古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:文化大革命

 古村治彦です。

 2022年11月30日、江沢民元中国国家主席が96歳で死去した。一強体制を構築しつつある習近平国家主席にとっては、煙たい「長老」の1人だったということになるだろう。10月の第20回中国共産党大会に出席しなかったことで、色々と憶測が流れていたが、結局体調面で出席が叶わなかったということになるだろう。江沢民は天安門事件(1989年6月4日)前後の政治的な混乱状況の中から、鄧小平によって次期指導者に抜擢された。ヒールのイメージがあり、汚職の話が付きまとうということもあり、日本での評価は芳しくないが、江沢民は、政治的動乱状況を抑え、中国の改革開放と経済成長の道筋をつけた人物ということになる。

 以下で、江沢民についての記事を紹介する。江沢民は叔父が江上青という、国共合作時代の中国南部で創設された抗日軍である新四軍(国民革命軍新編第四軍)の指揮官という英雄だったことで、共産中国時代に徴用されることになった。叔父の戦友たちが共産中国で重職を担うことになり、江沢民は彼らの引き上げを受けて、ソ連に留学し、自動車製造の上級テクノクラートとして出世していた。

 1966年からの文化大革命では、紅衛兵側に参加せず、中国革命を成し遂げた先輩革命家たちと共に強制収容所で苦労するという道を選び、これが結果として、文革後に「信頼できる人物」という評価を得ることになった。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という言葉通りの人生だ。

 1985年に上海市長になり、その後、上海市党委書記に昇格し、中央政治局入りを果たした。そして、1980年代後半の政治的動乱状況の中で、最高指導者の座を射止めた。江沢民の指導の下で、中国は世界貿易機関(WTO)に参加し、輸出指導型経済を開始した。その後の急激な経済成長は誰もが知るところだ。その道筋をつけたのが江沢民ということになる。江沢民の基盤となったのが新四軍派閥だったということは、それが主体になって上海閥が形成されたということになる。

 江沢民の治政下で、汚職が激増し経済格差が拡大したという負の面はあった。しかし、中国を現在のような世界第2位の経済大国に導いたというのは、鄧小平という設計者がいたことは確かだが、江沢民が鄧小平の設計図を実行者として実現したという、その手腕はやはり評価されるべきだろう。

(貼り付けはじめ)

江沢民氏の追悼大会を北京で開催 習近平氏が追悼演説、功績たたえる

12/6() 12:10配信 朝日新聞デジタル

https://news.yahoo.co.jp/articles/c6a6255b16e32169298cda2c9715c2f38fdf4842

 1130日に死去した中国の江沢民・元国家主席(元中国共産党総書記)の追悼大会が6日午前10時(日本時間同午前11時)から北京の人民大会堂で開かれた。葬儀委員会の主任委員を務める習近平(シーチンピン)国家主席が追悼演説を行い、江氏の功績をたたえるとともに「社会主義現代化国家」の建設へ、団結を誓った。

 追悼大会は中国のテレビやラジオで中継され、政府や党の主要機関に半旗が掲げられる中、3分間の黙禱(もくとう)が行われた。哀悼を表するため全国一斉に汽笛や防空警報が鳴らされたほか、銀行間の債券市場や外国為替市場なども3分間取引が停止された。「ユニバーサル・スタジオ・北京」などの娯楽施設は6日の営業を休んだ。

 江氏は毛沢東、鄧小平両氏に続く国家指導者に位置づけられ、追悼大会は1997年に死去した鄧氏と同格の扱いで行われた。党・政府の幹部や各界の代表らが出席したが、前例に従い外国要人の参列はなく、市民の弔問も受け付けなかった。江氏の遺体は5日に火葬され、追悼大会には遺骨が置かれたとみられる。(冨名腰隆)

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江沢民は中国が世界の大国になるのを助けた(Jiang Zemin Helped China Become a Global Powerhouse

-揺るぎない手腕と批判に直面することへのいくらかの意欲によって、彼は中国を世界経済へと導いた。

ヴィクター・シン筆

2022年11月30日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/11/30/jiang-zemin-dead-obituary-china-ccp/

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江沢民中国国家主席がワシントンのホワイトハウス訪問(1997年10月29日)。

2002年に中国共産党総書記の座を退いた江沢民(1926-2022年、96歳で没)が、2000年に香港の記者を「単純過ぎ、かつ世間知らずだ」と叱責したエピソードを思い出すと、中国人は時々苦笑いを浮かべることがある。香港の次期指導者についての無邪気な質問に対する江沢民の大げさな返答は、困惑したようなつぶやきと多くの皮肉を引き起こした。香港の次期指導者について、何気ない質問に対しての江沢民の大げさな返答に困惑の声と皮肉が漏れた。

実際のところ、11月30日、上海で96歳の生涯を閉じた江沢民は、中国国民の生活を大きく変え、向上させた2つの重要な変遷を監督し、主導した。第一に、何十年もかけて互いに粛清し合い、時に大きな痛みと悲しみを与えた中国建国の革命家たちの影から国を平和的に導き出したことである。第二に、当初は躊躇しながらも、江沢民は市場経済を受け入れるようになった。中国がゼロ新型コロナウイルス政策の圧力に苦闘し、先週末には全国的な抗議運動が起こった後、江沢民の統治は多くの人にとって相対的な希望の期間となったように思われる。

江沢民は、その直前の鄧小平(Deng Xiaoping、1904-1997年、92歳で没)を含むどの指導者よりも、まず外国からの直接投資を歓迎し、最終的には世界貿易機関(World Trade OrganizationWTO)への加盟によって中国を世界経済に溶け込ませた。そして、世界貿易機関への加盟を実現し、中国を世界的な経済大国に押し上げた。

しかし、江沢民の生い立ちには、このようなダイナミックな役割を果たすことを示唆するようなものはほとんどなかった。

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習近平中国国家主席(左)と話す江沢民。2017年10月24日、北京の人民大会堂で開催された第19回中国共産党大会の終盤にて。

江沢民は江蘇省の揚州市で育った。当時、伝統的な農業中心主義と近代的な工業化経済の間で移行期にあった社会であり、政治的混乱が絶えない場所だった。揚州での子供時代、江沢民は中国医学の有名な開業医としての祖父の地位と富の恩恵を受け継いだ。彼の父親は訓練を受けた技術者で、西洋様式の企業で働き、家族に比較的快適な環境を提供していた。

しかし、江沢民に最も大きな影響を与えたのは、叔父の江上青(Jiang Shangqing、1911-1939年、28歳で死)であった。日本軍、国民党政府、軍閥と戦う共産主義者のリーダーとして、江上青は幼い頃からその浮き沈みの激しいキャリアを目の当たりにしてきた。江沢民が9歳になる前、日本が中国中央部を侵略する前、国民党当局は江上青が教えていた学校で共産主義のプロパガンダを広めたとして2度投獄している。

1930年代後半、日本軍が中国東部の主要都市を征服した後、共産主義ゲリラ軍は、安徽省、江蘇省、浙江省で日本の占領者に対して複雑な闘争を繰り広げた。共産軍は中国国民党軍と地主たちが組織する民兵と協力して戦った。共産党新路軍の地方司令官である張勁夫(Zhang Jingfu、1914-2015年、101歳で没)は、江上青を安徽省北部の共産党軍の副司令官という重要な地位に任命した。しかし、それからわずか数カ月後、江上青に対して個人的な恨みを抱いていた地元の地主が共謀して彼を殺害した。 1939年の彼の死の状況は不明のままだが、江上青は死後、故人の近親者に公式および非公式の利益を与える「革命的殉教者(revolutionary martyr)」という名誉を与えられた。江上青の場合、彼の甥であり、死後に養子となった江沢民は、彼の殉教者の地位の最大の受益者になった。

江沢民は叔父の活躍ぶりを聞かされていたはずだ。そして、革命は毛沢東の言うように「晩餐会ではない(not a dinner party)」ことも幼い頃から知っていた。江沢民は高校、大学の前半までほとんど政治から遠ざかっていた。しかし、1940年代半ば、国民党と毛沢東率いる中国共産党との間で内戦が激化すると、江沢民は密かに共産党に入党する。

1949年、中国共産党が国民党との内戦に勝利すると、江沢民と彼の世代の共産主義知識人たちは活躍の場を得ることができた。中国共産党の大軍は、文盲の農民兵が主力であり、国民党の官僚が去った後の中央・地方の複雑な官僚機構を動かすには力不足であった。中国共産党は、1949年以降、数千の工業会社を国有化し、統治上の問題をさらに深刻化させた。

中国共産党は、絶望的なまでの人材不足を補うために、1949年以前に入党した大学や高校の卒業生を直ちに権威ある地位に押し上げた。江沢民は、有名な上海交通大学の工学部を卒業し、1949年以前に働いていた上海のアイスキャンデー工場のチーフエンジニアになった。

殉職した叔父とのつながりが、江沢民のキャリアにさらなる追い風となった。新四軍で叔父の戦友だった汪道涵(Wang Daohan、1915-2005年、90歳で没)は、中国東部の工業会社を全て任された。そして、当時20代半ばだった江沢民をアイスキャンデー工場の最高経営責任者に抜擢した。この昇進は、江沢民の運命を汪道涵と新四軍閥が結びついたものだった。

1952年に汪道涵は、拡大していた第一機械省の副大臣に任命された。第一機械省は、中国におけるエンジンと通信機器の全ての民間生産を監督していた。江沢民は汪道涵の幕下に加わり、すぐに自動車製造の訓練のためにモスクワに派遣された。中国に戻ると、江沢民は第一自動車工場の上級職に任命された。このプロジェクトは、寒冷な気候の中国北東部の長春にあるソ連が支援した産業プロジェクトで、第一機械省が管理していた。次の10年間、第一自動車工場の上級職に就いた江沢民は、後に江の主要な支援者となった、周建南(Zhou Jiannan、1917-1995年、77歳で没)をはじめとする第一機械省の他の幹部たちと親しくなった。周建南は中国人民銀行総裁を務めた周小川(Zhou Xiaochuan、1948年-、74歳)の父親だ。
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当時、上海市長を務めた江沢民の写真(1985年10月)

毛沢東が1966年に文化大革命(Cultural Revolution)を開始し、中国政府と社会から「不純な(impure)」要素を排除した時、江沢民の有望なキャリアは運命づけられたように見えた。毛沢東は共産党高官の大多数を粛清し、第一機械省を含むほとんどの省庁を空洞化させた。江沢民が所属する第一機械省や他の​​省庁の若い幹部の一部は、上司と「闘う(struggle)」ために紅衛兵(Red Guards)を結成したが、江沢民は参加しなかった。その代わりに、江沢民は紅衛兵の批判の侮辱を受け、「5月7日幹部学校(May 7 cadre school)」(強制労働収容所に党がつけた婉曲的な名前)で厳しい 4年間を過ごした。

中国共産革命を成し遂げた上級のヴェテランと苦楽を共にするという江沢民の確固たる意志は、最終的に信頼できる若い同志としての彼の評判を強化することにつながった。激動の文化大革命の終盤、新四軍の派閥が鄧小平の新たな連合に加わり、権力を握って中国を統治するようになった。

汪道涵は、新4軍派閥の上級メンバーとして、重要な国務院の役職を次々と与えられた。そして、その後に上海市長に任命された。あらゆる段階で、汪道涵は彼の主要な弟子である江沢民を自分と一緒のペースで昇進させた。一方、江沢民の叔父である江上青の元新第四軍の上級司令官だった張勁夫は、中国で2番目に強力な経済機関である国家経済委員会(State Economic Commission)の局長になった。

汪道涵が対外貿易と対外直接投資を統括する新しい機関の責任者になると、江沢民もその機関の幹部になった。この経験を通じて、江沢民は、中国共産党内で数少ない対外貿易の専門家となることができた。1985年、汪道涵は上海市長を退任する際、後任に江沢民を据えるよう中央幹部に積極的に働きかけ、それを実現した。

江沢民にとって、上海市長就任は重要な出来事となった。上海市長は、上海市党委書記の1つ下の職位であるが、上海市党委書記になれば、自動的に政治局(Politburo)の局員の座に就くことができる。1987年、現職の上海市党委書記だった芮杏文(Rui Xingwen、1927-2005年、78歳で没)が北京の中央書記局に昇進すると、江沢民は芮杏文の後任として政治局入りを果たした。

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深圳経済特区創設10周年で北京において演説を行う江沢民(1990年11月26日)

1980年代末の政治的混乱状況での複数の出来事によって、江沢民は自分の野心以上にキャリア昇進加速させた。胡耀邦(Hu Yaobang、1915-1989年、73歳で没)、趙紫陽(Zhao Ziyang、1919-2005年、85歳で没)という2人の党最高幹部が、学生による抗議活動の奨励とイデオロギーの逸脱という「政治的誤り(political errors)」によって粛清され、新任の政治局員である江沢民の出番となった。1989年5月、江沢民は新四軍派閥とその盟友の支持を受け、外国貿易の専門家であることを武器に、失脚した趙紫陽の後継者として中国共産党の指導者に選ばれた。鄧小平は他の候補者を新総書記に推すこともできたが、新四軍派閥とその盟友の強い働きかけにより、江沢民を推すことになった。

江沢民の最初の数年間、不安と心配の連続であった。1989年6月4日、天安門事件で流血の弾圧を受け、中国共産党中央委員会(Central Committee)は、6月23日に急遽招集され、江沢民を総書記に「選出(vote)」した。鄧小平は数カ月で中央軍事委員会主席(chairmanship of the Central Military Commission)から退き、軍隊を指揮したことのない江沢民に軍の統制権を渡すと発表した。1989年11月末には、江沢民は中国共産党の最も重要な役職を全て名目上、兼任することになった。

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中国共産党総書記江沢民(左)は最高指導者を引退した鄧小平と握手している。1992年10月の北京での第14回中国共産党大会にて

鄧小平と親交のあった楊尚昆(Yang Shangkun、1907―1998年、91歳で没)と弟の楊白氷(Yang Baibing、1920-2013年、93で没)を中心とする人民解放軍幹部は、早くも軍部の権力強化に乗り出し、江沢民はますます人民解放軍の表看板(figurehead)に過ぎない存在になった。しかし、江沢民は革命家の子息である曾慶紅(Zeng Qinghong、1939年-、83歳)の協力を得て、1992年の第14回中国共産党大会で楊兄弟を権力の座から引きずりおろした。

この時、もう1つの危機が訪れた。1991年、鄧小平は国営経済の急速な規制緩和(deregulation)を提唱し、江沢民は窮地に立たされた。鄧小平は、国営企業で働いた経験から、鄧小平の主張を受け入れることに躊躇し、ライヴァルたちから厳しい批判を浴びることになった。しかし、江沢民はすぐに軌道修正し、鄧小平の自由化路線(liberalization drive)を支持することになる。

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1992年10月12日、第14回中国共産党大会の開幕で演説を行う江沢民

政治面で完璧な接近戦を得意とする戦士である江沢民の最大の功績は、振り返ってみると、彼が中国を革命時代から遠ざける一方で、その初期の時期を特徴付ける暴力を回避したことにあるかもしれない。

1989年から2002年まで江沢民が統治した中国では、高官の大規模な粛清は行われなかった。1997年に鄧小平が死去した際も、中国共産党の幹部はほとんど動揺することなく統治を続けた。遠華密輸事件(数十億ドル規模の文官・軍幹部が関与した事件)の反腐敗運動でさえ、数人の中国共産党幹部とその子女、そして福建省の数多くの下級幹部が罷免されたに過ぎない。

このような政治的安定が腐敗を生むことになったが、新興の民間企業や外資が国家レヴェルの激変にほとんど影響されずに成長することを可能にした。江沢民は、政治的謀略(political scheming)もさることながら、直感的な権力共有の意思によって、統治期間中、団結と前例のない政治的な平穏(tranquility)を維持した。

これに加ええて、江沢民は国家官僚としての経験を、中国の指導者としての経済政策に反映させることはなかった。鄧小平の規制緩和(deregulation)を支持し、上海の歴史的なウォーターフロントから対岸に経済特区を建設し、金融の分権化(decentralization)を支持した(その後、インフレにより金融統制が強化された)。1990年代から2000年代にかけての中国の成長にとってより重要なことは、江沢民が一貫して海外直接投資を支持し、台湾や香港を含む海外投資家への優遇策を支持したことである。

1990年代後半、WTO加盟交渉が過熱する中、江沢民は国営企業の中核層に対して、輸出量を大幅に増やす代わりに関税率の大幅な引き下げを受け入れるよう説得した。しかし、これは容易なことではなかった。新しい輸出の利益は、競争力のない国営企業ではなく、主に外国人投資家と民間企業にもたらされるからだ。しかし、江沢民の圧力と補助金増額の約束が功を奏し、中国はWTOに加盟した。

江沢民は、中国のエレクトロニクス産業で上級テクノクラートを務めた経験から、外国や国内の民間投資家たちが立ち上げた企業を含む中国のハードウェアおよびソフトウェア産業にも大きな支援を行っていた。例えば、国営小売業の多くを駆逐したアリババは、江沢民時代に創業し、後継者の胡錦濤(Hu Jintao、1942年-、79歳)の統治下でも繁栄を続けた。

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1993年11月20日、シアトルで開催されたアジア太平洋経済協力会議(Asia-Pacific Economic Cooperation conference)江沢民(左から3人目)とビル・クリントン米大統領(左から4人目)が他の各国首脳たちと共に

中国のWTO加盟は、中国の国営企業にストレスを与えたが、中国全体としては紛れもなく利益をもたらした。2000年から2019年末の間に、中国の輸出は2500億ドルから2兆5000億ドルへ、10倍も増加した。1人当たりの可処分所得も同様に同期間に8倍以上に増え、数億人の中国人、特に都市部に居住する人々の生活を大幅に向上させた。

振り返ってみれば、2000年に江沢民が香港の記者を罵倒したのも、あれほどの嘲笑を浴びるには値しなかった。ある意味で、このエピソードは江沢民支配の典型である開放性と自信を明らかにした。香港が既に中国の統治下にあったにもかかわらず、香港の自由な報道を容認し、記者と会って台本にない質問にも答えた。この記者の質問は気に入らなかったようだが、それ以上の処分は受けず、彼女は中国の指導者と対立したことを伝え続けた。

江沢民は、党の抑圧力で組織的な異論を封じ込める一方、知識人による政策批判には寛容だった。また、古典と現代、両方の外国文化を好み、外国からの訪問客にお気に入りの西洋のメロディーを聞かせるのが常だった。エイブラハム・リンカーンのゲティスバーグの演説を暗唱することもあった。このような特異性は、当時は鼻で笑われ、嘲笑されたが、現在の指導部層が、西洋文化や広い世界への江の純粋な関心を共有していないことは残念なことだ。

江沢民統治下の中国は自由でも民主的な場所でもなかったが、この地域の多くの人々は今では郷愁を覚えているかもしれない。江沢民の堅実性、彼の開放性、そして政権をマスコミや社会全体からの批判に晒す彼の意欲を人々は懐かしがっているのだろう。

※ヴィクター・シン:カリフォルニア大学サンディエゴ校国際政策・戦略大学院ホウ・ミウ・ラム記念中国・太平洋関係プログラム主任、准教授。著書に『弱者たちの連合:毛沢東の軍略から習近平の台頭まで(Coalitions of the Weak: Elite Politics in China From Mao’s Stratagem to the Rise of Xi Jinping)』がある。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 21世紀に入り、2030年頃に中国は経済成長を続け、アメリカを逆転するという予測がなされるようになった。1820年当時、当時の清朝が支配した中国は世界のGDPの3分の1を占める世界最大の経済大国であった。現在は16%ほどを占め、25%ほどを占めるアメリカを追いかけている。中国の経済成長率がアメリカの経済成長率を上回り続ければ、GDPで中国がアメリカに追いつき、追い越すということになる。

gdpuschinajapan2030s511

 日本は経済成長がない状態が約30年間も続き、1968年に当時の西ドイツを抜いて世界第2位の経済大国になったものが、2011年に中国に追い抜かれて、42年ぶりに世界第3位に後退した。世界第3位でも大したものではあるが、世界のGDPに占める割合は5%ほどであり、アメリカと中国に置いて行かれている現状だ。ここから奇跡の経済成長を起こして上位2カ国に追いつくということは絶望的だ。日本は衰退国家である、ということを前提にして議論を行うことが建設的であると思う。

 中国の近現代史、特に1949年の中華人民共和国成立後の大きな流れとしては、大躍進運動(Great Leap Forward、1958-1962年)とプロレタリア文化大革命(Great Proletarian Cultural Revolution、1966-1976年)である。中国建国から1978年からの鄧小平が主導する改革開放(reform and opening-up)までの約30年のうち、半分以上の期間は動乱状況にあったが、それを起こしたのが建国の父である毛沢東であったことは皮肉なことであった。大躍進運動は、第二次五か年計画(five-year plan)の中での農産物の大増産と鉄鋼の生産量の急激な拡大を目指し、無残に失敗した。ソヴィエト連邦に依存せずに、急激な経済成長でイギリスを抜いてやろうという野心的な政策であったが、無残な失敗に終わった。鉄鋼生産に関しては、農村に粘土で釜を築いて鉄を溶かして鋼鉄を造るという「土法高炉」が用いられた。しかし、これでは実際には粗悪な鉄しか製造できなかった。農民たちはこの作業に熱狂して、自分たちの鍋や鎌を溶かして「鋼鉄」を製造した。

 中国は半導体製造で「大躍進運動」に比する動きをしていると下の論稿の著者は述べている。半導体の国産化を目指すあまりに無理をして失敗するだろうというのが結論だ。半導体製造の国産化はしかしながら重要な政策である。ウクライナ戦争勃発後、半導体不足が世界規模で発生し、日本国内ではエアコン、冷蔵庫や洗濯機など半導体を使用する家電の品不足が続いたことは記憶に新しい。半導体は現代世界においては産業の米である。半導体がなければ生活が立ち行かないということになる。更に言えば、高度な武器にも使われることを考えると、安定供給は国家安全保障にとっても重要である。世界の現状は不安定化しており、第三次世界大戦の可能性が高まっている。

 中国はこれまでの歴史の失敗を教訓にして、半導体の確保を進めるだろう。それは経済問題というよりも国家安全保障上の政治問題ということになる。

(貼り付けはじめ)

習近平の産業面での大きな野心は失敗するだろう(Xi’s Grand Industrial Ambitions Are Likely to Flop

-疑念の遺産が中国の指導者の意思決定を妨げている。

クリストファー・マーキス筆

2022年10月14日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/10/14/xi-mao-campaigns-chips-industry/

習近平は、間近に迫った第20回中国共産党大会で中国の最高指導者の3期目を担当することを目指して、共産主義中国の革命家だった毛沢東の悲惨な在任期間の後、数十年にわたる指導者たちを縛ってきた規範を破っている。習近平の動きを毛沢東の再来(second coming)に譬える人は多い。毛沢東の革命スローガンを頻繁に引用して自らの戦略を正当化し、演説では毛沢東の真似をし、毛沢東の記念碑を訪れる。

しかし、毛沢東の遺産は、習近平と彼の中国統治へのアプローチを理解する上で、どのように役立つのだろうか?

毛沢東の統治の強力な側面は、政治運動と産業界の野心を組み合わせたものであった。1950年代後半、毛沢東は中国が工業化においてソヴィエト連邦の成功に早く追いつくことを望んでいた。毛沢東が主導した大躍進政策(Great Leap Forward)では、農業の労働力を工業に振り向け、鉄鋼生産の失敗から、農民たちに金属製の調理器具を溶かすことが命じられた。その結果、3年にわたり大飢饉が発生し、少なくとも3000万人が餓死した。そして、1960年代から1970年代にかけて、毛沢東が開始した文化大革命(Cultural Revolution)は敵を排除し、民衆を革命に動員し続けた。この10年間、中国は制度上の激変と混乱に見舞われた。

習近平は毛沢東のように、「力を結集して大きなことをやる(Concentrate strength to do big things)」という毛沢東スローガンで推進する産業重視のキャンペーンに執着している。習近平が最高指導者として3期目に入る中で、これらはより一般的になる可能性がある。しかし、大躍進運動の時と同様、習近平の計画は経済の現実を把握できていないように見える。その最大の例が、「メイド・イン・チャイナ2025(Made in China 2025)」プログラムで打ち出された、半導体分野で世界的リーダーを目指す中国の動きである。

10年前、私は中国を代表する半導体メーカーであるSMIC(中芯国際集成電路製造有限公司、Semiconductor Manufacturing International Corp)の社内に5カ月間滞在し、創業者のリチャード・チャンをはじめSMIC幹部たちと何度も話し合いした。彼らは、半導体生産の複雑さとグローバルな相互接続性(globally interconnected nature)を考えると、中国が低付加価値アプリケーションで使用される数世代前のチップを提供する低コストサプライヤー以外の何者でもあり得ないと認識していることを明確に示していた。中国は、グローバルな知識や供給チェイン、特に工作機械へのアクセスが限られており、これが永続的な障害となっていた。

今日、半導体製造の専門知識は、これまで以上に世界の様々な地域に拡散し、それぞれが数十年にわたる研究開発の上に、独自の長所と比較優位性(comparative advantage)を持っている。しかし、中国の半導体開発は独自性があり、自給自足(self-sufficiency)を目指しており、経済的動機よりも政治的動機、特に台湾の半導体産業の優位性によって形成されており、その指針は大きく異なっている。例えば、SMICの上海工場では、地元政府を満足させるために4000人を雇用しているが、台湾の同種の工場では1000人しか雇用していないと聞いたことがある。

最近になって、このような中国のやり方には根本的な問題があることが分かってきた。2014年に発足し、通称「ビッグファンド(Big Fund)」と呼ばれる中国集積回路産業投資ファンド(China Integrated Circuit Industry Investment Fund)は、2回の資金調達で400億ドル以上を集めた後、その大部分が失敗に終わったことが判明した。最近行われた一連の粛清では、汚職の横行が非難される中、ビッグファンドに携わった様々な金融・技術関係者たちが逮捕された。また、数十億ドルの資金を誇った多くのチップ企業が、1つもチップを製造することなく倒産している。政府の補助金や助成金が実質的に無制限である以上、資源の方向性を誤り、効果のない目標に向かったとしても不思議はない。

2015年に発表された「メイド・イン・チャイナ2025」計画では、中国は2020年までに国産化率を40%にするはずだったが、実際にはわずか16%にとどまっているのが現状だ。私が滞在していた頃、SMICは「中国トップ5の特許保有企業」と喧伝していた。しかし、特許の質ではなく量にこだわったため、10年後の現在でも、最先端メーカーから2世代(約4年の開発期間)も遅れており、私がSMICのキャンパスに住んでいた頃とほぼ同じ状態である。

習近平の半導体への取り組みは、1950年代の毛沢東の製鉄への取り組みの2020年代版だと私は考える。表向きは賢明な開発優先策だが、トップダウン式のキャンペーンの論理に導かれ、経済的現実との関連性を欠くため、失敗に終わるだろう。それでもさすがに大飢饉を引き起こすことはないだろう。アメリカをはじめとする世界各国は、中国のこの分野での成長を制限するためのチップ政策を実施する際に、中国のキャンペーン戦略の失敗を念頭に置くべきである。最終的に達成できない目標に慌てるのではなく、アメリカの指導者は多国間アプローチに焦点を当て、いかなる金銭的インセンティヴも中国での観察可能な生産と密接に関連することを確認する必要がある。

習近平が毛沢東的な人格崇拝を復活させたことはよく知られているが、それが権力への渇望によるものである以上に、なぜ彼が毛沢東以後の指導者の規範を覆す必要を感じているのかについては、あまり合意が得られていない。毛沢東のもう1つの主要な政治運動が、いくつかのヒントを与えてくれる。

学者たちは、文化大革命として知られる10年にわたる国家公認の暴力が、中国の民衆に永続的な悪影響を与えたことを明らかにしている。政治学や経済学の研究によると、文化大革命を経験して、一般市民の間の信頼感が著しく低下し、制度、特に政治指導者に対する尊敬の念が薄れることが明らかになっている。

クンユアン・チャオとの共同研究で、企業経営者にも同じようなパターンがあることが分かった。文化大革命の経験者たちは、賄賂などの犯罪に手を染め、借金を踏み倒し、海外に移住して中国からの脱出を目指す傾向が強い。カリフォルニア大学ロサンゼルス校のヨンイ・ソンは、「文化大革命は人を獣に変えてしまった」と述べている。不動産開発業者のフアン・ヌーボーは、「文化大革命は、それを経験した人々を "悪魔(鬼)"にした」と述懐している。

習近平の国内・国際規範に対する姿勢には、こうした信頼の欠如が見て取れる。習近平は文化大革命の産物である。革命家一族の子孫で、1962年に粛清された父親は文化大革命で何年も獄中にいたが、習近平は地方に追放された。陝西省の農村で7年間暮らし、15歳で正規の教育を受けた後、1975年から1979年まで北京に戻って清華大学に「労働者・農民・学生」として通うまで、事実上、教育を受けることはなかった。中国のプロパガンダは、彼がこの時期に学んだとされる一般労働者への共感を強調するが、真実はもっと暗いのかもしれない。習近平は2000年、中国人ジャーナリストのチェン・ペンとの対談で、そのことをほのめかしている。彼は次のように語った。「権力とのつながりがない人々は常にこれらのことを神秘的で新奇なものであるとみている。しかし、私が見ているのは、権力、花、栄光、喝采といった表面的なものだけではない。私は、牛舎(紅衛兵が使用した即席の牢獄の呼称)や、人々がいかに熱くなったり冷たくなったりするかを見ている」。

従って、彼が継承に関する事前の中国の規範や法律を無視したことは驚くことではないのだろうか? 中国が世界貿易機関から香港の統治に至るまで、国際的な合意を無視するのは当然だろうか? そして、中国は習近平に逆らうと他国の国民を拉致して投獄するのか?

第20回党大会後、前例のない3期目に突入した習近平は、その地位を確保し、新型コロナウイルス感染拡大対策をはじめとする強硬な政策手法も和らぐのではないかと予想するアナリストたちもいる。しかし、文化大革命の影響の深さを考えると、一般的には逆で、党大会後、習近平は更に奮起し、これまで明らかに習近平が志向してきた毛沢東戦略をさらに強化する可能性がある。

横断的歴史比較(cross-historical comparisons)には、常に何事も鵜吞みにせず、疑いの目を持つことが重要だ。しかし、毛沢東のキャンペーンが習近平の政治とガヴァナンスに与えた影響から学ぶべきことは多いし、それは中国が経済的な問題を抱え続け、それに伴って西側諸国との緊張がますます高まることを予感させる。

※クリストファー・マーキス:ケンブリッジ大学ジャッジ・ビジネススクール中国経営学担当シンイ記念教授。著書に『毛沢東と市場:中国企業の共産主義的ルーツ(Mao and Markets: The Communist Roots of Chinese Enterprise)』がある。

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