査では、6つの政策が提示され、回答者は妥当だと考えるもの全てにチェックを入れることができる。

その結果、専門家の間では、ロシア軍に対する直接な軍事行動への意欲はないという考えが圧倒的であり、直接軍事行動を行うという選択肢を選んだ回答者は3%未満であった。国際関係論の研究者たちが選択する外交政策は制裁であるようだ。回答者の90%近くが、ロシアが侵攻してきた場合に制裁を行うことを支持している。

また、いわゆる「最終的な援助(lethal aid)」についても、73%が「アメリカはウクライナに武器や軍事物資を追加で送るべき」と回答しており、広く支持されている。また、ロシア軍に対する攻撃的なサイバー作戦を開始することを支持する人も41%とかなり少数派で、27%の回答者がアメリカはより広い地域に軍を派遣すべきだと答えている。

最後に、専門家の22%が、アメリカは「ウクライナの領土保全を正式に保証するべきだ」と答えている。この結果は、特に直接的な軍事力の行使にほぼ全員が反対していることを考えると、解釈が難しい。正式な保証とは、ウクライナのNATO加盟を認めることかもしれないが、単に現状を継続することかもしれない。アメリカ(そして国連全加盟国)は既に他の加盟国の領土の完全性を正式に承認している。

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これまでの常識では、国際関係論の研究者たちや超党派の外交政策エスタブリッシュメントたちは、圧倒的にインターナショナリズムを志向していると考えられてきた。この考え方では、世界秩序は、人権、航行の自由、安定した世界通貨制度、あるいは国民国家の主権的な国境を守るために、アメリカのリーダーシップを世界が必要としているというものだ。過去30年間、現実主義と自制は、学界とアメリカの意思決定者の間で支持されない傾向にあった。

しかし、国際関係論の学界ではリベラル・インターナショナリズムに基づく考えが広まりつつあるにもかかわらず、調査対象の専門家たちは、ロシアの侵略に直面して国際規範を行使することで軍事的エスカレーションのリスクを冒すような政策には警戒心を抱いているようだ。これらの結果は、国際関係論の研究者たちがバイデン政権の現在の路線に同調する可能性が高いことを示唆している。

※イレイン・エントリンジャー:ウィリアム・アンド・メアリー大学のティーチング、リサーチ、アンド、インターナショナル・ポリシープロジェクトのプロジェクト・マネジャー。ツイッターアカウント:@EntringerIrene

※ライアン・パワーズ:ジョージア大学公共・国際問題大学院助教授。ツイッターアカウント:@rmpowers

※スーザン・ピーターソン:ウィリアム・アンド・メアリー大学政治学部長兼ウェンディ・エメリー記念政治学・国際関係論教授。

※マイケル・J・ターニー:ウィリアム・アンド・メアリー大学グローバル・リサーチ・インスティテュート部長兼ジョージ・メリー・ヒルトン記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@MikeTierneyIR
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 古村治彦です。

 今回は、ロシアのウクライナ侵攻を国際関係論(International RelationsIR)の諸理論でどのように分析できるのかという論稿をご紹介する。著者のスティーヴン・M・ウォルトは、ハーヴァード大学の国際関係論の教授だ。私も翻訳作業に関わった『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 1』の共著者だ(もう一人の著者はジョン・J・ミアシャイマー)。

 ウォルトは国際関係論の中のリアリズムに属する学者だ。今回の論稿では、国際関係論の諸理論を使うと、今回のロシアによるウクライナ侵攻について、どのように分析ができるかということを紹介している。その諸理論は大きく分けて4つのセクションである。それらは、(1)リアリズムとリベラリズム、(2)誤認と誤算、(3)戦争終結と関与問題、(4)経済制裁である。詳しくは論稿を読んでいただきたい。今回のロシアによるウクライナ侵攻に関して言えば、リアリズムで分析する方がより納得できるように思われる。リアリズムの方が悲観的な分析だったり予測になったりすることが多いが、現実というのは概して、期待よりも厳しい結果で終わることが世の常だ。

 現在の状況を見れば、ウクライナが優勢という状況ではないが、今であればまだウクライナにとってまだましな条件での停戦合意が達成できる可能性がある。ウクライナ軍とウクライナ国民の必死の抵抗もあり、ロシア軍は予想外の苦戦となっている。ウクライナの優先力闘は歴史に残る。しかし、EUNATOに即時加盟が許されないことに加えて、西側はお義理の支援しかできていない。ウクライナの抵抗力がどれほど継続できるかであるが、これも厳しいと見なければならない。

ロシア軍を食い止めている今こそ、交渉によって少しでもウクライナ側にとって有利な条件を引き出す(ロシアには犠牲やコストがもっと高まると認識させながら)、ということしかないように思われる。戦争のステージがよりは快適で致命的な段階に進むと、条件はより悪くなる。ヴォロディミール・ゼレンスキー大統領がより戦略的で、現実的であれば、今回のような事態にまで追い込まれることはなかったと私は考える。2つの勢力に挟まれた中堅国・小国は2つの勢力とつながって、両者の角逐を利用するしかない。昨年までであればそれも可能だった。その点では残念ながら、世界のヒーローとなっているゼレンスキー大統領は旧穀の政治家となる能力が欠如していたと言わざるを得ない。

 今となっては、西側からのロシア軍の攻勢を止めて大逆転できるだけの重要な支援(飛行禁止区域の設定や戦闘機の供与)がないとなれば、後は如何に少しでも良い条件を引き出すかの段階となっている。

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ウクライナでの戦争分析のための国際関係論の諸理論のガイド(An International Relations Theory Guide to the War in Ukraine

―どの理論が正当化され、どの理論が否定されるかについて考察する。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年3月8日

By Stephen M. Walt,

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/03/08/an-international-relations-theory-guide-to-ukraines-war/

世界は限りなく複雑であり、私たちは必然的に「世界はどのように動いているのか(how the world works)」ということについて、様々な信念や理論に基づいて、その意味を理解しようとする。全ての理論は単純化されたものであるため、国際政治に対する単一のアプローチを用いて、その時々に起こっている全てのことを説明したり、数週間後、数ヶ月後に何が起こるかを正確に予測したり、成功が保証されている正確な行動計画を提示したりすることはできない。しかし、ウクライナの悲劇がどのようにして起きたのか、現在起きていることのいくつかを説明し、複数の機会と潜在的な危険性について警告し、今後の広範な行動方針を示唆することは可能である。社会科学の最も優れた諸理論(the best social science theories)も粗雑(crude)であり、確立された規則(well-established regularities)にも常に例外(exceptions)があるため、賢明な分析者は複数の理論に目を向け、どの理論が私たちに何を教えてくれるのかについて一定の懐疑心(certain skepticism)を保ち続けるのである。

以上のことから、ウクライナの悲劇的な出来事について、よく知られた国際関係論(International RelationsIR)の諸理論は何を語っているのだろうか? どの理論が(少なくとも部分的には)正当(vindicated)であり、どの理論が不十分で(wanting)、危機が継続する中で重要な問題を浮き彫りにする可能性があるのだろうか? ここでは、この混乱について学者たちが何を語っているのか、一時的かつ不十分な包括的調査結果を紹介する。

●リアリズムとリベラリズム(Realism and Liberalism

私は客観的な観察者ではない。このような問題は国際政治におけるリアリズムに基づいた視点の永続的な妥当性(enduring relevance)を再確認させるものであることは明らかだ。最も一般的なレベルでは、全てのリアリズムに基づいた諸理論は、国家を互いに保護する機関や制度が存在せず、危険な侵略者が将来のある時点で自分たちを脅かすかもしれないと心配しなければならない世界について描いている。このような状況では、国家、特に諸大国(powers)は自国の安全保障について多くの懸念を持ち、力(power)を競わざるを得ない。残念ながら、こうした不安は時として国家に恐ろしい行動を取らせることがある。リアリズムを信奉する人々(realists)にとってみれば、ロシアのウクライナ侵攻は(2003年のアメリカのイラク侵攻は言うに及ばず)、大国が自国の安全保障の核心的利益が危ういと考える時、時として恐ろしく愚かな行動を取ることを思い知らされる。この教訓はそのような行動を正当化するものではないが、リアリズムを信奉する人々は道徳的な非難(moral condemnation)だけではそれを防ぐことはできないことを認識している。ハードパワー(hard power)、特に軍事力の妥当性をこれほど説得力のある形で示すものはないだろう。ポスト近代のドイツでさえ、そのメッセージを受け取ったようである。

残念なことに、この戦争はもう一つの古典的リアリズムの概念(concept)である「安全保障のジレンマ(security dilemma)」も示している。このジレンマは、ある国家が自国の安全性を高めるために取った措置が、しばしば他の国家の安全性を低下させることから発生する。A国は安全でないと感じ、同盟国を探したり、武器を買ったりする。B国はA国この動きを警戒し、それに対応する。お互いに疑惑が深まり、両国は以前より貧しく、安全でなくなってしまう。東欧諸国がロシアに対する長期的な懸念から、NATOに加盟したい(あるいはできるだけ加盟に近づけたい)と考えるのは、非常に合理的な行動だ。しかし、プーティン大統領に限らず、ロシアの指導者たちがこのような事態を憂慮した理由もまた容易に理解できるだろう。少なくともウクライナとグルジアに関しては、この賭けは失敗に終わったことは、今や悲劇的なまでに明らかである。

リアリズムのレンズを通してこれらの出来事を見ることは、ロシアの残忍で違法な行動を支持することではなく、単にそのような行動を、嘆かわしいが人間関係の中で繰り返される側面として認識することである。トゥキディデスからEH・カー、ハンス・J・モーゲンソー、ラインホールド・ニーバー、ケネス・ウォルツ、ロバート・ギルピン、ジョン・ミアシャイマーまでのリアリズムを信奉する人々は、世界政治の悲劇的な特性を非難する。それと同時に、ある国が他の国が重要利益と見なすものを脅かすときに生じる危険性などを含む、リアリズムが強調する国際政治にかかわる複数の危険性から目を背けてはいけないと警告を発している。リアリズムを信奉する人々が過度の理想主義的外交政策の傲慢さと危険性を強調してきたことは、決して偶然の産物ではない。理想主義的外交政策がヴェトナム戦争、2003年のイラク侵攻、NATOの単純な拡大路線を生み出した。しかし、悲しいことに、いずれの場合も、彼らの警告は無視され、その後の出来事によって正しさが証明されることになった。

ロシアの侵攻に対する極めて迅速な対応は、同盟政治(alliance politics)に対するリアリズム的な理解と一致する。価値観の共有は同盟をより強固で永続的なものにするが、集団防衛(collective defense)への真剣な関与は、主として共通の脅威に対する認識(perceptions of a common threat)から生まれる。脅威のレベルは、パワー(power)、近接性(proximity)、攻撃的能力(offensive capabilities)と攻撃的意図(aggressive intentions)を持つ敵対者の機能である。これらの要素は、冷戦時代にソヴィエト連邦がヨーロッパとアジアで強力な対ソ均衡連合(balancing coalition)に直面した理由を説明するのに大いに役立つ。ソ連は大規模な工業経済を持ち、その帝国は他の多くの国々と国境を接しており、その軍事力は大規模で主に攻撃作戦用に設計されていた。そして、ソ連は高度な修正主義の野心(すなわち、共産主義の普及)を持っているように見られた。今日のロシアの行動は西側諸国の脅威に対する認識を劇的に高め、その結果、ほんの数週間前にはほとんど誰も予想できなかったような均衡を保つ行動が見られるようになった。

対照的に、ここ数十年の欧米の外交政策に大きな影響を与えた主要な複数のリベラリズムに基づいた理論では、分析はうまくできないできている。政治哲学としての自由主義は、社会を構成するための立派な基礎であり、そのような価値観がまだ支配的な社会に住んでいることに、私は深く感謝している。また、欧米社会が権威主義的な衝動に駆られた後、自由主義の美点を再発見していることは心強い。しかし、世界政治へのアプローチや外交政策の指針としては、自由主義の欠点が再び露呈している。

過去と同様、国際法(international law)と国際制度(international institutions)は、大国の強引な行動に対して脆弱な障壁(weak barrier to rapacious great-power behavior)でしかないことが証明された。経済的な相互依存(economic interdependence)は、モスクワが結果として直面する相当なコストにもかかわらず、侵略開始を阻止できなかった。ソフトパワー(soft power)はロシアの戦車を止めることができなかったし、国連総会(U.N. General Assembly)が141対5(棄権35)で侵略を非難する大多数が賛成する投票を行ったとしても大した影響はないだろう。

私が以前にも述べたように、今回の戦争は、ヨーロッパで戦争はもはや「考えられない」(no longer “thinkable”)という信念と、それに関連してNATOを東に拡大すれば「平和地域(zone of peace)」はますます広がっていくという主張を打ち砕いた。誤解を恐れずに言えば、その夢は実現すれば素晴らしいことだが、その可能性は決して高くはなかったし、その追求の仕方が傲慢だったことを考えれば、なおさらである。驚くにはあたらないが、リベラル派の話を信じ喧伝していた人々は、今や全ての責任をロシアのプーティン大統領に押し付け、彼の違法な侵略がNATOの拡大とは全く関係がないことを「証明(proves)」していると主張したいのだ。また、西側諸国の政策の行く末を正しく予見していた専門家たちに対して、愚かな暴言を吐いている者もいる。こうした歴史の書き換えの試みは、誤りを認めたがらない、あるいは自らの責任を追及したがらない外交政策エリートの典型的な動きだ。

プーティンが侵略の直接的な責任を負っていることは疑いようもなく、彼の行動は私たちができる限りの非難を受けるに値する。しかし、ロシアの度重なる抗議と警告を無視し、その結果をほとんど考慮せずにヨーロッパで修正主義的なプログラム(revisionist program)を押し進め続けたリベラル派のイデオローグたちに罪はないとは言い切れない。彼らの動機は完全に善意であったかもしれないが、彼らが採用した政策が、彼らが意図し、期待し、約束したものとは正反対の結果を生み出したことは明らかだ。そして、「過去に何度も何度も警告を受けたなんてことはないのだ」と言うことは不可能なのだ。

制度の役割を強調するリベラリズムの諸理論は、今回の欧米諸国の迅速かつ驚くほど統一された対応を理解する上で、いくらか役に立つものだ。このような迅速な対応は、アメリカとNATOの同盟諸国が、特に鮮明で残酷な方法で挑戦されている一連の政治的価値(political values)を共有していることが一因である。更に重要なことは、もしNATOのような機関が存在せず、ゼロから対応を組織化しなければならなかったとしたら、これほど迅速で効果的な対応は考えにくいということだ。国際機関は、根本的な利害の対立を解決したり、大国が好き勝手に行動するのを止めたりすることはできないが、諸国家の利害がほぼ一致している場合には、より効果的な集団的対応(more effective collective responses)を促進することができる。

リアリズムは、私たちが現在直面している厳しい状況への全体的な指針としては最適かもしれないが、その全体の物語内容を語ることはできない。例えば、リアルタイムを信奉する人々は、大国の行動に対する強い制約(strong constraints)としての規範(norms)の役割を当然ながら軽視する。しかし、今回のロシアの侵攻に対する世界の反応を説明する上で規範は一定の役割を果たした。プーティンは武力行使に関する規範(国連憲章[U.N. Charter]など)のほとんどを踏みにじっており、それが世界の多くの国、企業、個人がロシアの行動を厳しく判断し、激しく反応した理由の一つである。国際規範に違反することを止めることはできないが、明確であからさまな違反は、その国の意図が他者からどのように判断されるかに必ず影響を与える。今後、ロシア軍がさらに残忍な行動をとれば、ロシアを孤立させ、排斥しようとする現在の努力はさらに強まるに違いない。

●誤認と誤算(Misperception and Miscalculation

また、誤認(misperception)や誤算(miscalculation)の役割を考慮せずにこれらの事象を理解することは不可能だ。リアリズムの諸理論は、国家を、自国の利益を冷静に計算し、相対的な地位を向上させる機会をうかがう、多かれ少なかれ合理的な行為者(rational actors)として描く傾向があるため、ここではあまり役に立たない。その仮定がほぼ正しいとしても、政府や個々の指導者は不完全な情報(imperfect information)の中で活動しており、自らの能力、他者の能力や反応を簡単に見誤ってしまう可能性が存在する。情報が豊富であっても、心理的、文化的、あるいは官僚的な理由で認識や判断が偏ることがある。不完全な人間で満たされた不確実な世界では、物事を誤る方法はいくらでも存在するのだ。

特に、誤認に関する膨大な文献、特に故ロバート・ジャーヴィスの代表的な研究は、この戦争について多くのことを教えてくれる。プーティンがいくつかの側面で大きな誤算を犯したことは、今や明らかなようだ。西側のロシアに対する敵意を過大評価し(exaggerated)、ウクライナの決意を著しく過小評価し(underestimated)、自軍の迅速でコストのかからない勝利の能力を過大評価し、西側の反応を読み違えた(misread)。今回の場合に機能しているように見える恐怖感と自信過剰の混合こそは典型的な具体例となる。国家は、自分たちの目的を迅速かつ比較的低いコストで達成できると確信しない限り、戦争を始めないというのは、ほとんど真理と言える。長く、血なまぐさい、費用のかかる、そして敗北に終わりそうな戦争など誰も始めない。更に言えば、人間はトレードオフを扱うのが苦手なため、いったん戦争が必要だと判断すると、戦争を実行可能だと考える強い傾向がある。ジャーヴィスがかつて書いたように、「意思決定者が自分の政策を必要だと考えるようになると、その政策は成功すると信じるようになる。そのような結論に至るには他の人々が正しい情報の歪曲が必要であっても成功を確信する」可能性が高い。意思決定プロセス(decision-making process)から反対意見を排除してしまう(dissenting voices are excluded)と、この傾向は更に悪化する。その理由は、輪の中にいる全員が同じ欠陥のある世界観を共有している、もしくは部下が上司に間違っているかもしれないと言いたがらないことである。

人間は利益を得るよりも損失を避けるためにリスクを取るというプロスペクト理論(prospect theory)が、ここでも働いているのかもしれない。プーティンが、ウクライナが徐々にアメリカやNATOと協調していくと考えていたのなら(そう考える十分な理由があった)、取り返しのつかない損失(irretrievable loss)を防ぐことは、大きなサイコロを振る価値があるのかもしれない。同様に、帰属バイアス(attribution bias)(自分の行動は状況への対応とみなし、他人の行動はその基本的な性質に起因するとみなす傾向)もおそらく関係している。西側諸国の多くは、ロシアの行動を、プーティンの不愉快な性格の反映であり、決して西側諸国のこれまでの行動に対する反応ではないと解釈している。プーティンは、アメリカとNATOの行動は、生来の傲慢さ(innate arrogance)とロシアを弱体化させないという根深い願望からきており、ウクライナ人がロシアに抵抗しているのは幻惑されている(being misled)か、「ファシスト(fascist)」の影響下にあるからだと考えているようだ。

●戦争終結と関与問題(War Termination and the Commitment Problem

現代の国際関係論理論はまた、関与問題の広範な役割を強調している。無政府状態の世界(world of anarchy)において、国家は互いに約束を交わすことができるが、それが実行されるかどうかは確証がない。例えば、NATOがウクライナの加盟を永久に見送ると申し出ることができたが(戦争前の数週間はそうしなかったが)、プーティンはワシントンやブリュッセルがその約束を文書化してもNATOを信じていなかったかもしれない。条約は重要だが、結局は紙切れに過ぎない。

更に言えば、戦争終結に関する学術的な文献によれば、戦争当事者が予想を修正し、戦闘を終わらせようとしているときでさえ、関与問題が大きな障害となる。もしプーティンが明日にでもウクライナから撤退し、ロシア正教の聖書の束の上に手を置いて、ウクライナを永遠に放置すると誓ったとしても、ウクライナでもヨーロッパでもアメリカでも、プーティンの保証をそのまま受け取る人はほとんどいないだろう。また、内戦では利害関係のある外部の人間が平和的な解決(peace settlements)を保証することもあるが、この場合は、合意しても将来の違反者を処罰すると脅すことのできる外部勢力(external power)は存在しない。無条件降伏(unconditional surrender)をしない限り、戦争を終わらせるための協定は、当事者全てに十分な満足を与え、状況が好転し次第、協定を変更したり放棄したりしたいとひそかに願わないようにする必要がある。また、たとえ一方が完全に降伏したとしても、「勝者の平和(victor’s peace)」を押し付けることは、将来の報復主義(future revanchism)発生の種をまくことになりかねない。悲しいことだが、私たちは今日、いかなる種類の交渉による解決からも遠ざかっているように思われる。

更に言えば、フレッド・イクレの古典的な研究『全ての戦争は終わらなければならない(Every War Must End)』やサラ・クロコの『どんな代償を払う平和か?:指導者の責任と戦争終結をめぐる国内政治(Peace at What Price?: Leader Culpability and the Domestic Politics of War Termination)』など、この問題についての他の研究は、戦争終結を難しくしている国内の障害に注目している。愛国心(patriotism)、プロパガンダ(propaganda)、サンクコスト(sunk costs)、そして敵に対する憎悪の増大(ever-growing hatred of the enemy)の結合が、態度を硬化させ、合理的な国家が戦争停止を宣言した後も戦争を継続させるのである。この問題の重要な要素は、イクレが「タカ派の反逆(treasons of the hawks)」と呼んだものである。それは次のようなものだ。戦争終結に賛成する人々は、しばしば非国民あるいはそれ以上の存在として排除されるが、不必要に戦争を長引かせる強硬派(hard-liners)は、最終的に、彼らが守ろうとしている国家に対してより大きな損害を与えるかもしれない。「タカ派の反逆」という言葉について、モスクワにロシア語訳があるのかどうか私には分からない。しかし、この言葉をウクライナに当てはめると、失敗した戦争を始めた指導者は、自分たちの誤りを認めて戦争を終結させることを望まないか、できないかもしれない、という心配がある。もしそうなら、戦争の最初の決断に縛られない新しい指導者が現れて初めて、戦闘は終結することになる。

しかし、もう一つの問題がある。敗戦(defeat)と体制転換(regime change)に直面した独裁者たちは、「大逆転のためのギャンブル(gamble for resurrection)」に魅力を感じるかもしれない。外交政策に失敗した民主政治体制国家の指導者たちは、次の選挙で政権を追われることはあっても、その失敗や犯罪のために投獄やそれ以上の事態に直面することは、ほとんどない。これに対して独裁者たちが特に戦後の戦争犯罪の訴追(postwar prosecution for war crimes)を恐れる世界では、簡単に退陣する選択肢は存在しない。したがって、もし彼らが負けているならば、圧倒的な敗戦の可能性に直面しても戦い続けるか、エスカレートさせる動機がある。それは、運命を逆転させ、失脚、投獄、死を免れる奇跡を期待するためである。このような賭けが功を奏することもあれば(例:バッシャール・アル・アサド)、そうでないこともある(例:アドルフ・ヒトラー、ムアンマル・アル・カダフィ)。しかし、奇跡を期待して更なる行動を取るインセンティブは、戦争の終結を想像以上に難しくすることになるのだ。

これらの洞察は、私たちが何を望むかについて、非常に慎重であるべきだということを思い出させる。プーティンを罰し、屈辱を与えたいと思う気持ちは理解できる。しかし、核保有国の独裁的指導者を窮地に追い込むことは、彼の過去の行動がいかに凶悪であったとしても、極めて危険なことである。そのため、プーティンの暗殺を要求したり、一般のロシア人に対して立ち上がってプーティンを打倒しなければ責任を取らされると公言したりする西側諸国の人々は、危険なほどに無責任である。タレーランの忠告は覚えておくに越したことはない。「結局のところ、熱意がありすぎないことが大事だ(Above all, not too much zeal.)」。

●経済制裁(Economic Sanctions

経済制裁がどのように効果を発揮するかについて理解しようとしている人は誰でも、経済制裁に関する先行研究文献(literature on economic sanctions)も勉強しておく必要がある。一方では、先週行われた金融制裁(financial sanctions)は、アメリカが他の重要な経済大国と協調して行動する場合、特に「相互依存を武器にする(weaponize interdependence)」特別な能力があることを思い起こさせるものだ。他方で、相当量の真面目な学問研究の結果は、経済制裁が国家に迅速に軌道修正を強いることはほとんどないことを示している。トランプ政権のイランに対する「最大限の圧力(maximum pressure)」作戦の失敗も、その明らかな事例である。支配的なエリートは、通常、制裁の直接的な影響から隔離されている。プーティンは経済制裁が行われることをあらかじめ分かっていたであろうし、地政学的な利益(geopolitical interests)にはそれを甘受するだけの価値があると信じていたのだろう。プーティンは経済的圧力の速度と範囲に驚き、落胆したかもしれないが、モスクワがすぐに方針を転換するとは誰も思わないはずだ。

これらの例は、現代の国際関係論がこれらの出来事の理解に貢献しうるものの表面をひっかいているに過ぎない。抑止力(deterrence)と強制力(coercion)に関する膨大な文献、水平(horizontal)・垂直(vertical)エスカレーションの力学(dynamics)に関する重要な著作、文化的要素(男らしさ[masculinity]の概念、特にプーティン自身のマッチョな「人格崇拝(personality cult)」を含む)を考慮することで得られるかもしれない洞察については言及していない。

要するに、国際関係の学術文献は、私たちが直面している状況について多くのことを語っている。しかし、残念なことに、知識のある学者が公共の場で考えを述べたとしても、権力の地位にある者は誰もそれに注意を払わないだろう。政治において、特に危機の時期において、時間は最も希少な資源である。ジェイク・サリヴァンやアントニー・ブリンケン、そして彼らの部下たちは、専門誌の『インターナショナル・セキュリティ』誌や『ジャーナル・オブ・コンフリクト・リゾリューション』誌のバックナンバーを読み返し、良い情報を見つけようとはしないのである。

また、戦争には独自の論理(logic)があり、言論の自由(freedom of speech)と開かれた議論(open debate)が維持されている社会であっても、様々な声をかき消す傾向のある政治的な力を解き放つのである。戦時中は利害が一致するため、公務員、メディア、市民は、固定観念にとらわれず、冷静かつ慎重に考え、誇張や単純化した決まり文句を避け、何よりも自分たちが間違っているかもしれない、別の行動が必要だという可能性にオープンであるべきなのである。しかし、ひとたび弾丸が飛び交い始めると、視野が狭くなり、マニ教的思考様式(Manichaean modes of thought)に急速に陥り、反対意見を疎外または抑圧し、ニュアンスを捨て、何が何でも勝利することに固執するのが常である。この過程は、プーティンのロシア国内でも進行しているようだが、西側諸国でも穏やかな形が見られる。結局のところ、これは酷い状況を更に悪化させるレシピとなるのだ。

(貼り付け終わり)
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 古村治彦です。

 今回は、スティーヴン・M・ウォルト教授の提言をご紹介する。具体的には、国際関係学部で何を教えるべきかという内容だ。国際関係論(International Relations)は、政治学(Political Science)の一分野であるが、日本でも段々と増えているように、一つの学部や大学院を形成するほどになっている。それは学生たちから人気ということもあるし、その人気は外交分野や外交政策分野、国際貢献分野などが華やかに見えるからだ。

 アメリカでも国際関係の大学院を出た人材がそれらの分野で活躍している。しかし、ウォルト教授はそれではなぜ外交政策で失敗をしてしまうのかということを問題提起している。そしてその答えとして人材を供給する側である国際関係学部や大学院の教育が適切ではない、不十分だからではないか、ということを提起している。

歴史的に見て外交政策が意向を担ってきた人物たちの多くは、東部エスタブリッシュメントと呼ばれるエリートたちであり、彼らは国際関係論の教育ではなく、歴史学や経済学を学び、銀行業界やその他の産業分野で活躍した後に、重責を担うことになっていたと指摘している。

 ウォルト教授は、「残念ながら、大学院は多くの学生にとって、自らの世界観を見つめ直し、既成概念に疑問を投げかける唯一の機会であり、キャリアアップに必要な知的資本を構築する最後のチャンスとなることが多い。国際関係学部は、既存の機械のためによく訓練された歯車を作るのではなく、従来の常識に疑問を投げかけることにもっと注意を払うべきだということだ。結局のところ、独立した幅広い研究が大学の比較優位であり、だからこそ多額の基金が有用であり、終身在職権が貴重な制度であり続ける」と書いている。

 ウォルト教授は、現実と理論を結び付け、経済学や歴史学の知識を持ち、戦略を立てるために全体像(big picture)を掴む力を養い、主流派の考えに対して迎合するのではなく、常に疑問を持ち続けることができるようにする、ということを提案している。これは、国際関係分野だけでなく、あらゆる分野にとって必要なことではないかと思う。しかし、言うは易し、行うは難し、である。

(貼り付けはじめ)

アメリカ国内の国際関係学部は壊れている(America’s IR Schools Are Broken

-表面上は数多くの革新が起きているが、腐敗が深く進行している。腐敗をいかに直すか

スティーヴン・M・ウォルト筆

2018年2月20日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2018/02/20/americans-ir-schools-are-broken-international-relations-foreign-policy/

現在が国際問題について学ぶのに最適な時期であることを否定する人はいないだろう。各社会がこれまでにないほどの多様な方法でつながっている。各国は競争しかつ協力し、共存しながら協力し、大企業、社会運動組織、犯罪組織、その他の社会的な存在となっている組織体と競争し続けている。かつて疑う余地のなかった制度や正統派の考えが今、包囲網の中に置かれている状態になっている。私たちが何十年も前から知っている世界秩序は根本的に変わりつつある可能性が高い。大国間政治(great power politics)が(一時期中断していたが)復活し、力の均衡(バランス・オブ・パワー、balance of power)が大きく変化し、政治と国際経済の複雑な相互作用が年々明らかになりつつある。そして、地球は温暖化を続けており、今後数十年の間に広範囲にわたって、悪影響を及ぼすことが予想される。こうしたことを考えると、なぜ多くの若者がこのテーマに興味を持つのか、容易に理解できるだろう。

しかし、投入される資金が増え、教室が熱心な学生でいっぱいになったとしても、公共政策や国際問題について教える私たちには満足することはない。それはなぜか?なぜなら、私たちが精いっぱいできる限りの仕事をしているとはとても思えないからだ。

刺激を受けた、もしくは刺激を受けつつある学生たちをたくさん集め、彼らのその後の成果を誇らしげに指摘することができるかもしれない。しかし、そうであっても、過去50年間の国際問題専門教育の発展が、一貫してより良い外交政策の遂行を促し、より良い結果を生み出しているようには思えない。私は、このような失敗の全てを国際関係大学院のせいにしているわけではないが、自分たちが考えているほどには、国際関係大学院は役に立っていないのではないか?

アメリカにおける外交政策立案はかつて外交評議会(CFR)のような組織と、ジョージ・ケナン、ディーン・アチソン、ジョン・マクロイなど第二次世界大戦後の秩序構築で重要な役割を果たした「賢人たち(wise men)」が具現化していた古い「東部エスタブリッシュメント(Eastern Establishment)」に独占されていた。彼らはほぼ例外なく、国際問題に関して大学院教育を受けていなかった。ジョージ・ケナンは歴史学で学士号を取得し大学を卒業してすぐに外交の世界に入った。 しかし、概して、彼らの業績は非常に印象的なものだ。

しかし、アメリカの世界における役割が増大する中で、外交政策策定にはより特化した専門性が必要となっていった。I・M・デスラー、レスリー・ゲルブ、アンソニー・レイクといった人々は、「1960年代には、アメリカの外交政策分野の指導者層の構造に革命的な変化が起きた」と指摘している。権力は、古い東側エスタブリッシュメント(old Eastern Establishment)から、新しいプロフェッショナル・エリート(new Professional Elite)、つまり、政府運営に参加するために自分の専門職を離れる銀行員や弁護士たちから、外交政策の専門家たちにほとんど気づかないうちに権力が移っていた。

このような専門的知識の拡大は、東部エスタブリッシュメントに所属する人々たちだけによる「古臭い守旧的な(old guard)」体制から大きく改善され、より知的で成功した政策決定を生み出すと考える人もいるだろう。アメリカの外交政策は、主に経済界から選ばれたエリート集団に頼るのではなく、経済、軍事、歴史、外交、地域研究などの専門的訓練を受けた、より多様な経歴や背景を持つ専門家集団によって担われることになるのである。理論的に言えば、このような十分な知識を持った専門家の間で競合する意見がぶつかり合うことで、より活発な議論が行われ、それによって政策選択の多くの選択肢が事前に吟味され、大きな失敗をする可能性は低くなる。そして、万が一、間違いが生じた場合(必然的にそうなるのだが)、このよく訓練され、高度に専門化した政策共同体は、その間違いを素早く認識し、適切に軌道修正することができるだろうということになる。

残念ながら、規律正しい専門職カースト(disciplined professional caste)という魅力的なイメージは、現代の外交政策共同体の現実を完全に描写しているわけではない。現代の外交政策共同体は、そして、専門家の専門知識が大幅に拡大しても、それがより賢明で効果的な政策に確実に反映されるとは思われない。外交政策共同体は、戦術、立場、地位をめぐって絶えず内紛が起きているにもかかわらず、合意と一致が行われている場所だ。そして、専門家たちの専門知識の膨大な拡大は、より賢明で効果的な政策に確実に反映されるとは思えない。

なぜそうなるのだろうか?

明白な問題は、「国際問題」の遂行は実は専門職ではなく、むしろ政治的な職業であることであることだ。外交政策に影響力を持つ指導者たちは、専門知識だけではなく、思想信条、評判、人脈、政治的忠誠心などで選ばれる。「外交政策」を遂行するのに、司法試験(bar exam)に相当する試験に合格する必要はないし、心臓外科医のように専門家集団から認定を受ける必要もない。確かに、シンクタンクや政府機関で働く人の中には、関連する分野でかなり高度な訓練を受けている人もたくさんいるが、高度な訓練を全く受けずにトップに上り詰めた人もたくさんいるのである。ドナルド・トランプ大統領の上級補佐官で、義理の息子であるジャレッド・クシュナーは、影響力のあるポストの唯一の資格が娘の配偶者であり、レックス・ティラーソン国務長官でさえ、土木工学の学士号しか持っていないことを考えてみて欲しい。バラク・オバマ前大統領の国家安全保障問題担当大統領次席補佐官ベン・ローズは、政治学の学士号とクリエイティブ・ライティングの美術修士号を持つ小説家志望だった(たしかに、スピーチライターとしては悪くない資格ではある)。そして、ロナルド・レーガン元大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官、ウィリアム・クラークを忘れてはならない。彼は大学を卒業していないのだ(訳者註:大学に入学し卒業していないが、法科大学院に合格できる入試の点数を叩き出し、法科大学院に進学し、司法試験にも合格している)。

重要なのは、これらの人々がそれでは外交政策において無能であったかということそうではなくて、国際問題についての本格的な専門的訓練を受けていないにもかかわらず、並外れた外交政策上の責任を負ったということである。少なくともアメリカでは、国際問題やその関連分野の上級学位を取得していることが望ましいかもしれないが、それが外交政策上のトップの仕事に就くための必要な前提条件であるとまでは言い難い。

第二のより深刻な理由は、高度な訓練は成功の保証にはならないということである。外交政策の運営は複雑で困難な作業であり、特に野心的な大国にとっては、頭が良く、勤勉で、教養のある人々でさえ、大失敗をする可能性がある。ジョージ・W・ブッシュの外交政策を担当した「ヴァルカンたち(Vulcans)」は、輝かしい経歴を持ち(数人は権威ある大学から博士号を授与されている)、しかし彼らのアメリカ外交の管理運営はほとんど大失敗だった。同様に、オバマ大統領の下でも多くの賢明な高学歴者たちが働いていたが、2009年にアフガニスタンで誤った判断を下し、リビアとウクライナでも大きくつまずいた。

もちろん、無知を肯定しているわけではないし、公務員がもっと無知であったほうがいいとも言っていない。それどころか、国際関係の高度な訓練を受けた何千人もの人々が、その結果、政府、企業、あるいは非営利団体でより効果的に仕事をしていることは、100%間違いないだろう。しかし、国際関係学部は、そのようなポジションに就くための準備として、もっと良い仕事ができるはずだ。プリンストン大学ウッドロー・ウィルソン・スクール(公共国際問題学校)で5年、ハーヴァード大学ケネディ・スクール(公共政策大学院)で18年、国際関係大学院で私の職業人生の大半を過ごした経験から、この経験を改善するための5つの方法を提案したい。

(1)理論と政策をつなぐ。読者の中には既にご存知の方もいるだろうが、私は、理論が政策の分析と政策の実行にとって必要不可欠だと考えている。世界は複雑極まるものだ。そして、世界は無限に複雑であり、それを理解し、何が最も重要かを見極め、政策決定の結果を予測するためには、単純な因果関係の見取り図が必要である。理論がなければ、現状から推定する(extrapolate)のが精一杯で、その方法がうまくいくことはほとんどない。また、悪い理論(例えば、重商主義、マルクス・レーニン主義、ドミノ理論など)に強くこだわると、大変な苦労をすることになる。政策立案者たちは「象牙の塔の理論家たち(ivory tower theoreticians)」と揶揄することがあるが、実際には誰もが自分の周りで起こっていることを理解するために何らかの粗雑な理論を使っており、理論を徹底的に学ぶことは、批判的能力と「全体像(big picture)」を見る能力を養う上で非常に貴重である。

残念ながら、現実主義(realism)や自由主義(liberalism)のような大理論も、同盟、強制、制裁などを扱う中理論も、既存のどの理論も完全には妥当ではない。そのため、支持者の間で果てしない論争が起こり、国際関係理論は全く価値がないという誤った結論に至る者もいるほどである。更に、理論を政策に結びつけ、それがどのように政策の選択を照らし出し、明らかにするかを示すことは簡単ではない。私は15年以上にわたって、理論と政策を結びつける授業を担当してきた。この授業は学生たちに好評だが、まだ一部しか成功していないように思われる。これからの指導者たちに必要なシンプルな分析ツールや批判的思考力(critical thinking)を身につけるために、より良い方法を模索し続けている。

(2)より有益な経済学を教える。国際経済を研究する経済学者たちは、専門的な正典や理論、規範を教えるのがとてもうまい。それは、また、国際金融の基本原則である比較優位説(theory of comparative advantage)であり、それに基づいた文献の数は増えている。一部の重要な例外を除いて(私が言うのもなんだが、ここケネディ・スクールの私の同僚も何人かいる)、国際金融秩序の実際の仕組みを教えるのはそれほど得意ではない。(SWIFTの仕組みはどうなっているのか?多国間貿易交渉では実際に何が起こっているのか?)また、公共政策大学院では、経済と政治の関連性を探り、それぞれが他方にどのような影響を与えるかを学生に理解させることがあまり得意ではない。私の同僚であるダニ・ロドリックは後者の問題について素晴らしい研究をしている。しかし、私が感じたのは、国際関係学部で教える経済学の多くは、優れた経済学の学部課程で学ぶような高度なミクロとマクロのコースをあまり超えていないのではないかということだ。もちろん、そのような知識も価値がないわけではないが、国際関係学部は、経済学部の同僚に対して印象を良くすることにこだわらなければ、もっとうまくいくはずだ。

(3)歴史を教える。更に深刻な欠点は、歴史学の軽視である。外交史や国際関係史は、ほとんどの歴史学部で苦境に立たされており、国際関係学部がどのようにその状況を打開しているかを観察するのは興味深いことである。(フランク・ギャビンが最近ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院教授に就任したことはその一例であり、私が在籍するケネディ・スクールでもフレッド・ロゲヴァル、アルネ・ウェスタッド、モシク・テムキンの存在がある) 。この傾向には明白な理由がある。国際的な重要問題で、それを生み出した歴史的プロセスを知らずに、解決はおろか、理解できるものはほとんどない。ウクライナ、クリミア、そしてロシアの歴史を知らずして、ウクライナ危機を理解し、ロシアのプーティン大統領の行動を理解することはできるだろうか?アメリカとイラン、あるいはイスラエルとパレスチナの複雑な関係が、時間とともにどのように発展してきたかを知らずに、誰が現状を把握できるだろうか?韓国と日本がなぜ仲が悪いのか、不思議に思ったことはないだろうか?彼らの歴史を知らなければ、見当もつかないだろう。同じ出来事を経験した社会でありながら、その歴史は大きく異なる。

歴史は単に名前や日付の集合体ではなく、競合し、重なり合いながらも、異なる物語であることを理解する必要がある。過去は公然と姿を現すのではなく、様々な歴史家や社会全体によって解釈され、議論され、構築されるものだ。そこには、国際問題に携わる全ての人が心に刻むべき重大な教訓がある。異なる人々、異なる国々が同じように過去を見ることはなく、したがって現在の問題を同じように見ることはない。しかし、このような別の見解が存在することを理解し、対処しなければならないかもしれない人々の物事の見方が異なることを認識することは重要な洞察力である。これは「政治的に正しい」とか「文化的に敏感である」ということではなく、もしある人のゴールが誰かを説得することであるなら、相手がどこから来て、どんな誤解を克服する必要があるかを知ることが不可欠であることを認識することが重要だ。

つまり、政策を学ぶ学生たちが本格的な歴史教育を受ければ、国際情勢における政策立案は大きく改善される。公共政策大学院は歴史学者を数人採用したかもしれないが、経済学やその他の分析手法と同じように、歴史学や歴史的手法のコースが必須科目の一部になっているのだろうか?理論研究と同様、歴史教育は、証拠を選別し、計量し、評価する方法を学ぶことが重要だ。これは、フェイクニュースや国家によるプロパガンダがいたるところに存在するこの時代に、これまで以上に必要とされるスキルだ。歴史をきちんと勉強した学生は、文章も上手に書けるし、デタラメも見抜けるし、今日の問題がどうして起こったのか、よりよく理解することができる。分からないことがあっても、それを調べる方法を知っている。このような訓練は奇跡を起こさないかもしれないが、害はなく、ほぼ間違いなく役に立つだろう。

(4)全ての人が「戦略」について語るが、誰も戦略を改善するためには何もしない。政府関係者に向けられる苦情で最も多いのは、「明確な戦略がない(they lack a clear strategy)」というものだろう。私自身、何度もこのような指摘をしたことがあるが、そのほとんどは正当なものであったと思っている。私も何度もこのような指摘をしたし、今でもそのほとんどは正当化されると思っている。しかし、公平に見て、国際問題を教える私たちは、学生に戦略的な思考方法をあまりうまく教えることができてこなかった。イェール大学が誇る大戦略プログラム(歴史の役割を強調している)でさえ、現実の国のために首尾一貫した戦略を構築するためのツールを提供するよりも、学生の指導者気取りを満足させるためには良い仕事をしていたのかもしれない。

今日のアメリカで「大戦略」と呼ばれるものは、ジョージ・W・ブッシュ前大統領の二期目の就任演説のような空虚で非歴史的な大げさなものか、法律で国家安全保障戦略の公式発表を強制されたホワイトハウス職員が並べた鳴り物入り宣言のリスト(「我々はXし、Yし、Zし、勝利に導くだろう」)かのどちらかである。このような取り組みに通常欠けているのは、重要な利益(なぜそれが重要なのかの説明を含む)の明確な表明と、他の関連アクターの起こりうる反応を予期した、その利益を促進するための具体的プログラムである。戦略とは手段と目的を結びつけることであり、国際問題においては、手段の選択とその展開、正当化の方法は、他の関連プレーヤーがどのように反応するかという予想に左右されるものだ。軍隊の指揮官は「敵にも投票権がある」という言い方を好むが、同盟国や中立国、その他、邪魔になったり助けたりするような反応をする人たちも同じである。そして、優れた大戦略は包括的でなければならない。つまり、ある問題領域や地域での行動が、他の場所でやろうとしていることにどう影響するかを考えなければならないのである。

言い換えると、戦略的に考えるには、「全体像」を把握し、アクター、トレンド、問題がどのように組み合わされているかを明確にすることが必要なのだ。何が重要で、異なる行動が他者にどのような影響を及ぼすかを明らかにする、明確で正確な世界像がなければ、世界を舞台に効果的な行動を取ることなど想像もつかない。そのためには、歴史(ポイント3で指摘)に基づき、検証された理論(ポイント1で指摘)が必要だ。

(5)適合のための保温器なのか?しかし、今日の国際問題専門学部の最大の限界は、少なくともここアメリカにおいては、「リベラル・ヘゲモニー(liberal hegemony)」と「アメリカのリーダーシップ(U.S. leadership)」の必要性という陳腐な超党派的コンセンサスを強化する傾向があることだろう。これらの国際問題専門学部の学部長や教授陣には、外交政策分野を代表する人物が名を連ねており、そのほとんどがアメリカの力を広く行使することに強いこだわりを持ち続けている。当然のことながら、これらの教育機関の教授陣は、政策志向の学者や元政府高官で占められており、長年にわたってアメリカの外交政策を支えてきた中心的な前提に疑問を投げかけることはまずない人々である。

もちろん、このような傾向は完全に理にかなっており、いくつかの明らかな長所もある。国際関係学部には、世界に対する好奇心、具体的な政策課題への関心、そしてほとんどの場合、世界をより良い場所にしたいという熱意を持った学生が集まってくる。これらの教育機関で教える教員の多くも、同じような表現が当てはまる。そして、現実の世界に関心を持ち、将来就きたい職業に就いている本物の経験者たちから学ぶことは、学生にとって良いことであることは間違いない。

しかし、そこにはコストが付きまとう。学術機関が理想とすること、つまり、現代の問題を独立した立場で批判的に見つめ、何がうまくいき、何が失敗し、どうすればもっとうまくいくかを考えようとするのではなく、政策の世界と密接に結びついていたいという欲求から、ほとんどの国際関係学部は必然的におなじみの主流派の合意に引きずられることになる。確かに、特定の政策課題(例えば、シリアに介入すべきか否か)については鋭い意見の相違が見られることもあるが、長年にわたってアメリカの外交政策に影響を与えてきた、より根本的な正統派に疑問を呈する者はほとんどいない。

残念ながら、大学院は多くの学生にとって、自らの世界観を見つめ直し、既成概念に疑問を投げかける唯一の機会であり、キャリアアップに必要な知的資本を構築する最後のチャンスとなることが多い。国際関係学部は、既存の機械のためによく訓練された歯車を作るのではなく、従来の常識に疑問を投げかけることにもっと注意を払うべきだということだ。結局のところ、独立した幅広い研究が大学の比較優位であり、だからこそ多額の基金が有用であり、終身在職権が貴重な制度であり続ける。

これが意味するところは、外交政策分野のポジションを目指す人は、国際関係大学院に行かず、法科大学院(ロースクール)や経営大学院(ビジネススクール)に行くべきだということだろうか?そんなことはない。むしろ、さまざまなプログラムをよく見て、知的な多様性を提供してくれるところを探すべきだ。大学院生たちは、教授や講師たちからだけでなく、学生同士からも多くのことを学ぶので、学生の多様性を含む他の種類の多様性も重要だ。特に卒業後の就職に有利になるような基本的なスキルを身につけたいと考えるものだが、同時に、たとえ最初の信念が正しかったとしても、先入観にとらわれないようにしたいとも思うものだ。異なる考えを持つ教授たちの話を聞いて、どの考え方が正しいのか、自分で考える機会を持ちたいものだ。つまり、大学院での経験は、単に立派な履歴書や技術的スキルを持った人間ではなく、より幅広く、より良い情報を持った、より自信のある思想家にしてくれることが重要なのだ。そして、それこそが、これらの大学院が目指すべきものなのだ。

※スティーヴン・M・ウォルト:ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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