古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:大隈重信

 古村治彦です。

 
『元老―近代日本の真の指導者たち』(伊藤之雄著、中公新書、2016年)を皆さまにご紹介します。 


 日本の戦前の政治において、重要な役割を果たしたのが元老(げんろう)です。主に内閣総辞職後の後継総理大臣に関して天皇から諮問を受けて、候補者を奉奏するという役割を果たしました。また、国家にとって重要な決定にも参画しました。

 

 この元老は大日本帝国憲法にもまた法律にも規定がない「地位」でした。元老と考えられているのは、伊藤博文(長州、総理大臣)、黒田清隆(薩摩、総理大臣)、山縣有朋(長州、総理大臣)、松方正義(薩摩、総理大臣)、井上馨(長州、外務卿・内務大臣)、西郷従道(薩摩、海軍元帥・海軍大臣)、大山巌(薩摩、陸軍元帥・陸軍大臣)、西園寺公望(公家、総理大臣)です。明治維新をけん引した「元勲」の中でも、第1世代である、維新の三傑である西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充以外の、第1.5世代、第2世代が元老となっています。元勲と元老は重なっていますが、元勲が全て元老になっていません。

 

 私は出身が早稲田大学で、どうしても身びいきで大隈重信は元老であったのかどうか、が気になります。維新直後、大隈が築地に構えた屋敷に居候した井上馨、隣に住んで朝食のたびに大隈家に来ていた伊藤博文は、大久保利通系で、大隈が兄貴分でありました。しかし、明治14年の政変で大隈は失脚(それまで筆頭参議兼大蔵卿として日本の最高実力者でした)してしまい、それ以降は在野の政治家として立憲改進党から憲政党まで、英国流の立憲君主制を主張しました。大隈は明治の元勲たる資格(明治維新に参加、薩長土肥の一角である肥前のリーダー、大蔵卿として通貨「圓」の導入など)はあると思いますが、元老とはなっていません。

 


 元老とは、時代別には伊藤博文、山県有朋、西園寺公望といった有力者が他の有力者を選び出して、元老として遇し、内閣総辞職後の後継内閣の総理大臣について天皇から下問され、それに対して適任者を奉答するという役割を果たしました。大隈は2回目の総理大臣退任後に天皇から詔勅を受けてはいますが、他の元老とは異なった文面の詔勅であり、かつそれ以降、後継総理の奉答に加わっていないために、元老とは言えないようです。大隈は更に、自分が総理大臣を退任するに当たり、後継として加藤高明を推薦し、その実現を通して元老に対して挑戦しようとしましたが、この企ては成功しませんでした。

 

 元老たちはやがて年齢を重ね、次々と鬼籍に入っていきました。その間に、日本は弱小国から国際連盟の常任理事国となり、軍事力の面でも英米から警戒され、軍縮会議では3巨頭国の1国となりました。内政面では、政党政治が整備され、政友会と民政党の二大政党が議会での多数を争い、内閣を組織するようになりました。憲政の常道という状態が出てきました。こうなると元老の仕事はないようなものです。多数党の代表者を総理大臣にするだけのことですから、何もあれこれ悩む必要もないのです。

 

 最後の元老となった西園寺は元老を補充するのではなく、天皇の側近くに仕える内大臣と枢密院議長などが話し合って天皇に総理大臣の候補者を推薦するという非公式な制度、更には前官礼遇を受ける総理大臣経験者や枢密院議長経験者たちといった「重臣」が話し合って決める制度を作りました。政党政治が機能していれば、このような制度は必要はないですし、二大政党制が日本でも定着して発展していくと西園寺は考えていたのではないかと思います。

  


 憲法に規定がない、非公式な、「非立憲的な」存在である元老が、「憲政の常道」に従った政治の運用を行い、政党政治が確立するまでの時間を稼ぎ、橋渡しをしようとしたというのが、著者伊藤教授の主張です。更に言うと、元老は、天皇が立憲君主制下の君主として行動する際の指針を示し、必要な場合には、歯止めとなってきました。

 

 しかし、1930年代の危機の時代に入り、西園寺が期待をかけた政党政治は自滅の途を進みます。民政党は金解禁で日本経済を失速させ、政友会は陸軍に癒着してファシズムの進行に手を貸しました。五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、衆議院の多数党が内閣を組織するという政党政治(憲政の常道)は終わりました。その後、斎藤実、岡田啓介と穏健な海軍大将が政党によらない内閣を組織しました。政友会、民政党両党ともに、ライヴァルに選挙で勝利するために、それぞれ、岡田内閣の内閣審議会に参加して与党化する(民政党)、天皇機関説攻撃と憲政の常道違反で岡田内閣倒閣と民政党攻撃する(政友会)ということを行い、結局、政党政治の途を閉ざすことになりました。


 こうした姿を最晩年の西園寺は病を抱えながら、無力感を持って眺めていたことでしょう。『元老』で伊藤教授は、1937年の段階で、西園寺は老齢などを理由にして元老としての責務を果たすことを放棄したようだと述べています。そして、フランスでの留学生活以降、彼が確信していた国際協調、世界の流れとしてのデモクラシー、政党政治、議会政治が日本で定着するように細心の注意を払いながら行ってきた努力が水泡に帰す様子を眺めながら、最後の元老としてこの世を去ることになることに無常を感じたのではないかと思います。私は、西園寺が目指した「上からの民主化」路線はやはり不自然であったのではないかと思います。しかし、大正デモクラシーからの政党政治の経験が戦後に活かされたという見方も出来ると思います。

 

 元老は憲政と国際協調という2つの原理を日本政治に植え付けるための存在であり、そうした存在が亡くなった時点で戦前の日本は失敗を犯しました。現在、元老のような存在はありません。日本が再び失敗を犯さないようにするためには、私たち自身が賢くならねばなりません。

 

(終わり)


 
アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22




 

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 古村治彦です。

 

 2016年9月10日に私たちSNSIの最新論文集『明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究』(副島隆彦+SNSI著、成甲書房、2016年9月10日)が発売になります。

 

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明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究


 本書は、SNSIの研究員がそれぞれ幕末に徳川幕府によって創設された蕃書調所を巡る人物を取り上げた論文集です。


 私は、江戸幕府の残した人材を活用して明治時代初期には短期間ではありますが日本の最高権力者になった大隈重信について書いています。大隈重信の長崎時代と明治新政府に出資するために上京して住んだ築地時代の話を中心に書きました。大隈重信と言えば、早稲田大学の創設者というイメージが強いですが、NHKの朝のドラマ「あさが来た」で注目が集まった五代友厚、五代を引き上げた薩摩藩の指導者、小松帯刀と共に、近代化を進め、日本の貨幣制度を作った人物です。その大隈の躍進を支えた人脈には、幕府の蕃書調所出身者たちもいました。


 私の論稿は直接的に蕃書調所に関わるものではありませんが、私以外の他の人たちの論文は蕃書調所とそこに集った人物や活動について書かれたものです。幕末について興味がある方は是非手にとってご覧ください。


 以下に、副島隆彦先生による前書きを掲載します。是非参考になさってください。


 宜しくお願い申し上げます。


=====

 

●『明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究』副島隆彦先生による「まえがき」

 

 

天才級の頭脳が集まった「蕃書調所」──まえがき     副島隆彦

 

 

 「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」は、幕末(1856年)に徳川幕府の正式の洋学研究所として発足した研究機関である。

 

 「昌平黌(しょうへいこう)」(通称は「昌平坂学問所」)と並び称された。名前だけは知られているが、誰もここに触ることなく160年が過ぎた。ここに私たちSNSIエスエヌエスアイ(副島国家戦略研究所)が初めて光を当てる。その全体像を今に甦らせる。

 

  この蕃書調所(野蛮な西洋紅毛人(こうもうじん)=西洋白人の書物の研究、翻訳機関)は創立わずか12年間で江戸開城(徳川幕府の崩壊)とともに、光芒一閃(こうぼういっせん)を放って消えていった。

 

 だがここに結集した幕末の日本の俊英たちは、その多くが明治新政府に請われて「徴士(ちょうし)」というテクノクラート(中堅官僚)となった。 

 

 御一新(維新)後の太政官(だじょうかん)政府(明治政府)は、まさしく蕃書調所で学んだ旗本直参と譜代の旧幕臣たちが動かしたのである。のちに維新の元勲と称讃される薩長の頭目(リーダー)たちには西洋近代学問(サイエンス)の知識が無かった。全く無かったわけではないが、刀(人斬り包丁)を抜くこともあった政争(政治権力闘争)に明け暮れたら、勉強(学問、研究)などしている暇がない。だから当時の天才級の頭脳をした日本人の多くは譜代の幕臣たちである。その人々について細かく調べたのが本書である。 

 

 長崎伝習所(1855年設立)と、その後身の幕府操練所(そうれんじょ)(築地でそのまま明治海軍になる)は、蕃書調所に1年遅れて(1857年)オランダからカッテンディーケ(のちオランダ海相、外相)たちが招かれて長崎で開校したのである。蕃書調所も長崎伝習所も形だけは勝海舟の提言(建議)でできた。

 

 薩長による京都での討幕運動(1863、64年をピークとするわずか6年間だ)ばかりが有名である。それが血なまぐさい幕末の中心である、と考えられている。刀を抜いて人を殺しに行った者は自分もやがて(ほとんど)殺される。この人間世界を貫く冷酷な法則を無視して英雄物語のロマン主義ばかりで幕末維新の体制変動を語る時代は終わった。薩長中心史観は見直される時期が到来したのである。

 

 私たちSNSIは、現代の壮士(惣士(そうし)=志士=草莽(そうもう)。武士ではなかった。本当は百姓階級だ)の在野の貧乏な集団である。が、志だけは一流国家機関の研究所員のプライド(矜持、きょうじ)を持っている。

 

 プラトン(紀元前427〜347)が、アテネのアゴラ(自由市場)の脇で開いたアカデメイア(のちのアカデミー)は本当はどんなものであったか。ラファエロが描いた「アテナイの学堂」(1510年作)では、ウソ、インチキの壮麗な絵で、ものすごく立派な建物になっている。この絵は今もバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁にある。

 

 本当の本物のプラトンの学問塾とは、アテネの市場(いちば)の雑踏の脇に、たむろして集まってきた閑人の下級貴族の職無しブラブラ若者たちのことだ。彼らはひたすら、ワーワーと議論し合った。地面に幾何学の線を引いて勉強した(黒板も紙もまだない)。小屋掛けしたボロ家があっただけだ。無職のくせに頭だけは良かった若者たちが、弁だけは立つ口達者の壮年の者たち(これがソフィスト)の知識演説に聴き入って、あとは果てしなく激しく議論し合った。

 

「多くの若者たちを不穏な、間違った道に煽動している」という嫌疑を受けて、ソクラテスは政争に巻き込まれて死刑判決を受けた。その直前に毒杯を呷って死んだのである。ソクラテスは、本当に悪妻だったクサンチッぺから、「訳の分からない議論ばっかり道端で人に吹っかけてないで、少しはお金を稼いで来な」と人前で公然と罵られていた。どんな時代でも女という生き物は同じだ。

 

 譜代の幕臣であることを自負した福沢諭吉と毛利氏家中大村益次郎(村田蔵六)が学んだ、大坂今橋(いまはし)の適塾(てきじゅく)(蘭学、オランダ書を教えた)は堂島、北浜の取引所のそばの大勢の人が行き交う雑踏のすぐ脇にあった。適塾の塾生たちは、朝は穢多非人(えたひにん)の群れに交じって、火が焚かれた飯場で立ち喰いで動物の臓物ら雑穀やらを腹に詰め込んでいた。「こいつらはそこの緒方(洪庵こうあん)のところの学生どもだ」と言われていた。と、『福翁自伝』に書いてある。建物ばっかりが立派になったら、その時はもう、初めの清新な魂は消えてなくなる。立派な建物の大学なんかに中身はない。人騙しの人集めだ。金ばっかりふんだくって碌な教師はいない。

 

 いつの世も本当の教師(先生)は、道端で、辻説法(つじせっぽう)で、人々に道(理屈、理論)を説く。私はこの決意を死ぬまで変えない。

 

 私がもう読みたいけど読めない(その人生時間が足りない)、古い文献史料(もうボロボロの本たちだ)をみつくろって漁って、弟子たちがこの本の論文を書いた。「ここ掘れワンワン」だ。このへんの文献を調べてみろ、そうしたらきっと、何か書かれているよ、と私は目見当の助言はした。あとはそれぞれ自由に彼らが書いた。私はそれに朱筆を入れて突き返しただけだ。

 

 まだ若書きだから文に成っていない。とてもまだ売文(文を売っておカネに変わる)するほどの力はない。

 

 本読みの爺たちが、妬み根性で、「まだまだ、お弟子さんの文は読むに堪えませんね」と私に言ってくる。それならお前が書いてみろ、と私は目だけで言う。

 

 その結果、この本で新しい事実がたくさん掘り起こされた。あるいは、明治大正時代に忘れ去られたのだ。

 

 今どきの、こんなご時勢で読書人階級(ブック・リーダーズ・クラス)であることだけが、私たちの誇りである。他に何の取り柄もない。よくてひとり前のサラリーマンができる程度の能力だ。今ではその会社勤めさえ、なかなかきつくなってきた。会社が平気でどんどん社員の首を切る。そうなると、いよいよ「道端で裸足でワーワー、バカなことを議論し合う」しか他にすることのない人間集団に私たちは戻りつつあるのかもしれない。

 

 本の出版業も風前の灯になってきた。それでも、私たちはこの知識と観念の道をゆくしかない。「人間は考える葦」(パスカル)だからである。パスカルこそは、人間世界の諸悪の根源であるローマ・カトリック教会(その中心がイエズス会)に、本気で正面から喧嘩を売った知識人であった。このことが私にようやく分かってきた。

 

 「第1章」は、石井利明君が、「陽明学はキリスト教である」という大きな秘密を書いた。日本の儒学(儒教)の正統である朱子学と、儒学内部で争ってきた陽明学(16世紀の王陽明が始めた思想)が実は、その本態・本性はキリスト教である、しかもプロテスタント系のそれだ、と解明した。これは以後、石井君の大きな業績だ。

 

 ということは、日本の幕府が厳しく禁教して弾圧した天主教(キリスト教。その中に耶蘇会=イエズス会が含まれる)が、儒学の一種のふりをして連綿と外様(反徳川氏)の大名たちの間で講じられてきた。林羅山だけはこのことを見抜いた。日本陽明学の創始者の〝近江聖人(おうみせいじん)〟中江藤樹(なかえとうじゅ)以来、山鹿素行(やまがそこう)、熊沢蕃山(くまざわばんざん)に至る、一方で、「日本中華思想」(日本が世界の中心である)を唱えながら、一方で博愛と人間愛(救済)の思想を説いた。

 

 石井君は、この他に、8代将軍吉宗の命令で、全国諸藩に昌平黌と似た朱子学を講じる藩校を作れと命じたことに始まる学問新興、しかもここにも蘭癖(らんぺき)大名(阿蘭陀オランダ趣味の強い大名)たちが、実は隠れキリシタン大名の秘かな流れを作り、備前岡山藩主・池田氏や、薩摩の島津氏がずっとこの勢力であり、藩主自らが隠れキリシタンとして幕末まで続いた。そして密貿易をしながら富を蓄えて、幕末から開国路線に転じた、と書いた。表面上の尊王攘夷と、それとは全く異なる裏側の本当の顔である開国和親を論じた。

 

 「第2章」の六城雅敦君は、日本の「和算」の数学者たちの全体像を描いた。画期的である。

 

 この人の名前だけは有名な関孝和(⑥番)を前後にして15人の主要な和算家=江戸時代の日本数学者たちをつなげて論じることで、その全体図が日本で初めて見取り図となって明らかにされた。彼ら和算家たちも秘かにキリスト教徒であった。捕らわれた宣教師(伴天連=パードレ=ファーザー=神父)たちから西洋数学を習ったのだ。  

 

 浅草(鳥越とりごえ)天文台(幕府天文方てんもんがた)に蕃書和解御用が設置され(1811年)、それが、ペリー来航の事態の急変で、蕃書調所になったのである。

 

 「第3章」の田中進二郎君は、初期蘭学者たち(オランダ通辞=通訳・翻訳官)の誕生から、幕末のフォン・シーボルトに習った者たち(高野長英、小関三英ら)の政治弾圧(蛮社の獄。1839年)の栄光と悲劇を経て、更にそのあと、昌平黌の中で天才級の頭脳をした朱子学者たち(佐藤一斎、安積艮斎)が、蘭学までも自力で習得していた様子を正確に描き出した。

 

 そして、勝海舟(安芳)という男は、幕府の秘密警察長官(公儀隠密のトップ、大目付)であった、大久保一翁と川路聖謨が育てて蘭学者たちを監視させるためにその中に潜り込ませたスパイである、という大きな秘密が解き明かされる。そして更に、前記の佐藤一斎が、昌平黌の筆頭教授であるのに、「日朱夜王」で、昼間は朱子学=徳川氏礼讃を唱え(日朱)ながら、夜になると今の岩本町、人形町あたりの私塾で、顔つきが変わって陽明学を講じた(夜王)。この「夜は王(陽明)」の思想が、徳川氏打倒、天子(天皇)回復(回天)の、討幕思想の原動力(始源)となったのだと解明した。この意味は大きい。だから、この大きな流れで、幕府のスパイだった勝海舟は、薩長(背後にイギリスがいた)とつながる二重スパイとなって、上手に生きて明治まで図々しく生きたのだ。

 

 幕末最大のイデオローグ(皆に尊敬された)であった横井小楠は、全国三百諸藩に勤王同盟ができる原動力になりながら、同時に、朝廷と幕府の団結による「共和政体」(公武合体の正しさ)による国力の増大を追求した。このことの大きな矛盾を抱えて死んだのであった。

 

 「第4章」の津谷侑太君が、前記の田中進二郎君と、「勝海舟が幕末の二つの勢力の二重スパイであった」証明の業績を分担する。津谷君は、蕃書調所を実質で切り盛りした天才学者古賀謹一郎を描き出した。古賀謹一郎(この人も〝日朱夜王〟である古賀精里の孫)こそは、蕃書調所の要石であることがよく分かった。彼は昌平黌の筆頭教授のまま、蕃書調所(による洋学研究)を幕府から任された。その重たい責務で古賀は早逝した。

 

 このあとは箕作秋坪(阮甫の養子)の動きから、それと連携した福沢諭吉が、当時の超大国(覇権国)であるイギリスとフランスに対抗する、後進国(新興国)のロシア帝国とアメリカ(そしてドイツも)の代理人(手先)となった、とする驚くべき新説を提起した。

 

 津谷説のここまでの斬新さは、日本の歴史研究における最先端の突出であるから、過激先生を自認する私であっても、態度を保留している。津谷君はこのことをさらに論及する責任を負う。

 

 「第5章」は、幕末の江戸で大人気の剣術道場の隆盛に光を当てる。

 

 四つの当時の有名な剣術道場が、まるで現在に再現されたかのようだ。古本肇氏が、私に向かって詳しく語ってくれた。「二尺三寸(刃渡り96センチメートル)が武士の刀」として論じる。①千葉周作(玄武館)、②斎藤弥九郎(練兵館)、③桃井直正(志学館)、④男谷信友(講武所。幕府陸軍になる)の四つを取り上げることで、幕末にこれらの剣術道場が果たしたきわめて重要な役割を、今に甦らせた。この対談文も、きっと画期的(エポック・メイキング)な作品である。これまで日本史学者と幕末小説家たちが全く描くことをしなかった実情としての幕末の江戸に集った人間たちの動きが活写される。

 

 蕃書調所(学問所)と二つ並べて、どうしても剣術道場(軍事)のことを論じておかなければ済まない、と私は思った。近藤勇ら新撰組の暴れ者たちも、ここで修練した。武士になりたい、の一心で三多摩壮士(百姓)たちが、あわれな人斬りの道に進んだのだ。これらの剣術道場は、金持ちたちがパトロンとなって出資もして、人間交流と情報集めのための重要なサロンとしての役割を果たした。人格者であった剣術使いの千葉周作たちは、人斬りになどならずに明治を迎えた。このことが偉いのだ。

 

 「第6章」の吉田祐二君も勝海舟を論じて、最後は幕臣のトップにまでなった彼が、「幕府の墓堀人(グレイブ・ディガー)」になったことを鋭く描いている。前記の者たちの論述を最後に補強する筆致である。

 

 「第7章」の古村治彦君は、なぜ大隈重信が、薩長土肥(西南雄藩)の肥前(佐賀、鍋島氏)の藩士から、明治新政府の最高実力者にまで成れたのか、の、その秘密を見事に解明した。それは大隈がフルベッキやヘボンの通訳の任務を果たすことで、新国家建設のマスタープラン作りで枢要な立場を占めたからであった。この謎解きは大隈重信研究で今後、大きな業績となるだろう。

 

 これらの文は、人様に買って読んでいただけるだけの優れた内容である。そのように私が太鼓判を押す。私にとって、能力のある若者たちをひとりでも多く物書き、言論人として世に出すことが何よりも重要なことである。怒鳴り散らしながらでも人を育てることこそが人間が本当にやるべきことだと思う。

 

 この本には本当にびっくりする重要なことが幕末に起きていたことがたくさん書かれている。

 

 

  2016年8月                    副島隆彦




(終わり)





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