古村治彦です。

 最新刊『悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める』は絶賛発売中です。バイデン政権に就いての日本語でのこれほど詳しい分析は他にないと自負しています。是非お読みください。

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

 今回は中国についての論稿をご紹介する。今回の記事は、私が翻訳した、オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著『野望の中国近現代史(原題:Wealth and Power: China's Long March to the Twenty‑first Century)』(ビジネス社、2014年)を底本にして書かれている。「恥辱の世紀」「復興」「富と力」という重要な言葉遣いは全て『野望の中国近現代史(原題:Wealth and Power: China's Long March to the Twenty‑first Century)』から採用されている。この本が中国の近現代史理解にとって教科書的な存在になっていることが分かる。

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 野望の中国近現代史

 今回の論稿の内容は「中国共産党はナショナリスト政党である」というものだ。中国、当時は清王朝時代であったが、1840年の第一次アヘン戦争に敗れ、西洋列強による植民地化が始まった。そして、1894年の日清戦争で敗北し、近代化で格下と見下していた日本にも後れを取っていたことが明確となった。第一次アヘン戦争からの約百年(1世紀)は「恥辱の世紀」ということになる。その間の主要な出来事は以下の通りだ。

第一次アヘン戦争(1840-1842年)

南京条約(1842年)

第二次アヘン戦争(1856-1860年)

天津条約(1858年)・北京条約(1860年)

太平天国の乱(1851-1864年)

日清戦争(1894-1895年)

下関条約(1895年)

五四運動(1919年)

満州事変(1931年)

満州国建国(1932年)

日中戦争(1937-1945年)

1800年当時の中国(清王朝)は世界のGDPの25%を占める超大国だった。それから僅か40年の間に西洋列強から攻撃を受け、沿岸部が植民地化されていった。更には隣国で格下の日本にも近代化で後れを取ったことも中国の政治指導者たちや知識人たちにとっては衝撃であり、屈辱だった。

そうした中から、中国の「復興」を目指す若者たちが出てきた。それが孫文であり、康有為や梁啓超といった人々だった。彼らのナショナリズムに共鳴したのが後に中国共産党を創建し率いていった周恩来や毛沢東であり、鄧小平、江沢民、胡錦涛、習近平とその流れは連綿と続いている。中国の復興のために必要なことは、「富と力」であり、この言葉は魏源が中国古典の中から復活させたものだ。

この歴史的な大きな流れを理解することで、中国の行動原理を理解することができ、様々な行動や出来事を分析することができる。今回ご紹介する論考はそのために大いに役立つものである。

(貼り付けはじめ)

中国共産党はこれまで常にナショナリスト政党であった(The Chinese Communist Party Has Always Been Nationalist

-中国の復興の探求(China’s quest for rejuvenation)は1世紀以上前まで遡る。

ラッシュ・ドシ筆

2021年7月1日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2021/07/01/chinese-communist-party-nationalist-centennial/

一世紀に渡り、中国共産党はナショナリスト政党であり続けてきた。現在、この点については様々な議論がある。特に、中国共産党が共産主義のイデオロギーを変貌させた後に、ナショナリズムに関連したテーマに集中しているのを、権力を維持する道具立てとして利用していると考える人々はそのように主張している。しかし、現実はより複雑なのだ。中国共産党のナショナリズム志向は長期的、歴史的な流れに埋め込まれたものであり、現在の中国共産党と新王朝末期の衰退(decline)による愛国主義的(patriotic)な考えの醸成とをつなぐものなのである。

1790年代、ジョージ・ワシントン米大統領がアメリカ合衆国大統領の一期目を務めていた時期、清王朝は最盛期を迎えていた。しかし、それから数十年、地方における反乱の頻発、外国勢力による攻撃と略奪、柔軟性に賭けた政府の存在によって、宮廷の高官たちの中には、「中国は衰退の時期に入っている」という感覚を持つようになった人物たちが出るようになった。魏源(Wei Yuan、1794-1857年)のような宮廷の高官たちは、清王朝の凋落を懸念し、「徳による統治(rule of the virtuous、德治)」というより典型的な儒教の伝統ではなく、“国家は「富と力(wealth and power、富强)」を追求する”という考えに基づいた中国の学問の歴史の一潮流を早急に復活させ始めた。中国国内の衰退はヨーロッパ列強の帝国主義的な野心と重なり、それは第一次アヘン戦争(First Opium War)という無残な結果となって現れた。その時から中国の「恥辱の世紀(century of humiliation)」は始まったのだ。その時から、多くの人々が過去の栄光を復活させるための方法を探し始めた。オーヴィル・シェルとジョン・デルリーは、彼らが編んだ浩瀚な中国知識人の歴史を取り扱った著作の中で、魏源が復活させた2000年前の「富と力」はまさに時宜を得た言葉となった、「そして、これ以降、中国の知識人と政治指導者たちにとっての“北極星(North Star)”であり続けた」と書いている。

恥辱の世紀において、中国は衝撃的かつ痛手が残る(traumatic)敗北を繰り返し、その結果に苦しんできた。これらの繰り返された敗北によって、清王朝の屋台骨は崩された。しかし、恥辱の世紀はまた、義源の「富と力」を基盤とする学者と活動家たちを生み出した。義源の学問上の後継者となった馮桂芬(Feng Guifen、1809-1874年)は恥辱の世紀で起きた主要な事件のいくつかを目撃した。第二次アヘン戦争(Second Opium War)と太平天国の乱(Taiping Rebellion)によって清王朝はほぼ瓦解した。馮桂芬は、中国の衰退を転換させるためにいわゆる洋務運動(self-strengthening movement、自修自強運動)を始めた。馮桂芬は次の世代の学者たちに影響を与えた。その中には将軍であり政治家でもあった李鴻章(Li Hongzhang、1823-1901年)も含まれていた。しかし、状況はほぼ改善しなかった。馮桂芬の死から僅か20年後、日本は日清戦争(first Sino-Japanese War)は中国を破ったことで、中国に衝撃を与えた。馮桂芬の始めた洋務運動の弟子であった李鴻章は中国の敗北を認めるために東京に派遣された(訳者註:実際には下関)。

日清戦争における敗北は、康有為(Kang Youwei、1858-1923年)と梁啓超(Liang Qichao、1873-1929年)のような中国の学者たちに対して大きな衝撃を与えることとなった。同様に孫文(Sun Yat-sen、1866-1925年)のようなナショナリスト的な革命家たち(nationalist revolutionaries)にも衝撃を与える結果となった。これらの人々がそれぞれ、中国にとって進むべき途であると考える方法を追求するために駆り立てられるようになったのは、日清戦争における敗北がきっかけであった。彼ら全員の究極の目的は「自分たちを強化する(self-strengthening、自修自強)」であった。これらの人々やこうした人々がその一部となったより広範なナショナリズム的な主張は、中国の復興と西洋に追いつくことに献身することになった。そして、彼らの言葉と行動は、中国共産党が芽生え育った土壌を形成した。若くて情熱的な孫文は1894年に李鴻章に宛てて8000字に及ぶ書簡を送った。それに対する返信はなかった。この書簡の中で、孫文は「中国の人口と物質の豊かさを考えると、我々が西洋を模倣し諸改革を実行すれば、20年以内にヨーロッパ列強に追いつき、追い越すこと(catch up and surpass)が可能となる」と書いている。

中国共産党初期の指導者たちの多くは、中国を復活させようというナショナリズムに基づいた動きに惹きつけられた、愛国的な若者たちであった。陳独秀(Chen Duxiu、1879-942年)、周恩来(Zhou Enlai、1898-1976年)、毛沢東(Mao Zedong、1893-1976年)といった後に名前を上げた人々は、康有為や梁啓超といった人々の著作を通じてナショナリズムに至る、自分たちの道筋を築き上げていった。毛沢東は後に、「私は康有為と梁啓超を崇拝していた。彼らの著作を暗記するまで何度も何度も読みこんだ」「孫文を中国の大統領に、康有為を首相に、梁啓超を外相に、と訴える内容のポスターを貼っていた」と回想している。鄧小平(Deng Xiaoping、1904-1997年)の父親は梁啓超の創設した政党のメンバーだったと報じられたことがある。このことは鄧小平の初期のナショナリスト的な観点を作り出したことは疑いようがない。その結果、鄧小平は五四運動(May Fourth movement)のような愛国主義的な出来事に参加し、中国を強化するという使命に惹きつけられていった。多くの未来の共産主義者たちと同様、鄧小平は外国で勉強した。鄧小平は魏源の訴えた「富と力」の追求という論理から導き出される答えを自身の最重要課題であると述べた。鄧小平は次のように回想している。「中国は弱く、私たちは中国を強化したいと望んだ。中国は貧しく、豊かにしたいと望んだ。私たちは中国を救うために学び、その方法を見つけるために西洋に向かったのだ」。

未来の共産主義者たちの多くは孫文に惹きつけられた。孫文は今でも中国共産党から崇められている。実際のところ、孫文率いるナショナリストたちは広州に政府と軍学校を創設した。これらは才能にあふれる、愛国的な若者たちを惹きつけ、彼らは広州にやって来た。その中には、周恩来、葉剣英(Ye Jianying、1897-1986年)、林彪(Lin Biao、1907-1971年)、毛沢東など後に重要人物となる人々も含まれていた。

これら若き共産主義者たちが権力を掌握した際、彼らは自分たちの共産主義イデオロギーに沿った政策を実行したが、それでも、中国共産党はナショナリズムに基づいた使命感を保持していた。西洋諸国との間の富と力における差を埋めることが中心テーマであった。毛沢東時代の産業近代化、失敗に終わった大躍進運動(Great Leap Forward)、「両弾一星(two bombs, one satellite)」への熱望(訳者註:中国の核開発・宇宙開発プログラムを指す。両弾とは原子爆弾と水素爆弾、一星は人工衛星を意味する)、そしてソ連が形成していた東側世界の秩序からの離脱という極めて危険な動き、イデオロギー上の指導的地位がソ連から移動したという主張、これらは全てナショナリズムに基づいた熱情によって行われたものである。鄧小平による改革開放と彼の経済とテクノロジーの発展への熱意は、洋務運動に参加した人々の言葉をほぼ真似たものである。江沢民(Jiang Zemin、1926年-)、胡錦涛(Hu Jintao、1942年-)、そして習近平国家主席などの鄧小平の後継者たちはナショナリズムに基づいたプロジェクトを実行し、中国の復興と地域と世界における秩序内での正しい場所を回復することに集中した。

今日、「復興(rejuvenation)」は習近平の政治上のプロジェクトの中心テーマである。しかし、中国共産党のナショナリズム志向と同様、復興は1世紀以上にわたるテーマであり続けた。中国史の研究者である王震(Wang Zhen)は、「復興というコンセプトは少なくとも孫文にまで遡ることができる。そして、蒋介石(Chiang Kai-Shek、1887-1975年)から江沢民と胡錦涛までの原題の中国の指導者たち全員によって重要視されてきたものだ」と述べている。1894年に、中国と日本が戦争にまで至る過程で、孫文は、ナショナリスト団体を創設し、興中会(Xingzhonghui、兴中会)と名付けた。これを粗く翻訳すると「Revive China Society」となる。孫文はこの会の使命を中国の復興だと宣言した。この使命は現在の中国共産党に直接つながっている。中国の指導者であった江沢民(Jiang Zemin、1926年ー)はかつて「孫文は“中国の復興(rejuvenate China)”スローガンを進めた最初の人物である」と述べた。そして、実際に、中国共産党が復興(rejuvenation、振兴中、复兴)という言葉を採用したのは、孫文からなのである。

中国共産党の中国の復興を目指すナショナリズム的なプロジェクトに集中してきた。このことは中国共産党の公式文書で追いかけることができる。日中戦争(Second Sino-Japanese War)の期間中、鄧小平とその他の党幹部たちは同志たちに「復興への道(road to rejuvenation)」に注力するように訴えた。そして、中国共産党が最終的に勝利を収めた時、毛沢東は「中国共産党のみが中国を救うことができる」と宣言した。1978年に中国が改革開放を開始した時、鄧小平と彼の側近だった胡耀邦(Hu Yaobang、1915-1989年)と趙紫陽(Zhao Ziyang、1919-2005年)は、改革開放の目的は「中国の復興(rejuvenate China、征信中)」であると繰り返し、明確に述べた。改革開放は「富と力」を達成するためのものだ。1988年、天安門事件後の中国共産党による「愛国教育(patriotic education)」が始まる前に、江沢民は中国共産党の使命は「中華国家の偉大な復興を実現する」ことだと述べた。

このような考えや主張はこれまでの40年間の全ての中国共産党大会で明らかにされてきた。中国共産党の中でも最も権威ある文書の中で明らかにされてきた。1982年の第12次中国共産党大会での演説の中で、胡耀邦は「第一次アヘン戦争から1949年の解放までの1世紀以上の期間」について非難し、「中国は二度と再び恥辱を味わわされることは許容しない」と宣言した。趙紫陽は1987年の第13次中国共産党大会において演説を行った。その中で、「富と力」という言葉を使い、「改革は中国が復興を遂げるための唯一の道である」と主張した。第14次、第15次、第16次中国共産党大会で、江沢民は二度のアヘン戦争と恥辱の世紀に言及し、中国共産党が「中国国家の悲劇の歴史に終止符を打った」ことを称賛した。そして、聴衆に対して、「中国共産党は中国国家に深く根差しており、創設第一日目から、中国の復興という偉大なそして厳粛な使命を担ってきた」と述べた。第17次、第18次中国共産党大会において、胡錦涛はこれらのテーマを繰り返し、そして、中国共産党は「これまで無数の愛国者たちと革命に命を捧げた人々(patriots and revolutionary martyrs)が目指した中国国家の偉大な復興に邁進している」と付け加えた。最近のことで言えば、2017年の第19次中国共産党大会において、習近平は彼の「中国夢(China Dream)」構想、中国の「新時代」構想の中核に復興を置いている。習近平は二度のアヘン戦争の悲劇について言及し、復興は「中国の共産主義者たちにとっての原動力であり使命」であり、中国共産党だけがそれを達成できると宣言した。

創建当初から、中国共産党は中国共産党創建よりも前に出現していたナショナリストたちの業績を取り入れてきた。ほぼ1世紀にわたり、中国共産党の最高指導者たちは、「中国共産党は五四運動の精神を受け継ぎ、発展させてきた」「孫文の遺産から学びその実現に努力してきた」と明言し続けてきた。胡錦涛が毛沢東の生誕100周年記念式典の席上で述べたように、中国共産党は中国の復興に向けたリレーに参加しているということになる。胡錦涛は次の世に述べた。「歴史は長い河のようなものだ。今日という日は昨日から発展したものだ。明日は今日の継続である。中国国家の偉大な復興は、毛沢東、鄧小平、彼らの同志たち、数百万の革命に命を捧げた人々にとっての偉大な理想なのである。今日、歴史のバトン(baton of history)は私たちの手に委ねられている」。

「歴史のバトン」は時代を継いでいく指導者たちによって、今世紀半ば、もしくは中国共産党の権力掌握100周年まで繋げられ続けねばならない。少なくともこれまでの40年間、中国の国家指導者たちは全員、復興を達成する目標はこの時期だと示唆してきた。目標には西洋諸国との差を縮めること、そしてできれば国際システムを新たに作り直すことが含まれている。21世紀中頃での復興の達成への言及は1980年代半ばに出現してきた。鄧小平と彼の側近たちは、この時期に「適度な発展段階に到達した国々」のレヴェルに到達し、かつ「社会主義的近代化」を完成させると主張した。鄧小平の後継者である江沢民は中国共産党創建80周年記念式典での重要演説の中で復興達成の時期について次のように述べた。「20世紀半ばから21世紀半ばまでの100年間で、中国人民の苦闘は祖国の富と力を実現することで実を結ぶことになる。それが国家の偉大な復興なのである。この歴史的な復興の大義において、我らが党はこれまでの50年間にわたり、中国人民を率いてきた。そして大いなる進歩を達成してきた。これからの50年間の努力と勤勉で、その目的は成功のうちに達成されることであろう」。

現実的な意味で完成とは何を意味するのだろうか?鄧小平は、それは中国と世界との関係を変化させることであり、後には中国の社会主義に対しての批判者たちが最終的に中国の社会主義の優越性に「説得される」ことでもあると示唆した。江沢民は鄧小平の考えに同意し、西洋諸国と比較して、ある種の回復(restoration)を行うことだと強調した。清王朝の下での衰退の前、「中国の経済水準は世界をリードしていた」「中国の経済力は世界第一位だった」と江沢民は強調した。復興とは「世界の最先端のレヴェルとの差を縮める」ことと中国を再び「豊かで強力」にすることが含まれている。

回復には国際舞台における更に重要な役割ということも含まれるだろう。江沢民は、今世紀半ばで復興を成し遂げた後には、「豊かで、強力な、民主的で文明的な社会主義を建設した現代中国は世界の東側に屹立することになるだろう。そして、中国人民は人類に対して新たなそしてより偉大な貢献を行うことになるだろう」と述べた。胡錦涛は、回復とは、国際舞台において、「国際的な政治と経済の秩序をより正しく、合理的な方向に発展する」ように促進することを意味すると示唆した。これによって、中国は「ほぼ新しい姿で国家群の中で屹立する」ことになるだろうとも述べた。第19次中国共産党大会において、習近平は今世紀半ばまでの復興の達成が持つ意義を強調した。習近平は「中国は国家の強さと国際的な影響力を合わせて、国際的な指導的立場に立つことになる」と述べた。そして「世界最高水準の軍隊の創設、国際的な統治への参加、新しい形の国際関係の促進、人類にとっての共通の未来を基盤とする共同体の建設」がその要素となるとした。

習近平の今世紀半ばまでの復興の達成という大胆な発言は彼自身の性格や郷党心(parochialism)が出ているということだけではなく、より強力なものである。中国共産党のナショナリスト的なコンセンサスは清王朝時代最終盤の改革者たちが洋務運動を始めた1世紀以上前にまで遡ることができる。中国共産党でも党内での不同意と議論、闘争、派閥主義(factionalism)、そしてイデオロギー上の過激主義の拡大が存在している。しかし、中国共産党の創建者たちと後継者たちは火砲こそが中国の復興の原動力であるということを一貫して理解していた。手段や方法についての不同意は時に表面に出てくることもある。しかし、最終目的は比較的明確である。そして中国のポスト冷戦期の戦略にコンセンサスを与えられている。そして、その目的は、中国政府の最高指導者たちの多くにとっては達成に手が届くところまできている。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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