古村治彦です。
以下になかなか興味深い記事をご紹介する。目的が達成された、もしくはこれ以上進めないということになれば、多くの場合、人は呆然として、次は何をすればよいのか分からなくなる。国家も同じことである。以下の記事では、「中国が、日本、そしてアレキサンダー大王のように、ピークに達する、これ以上は進めないという状況になった時にどうすべきか」ということが論じられている。
日本は太平洋戦争の無残な敗戦により、都市部を中心に焦土と化した。朝鮮戦争を契機に製造業が復活し、高度経済成長木へと進んでいく。1968年には当時の西ドイツを抜いてGNP(国民総生産、現在はGDPが指標として使用される)で世界第2位となった。しかし、アメリカを追い抜くということはできなかった。アメリカはそれだけ強大な存在だった。
日本は年率10パーセント以上の高度経済成長を続けながら同時に自民党の地方への分配政策もあり、経済格差は大きく広がらなかった。高度経済成長には格差の拡大がつきものであり、日本でももちろん格差はあったが、他国のような大きな格差はなかった。日本政治研究では「補償型政治(compensation politics)」と呼ばれている。
日本のバブル経済崩壊後、戦後の体制は時代遅れとされ、新自由主義的な政策が進められた。その当然の帰結として格差は拡大し、国内消費も落ち込み、GDPでは中国に抜かれ、やがてインドにも抜かれ、ドイツにも抜かれる可能性が高まっている。
高度経済成長の時期はイケイケどんどんで進むことができる。それはどの国も同じだ。日本の場合には、保守本流(田中派と大平派)を中心として、土建屋政治と揶揄されながらも、分配にも配慮した政治が行われていた。経済成長がない現在において、分配に対する配慮がなくなれば、日本社会はジャングルの中の弱肉強食の原理しか残らなくなり、社会は保てなくなる。
中国は日本政治と経済を詳細に研究している。日本政治の「補償型政治」の面も当然に研究している。中国は格差社会を分配政治も取り入れて、行き過ぎた格差を是正し、中間階級を多く生み出す方向にかじを切っている。
日本はアジアの中で様々な事象を最初に経験する国である。渡り鳥の集団で言えば、戦闘を飛ぶ鳥だ。我が国日本は先進国となり、高度経済成長が望めない中で、どのように経済成長し、格差を拡大させないかという課題に取り組まねばならない。これは非常に難しい課題だ。格差拡大なき経済成長(economic growth without expansion of inequality)に成功した時、日本は世界から驚嘆の目を向けられ、尊敬されるだろう。
しかし、現状は自公連立政権や補完勢力である維新や国民民主にその処方箋はない。何があるかと言えば、国内の惨状に目を向けさせないための、「外側に敵を作る」「軍事的な脅威を高らかにアピールする」という古典的な方法しかない。アメリカがそれをせよと望む以上、従わざるを得ないのであるが、日本は米中のはざまにいるという条件を利用して、アメリカの属国から抜け出すことを考えねばならなおい。
(貼り付けはじめ)
中国が日本、そしてアレキサンダー大王から学べる事(What China Can
Learn From Japan—and Alexander the Great)
-中国は長年の目的意識を再検討する時に来ている。
ハワード・W・フレンチ筆
2023年1月26日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2023/01/26/china-population-decline-birth-rate-economic-growth-gdp-competition/
中国政府は今月、中国の総人口が1950年代後半以降初めて減少したと発表した。毛沢東が大躍進運動(Great Leap Forward)と呼ばれる工業化を加速させるために行った悲惨な作戦で数百万人が餓死した時代から人口は増えていったが、今回の事実は、地政学上の主要ライヴァルであり西洋に代わる極となるであろう中国にとって悲惨な影響を与えるという報道熱を巻き起こした。
一時期、『ニューヨーク・タイムズ』紙だけで、トップページに4本もの大躍進を告げる記事が掲載され、ある意見コラムの小見出しには、中国の「否定できない」逆転劇がこう書かれていた。「中国の台頭は忘れろ。危険なのは中国の衰退である」。
他の報道では、インドがまもなく中国を抜いて世界一の人口国家になること、中国の人口が減少すると経済規模でアメリカを超えることが難しくなり、目標を達成できない可能性があることなどが、この衰退を裏付けるシグナルとその結果を予測する内容として挙げられている。欧米諸国の出版物ではほとんど取り上げられず、自己中心的な偏狭さを露呈しているのが、国連がサハラ以南のアフリカの人口は2030年代初頭までに中国(その後すぐにインド)を追い抜くと予測していることである。
大げさな、場合によっては勝利至上主義的な見出しはともかく、こうした動きや予測は、世界の人口動向をよく見ている専門家たちにとっては、昔からよく知られたものであった。しかし、それ以外の人々にとっては、世界人口の順位とそれが日常生活に及ぼす影響について、多くの人々が慣れ親しんだ長年の感覚に与えた衝撃を乗り越えるのは、それほど早すぎることではないだろう。
中国の発表に照らして現在の状況を理解する最良の方法の1つは、一見果てしなく続く一連の征服の後、最終的にガンジス川に到達したときに泣いたと言われているアレキサンダー大王についての非常に高い有名な物語を知ることだ。既知の世界を全て征服したと思われるアレキサンダー大王は、完全に目標を達成したということなのである。
中国は、世界で最も豊かな国、つまり暗黙のうちに最も強力な国になるという、明らかには言わないが、明確な目標に到達していない。しかし、今こそ北京は、アレキサンダー大王と同様、長年の目的意識を見直し、次に何を追求すべきか、これまで以上に創造的に考えるべき時である。そうすれば、多くの人が突然悪い知らせと認めたものから、幸運を呼び起こすことができるだろう。
歴史は時に韻を踏むと言われているが、中国の現状を最もよく表している韻は、私が1990年代後半から数年間、ニューヨーク・タイムズで日本を担当することになる直前まで遡る。日本について調べていくうちに、長年にわたり、政治的・経済的なイヴェントといえば、現職の首相が新年に日本の最新のGDP成長率の数字を発表して祝うことだと知り、驚かされたことがあった。1950年代後半から1960年代にかけて、成長のための成長が一種の国民的熱病となり、当時の日本の目標は、近年の中国のように、国富(national wealth)でアメリカを超えることであった。
日本の一人当たりの富は1970年代後半に一時的にアメリカに接近し、その後数年間はアメリカを上回ったが、1990年代前半に相対的にピークに達した後、1990年代後半にはアメリカと比較して急落し、再びリードを取り戻すどころか、同程度に近づくことさえなかった。日本は国土が狭く、特に人口が少ないので、GDPの合計でアメリカを上回ることはなかったと思われる。
1980年代に中国が目覚しい経済成長を開始して以来、専門家以外の多くの人々は、中国が一人当たりのGDPで日本と同様にアメリカの富を超える可能性がないことを知らなかったようである。それは、中国が20世紀を通じて一人当たりGDPの平均値でアメリカよりはるかに貧しかったという事実だけでなく、中国の人口動態のピーク時には世界のアメリカの4倍以上という膨大な人口規模があったからである。これだけの人口をアメリカ人と同等の平均的な豊かさにするには、中国経済をアメリカの数倍の規模にする必要がある。
日本は、アメリカとの競争をピークに衰退し、アレキサンダー大王の涙のような危機的状況に陥った。日本は長い間、世界の中で卓越した存在になること以外に、成長の目的を自らに問いかけることはほとんどなかった。長い間、西洋が支配する世界の中で、国のアイデンティティと文化を証明することは、それだけで十分な報酬になると思われていた。
それは、GDPのような粗雑なステータスや幸福の尺度への固執をやめ、他の、間違いなくもっと健康的な追求を徐々に広めていくことを中心としたものであった。その中には、環境保護、健康と長寿、文化の保護、持続可能な経済プロセス、余暇を通じた充足感の重視、そして、まだ非常に遅れており、せいぜい進行中ではあるが、女性の地位向上と職場文化の改革という密接に関連した課題が含まれている。
中国は人口動態の現実から、近い将来、同様の国家目標と前提の抜本的な見直しを始める必要がある。しかし、アメリカや西ヨーロッパ諸国では、中国が今世紀中に急速に人口を減少させることによって、中国との競争を回避できると考えているようだが、それは誤りだ。アメリカの経済規模に匹敵する経済規模を持つ国は、極めて強力な競争相手となり得る。ロシアはよくイタリアと比較されるが、経済規模はカリフォルニア、テキサス、あるいはニューヨークの各州よりも小さい。
しかし、それと同様に、中国が近年取り組んでいるような、兵器やハードパワーへの支出を大きく増やし続けるような、昔ながらの真っ向勝負の大国間競争は、国民の大部分を先進国の生活水準から大きく引き離すことになるという事実を早く理解したほうが、国民にとって良いことだろう。もちろん、アメリカを含む世界の他の国々にとってもそうだ。アメリカは、全体的に豊かであるにもかかわらず、多くの人々が貧困に苦しんでいる。
中国も、早く日本のような方向に舵を切るべきである。世界一の経済大国という過去数十年の目標に代わる新たな国家目標を打ち出すことができなければ、中国は党と国家の存立のために、より平和的でない別の方向に目を向けることになる。
しかし、新しい国家的使命はどのようなものであり、それを達成するにはどうすればよいか? 最近の新型コロナウイルス・ゼロ政策の突然の転換にもかかわらず、そのような移行が中国の習近平国家主席からもたらされると期待する理由はほとんど存在しない。そのため、長い間その力を発揮することを期待されてきた中国の中産階級が、地平線上の唯一の変化の担い手となっている。
中国政府の新型コロナウイルス大量検査体制、広範な監禁、移動制限に対する最近の民衆の抗議は、何千人もの中産階級の都市生活者が街に降り立ったことで、他の多くの面で中産階級からの反発を想像することがこれまで以上に可能になった。中国共産党が国家への義務を果たすために子供を産むように要求しても、女性はますます公然とそれを拒否するようになるかもしれない。
また、中産階級の怨嗟の声も想像できる。彼らの富の大半が蓄えられている不動産市場の危機に直面し、彼らの貯蓄と所得を国家が管理することを諦めざるを得なくなっている。また、間接的にではあるが、民間企業も国家の支配や干渉を減らすよう働きかけることが想像できる。すでに一部の企業家は、アイデアと資本を携えて中国からの脱出を選択し、そうしている。
習近平はまだ気づいていないかもしれないが、彼が率いる中国共産党と国家は、これらの勢力やその他のより強力な勢力との競争にさらされており、中国はその前提を変え、おそらく経済モデルを作り直すことさえ要求されることになるだろう。これらのことは全て「平和的発展(peaceful evolution)」という言葉の下に置くことができる。この言葉は、北京が自らの正しい歴史的目標から逸脱させようとする西洋の巧妙な陰謀の要素であると考える(あるいは信じるふりをする)ものを表現するために、中国共産党が長年にわたって暗に使ってきたものだ。実際、中国が今後も豊かになっていくためには、内部から変革の要請が起こり続けるだろう。
日本のGDPがとりわけ頭を悩ませていた時代の後半に、日本政府は、これまで以上に大量のセメントを投入するなど、ほとんど人為的な方法で経済成長を維持しようとした。生産性を改善したり、将来の成長を保証したりすることには何の役にも立たない財政刺激策を行い、産業を腐敗させながら国家に依存するようになる、補助金を受け入れる産業のポケットを並べることになった。日本は最終的に、その海岸の大部分が浸食を防ぐと言われる巨大なコンクリートのテトラポッドで覆われる地点に達した。この国は既に複数の最先端の鉄道網と大都市間の高速道路、そして田園地帯を蛇行する世界クラスの道路とどこにも通じない壮観ないわゆる橋を建設していたので、他にほとんど何もないように見えた。
最近の中国の経済活動は、あまりにもこのようなものが多い。それは、GDPの成長が抽象的な固定観念(abstract fixation)であり、党と国家の正統性(legitimation)の源泉であるため、成長の落ち込みが迫ると、新しい高速道路や高速鉄道、空港、橋などの無頓着な刺激策で対応する必要があるからである。習近平が理解できるかどうかは別として、今迫っている革命的なアイデアは、インフラに代わって人への支出を始めることである。
※ハワード・W・フレンチ:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト、コロンビア大学ジャーナリズム大学院教授。長年にわたり海外特派員を務めた経験を持つ。最新刊に『黒人性に生まれて:アフリカ、アフリカの人々、そして近代世界の形成、1417年から第二次世界大戦まで(Born in Blackness: Africa, Africans and the Making of the Modern
World, 1471 to the Second World War)』がある。ツイッターアカウント:@hofrench
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