古村治彦です。

 安倍晋三元首相が銃撃によって暗殺され1か月ほどが経過した。日本憲政史上において最長の首相在任期間を記録し、国政選挙にも勝ち続けた安倍元首相と安倍元首相がリーダーだった日本の右派だったが、一気に退潮に瀕している。安倍元首相が率いた安倍派は後継者が育っておらず、集団指導体制となった。自民党の派閥の歴史を見てもらうと分かるが、安倍派はこれまで代替わりの度に分裂ということが頻繁に起きた。最近は起きていなかったが、一時的には集団指導体制で収まると思うが、やがて誰かリーダーを選ぶとなった場合には内紛が起きる可能性がある。また、安倍派は岸(信介)系と福田(赳夫)系の流れがあり、それらが争うということもある。現在の安部派のプリンスは福田達夫自民党総務会長であるが、福田を早く総裁候補に育てたい勢力とそれを阻止したい勢力で争うことになるだろう。

 現在の岸田政権のキーパーソンとなるのが松野博一官房長官と木原誠二官房副長官だ。この2人についての紹介記事を下に掲載する。松野官房長官は安倍派所属であるが、系統としては福田系と言える人物である。首相を狙うタイプではなく、キングメイカーを目指す寝業師のタイプのようだ。岸田文雄首相率いる宏池会とも関係が良いようだ。

 木原誠二官房副長官は財務官僚出身でイギリスでの経験がある。2009年の選挙で落選してしまったがその後は順調に当選を重ねている。木原は岸田の側近であり、首相を目指す姿勢を隠そうとしない。官僚系でおとなしい人物が多く、お公家様集団というのが特徴されてきた宏池会系では珍しい感じである。

 今回の安部元首相暗殺で日本の右派がこんなにもろくも崩れてしまうのかということが私にとっては驚きだった。それは安倍元首相が統一教会に恨みを持つ人間に殺されたという「舞台設定」が大きく影響している。暗殺事件後、暗殺事件自体への興味関心と言うよりも、統一教会自体そして、政界と統一教会との腐れ縁的な関係へと関心が集まり、自民党に対しては批判的な目が向けられている。統一教会との関係が突破口になって、日本の政界の浄化と右派の暴走への歯止めが効くようになるということを多くの国民が期待している。

 2022年は世界規模、日本国内両方で政治史における大きな転換点となった年だったということが後々言われるようになるかもしれない。それほど大きな変化が起きつつある。

(貼り付けはじめ)

安倍元首相後の日本:脅威の下での政治的安定性?(Japan after Abe: Political stability under threat?

-指導者不在の保守派、経済的課題、岸田首相の先行きの不安など、様々な問題が立ちはだかる。

ナオヤ・ヨシノ筆

2022年7月13日

『アジア日経』紙

https://asia.nikkei.com/Spotlight/The-Big-Story/Japan-after-Abe-Political-stability-under-threat

東京発。7月8日、安倍晋三元首相は奈良市内で、参議院選挙を翌日に控えた選挙活動を行っていた。安倍首相らしい名演技だった。安倍首相は見物人に手を振りながら、自民党候補の応援演説をした。

演説の途中で2発の爆音がして、安倍は倒れ、暗殺者の手製の銃で致命傷を負った。

生前の安倍首相は、おそらく21世紀の日本がこれまでに見た中で最も手ごわい政治家であった。在任日数が3188日と日本史上最長の首相であり、リフレ政策「アベノミクス」から不運な2020年東京五輪の開催準備まで数々の業績を残した。

しかし、銃犯罪の少ない日本では、安倍元首相の暗殺による死は彼の遺志を汚すほど大きな出来事であった。この事件は平和主義の日本だけでなく、新型コロナウイルスの大流行やロシアのウクライナ侵攻など世界的に不安定な時期に世界中に波紋を広げた。

安倍元首相は祖父が首相、父が外相という名門一家出身の政治家であり、階級社会の頂点に立つ人物であった。

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安倍晋三(左)と1982年から1986年まで外相を務めた父安倍晋太郎。1987年撮影。

安倍元首相殺害の容疑者である山上徹也(41歳)は元工場労働者で、恨みのために安倍を銃撃したと主張している。統一教会(Unification Church)として知られる、世界平和統一家庭連合(Family Federation for World Peace and Unification)という宗教組織と安倍元首相が関係を持っている確信していた。山上容疑者の母親は巨額の資金を教団に寄付し、結果として破産してしまった。統一教会は月曜日、山上の母親は現在も信者であると認めたが、安倍元首相との関係を否定した。

山上容疑者が単独で行動し、政治的な意図で襲撃をしたのではなかったということは、暗殺事件の捜査によって示唆されている。国家的指導者が血を流して倒れている姿は、日本の政治史における困難な時代を思い起こさせる。1930年代、日本では犬養毅首相や他の政治家たちに対する一連の襲撃事件が起きた。この暴力は民主政治体制を溶解させ、最終的には戦争につながる軍国主義を生み出した。
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78日、奈良の集会で演説する安倍晋三の写真。安倍を射殺した山上徹也容疑者はポロシャツにカーゴパンツ姿で右から2番目。 

安倍首相の死後時間を置かずに行われた参議院選挙は、岸田文雄首相が率いる与党自民党の勝利に終わった。ポスト安倍の時代、岸田には、日本の言論の自由と民主政治体制が暴力によって抑圧されないようにする責任がこれまで以上に重くのしかかることになる。

●変革的な人物(A transformative figure

安倍元首相の遺体は、土曜日に東京都の富ヶ谷にある自宅に帰った。火曜日には、岸田首相を含む安倍元首相の家族と親しい友人のみが参列する、ほぼ非公開の葬儀が執り行われた。

それでも、葬儀会場の東京の増上寺の前には、大勢の弔問客が詰めかけた。安倍元首相の遺体は黒い霊柩車で運ばれ、その中で未亡人の昭恵氏が頭を下げているのが見えた。寺院内に設けられた慰霊塔には一般市民が花を供えながら祈りを捧げた。

安倍元首相と食事をした人なら誰でも、安倍元首相の会話への情熱と人脈の広さを感じることができただろう。安倍元首相は、大勢が集まる席では、テーブルからテーブルへ移動し、参加者一人ひとりに声をかけていた。
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安倍元首相の葬儀を終え、増上寺から遺体を乗せた霊柩車が出発するのを見守る大勢の弔問客。

安倍首相の暗殺は世界的なニューズとなり、死去当日に発表されたジョー・バイデン米大統領、アンソニー・アルバネーゼ豪首相、ナランドラ・モディ印首相による共同声明では、安倍首相を「日本における変革的な指導者(a transformative leader for Japan)」と呼んだ。ロシアのウラジミール・プーティン大統領から安倍元首相の家族へのメッセージでは「壮大な人物(a magnificent person)」「卓越した政治家(outstanding statesman)」と表現されていた。

元駐日米国大使のジョン・ルースは「自分の国を越えていくリーダーはほんの一握りだと思う。そして、安倍元首相は自分の国を超え世界の指導者になった一人だった」と本紙に語った。

安倍元首相の世界的な影響力は政権の長さによってもたらされた。日本政治では、長期政権を維持するリーダーは稀である。過去30年間、多くの首相は2年未満しか政権を維持できなかった。安倍元首相が海外で注目されたのは、ウラジミール・プーティンやドナルド・トランプ前米大統領など、気難しい人物とも、その気配りを重視する人柄によって信頼関係を築くことができたからでもある。

しかし、2013年に日本の第二次世界大戦の戦死者を祀っている東京の靖国神社を参拝したことで、海外での評価は少し低下した。この参拝は中国や韓国からの反発を招き、東京のアメリカ大使館からも批判された。

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2013年12月、安倍首相は二度目の首相に就任して早々、第二次世界大戦の戦犯を祀る靖国神社を参拝し物議を醸した。

日本を戦後の平和主義から脱却させるという安倍元首相の意図も物議を醸した。彼は防衛費を引き上げ、2015年に日本の軍隊が「集団的自衛権(collective defense)」の責任を負うことを可能にする画期的な安全保障関連法案を可決することによって、この国をアメリカとより対等な立場に置くことを目指した。

前東アジア・太平洋担当国務次官補で現在はアジア・ソサエティ政策研究所の国際安全保障・外交担当副所長を務めるダニエル・ラッセルは「安倍首相の下で、日本は純粋な内向き志向から、安全保障の提供と地域における強制や軍事行動の防止を目的としたアメリカとのパートナーシップに移行した」と述べた。

●アベノミクス:素晴らしいバランス(Abenomics: A fine balance

2006年に始まった安倍首相の1回目の首相在任期間は約1年という短い期間だった。52歳という日本の戦後最年少の首相として選出されたが、2007年の参議院選挙での大敗と健康不安を理由に、1年も経たないうちに辞任した。

しかし、2012年12月に2度目に就任した安倍首相は、自民党を率いて衆議院と参議院の選挙で6連勝を達成した。慢性的なデフレ脱却を目指したアベノミクス政策により、日経平均株価は3年で2倍の上昇し、失業率もほぼ半減した。

しかし、国会で対立する国会議員たちに罵声を浴びせるなど、従来の日本政治における合意形成のスタイルとは一線を画す不寛容な風潮が批判された。

安倍元首相自身の政治的特徴は保守主義とプラグマティズムの絶妙なバランスであった。アベノミクスはそのプラグマティズムを支えるものであり、その効果は選挙での成功に表れている。

アベノミクスが日本経済に最も貢献したのは雇用の創出だ。2012年から2020年までの2度目の首相在任中に、日本の雇用者数は430万人、つまり7%増加し、失業率は4.3%から2.2%へと低下した。
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1995年以降、日本の生産年齢人口は減少し、移民も厳しく制限されているため、安倍首相が慢性的な労働力不足と製造業の雇用喪失に対処するために利用できるのは、女性と高齢者だけであった。

より多くの女性を労働力にするために、安倍首相は2013年に「ウーマノミクス(womenomics)」を打ち出した。その目的は、女性の育児サーヴィスへのアクセスを向上させ、女性社員により多くの責任あるポジションを与えることで、女性の就労を奨励することであった。

女性の雇用は安倍政権下で飛躍的に改善された。430万人の新規雇用のうち300万人が女性であった。経済協力開発機構(Organization for Economic Cooperation and Development OECD)によると、2012年から2021年の間に、日本の女性の労働参加率は63%から73%に上昇した。これは世界平均の65%を上回った。

しかし、アベノミクスの下で創出された雇用の半分以上は、比較的低賃金で不安定な非正規雇用(relatively low-paying, insecure, nonregular ones)であった。賃金は上昇したが、わずかであり、生活費の上昇と増税が賃金を大きく上回った。

アベノミクスはまた、日本の所得格差が着実に拡大していることを覆すことにもほとんど失敗した。アベノミクスの焦点は常に、まず企業の財布を潤し、それを労働者たちに分配してもらうことであった。しかし、企業は利益を確保し、巨額の資金を蓄えることを選択した。

その結果、日本の貧困率はほとんど動かず、2007年の16.0%に対し、2018年は15.7%となり、2018年のOECD平均の11.2%よりも悪くなっている。
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テンプル大学日本校のマイケル・クーセック准教授(アジア研究)は「安倍政権下では、賃金が上昇するという希望があった。それは、通貨を切り下げることで、企業の利益が上がり、人々の給料が上がり、消費意欲に火がつくという良いサイクルの一部となるはずだった」と語った。しかし、それは実現しなかった。

日本の男女間賃金格差も先進国の中で最も高い水準にとどまっており、政府のデータによると、2020年の女性の平均賃金は男性より約26%低い水準にある。世界経済フォーラムによると、日本はまだ男女平等の面で146カ国中116位にとどまっている

現在の世界的な物価の高騰は、多くの人々にアベノミクスの再評価を促している。アベノミクスは非伝統的金融緩和を前提にしており、日米の金利差、円安を加速させた。現在では、アベノミクスは負担の大きいレガシーであるという見方もある。また、構造改革など保守派が好む政策も、安倍首相退陣後は目立たなくなったように見える。

安倍元首相が執拗な赤字財政、中央銀行による大量の国債購入、民間投資を喚起するための構造改革を行ったにもかかわらず、消費を期待したほどには増加させることができなかった。現在、日本はデフレに陥ってはいないが、新型コロナウイルス感染拡大やロシア・ウクライナ戦争で世界中が高インフレに陥る中、消費者物価の上昇は2%をやっと超える程度である。

今度は岸田が「新しい資本主義(new capitalism)」を掲げて経済を動かす番だ。7月11日の選挙勝利演説で、彼はアベノミクスのレガシーを基に、科学と技術革新への民間と公共の投資を増加させ、「持続可能で包括的な経済を創造する(create a sustainable and inclusive economy)」と宣言した。

●自民党をまとめる(Unifying the LDP

アベノミクスのレガシーもさることながら、安倍元首相が日本の政治に与えた最大の影響は自民党内で果たした重要な役割である。父である安倍晋太郎元外相の秘書として働きながら、自民党の派閥力学の重要性を学び、日本の首相であれば当然、党内最大派閥の意見に左右されることを常に心得ていたのだ。

2020年9月に持病のため首相を辞任してから1年足らずで、安倍元首相は自民党の党内最大派閥「清和政策研究会」の代表に就任し、政治のあり方と政策の両面から発言し続けることになった。

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安倍晋三元首相に黙祷をささげる岸田文雄首相(中央)。710日、東京・永田町の自民党本部。

2021年10月、不人気だった菅義偉首相の辞任に伴い、自民党が党首選に臨んだ際、安倍元首相は自分の好みを明らかにした。

長年、安倍元首相を支え、多くの信条を共有してきたタカ派の女性議員である高市早苗を安倍元首相が推薦した。高市はどの派閥にも属さないが、安倍元首相の狙いは、自身がそれまで率いてきた党内外の保守派を彼女の下にまとめることだった。

安倍元首相の後押しを受けた高市早苗は、国民に広く支持されていたもう一人の党首候補だった河野太郎を追い抜き、自民党現職議員の中で2位の得票率となったが、自民党第4派閥を率いる岸田現首相に敗北を喫した。

しかし、党政調会長に就任した高市が、安倍の後釜として保守のリーダーの座に就くことは困難となった。結局、安倍元首相は自民党の第一線に自分が必要であることを自覚し、特に防衛費問題で発言力を強めた。安倍元首相が前面に出るようになると、保守派における高市の影響力は弱まった。

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2021年12月、東京都内で開かれたパーティーに出席した安倍晋三と高市早苗(右端)。安倍元首相は昨年の自民党党首選で高市を支援したが岸田文雄に敗れた。

安倍元首相が高市を後継者として推すには常に限界があった。安倍元首相の派閥には萩生田光一経済産業相など有力な議員がおり、派閥に属さない高市早苗を持ち上げることは簡単にはできなかった。結果として安倍元首相は事実上の保守のリーダーであり続けた。

しかし、安倍元首相がいなくなった現在、保守派を束ねるリーダーは存在しない。高市早苗は失速した。安倍派内にも安倍元首相の後継者が見当たらない中、同じようなカリスマ的リーダーが現れるかどうかは不透明だ。

テンプル大学のクーセック准教授は「自民党の最重要派閥において、後継者不在の状態になっている。岸田氏の上に立ちはだかる派閥は今やリーダー不在だ」と指摘する。そして、「それは自民党の政治体制を変えることになる」と述べた。

●岸田首相にとってのポスト安倍時代の諸課題(Post-Abe challenges for Kishida

安倍首相の影響力は大きく、首相の座から退いた後も、国会においてなくてはならない存在であり続けた。

岸田首相の人事は安倍元首相とその一派を引き留めるためのものと考える人々が多かった。岸田は安倍の盟友である高市や安倍の弟である岸信夫に党内や閣僚のポストを提供した。安倍元首相を無視できない岸田首相はこのような手当をするしかなかったと見られている。

安倍元首相がいなければ、岸田首相はより自由に政権運営を行うことができる。クーセックは日本経済新聞の取材に対し、安倍元首相がいなくなったことで、「岸田の肩から大きな重しが取れた。安倍元首相と問題を起こすような統一された派閥がいない。だから、岸田が動けるスペースが増えることになった」と述べた。

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7月9日、前日の参院選の選挙運動中に安倍首相が射殺された現場で祈りを捧げる弔問客。

しかし、安倍元首相を失ったことで、岸田には注目すべき政治的負債が生じる。自民党内だけでなく、社会を二分するような政策を進めるための「口実(excuse)」として、党内に大きな影響力を持った安倍首相を利用できなくなるのである。その最たるものが憲法改正である。

新型コロナウイルスやロシアのウクライナ侵攻など世界は大きく変化している。サイバー空間など非通常的な分野での攻撃に対し、日本国憲法や既存の法体系では対応しきれないと懸念する声も少なくない。憲法9条は武力行使を放棄し、軍事力は「決して保持しない」としている。

安倍元首相は憲法9条を改正し、日本の安全保障を強化したいという思想的欲求を明らかにした。2015年、安倍は新しい総合安全保障法を国会に押し通し、日本に「集団的自衛権(the right to collective self-defense)」を認めることになった。

シドニー大学アメリカ研究センターCEOで、アメリカ国家安全保障会議でアジア上級部長を務めたマイケル・グリーンは本紙の取材に対して、「総合安保法制は日本の防衛庁(現在の防衛省)と自衛隊が誕生した1954年以降、最も野心的な法律となった」と述べている。

グリーンは、安保法制の主な動機は、憲法に関するイデオロギーというよりも、安倍元首相の強い戦略的論理にあると主張している。グリーンは「中国勢力の台頭と中国の強権と侵略の拡大を見て、安倍元首相は日本が日米同盟を強化し、抑止力を強化する必要があると結論づけた」と語った。

岸田は政権に就いてからの9カ月間、日本の安全保障を強化する必要性について安倍元首相と同じ考えであることを明らかにし、現実主義外交を推し進め、日本の防衛費を倍増させると公約した。

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岸田文雄首相は7月10日、東京の自民党本部で自民党候補者の名前の上にバラの紙を置き、参議院選挙での勝利を示す。同党を含む連立与党は改選議席の半数以上を確保した。

しかし、戦後の平和主義を掲げる日本では、憲法改正は争点になる。もし安倍元首相が生きていれば、岸田首相は9条改正を強く主張した安倍元首相を利用し、寄り添うことができたことだろう。安倍元首相が生きていれば、憲法改正に反対する人たちからの批判に直面した際に、岸田首相は安倍元首相を盾にして身を隠すことができたはずだ。

その選択肢がなくなったことで岸田内閣への批判はあらゆるところからやってくる。野党からの不満に加え、安倍元首相が鈍化させたはずの保守派からの不満にも、岸田首相はこれまで以上に直面する可能性がある。

安倍元首相を失ったことで、「右翼はチャンピオンを失った」とクーセックは言う。これが岸田氏に有利に働くかどうかはまだ分からない。

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安倍晋三の砂上の楼閣:死去により最大派閥が宙に浮く(Abe's house of cards: Death leaves largest party faction in limbo

-日本で最も強力な政治集団が集団指導に移行する可能性

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安倍晋三前首相の死去により支配的な派閥は後継者探しに奔走している。

ガク・シマダ筆

2022年7月14日

『アジア日経』紙

https://asia.nikkei.com/Politics/Shinzo-Abe/Abe-s-house-of-cards-Death-leaves-largest-party-faction-in-limbo

東京発。安倍晋三元首相が暗殺されて1週間近く経つが、彼が率いた支配的な派閥はまだ後継者候補を決められないでいる。

自民党の最大派閥である清和会は結束を維持するために奔走している。しかし、安倍元首相が殺害されたことで後継者を選び育てる時間がほとんどなく不安定な状態に陥っている。

清和会は自民党の衆参議員93名を擁し、軍事費の拡大や日本国憲法の平和条項の改定を求める声も多い。最長の総理大臣を輩出したこのグループは党内で大きな影響力を持つ。

清和会幹部たちは月曜日、東京のホテルで次のステップを議論したが、連帯を維持するという曖昧な誓約を行うことができただけだった。

安倍元首相は2017年、父の安倍晋太郎が数十年前に派閥を率いていた時のような仕組みを模して、派閥の中核的リーダーを4名にする案を浮上させた。明確なリーダーがいないことを考えると、派閥はこの選択肢を選ぶ可能性がある。

現在、下村博文、塩谷立の両元文科相が会長代理を務めている。下村博文、塩谷立の2人は、安倍元首相の私邸で弔問客と会うなど、試練の中で安倍首相一家を支えてきた。

萩生田光一経済産業相や松野博一官房長官も後継者争いの候補と目されている。安倍派幹事長を務める西村康稔も自民党参議院幹事長の世耕弘成氏と並んで候補に挙がっている。

そして、政界の名家出身の新星である福田達夫(55歳)もある。昨年の自民党総裁選では、福田は、派閥推薦の候補者を自動的に応援するのではなく、当選回数の少ない若手議員たちを集めて首相候補の公開投票を呼びかけた。

総裁選挙期間中、安倍元首相は保守派の火付け役である高市早苗(現自民党政調会長)に肩入れしていた。高市は現在、自民党の派閥に属していないが、かつては安倍元首相の派閥に属していた。

元防衛相で現在は安倍派の幹事長を務める稲田朋美氏も後継者候補として名前が挙がっている。

安倍派のある幹部は「座長代理を2人にする案や7人体制にする案も出ている」と述べている。

岸田文雄首相は8月から9月にかけて内閣と自民党幹部の改造を行う予定だ。このスケジュールであれば岸田は安倍派の新体制がどうなるかを見極める時間ができる。

安倍派のメンバーが誰も重要ポストに就かなければ、派閥の影響力が低下する可能性がある。

下村博文は月曜日のテレビ番組で「岸田内閣が自民党の保守派を軽視すれば、自民党は弱体化する」と警告を発した。

自民党の最大派閥であることにはそれなりの注意点がある。内紛は簡単に分裂につながり、後継者争いが起爆剤になることもある。

「最も危険な時期は派閥規模が100人に近づいた時だ」と元首相で清和会の会長を務めたこともある森喜朗は5月の政治資金集めイヴェントで警告を発した。森は「半分の人数を味方につければ、他の派閥より大きくなれるという幻想を抱き始める人もいる」と述べている。

首相を務めた田中角栄や竹下登など過去の名だたる派閥は、解散時には100人以上の会員を抱えていた。清和会は1991年の安倍晋太郎の死去に伴う内部抗争で分裂した。

複数のリーダーを置くことは前例がないこともない。2007年から2009年にかけて、清和会は3人の議員による集団指導体制を維持した。

しかし、自民党が政権から転落した2009年の政治状況と、現在の派閥の影響力には天と地ほどの差がある。集団指導体制が円滑に機能する保証はない。

派閥の役割は低下したが、派閥は依然として政治任用を獲得し、議員の資金調達に貢献している。安倍元首相は岸田に対して、内閣における安倍派のメンバーを4人から5人に増やすよう要請していたようだ。

安倍元首相は亡くなるまで、他の追随を許さないリーダーであった。批評家たちは、安倍元首相が若手に仕事を任せることに消極的なため、派閥が次世代のリーダーを育てることが難しくなっていると指摘する。その結果、派閥を統率するリーダー不在の状態に陥っている。

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日本政治の内幕

無名の松野博一が岸田総理の右腕になるまで(How unknown Hirokazu Matsuno became PM Kishida's right-hand man

-映画監督志望だった議員が今や日本の官僚を率いている。

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松野博一官房長官は、文部科学大臣としての唯一の政府トップの経験があり、自らを「右派でも左派でもない中立主義者(neither a rightist nor leftist, but a neutralist)」と表現している。

ミキ・オクヤマ筆

2021年12月29日

『アジア日経』紙

https://asia.nikkei.com/Politics/Inside-Japanese-politics/How-unknown-Hirokazu-Matsuno-became-PM-Kishida-s-right-hand-man

東京発。日本の岸田文雄首相が松野一博 (59歳) を官房長官に指名した時、そのニューズは政治評論家たちを驚かせ、「松野とは何者か」という疑問が急に起きた。

官僚統制の責任者である官房長官に指名されたのは、安倍晋三元首相が推す萩生田光一でも与党自民党の岸田派に属する小野寺五典元防衛相でもなかった。いずれも有力候補と目されていた。

松野は10月4日の岸田内閣発足後の記者会見で、政府広報のトップに任命された理由について問われ、「自分の能力で選ばれたとは思っていない」と答えた。

松野は自民党議員の中で最も教育政策に詳しい一人であり、安倍内閣での文部科学大臣のポストが唯一の大臣経験であった。「首相に迷惑をかけないようにしたい」と、安倍首相の後任首相となり、安倍政権の官房長官として並々ならぬ辣腕を振るった菅義偉とは明らかに異なる姿勢を見せた。

彼は自らを陣笠政治家(jingasa politician)と呼んでいる。陣笠とは、リーダーのために勢力を拡大しようと努力する派閥のメンバー政治家である。陣笠とは、戦国時代(1467-1568年)に、上級武士の「手足(hands and feet)」となって戦った兵士がかぶっていた兜(helmets)に由来する言葉である。

松野は千葉県木更津市に生まれた。カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドール(Palme d'Or)を2度受賞した今村昌平監督をはじめ、多くの映画人を輩出した東京の早稲田大学に入学し、映画監督になることを目指した。

しかし、早稲田大学を卒業した当時、映画界は大不況で、松野は就職が決まらず、日本の大手日用品メーカーであるライオンの広告宣伝部に就職した。「2時間の映画と30秒のCMの違いはありますが、同じ映像の仕事なので、とりあえず大丈夫だろうと思っていました」と当時を振り返っている。

松野はライオンでCMの企画、キャッチコピーの作成、CM撮影の準備などを行った。本社の商品企画課やテレビ局との交渉を通じて実社会について知ることができた。

松野がサラリーマン時代に身につけた原理こそは合理性だ。「私は、右翼でも左翼でもなく、中立主義者です。イデオロギーで人を判断しない」と語っている。

テレビCMで成功した松野はライオンから大学院への進学を勧められた。松下政経塾は、パナソニックの創業者である松下幸之助が、日本の将来を担うリーダーを育てようと設立した私立の教育機関で、多くの政治家たちを輩出することで知られている。

松野は自分のコンセプトによってCMを通じて人々の生活を少しでも変えることができたら面白いのだから、もっと大きなコンセプトで、政治を通して社会を良くする提案をしたらもっと面白いのではないかと考えるようになった。そこで、1995年に自民党千葉県支部の選挙候補者公募に応募した。

松野が日本の政界、国会議事堂や首相官邸がある東京都千代田区から永田町と呼ばれる、で注目を集め始めたのは、衆議院初当選から17年後の2017年、細田博之が率いた自民党派閥のトップをいつか務めると予想される4名の議員の1名として安倍元首相が指名してからだ。

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松野博一官房長官(左)は「総理に迷惑をかけないようにしたい」と述べ、安倍首相の後任として官房長官として並々ならぬ辣腕を振るった菅義偉とは明らかに異なる姿勢を示した。

安倍首相は下村博文(67歳)や稲田朋美(62歳)など、首相側近とされる派閥のメンバーと松野博一を同列に扱ったのである。安倍元首相が主宰する派閥の会合での発言に、永田町では「どうして松野なのか」という声がよく聞かれた。岸田氏が松野氏を官房長官に選んだことも同じ反応だった。

人気や出世に嫉妬する政治家たちが多い永田町では同僚から疑われないことが出世のポイントとなる。衆議院議員465名全員が総理大臣を目指すのが原則の中、松野は人知れずリーダーに向かう出世の階段を上っていた。

岸田もまた既に松野に注目していた。岸田派で20年以上にわたって岸田を首相にするために幹事長を務めた故望月義夫が松野との橋渡し役だった。

岸田が2017年に自民党政調会長に就任する時、松野を副会長に抜擢した。岸田は松野たち細田派、現在の安倍派のメンバーたちと親しくなり、時折、会食するようになった。

松野の出世の背景には派閥内での位置づけもある。派閥のルーツは安倍首相の祖父である岸信介元首相だが、結成したのは福田赳夫元首相である。そのため、安倍首相に近いメンバーと、細田のような自民党のベテラン議員を中心とした福田関係のメンバーに分かれている。この2つのグループはそれぞれ異なる政策ラインに属している。

松野は福田グループに属しながら、バランス感覚に優れ、派閥をまとめる幹事長に抜擢され、事実上、派閥をまとめる役割を担った。これは首相時代に派閥から離れた安倍首相が派閥復帰を進める上で無視できない、派閥内での一定の影響力を松野が持つことになった。

2021年9月の自民党総裁選では松野は岸田を支持した。安倍元首相は高市早苗(60歳)に派閥全体の支持を求めたが、細田ら多くのベテラン派閥議員は岸田側についた。安倍元首相は岸田に萩生田の官房長官就任を要請したが新総理の岸田は松野を選んだ。

松野は自民党内で急速に出世し岸田内閣の運営を任されることになった。

官房長官の松野博一は1日に2回記者会見を行う。その準備のために事務局のアシスタントが作成した概要書について地名の読み方など、記者からの質問に答える際に参考になることを質問するだけということも多い。

政界でと同じように官僚とも距離を置いている。「私の仕事は各省庁が働きやすい環境を作ること」と言い切っている。官房長官時代、菅元首相が個人的な権力を振りかざして官僚を恐れさせていたのとは対照的だ。

しかしながら、松野は2021年12月1日に開かれた政府のコロナウイルス対策本部で、新型コロナウイルスのオミクロン変異株の対応をめぐって国土交通省の職員に珍しく怒りをあらわにした。

11月末、国土交通省は国際航空各社に対し、日本に到着する全便の新規予約受付を一時的に停止するよう要請していた。この規制は日本人の帰国にも影響するもので、松野の認識より先に導入された。

松野は「正確に報告せよ! 多くの帰国者たちが影響を受けるんだぞ!」と関係者に怒鳴った。

安倍元首相は首相時代、菅官房長官(当時)を「武蔵坊弁慶」(主君の源義経を守るために自らを犠牲にしたことで知られる12世紀の武僧)と表現した。菅は官房長官として、安倍が不正な学校用地取引に関与したとされる森友学園のような個人的なスキャンダルでさえ、記者団の質問から安倍をかばった。

松野は岸田と安倍の両方に人脈があるという永田町では珍しい存在だ。その立場を生かし、官房長官としてどう動くのか、注目される。

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日本政治の内幕

木原誠二:日本の岸田文雄首相の裏にいる政策のグル(Seiji Kihara: The policy guru behind Japan Prime Minister Kishida

-マーガレット・サッチャーに触発されたが、岸田首相の子飼いは菅義偉からも手掛かりを得ている。

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木原誠二官房副長官は、元エリート官僚で政策に詳しいだけでは総理大臣になれないことをこれまでの自民党総裁選で学んだという。

リョー・ネモト(日経スタッフライター)

2022年1月15日

『アジア・ニッケイ』紙

https://asia.nikkei.com/Politics/Inside-Japanese-politics/Seiji-Kihara-The-policy-guru-behind-Japan-Prime-Minister-Kishida

東京発。衆議院議員選挙の5日前の2021年10月26日、岸田文雄首相は東京郊外の東村山にいた。岸田首相は最も子飼いの人物である木原誠二の応援に来ていた。「木原さんが選挙に当選できるようにお助けてください。私は誰よりも木原さんを信頼しています」。岸田は傍らにいる官房副長官を褒めながら、有権者に支持を呼びかけた。

岸田首相は、51歳のエリート官僚から弁護士に転身した木原を、自分の政治的成功に「不可欠な存在(indispensable)」と考えている。岸田の外相時代、木原は外務政務次官として岸田を支えた。岸田が自民党政調会長の時は、木原氏が政務調査会副会長兼事務局長としてついていた。

木原は銀行マンの家系出身である。父親は当時の東京銀行に勤務し、祖父と曾祖父も銀行員であった。弟の正博は、旧日本興業銀行に入り、最近みずほフィナンシャルグループの次期社長に就任した。「レールから外れたのは自分だけだった」と木原は語っている。

東京の名門私立である武蔵高等学校・中学校で、木原はテニスに打ち込んでいた。その後、東京大学でもテニスクラブのキャプテンを務めた。日本で最も名門大学である東大で指導者を経験したことによって、厳しく生き馬の目を抜く世界である日本政治の中枢である永田町で生き残るための基本的な法則を学んだ。それは、「一番苦労して、一番努力すること(being the hardest worker and making the most effort)」である。

彼は大学卒業後に大蔵省に勤務し始めた。これは1990年代前半に学生時代を過ごした木原たちのような名門大学出身者の間で人気の高いキャリアであった。しかし、1979年から1990年までイギリス首相を務めたマーガレット・サッチャーに触発され、そして実際に促されたことで、木原は政治のキャリアを追い求めることを決心した。

1999年、財務省は木原を2年間の期限でイギリス財務省に派遣した。英国滞在中、木原は日本とイギリスの官僚制度の違いについて研究しようとした。彼の研究の一環として、サッチャーにインタヴューする機会を得た。

インタヴューで、「鉄の女(Iron Lady)」サッチャーは木原に政治の世界に入るように促した。サッチャーは自身が女性でありながらも、熾烈な政治の世界に飛び込んでいったことを回想して木原に話した。彼女の言葉によって木原は奮い立った。

帰国後、木原は「政治家と官僚の関係が日本とイギリスでどのように違うか」という本を書いた。それが、大蔵官僚出身の宮沢喜一元首相の目に留まった。木原は、現在は岸田が率いている、宮沢が会長をしていた自民党の派閥「宏池会」に招かれた。同派閥の古賀誠元会長の呼びかけに応じ、木原は2005年の衆院選に出馬し、当選を果たした。

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木原誠二(右)9月に岸田文雄の政策設計者となった。岸田を首相にするための選挙戦の指揮を執った。

しかし、2009年、木原は再選に失敗し、政治家としてのキャリアは大きく後退した。「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちると無名になるとよく言われる(It is often said that while a monkey is still a monkey even if it falls from a tree, a politician becomes a nobody if he fails to be elected)」と木原は言い、選挙の重要性を強調する意味で日本の政治家の間でよく言われる格言を繰り返した。

「猿も木から落ちる」ということわざは、「ホメロスは時々うなずく」と同じような意味である。ギリシャの大作家ホメロスは叙事詩で知られるが、その詩は連続性に欠けることで知られる。

この時、木原に問われていたのは、いかにして足踏みを続けるかであった。「議員にならなくても、誰かにならなきゃいけないと思ったんです」と、選挙での敗北を振り返る。そして、ビジネスの世界に身を投じ、企業のヘッドハンティングを行うようになった。

2012年に衆議院議員に返り咲くまで、木原は企業のトップと、商品開発や海外進出の課題を話し合う日々を送った。そして、朝晩と土日は政治活動に専念していた。古賀の助言もあって、会議や集まりには必ず最後まで出席することにしていた。こうして、縁もゆかりもなかった選挙区に、確かな足場を築き上げたのである。

誠二における弱点を克服した木原は、議員に返り咲いた後に自民党の派閥に復帰し、岸田を将来総理大臣にするために奔走することになる。

昨年9月の自民党総裁選では、岸田が掲げた綱領の中心人物となり、介護職員の賃上げを検討する新組織などの重要な政策提言の指揮を執った。また、成長と分配の好循環を目指す「新しい資本主義」政策を打ち出した。木原は、岸田の与党内調整役でもあり、岸田氏の首相就任の行方を占う重要な役割を担っている。

先月、岸田外相を説得して、主要な景気刺激策である18歳以下の子供一人につき10万円(880ドル)の支給を見直させたのは木原だった。その半分が商品券の形で支給されることになっていた。しかし、多くの地方自治体が100%現金支給を要求し始めると、木原は首相にその要求に従うよう進言した。数日後の国会で、岸田は「自治体が決めるなら、全額現金支給でもいい」と言い出した。

木原は、オミクロンの世界展開が始まると同時に、「岸田は自民党総裁選の公約である『最悪の事態に備える』を実行する時が来た」と首相にショートメッセージを送った。その直後、岸田は外国人の新規入国を原則禁止することを決定した。

木原は「私の責任は、自民党総裁選中の岸田の政策提言が政府によって実現されるように見届けることだ」と述べた。

宮沢以前、自民党の公明党は池田勇人、大平正芳という大蔵省官僚出身の総理大臣を2人輩出している。しかし、岸田誕生の前に行われた2回の自民党総裁選で、木原は「政策通の元エリート官僚では総裁にはなれない」ことを思い知らされた。

2020年9月、自民党総裁選で岸田が菅義偉に惨敗した直後、木原は安倍晋三元首相の側近で現在は経済産業相の萩生田光一に激励された。萩生田は、「岸田先生は何度も電話をかけてきてくれたが、あなたは一度も電話をかけてこなかった」と言った。萩生田は、木原が岸田を首相にするための根回しを十分にしなかったことを暗に示していたのである。

2021年8月25日、当時の菅首相が自民党総裁選に再出馬するとの観測が広まった時、木原は岸田に出馬を止めた。「勝てる見込みがない時は、たとえ周囲から迫られても出てはいけない」と木原は言った。しかし、岸田はこの選挙を自分の政治家人生の勝負どころだと考え、忠告に従わなかった。

翌日、岸田が出馬を表明した時、木原は自分には将来総理になるために必要な執念が足りないのではないかと考えざるを得なかった。

そして、2020年9月、菅義偉が71歳で総理大臣になった時、木原は自分の政治的野望はどうだろうかと考えた。菅総理は、「21年かけて頑張れば、自分にもチャンスがある」ことを教えてくれたと木原は語っている。

菅義偉と木原誠二には共通点がある。どちらも自民党の重要政治家とは見なされておらず、政治的な血統もなく、代表を務める衆議院の選挙区とのつながりも希薄だ。

岸田は木原に、自民党内の権力闘争が起きたら、自分を支えてくれるように頼んでいる。木原は最近、自分がもっと強い政治家になるためにはどうしたらいいかをよく考えている。「菅さんは安倍政権に忠誠を誓い支え続けたことで、トップに登り詰めた。当分は岸田首相の補佐として良い仕事をすることに専念したほうがいいのかもしれない」と語っている。

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