古村治彦です。

 

 先月、安倍晋三首相は世界の首脳の中でいち早くドナルド・トランプ次期大統領と会談を行いました。この実質的な首脳会談がどうして実現できたのか、が明らかになりました。私は、外務省はヒラリー・クリントン勝利を予測しておりトランプ陣営とは全く連絡がなかったと思っていましたが、これは半分当たって、半分間違っていました。

 

 佐々江賢一郎駐米大使は、ある人物を通じて、トランプ周辺、娘イヴァンカとその夫ジャレッド・クシュナーとの関係を構築し、首脳会談を実現させたそうです。

 

 その人物は村瀬悟弁護士という日系三世の人だそうです。村瀬弁護士はニューヨークの著名な弁護士事務所の幹部であり、大企業の顧問弁護士や代理人を務めているそうです。また、笹川良一が創設したUS-Japan Foundation(日米財団)の理事も務めているそうです。

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村瀬悟弁護士

 

 2つ目の記事は、村瀬悟弁護士の父・村瀬二郎弁護士が亡くなった際の追悼記事です。村瀬次郎氏は日系二世の弁護士で、日本とアメリカの政界で幅広い人脈を持っていたそうです。そして、興戦時中、村瀬二郎氏は日本の旧制中学校に通っており、その後帰国して、アメリカの名門ジョージタウン大学ロースクールで学びながら、ヴォイス・オブ・アメリカの編集と翻訳の仕事をし、その時に、テープ・レコーダーの売り込みに来ていたソニーの創業者盛田昭雄氏と知り合い、その後、多くの日本企業のアメリカ進出の手助けを行った(「日本株式会社の顧問弁護士」という異名)という日米関係の結節点のような存在です。

 

 興味深いことは、村瀬二郎氏は息子の村瀬悟氏を中学校から高校まで東京の成蹊学園で学ばせていたということ、そして村瀬悟氏は安倍氏の中高の1年後輩になるということです。私は一度成蹊大学での勉強会に出席したことがあります。成蹊学園は、小学校から大学・大学院まで同じ敷地内にあり、家族的な雰囲気のある学校だなと感じました。このような家族的な雰囲気で先輩・後輩の間も親密であったと思われます。

 

 また、安倍晋三首相は、大学卒業後に渡米し、南カリフォルニア大学に遊学しましたが、その後、神戸製鋼に入社し、ニューヨーク事務所に勤務しました。この時、村井悟弁護士(成蹊中高の後輩)と邂逅したのだろうと思われます。

 

 この村井悟氏が今回、安倍晋三首相がトランプとの会談を行う際にその仲介役を務めたということです。これで、「外務省は失敗したのに(この表現は半分正しくて半分間違っていました)、どうして安倍晋三首相はトランプと会談が出来たのか」という疑問の答えが出ました。

 

 村瀬家には、幕末の悲運の幕臣・小栗上野介忠順の一族の女性が嫁いでいるということです。小栗は先見性があり、大隈重信は、「明治新政府の近代化政策は、小栗の模倣を下に過ぎない」と発言したことでもその偉大さは証明されています。小栗は徳川幕府の遣米使節団に参加し、ニューヨークも訪問しました。その際に、小栗の優秀さをアメリカ人も称賛したということです。

 

 こうしてみると、村瀬家は150年の日米関係を象徴する存在ということになります。そして、日本がこのような存在をアメリカ国内に持っていることは素晴らしいことです。しかし、私が憂慮するのは、アメリカ以外の外国に対して、このような存在まででなくても、国交の結節点のような存在、もしくは日本と外国を両方理解できる人材を持っているかということです。

 

 このような存在を作り上げるには一夕一朝ではできません。ですから、まずはスタートすることだと思います。

 

(記事貼り付けはじめ)

 

国際・外交アメリカ

【スクープ!】安倍・トランプ会談を仲介したスゴ腕弁護士の正体とは

1955年生まれNY在住の日系3

歳川 隆雄ジャーナリスト

「インサイドライン」編集長プロフィール

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50422

 

 

村瀬悟とは何者なのか

 

ニューヨーク在住の日系3世弁護士、村瀬悟氏の名前を知る人はそれほど多くない。全世界に2000名近くの弁護士を擁する米国有数のモルガン・ルイス&バッキアス国際法律事務所に所属、現在はパートナーの地位にいる。

 

その村瀬悟弁護士が、実は1117日(現地時間)にニューヨークのトランプタワーで安倍晋三首相がドナルド・トランプ次期米大統領と会談した仲介者である。

 

118日の大統領選本選直前、佐々江賢一郎駐米大使がトランプ陣営に接触、トランプ氏が大統領選に勝利したら安倍首相からの祝意を伝える電話を入れたいと申し入れたのがそもそもの「トランプ・アプローチ」の始まりだった。

 

佐々江大使は村瀬弁護士を通じて、先ず長女のイバンカ・トランプさん、次に主人のジャレッド・クシュナー氏を交えて会い、ファミリーとの関係を確立した。

 

そして安倍官邸はそのホットラインを通じて、1110日の電話会談と17日のトランプタワー訪問を実現したのである。

 

安倍首相が世界の首脳に先駆けてトランプ次期大統領との「良好な関係」を築くことができたのは、村瀬弁護士の存在なくしてはあり得なかった。

 

では、村瀬悟氏(1955年生まれ)とはいかなる人物なのか。

 

20148月、86歳で亡くなった父・村瀬二郎氏が超大物日系2世の弁護士であった。カーター民主党政権下で大統領通商諮問委員に就任、その後も国務省多国籍企業諮問委員に就くなど政府の各諮問委員会メンバーを歴任した。

 

民間組織では、デイビッド・ロックフェラーが創設したトライラテラル・コミッション(日米欧委員会。現三極委員会)委員を務めた。

 

日本との関わりで言えば、ソニー創業者の盛田昭夫元会長との長い交誼は有名であり、1980年代になって同氏の政財界人脈を頼って米国進出の商社、自動車、電機など大手企業が村瀬事務所に日参したほどだ。

 

安倍首相の1年後輩

 

政界では福田赳夫元首相との関係が際立っており、当然にも自民党清和会(現細田派)を福田氏から引き継いだ安倍晋太郎元外相とも大変親しかった。

 

ということは、その関係は安倍首相にも継承されている。

 

ところが、それだけではない。村瀬悟氏は、父・二郎氏の命によって青春期は日本で教育を受けるべしということから、中学1年から高校3年まで東京の成蹊学園で学んだ。そして安倍首相が1学年上に在籍していたのだ。

 

外見的には全くの日本人であるが、発想からライフスタイルは典型的な米国人である。成蹊高校卒業後、ボストンのハーバード大学に進み、1979年に卒業。その後はワシントンのジョージタウン大学ロースクールに入学、1983年終了の法学博士号取得者だ。

 

日本で同氏の名前が取り沙汰されたのは、皮肉にも経営危機に陥ったソニーが、ダニエル・ローブ氏率いる投資ファンド「サード・ポイント」の株主提案に翻弄された時のことである。村瀬氏が同ファンドの顧問弁護士として登場したからだ。

 

「ハゲタカ・ファンド」と同一視されるのを嫌った同氏は旧知の政府系金融機関トップの紹介を得て首相官邸を始め、経済官庁のトップ、大手銀行経営者を回って「物言う株主」の重要性を説いて回った。

 

従って、日本を筆頭にアジア、そして欧州の主要企業をクライアントに持つ村瀬氏が、リバタリアンとしても知られる、「アメリカン・ドリーム」の体現者ドナルド・トランプ氏と親しくなるのは必定であった。

 

安倍首相とトランプ次期大統領との会談があった1117日夜、首相の宿舎「インターコンチネンタル・ニューヨーク・バークレー」のスイートルームで村瀬氏が目撃されたのは当然である。

 

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「日本株式会社」の顧問弁護士

追悼 村瀬 二郎氏(日系二世の米国人弁護士)

 

201410月号 LIFE [ひとつの人生]

https://facta.co.jp/article/201410019.html

 

 

85日、ニューヨーク市内の病院で、86歳の日系人弁護士がひっそりと息をひきとった。222日に妻由枝(享年88歳)の最期を看取ってからおよそ5カ月、妻の後を追った。村瀬二郎。知る人ぞ知る日本の戦後史の生き証人である。

 

「昭和元禄」――皮肉を交えた造語にかけては右に出る者がなかった元首相、福田赳夫(故人)が、戦後奇跡の復興を成し遂げつつあった日本経済と社会の奢侈と安逸を諌めたのは、日本が初の東京五輪に沸いた1964年のことだった。 

 

その後、日本経済は80年代末のバブル絶頂期まで、拡大の一途をたどった。それに伴い、日本企業は海外進出を加速させ、ジャパンマネーの洪水に日米経済摩擦が深刻な政治問題となっていった。

 

当時、米国進出を考える企業も、米国で問題を抱えてしまった企業も、さらに日米経済交渉に携わる官僚や政治家たちが、こぞって頼りにしたのが移民二世の日系米国人、村瀬だった。

 

彼は、高度成長時代の「日本株式会社」の顧問弁護士のような存在だった。

 

7781年のカーター民主党政権下で大統領通商諮問委員に就いたのを皮切りに、国務省多国籍企業諮問委員、日米欧委員会(現三極委員会)委員などを歴任。米国の政財界に強い影響力を持った最も成功した弁護士の一人だった。

 

その影響力を頼って、日本の総合商社はもとより、米国に進出している電機、自動車などの大手企業や政治家たちがひっきりなしに村瀬の事務所を訪ねた。この中には、安倍晋三首相の父、晋太郎やソニー創業者、盛田昭夫もいた。

 

村瀬が盛田と邂逅したのは、まだワシントンの名門ジョージタウン大学に在学していた50年代に遡る。ロースクールに通いながら、村瀬は国務省のラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ」(VOA)で編集兼翻訳を務めていた。そこに大きなリール式のテープ・レコーダーを抱えて売り込みに来たのが盛田だった。

 

「これを使ってみてくれ、すべて日本製の録音機だ」

 

名刺にはソニーの前身、東京通信工業と印刷されていた。盛田が持ち込んだ録音機を見て、放送局のエンジニアたちは「日本にこんなものは作れない。ドイツ製の部品を組み立てただけだ」と鼻で笑ったが、分解した結果、日本製ということが分かり、村瀬は我がことのように盛田の手を取って喜び合った。

 

村瀬は盛田の語るソニーの未来像、そして日本の将来像に共鳴し、それから2人の親交は40年以上に及んだ。89年、ソニーは大手映画制作会社コロンビア・ピクチャーズの買収に乗り出す。凄まじいジャパン・バッシングの嵐の中、日米関係を憂慮した村瀬は、ワシントンなどに何度も足を運んでは日本の真意を説き、火消しに走り回った。

 

それからおよそ四半世紀。出井―ストリンガーと続いた経営失敗の後遺症で苦境に喘ぐソニーは、ダニエル・ローブを総帥とする米国投資ファンド「サード・ポイント」の株主提案に翻弄される。このファンドの代理人弁護士を務めたのが村瀬の長男悟(55年生まれ)なのだ。

 

昨年、来日したローブの傍らに悟の姿があった。悪名高い「ハゲタカファンド」と同一視されるのを嫌ったローブは、官邸、日銀、財務、経産、大手銀行などを回っては「物言う株主」が日本の企業体質を改善し、経済に貢献することになる

 

などと説いて回った。その際、父二郎から受け継いだ人脈が悟を助けたのである。

 

村瀬の父九郎がニューヨークの土を踏んだのは1911年(明治44年)。日露戦争に軍医として従軍したが、麻酔もなく手足を押さえて手術し、阿鼻叫喚となる日本の医学の後進性を痛感し、ニューヨークのメディカル・スクールで最新の医療技術を学ぼうと渡米したのである。

 

実は村瀬の義母は、幕末に幕府の勘定奉行や江戸町奉行、外国奉行として辣腕を振るった幕臣、小栗上野介(忠順)の一族から嫁いだ女だった。慶応4年に処刑された小栗を司馬遼太郎は「明治の父」と讃えたが、薩長政権のもとで小栗は逆臣の代表だった。小栗一族を嫁にした九郎に栄達の道は閉ざされていた。それが渡米を決意したもう一つの理由である。

 

夫婦2人で新天地をめざしたが、妻は世界的に流行したスペイン風邪に感染し、出発を目前に急逝してしまう。

 

大恐慌を目前にした28年、後妻みよの二男として村瀬は生まれる。4歳で目撃した大恐慌のニューヨークは、ボロをまとった子供たちが物乞いする光景だった。

 

それを村瀬は終生忘れない。

 

日本で教育を受けさせたいという父の強い願いから、村瀬は兄とともに、サンフランシスコから船で日本に渡航する。いったん帰国したが、36年から再び日本に戻り、終戦を母方の実家のある兵庫県芦屋で迎えた。当時は旧制芦屋中学の生徒だった。

 

日本を愛してやまない村瀬は、日本を敗戦に追い込んだ米国に畏敬の念を持ち、その自由な気風を尊んで、米国人としての祖国愛は誰にも負けなかった。

 

村瀬も長男悟を中学1年から高校3年まで東京の私立成蹊学園で学ばせた。誰もが顔見知りのような学園で1学年上に在籍していたのが安倍晋三だった。その父晋太郎が率いる福田派「清和会」の外交アドバイザーを村瀬は引き受けることになり、安倍家と村瀬家との交わりは以来30年余になる。

 

客をしゃれたラウンジに招待しては、村瀬自らマイクを握って「アメリカ・ザ・ビューティフル」を朗々と歌ったが、その一曲を終えると、軍歌「月月火水木金金」が続いた。最後にマイクを強く握りしめ、遠くを見つめて歌うのが童謡や唱歌だった。

 

村瀬が歌う「鯉のぼり」は、祖国日本を思う愛惜の情に溢れていたという。

 

(記事貼りつけ終わり)

 

(終わり)