古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:天皇

 古村治彦です。

 

 今回はちょっとまとまりのない、分かりにくい日本関連の記事をご紹介します。

 

 今回の記事では、日本が初めて軍事衛星を打ち上げたことで、「日本の積極的平和主義」は進められているということを述べています。記事には、ワシントンにあるCSIS(戦略国際問題研究所)の日本部長ザック・クーパーが登場しています。クーパーは、スタンフォード大学卒、修士号と博士号はプリンストン大学というエリートです。日本部長をしていますが、博士論文(“Tides of Fortune: The Rise and Decline of Great Militaries”)の指導教授はアーロン・フリードバーグです。CSISの日本部長ということで、マイケル・グリーンCSIS副理事長の部下ということになります。クーパーは、「日本が積極的な平和主義を追求しているのは、平和主義的な姿勢を維持するためである。また、日本は“普通の国”になろうとしているのだ」と説明しています。

 

 日本では大きすぎる問題のためにかえって論じられることがはばかられてしまう天皇の退位と譲位についてですが、今上天皇の姿勢を「積極的平和主義」と対比させて描いているところは、外側からの目の方が重要な点を掴みやすいものなのだと感じました。

 

(貼りつけはじめ)

 

日本にとって、新しい軍事衛星が後になって新しい天皇になるかもしれない(For Japan, a New Military Satellite and, Maybe Later, a New Emperor

 

エミリー・タムキン筆

2017年1月24日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2017/01/24/for-japan-a-new-military-satellite-and-maybe-later-a-new-emperor/

 

日本の戦後の平和主義のゆっくりとしたしかし確固とした変化が火曜日に促進された。この日、日本政府は初めての軍事通信衛星を打ち上げた。

 

現在、日本の自衛隊が使用している非軍事用の衛星に代わる3つの軍事衛星の最初の衛星であるきらめき2号が打ち上げられた。新しい衛星は、高速の高性能の通信能力を持ち、自然災害に対してより効果的にかつ効率的に監視を行えるようになるが、それは同時に増大しつつある安全保障上の挑戦に対する対応もできるようになる。

 

アジア地域のアメリカの同盟諸国はアメリカの後退について懸念を持っている。一方、日本の政治家たちは、南シナ海と東シナ海における中国の攻撃的な姿勢と核兵器10発を製作できるだけのプルトニウムを持つと考えられている北朝鮮に備えようとしている。より良い通信能力を獲得することで、日本の軍事力は増強されることになるだろう。日本の自衛隊は現在海外での活動を認められているが、軍事衛星によって海外における平和維持活動に貢献することになる。

 

CSISの日本部長であるザック・クーパーは、新しい衛星群は再軍備を意味するものではないと本誌の取材に対して述べている。クーパーは、「日本は、憲法が認めた、積極的な平和主義を追求しているのであって、攻撃的な軍事増強を行っているのではない。日本はより“普通の国”に戻ろうとしているのだ」と語っている。

 

日本の安倍晋三首相が行っている積極的平和主義に向けた動きはこれだけに留まらない。2016年12月、日本政府は海上保安庁の予算を2100億円(18億ドル)に増額し、新たに5隻の巡視船と200名以上の要員の増加を決めた。また同時期、日本は5年連続で防衛予算を増加させ、総額は440億ドルに達している。

 

クーパーは、「アジア各国、特に中国が防衛予算を増額させることで、日本の防衛力の増大も阻害されている」と語った。火曜日、高分3号SAR衛星が実働を始めた。この衛星によって、領土紛争が起きている地域での様々な活動を監視することができる。クーパーは、「数隻の巡視船の投入と予算の微増は、周辺地域の安定が危機に直面している中で、平和主義的な姿勢を維持し続けるための方策に過ぎない」と述べた。

 

実際のところ、東シナ海で日本と領有権を争っている岩礁である尖閣諸島(中国では魚釣島)を包囲している。中国政府は南シナ海の大部分の領有を主張している。 ドナルド・トランプ米大統領とレックス・ティラーソン国務長官は、もし必要となれば武力を使ってでもこれらの地域のアメリカの国益を守るという強迫的な言辞を使って、中国に対して強硬姿勢を取っている。トランプ政権の強硬な姿勢について、日本では紛争に巻き込まれるのではないかという懸念を持つ人々が出ている。

 

トランプ政権は日本と協力することに特に関心を持っていないのではないかという懸念を持っている人々がいる。大統領になっての最初の行動として、トランプはアメリカのTPPからの脱退に署名した。TPPは多国間の貿易協定で、日本の安倍首相とアメリカのバラク・オバマ前大統領が主導してきた。

 

日本では政治の面で大きな変化が起きる可能性がある。月曜日、政府の審議会は、日本の国会に対して、今上天皇の退位を認める答申を出した。現在83歳になる今上天皇が息子である56歳の皇太子徳仁親王に天皇の地位を譲ることになる。現在までの2世紀の中で、日本の天皇が上位を行うのは初めてとなる。

 

付言すると、クェーカー教徒によって教育された今上天皇の天皇在位期間は、1989年に始まったのだが、この期間の多くの期間で、激戦地や戦争の爪痕を残す場所を訪問することで特徴づけられている。今上天皇はアジアにおける戦禍を目撃し続けてきた。日本の軍事力を整備した平和主義が追求されているが、皇太子がこの立場を取らねばならないということではない。

 

(貼りつけ終わり)

 

(終わり)








アメリカの真の支配者 コーク一族
ダニエル・シュルマン
講談社
2016-01-22


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 古村治彦です。

 

 今回は、ネオコンの牙城であるシンクタンクCSISの上級副所長にして、先日共和党の外交政策専門家50名による反トランプ書簡にも名前を連ねた、マイケル・グリーン先生による「天皇のお言葉」についての解説です。

 

 天皇は直接的に退位に関することは述べることが出来なかったが、これは政治に関与することが出来ない天皇の立場から当然のことだが、年齢や健康、義務の負担について言及することで、間接的に「退位をしたい」ということが分かるようになっていたという解説は、なかなか良く分かっているなという印象です。

 

 今回の天皇退位の間接的な意思表明について、「これは安倍内閣に対する失望の表明だ」という解釈についても言及しており、これは日本の主要なマスコミでは流されていない話なので、細かくインターネットでも情報を取っていることを示唆しています。この解釈について言及しておいて、これは主要な解釈ではないと書いてあるところは、これは妄説だと切り捨てたいという意思の現れでしょう。

 

 最後の「明確になっているのは、明仁天皇は日本の皇室の伝統を改革するための時期が来たという間接的なシグナルを送ったということである」という部分は、今上天皇が最も言いたかったことを捉えているのだろうと思います。

 

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日本の天皇による珍しいテレビを通した声明(A Rare Television Address by Japan’s Emperor

2016年8月8日

August 8, 2016

https://www.csis.org/analysis/rare-television-address-japan-emperor

 

2016年8月8日、日本の明仁天皇はテレビに出て声明を発表した。これはきわめて珍しい機会であった。天皇は衰えていく健康と日本の高齢化社会に言及し、「天皇もまた恒例となった場合に望ましい天皇の役割」についての個人的な考えを伝えたいと述べた。明仁天皇は現在82歳だ。日本の皇室典範によると亡くなるまで終身天皇の地位にとどまらねばならない。しかし、天皇の声明は、天皇が天皇の位から退きたいと考えているかもしれないという推測を人々に起こさせた。安倍晋三首相は、天皇の発言には真剣に対応すべきだが、天皇退位の可能性についての詳細なコメントはしなかった。

 

問1:天皇が退位問題について直接声明を発表しなかったのはどうしてか?

 

答1:日本の戦後憲法は、天皇を国家の象徴とし、統治に関わる権力を持っていないと規定している。天皇は政治的だと思われる可能性を持ついかなるコメントも行うことは禁止されている。従って、天皇は直接退位について言及しなかった。現在の法律では天皇退位に関する条項は存在しない。しかしながら、天皇は、たとえ高齢になっても国の象徴としての天皇の義務を減らすことはできないこと、そしてもし天皇が義務を果たせなくなったら摂政(恐らく彼の息子)が摂政に任命されるにしても天皇は終身在位し続けるという事実に変更はないことに言及することで、間接的に、退位問題について示唆を与えた。安倍首相は、天皇が直接人々に向かって直接、年齢と天皇の義務に伴う負担について語ったという事実を真剣に受け止め、何ができるのかを考える必要があると述べた。

 

問2:声明はどのように解釈されるか?

 

答2:天皇の衰えいく健康(天皇は前立腺と心臓の手術を受けた)が主要な要素であり、10分間の声明の中で、一度ならず肉体的な状態について言及した。日本国内、国外のマスコミの中には、天皇が安倍内閣の安全保障政策に対して失望を表明しているという憶測が流れている。昨年、安倍内閣は一連の国防政策改革を国会で通過させた。その内容は、集団的自衛権の行使や攻撃されている同盟国の防衛にかけることといったことであった。この改革の意図は、安全保障問題における日本の役割を増やすことであった。しかし、この解釈は、明仁天皇の先の大戦に関する不明帳な発言を基にしている。そして、マスコミ、政治家、官僚の大部分はそのような解釈を行っていない。

 

問3:日本政府はこの問題をどのように対処するだろうか?

 

答3:国会は天皇退位を許可するために皇室典範を見直す必要があるだろう。そしてこの可能性の調査をこの9月から始まる国会の会期で始めるだろう。マスコミの中には、安倍内閣が天皇退位問題研究のために専門家による委員会を創設するだろうという報道をしている社もある。世論は変更について賛成している。週末に行われた朝日新聞の世論調査では、84%が天皇退位を支持している。しかし、この議論が展開されるペースがどれくらいのものになるか、はっきりしていない。明確になっているのは、明仁天皇は日本の皇室の伝統を改革するための時期が来たという間接的なシグナルを送ったということである。

 

※マイケル・J・グリーン:ワシントンにある戦略国際研究センター(CSIS)のアジア担当上級副所長兼日本チェア、ニコラス・セーチェーニ:上級研究員兼日本チェア副部長。

 

(終わり)





 
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 古村治彦です。

 

 2016年8月8日午後3時に、今上天皇による「お言葉」の発表がありました。内容はこれまで報道されてきたことの内容から大きく外れるものではありませんでした。「●●したい」ということは個人的に持つことは自由ですが、天皇の地位に関することは国政上の問題になるために、具体的には述べられることはありませんでしたが、今上天皇が「個人」として、「天皇の位から退位したい」という気持ちを持っていることが明らかになりました。これを受けて、安倍晋三首相は、「何ができるかを検討したい」を述べました。

 

 現在の日本国憲法、皇室典範では、天皇の退位についての規定はありません。ですから、昭和天皇は、崩御するまで天皇の位にありました。今上天皇は、日本国憲法下で初めて即位した、最初から「国民統合の象徴としての天皇」としての天皇です。そして、即位式で日本国憲法の遵守と述べた天皇であり、今回の意見表明は、日本国憲法との兼ね合いについて考えた末でのギリギリの行為であったということが言えます。

 

 普通に考えてみれば、80歳という年齢を超えて激務をこなすということは大変なことです。人間の肉体と精神の面から見て過酷なことです。ですから、仕事を退く定年が定められていたり、年金支給年齢は65歳からであったりする訳です。

 

 即位した最初から日本国憲法下の「国民統合の象徴としての天皇」である今上天皇は、言ってみれば、象徴天皇初代と言ってよい天皇です。昭和天皇は戦後しばらく政治、特に外交に影響を及ぼしていました。また、内閣閣員による「内奏」を残すように働きかけました。明治憲法下の天皇大権を持つ天皇としての面を残していたと言えます。

 

 この日本国憲法下、個人としての幸福追求権は何人にも保障されたものです。皇族には参政権などは認められていませんが、幸福追求権は認められているはずです。ですが、問題は天皇の位と個人の幸福追求権との関係です。自分の健康に不安を持つ、年齢を考えることなどから、地位を退くことや仕事から退くことは誰にでも許されていることです。公務員であっても、民間の会社員であっても、また総理大臣だろうが国会議員だろうがそうです。しかし、天皇の場合にはその規定がないために今のところ、それが許されていません。ですから、自分の「意思」で天皇退位について決められるという、ある意味では、近現代に入って最大の「改革」を行おうという意図があるのだろうと思います。こうした意向がリベラルに映り、今上天皇と皇后に対して批判的な右翼や保守派の人々がいますが、彼らが今上天皇と皇后の発言や行為にピリピリと来ていることは分かります。

 

 問題は、天皇自らが退位を決められるとなると、天皇の存命中の退位が頻発する、しかも若年での退位が頻発するのではないかということです。国事行為や宮中祭祀、公務はスケジュールがぎっしりで大変な緊張を強いられると言います。それを毎年毎年やるのですから、嫌になる人が出てくることもあるでしょう。そうなった場合に、「存命中の退位」ということになるでしょう。だから官庁や企業などでは定年が設けられているのですが、天皇に定年がふさわしいのかどうかは微妙です。そうなると、存命中の退位については、「摂政を置くほどではないが肉体的、精神的に天皇の公務に耐えられなくなった」という理由づけとそれに関連する条件付けが必要となりますが、その条件決定も大変なことです。ですから、自民党からは今回限りの立法という形で、今上天皇の存命中の退位ができるようにするという話も出てきています。しかし、そうなると、この問題は根本的に解決しないことになります。

 

 ですから、定年という厳格なものでなくても、例えば75歳を過ぎたら、自らの意思で退位を行うことが出来るというような条件が適当ではないかと思います。75歳というのは私の勝手な考えですので、日本人の平均寿命などを参考にして、よりふさわしい数字が出てくるものと思います。そして、退位後の前天皇の処遇についても決めなくてはなりません。

 

 日本国憲法の三本柱は国民主権、戦争放棄、基本的人権の尊重ですから、皇族にはある程度の制限はありつつ、やはり人権は尊重されるべきですし、そうなると、「心身ともに疲れ果てた」と訴える天皇が退位をすることは制度的に保証する(しかし、かなり制限つきで)ということが必要だと思います。

 

 近現代において、天皇の退位が問題になったのは終戦前後のことでした。終戦直前、近衛文麿は、昭和天皇の退位について、京都の仁和寺で出家するということを考えていました。また、皇族や政治家たちの中にも天皇退位を考えている人たちがいました。例えば、日本国憲法起草に関わった芦田均は、昭和天皇の退位を支持する考えを持っていました。昭和天皇自身も一度ならず退位を考えたことがあったようですが、結局退位をすることはありませんでした。

 

 退位となると、こうしたネガティヴなイメージが付きまとってしまう、もしくは、退位を政治的な意思の表明(たとえば内閣の間接的な不信任など)に使ってしまうということが考えられます。ですから、天皇の存命中の退位は歴史上何回も行われてきましたが、明治維新以降は行われていません。

 

 しかし、日本国憲法下の象徴天皇という歴史的には極めて新しい役割を持つ天皇においては、日本国憲法の精神と合致させるためにも、存命中の退位を制度化しておくことは必要だろうと考えます。

 

 

(貼り付けはじめ)

 

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成2888日)

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

 

戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。

 

私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。

 

本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 

即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。

 

そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。

 

私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間かん私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。

 

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 

天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。

 

始めにも述べましたように,憲法の下もと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 

国民の理解を得られることを,切に願っています。

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)





 
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 古村治彦です。

 

 今回は、『内奏―天皇と政治の近現代』を皆様にご紹介したいと思います。新書にしては、こなれていなくて少し読みにくい本ですが、内容は大変充実しており、日本の近現代史に興味がある人にとっては、「そう、そこを知りたかったんだよ」という、かゆいところに手が届く本です。この本の中身を中心にお話を進めたいと思います。

 


 昭和10年代から敗戦までの歴史に関する本を読むと、重大な事件や決定の際に、政府の責任者(総理大臣や各国務大臣)、軍の責任者(陸軍の参謀総長や海軍の軍令部総長
[長く軍令部長])が天皇に報告するシーンが出てきます。この時に、天皇から厳しく追及され、脂汗を流す、頭を上げられないということがありました。一方、近衛文麿は、天皇から椅子を勧められ、それに足を組みながら座り、政治について語ったという話もあります。

 

 明治憲法(大日本帝国憲法)においては、天皇は主権者として、天皇大権と呼ばれる、国を統治し、軍を統帥する権限を持っていました。そして、この権限の行使の際には、国を統治する場合には、各国務大臣の輔弼(ほひつ)、軍の統帥の場合には、参謀総長と軍令部総長の輔翼(ほよく)を必要としました。

 

 天皇に何かを申し上げることを「奏」と言い、これに関する言葉は、上奏、奏上、密奏、内奏やそのほか様々な言葉があります。明治憲法下、国務大臣や参謀総長、軍令部総長がそれぞれの職務に関して決定を行い、それを天皇に報告し、天皇がそれを認める(裁可する)という流れの中で、天皇に報告することを「上奏」ということで統一され、制度化されたのは、1907年の「公式令」が制定されてからだということです。

 

 この上奏に関しては、天皇は「ご下問」という、質問で内容を確認したり、婉曲的、間接的にですが、「内容を再検討してみたら」「反対だ」という意思を伝えたり出来ました。戦争直前、このご下問対策に陸軍、海軍は頭を悩ませたということです。

 

有名な話では、日米開戦直前、参謀総長の杉山元が「日米開戦になった場合に、どれくらいで作戦を完遂するのか」という昭和天皇のご下問に対して、「太平洋は3か月で作戦を終了する見込みです」と答えました。そうすると昭和天皇は、「お前は陸軍大臣だったとき、支那は、2ヶ月程度で片付くと言ったが、支那事変は現在も終わっていないでないか」と厳しく問い詰められました。杉山が「支那は奥地が開けており、予定通り作戦がいかなかったのであります」と苦し紛れに答え、昭和天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はもっと広い。いかなる成算があって3ヵ月と申すのか」と厳しく叱責し、杉山は汗をかきながら、頭を下げているしかなかったというものがあります。昭和天皇は厳しいご下問で、矛盾や過度の楽観を厳しく突く人物であったそうです。

 

 この上奏については、戦前から戦中にかけてさまざまなドラマが展開されました。内閣が倒れたこともありました。張作霖爆殺について、当時の田中儀一首相が天皇に「奏聞(報告)」することになっていました。これは「上奏(報告し、裁可を受ける)」とは異なる点に注意が必要です。この時、宮中では、最初に田中首相が示した陸軍の厳罰方針と異なる場合(軽い処分)には、認めない内容の「お言葉」を出して良いのかを研究し、その内容のお言葉を田中首相に与えることになりました。

 

 田中首相が「奏聞」のために参内し、昭和天皇に拝謁し、張作霖爆殺事件処理について行政処分で済ませることを報告すると、昭和天皇は以前の報告と内容が違うとして、報告を打ち切らせました。田中首相には「事件処理があまりに杜撰だ」という昭和天皇の意思が伝えられ、田中首相は内閣総辞職を決意しました。この時、昭和天皇は、これが田中首相の「上奏」だと考えており、「合理的な理由もなく、正式な(裁可を必要とする)上奏で前回と違うことを言うとは何事か」として、会見を打ち切ったとのことです。一方、田中首相にしてみれば、非公式の(裁可を必要としない)奏聞のつもりであったのですが、天皇に叱責されたことで内閣不信任だと考えて総辞職となりました。

 

 どうもこの上奏やら奏聞、内奏、奏上と言った言葉がはっきりした定義が共有されて使用されていなかったために、戦前から戦中にかけて、誤解や混乱を招くこともあったようです。

 

 1945年8月15日に昭和天皇の玉音放送が流れ、9月2日に東京湾の戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書に調印が行われました。ここから1947年に日本国憲法が制定されるまで、昭和天皇は積極的に政治に関与します。この時はまだ明治憲法下ですから、憲法違反ということではありません。著者の後藤致人氏は、この時期は「天皇親政的色彩」が強い時期であったと述べています。

 

 19475月3日年に、大日本帝国憲法が日本国憲法に改正された形で施行となり、上奏という制度はなくなりました。しかし、昭和天皇は、内奏という形で、国務大臣などが報告に来ることは残すように要望しました。この内奏と同時に行われるご下問やお言葉については法的な根拠が曖昧で、天皇の政治関与(天皇執政)と考えられますが、「天皇の国情への理解を深める」ためのもので国事行為には当たらないということになっています。

 

 しかし、1947年7月には当時の外相・芦田均(首相は社会党の片山哲)が宮中からの要請を受けて外交問題についての内奏を行いました(芦田は日本国憲法制定に深くかかわったので、この内奏が天皇政治関与にあたるのではないかという疑念を持っていました)。この時、米ソ関係の悪化を受けて、「日本の外交は日米関係を基調とすべき」とする「お言葉」があったと芦田は日記で書いています。また、1947年9月には、沖縄メッセージ(米軍による沖縄の長期占領と日本の主権確認を求めるメッセージ)をアメリカ側に送りました。こうした天皇の姿は、日本国憲法下の象徴天皇の姿からは外れたものと言えます。

 

 片山内閣の後に成立した芦田内閣では、「①天皇不執政の徹底のために閣僚による内奏の廃止、②戦前・戦後の宮中の違いをはっきりさせるため、宮内府長官・侍従長という宮中首脳の同時交代による人事刷新、③道義的責任として天皇大意を求める」と言う方針を打ち出しました。これに対して、昭和天皇は抵抗しました。芦田内閣が短命であったために、これらの方針が徹底されることはありませんでした。

 

 次の吉田茂内閣(第二次)では芦田内閣の方針は破棄されました。吉田内閣の次の鳩山一郎内閣では、閣僚による内奏が復活しました。岸信介内閣では、都道府県知事の内奏が行われるようになりました。一方で、岸信介は天皇軽視の態度もみられ、宮中側には不満が残りました。たとえば、都道府県の知事の内奏では、天皇の日程を変更させると言ったことが起こりました。また、鳩山一郎の大勲位授与に関して、岸が内奏を行わないで、単なる伝奏で済ませようとしたことに関しては、昭和天皇が不満を漏らしたとそうです。

 

 岸とは対照的に、昭和天皇(そして当時の皇太子・現在の今上天皇)と良好な関係を築いたのは、岸の弟の佐藤栄作でした。昭和天皇と佐藤栄作の関係は「君臣情義」と呼ぶべきものでした。佐藤栄作は様々なことを天皇に内奏し、天皇もそれを熱心に聞き、お言葉もあったということです。佐藤栄作は沖縄の施政権の返還を実現しますが、これがなった時に思い浮かんだのは、自分が昭和天皇にこれを内奏する姿でした。やはり親しみを持ってよく顔を出す人に親近感を持つのは人間の情として自然なことなのでしょう。

 

 田中角栄内閣の時に、閣僚(増原恵吉防衛庁長官)が内奏の中身と天皇のお言葉をマスコミに話してしまう、内奏漏洩事件が起きました。第二次吉田内閣以降、内奏の中身を他に漏らしてはいけないということが不文律になっていました。内奏を終えた増原長官は、つい内容を漏洩してしまいました。その結果、内奏は政治的なものではないことが改めて確認されました。

 

 1980年代以降になると、政治家たちの昭和天皇に対する畏怖の念が低下していきました。日本国憲法化の象徴天皇ということが政治家たちの意識の中に浸透していった時代と言えます。1989年に昭和天皇が崩御し、今上天皇が即位しました。今上店で特徴的なことは、日本国憲法を強く意識していることです。折に触れて、日本国憲法や第二次世界大戦・太平洋戦争についての発言を行っています。これは昭和天皇には見られなかったことです。


 今上天皇になっても内装は続けられています。今上天皇は日本国憲法下で即位した初めての天皇で、昭和天皇のように、天皇大権があった明治憲法下の天皇の職務を体験していません。そういう意味では、新しい形の象徴天皇としての姿を模索し、それを実行していると言えます。

 

 この本『内奏』では、天皇の政治関与ということがテーマとなっています。明治憲法下では、天皇の政治関与が制度として組み込まれていたのですから当然行われていました。日本国憲法下では、象徴天皇と天皇不執政の原則から、政治関与は公的にはなくなりました。しかし、昭和天皇は、内装を残すことで、政治とのかかわりは保ち続けました。占領下では天皇不執政の原則を越えての発言もあったようです。

 

 その後、日本国憲法が定着していく中で、政治家側の温度や態度で、天皇との距離感の違いが出てきました。そして、現在では、とても「ドライな」関係になっているようです。この天皇と政治の距離感はある意味で絶妙なものであると言えるでしょう。天皇と皇室の存在を国民の多くが認めている現在、この距離感が大きく変わることはないでしょう。

 

この文章は2016年7月11日に書いたものです。書評ですし、内容から考えて、そんなに急がなくてもよいかなと思っていました。

 

 しかし、2016年7月13日夜に、NHKが今上天皇の生前退位の移行について報道し、共同通信や他のメディアも後追いの形で報道しました。

 

『内奏』のテーマは天皇の政治関与ですから、一気にこの本のテーマがホットな話題になりました。

 

 今回のケースでは、「天皇の地位から退きたい」という今上天皇の意向があるということが報道されました。

 

 現在の日本国憲法では天皇の地位と国事行為については規定がありますが、皇位の継承については、皇室典範によると書かれています。

 

 皇室典範には、天皇の生前退位に関する規定がありません。皇室典範は明治時代に制定され、昭和24年に改正された法律ですが、最後に天皇の生前退位があったのは1817年ですから、明治時代に皇室典範を作った時も、生前退位を想定されていなかったということになります。

 

 また、皇族の規定としては、皇太后(崩御した前天皇の皇后)はありますが、退位した天皇(おそらく大上天皇、上皇)については書かれていません。

 

 ですから、今のままでは天皇は即位すれば、崩御するまで天皇でいなければならないということになります。病気などで公務が出来ない場合には、摂政をおくことが出来ます。昭和天皇も父大正天皇の健康状態が悪くなって、摂政宮となりました。

 

 今上天皇が健康や年齢を理由に「退位したい」と考えて、ごく親しい人たちに話をするのは、人間として当然のことですが、それが表向きになると、途端に政治とからんでしまいます。

 

 私は今回、この報道を聞いて、「国事行為に天皇が自身の地位について話をするということがないが、これは逸脱行為、政治関与になる可能性はないのだろうか?」と、『内奏』を読んだばかりでしたので、考えてしまいました。

 

 もちろん、内奏で国務大臣や三権の長などに会う際に、政治的な意見を言い、それが影響するということになると、明らかな政治関与ですが、この場合にはそれに当たりません。しかし、国民的な議論というか、関心を集めるという点では、どの政治家も無視することはできないものです。

 

 その点では、政治関与とは言えないが、政治に大きな影響を与えるものとなったと言うことはできます。

 更に言うと、天皇には政治利用という側面もあります。つまり、天皇の意向だということで自分の主張や意見を押し通すということです。現在ではそのようなことは制度上はできませんし、政治利用を防ぐためにも内奏の中身を外に漏らすことはできません。しかし、今回の天皇退位の意向が、単に周囲に対して、「体もきついし、公務で間違うこともあるから、公務を皇太子に引き継いでもらうためにも、引退したい」と私的に述べたことが、外に漏れることで、大きな影響を与えることは明らかですから、問題は、誰が主体となってこのリークが行われたのかということを知ることが重要です。

 今上天皇が改憲の動きを阻止するために自ら意見のリークを認めた、ということも考えられますし、改憲派が日本国憲法擁護派の今上天皇を退位させようとした、もしくは皇室典範改正(現在のままでは皇太子が存在しなくなりますし、女性天皇の是非も問題になります)から改憲(天皇に関する条項の変更)へとつなげて、国民を国民投票や改憲に慣れさせるということも考えられます。


 天皇は日本では政治的な権威を失いましたが(君臨すれども統治せずの立憲君主制)、それでもやはり大きな存在なのだということを再認識した、という方は多いと思います。

(終わり)



 


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