古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:民主化

 古村治彦です。

 ロシアによるウクライナ侵攻発生以降の西側諸国の右往左往ぶりには辟易する。対ロシア制裁でロシアを締め上げて、ロシア軍を敗北させるぞと意気込んでみたものの、ロシアのウラジミール・プーティン大統領が核兵器を使用するかもしれないという考えにブルってしまい、急にトーンダウンしてしまっている。ロシア軍が敗北するということはプーティン大統領にとっては大打撃であって、失脚することになる。そうなればロシアの政治体制が大きく変更されるなどと言うことは誰でも予想できることで、そこまで見越して対ロシア制裁をやっているのかと思えば、ロシアの政治体制変更は困るという訳の分からない対応になる。ロシアに西洋流の民主政治体制を構築することはアメリカのネオコンや人道的介入主義派の願いである。その通りになりつつあるが、彼らの危険性に今頃になって気づきましたでは笑止千万、話にならない。勢い込んでロシア制裁をやって団結して頑張りましょう!とお調子者がやってみたら、はっと気づいたら世界大戦の危機になっていました、である。馬鹿じゃないの、の一言だ。小林信彦だったか、太平洋戦争末期、空襲で焼け野が原になった日本国内、特に東京で流行した言葉に「みっともなくってしゃーねーな(みったしゃねー)」というものがあったと書いていた記憶がある。まさに「みっともなくてしゃーねーな」だ。

 レジーム・チェンジ(regime change)という言葉が使われているが、ここが日本語のいい加減なところ(良い意味でも悪い意味でも)と言うべきか、「体制転換」と「政権交代」の2つの訳し方がある。政権が交代することはトランジション(transition)という言葉が使われることが多く、レジーム・チェンジは体制転換が主な意味である。比較政治学の世界、特に最近では、体制転換とは多くの場合、非民主的な体制から民主的な体制に転換するということを意味する。民主化(democratization)という言葉にもなる。民主化には、「非民主政治体制の崩壊(breakdown of nondemocracies)」、「民主政治への意向(democratic transition)、「民主政治の確立(democratic consolidation)」という段階を踏む。

 サミュエル・ハンチントンは『第三の波―20世紀後半の民主化』(原著1991年、翻訳1995年)という著書の中で、世界規模で見ると、世界はこれまで民主化の波(wave of democratization)と民主化の引き波(reverse wave of democratization)を繰り返しており、1974年のスペインとポルトガルでの民主化から第三の民主化の波が始まったとしている。民主化は多くの場合、その国の国民の自発的な動きという装いがなされるが、多くの場合、外国、特にアメリカの介入によって引き起こされている。

 こうした内容は拙著『アメリカ政治の秘密』で説明した。このブログを読んでいる皆さんが私の本に全く興味を持っていないということはよく分かっているので、内容をかいつまんで書いた。愚痴を言うと、まぁこれだけ情報や分析を書いても私の本の売上にはつながらない(アマゾンでの順位を見る限り)というのは、よほどケチで情報をただ見して恬として恥じない方が読んで下さっているんだろうことが分かる。考えや感性は人それぞれなのでそれはそれで構わないが、自分がやっていることとは何なのか、徒労感がおおきくなっている。全部は自己満足であり、ただ書いておきたいということでもあるのだが。以上、愚痴でした。

 噺を戻すと、ジョー・バイデンの外交音痴ぶりと頭の悪さにも驚かされる。あれだけの政治経験があり、連邦上院議員時代には外交委員長も務めたはずなのに、言葉が軽く、非常にハラハラさせられる。アメリカの終わりの始まりを象徴するにはこれ以上ないじんぶつではあるが。

(貼り付けはじめ)

●「バイデン米大統領、プーチン氏巡る発言で釈明-同盟国からも苦言」

3/28() 7:25配信

Bloomberg

https://news.yahoo.co.jp/articles/b95b0090081cc6feaaaed6a3b861ae53580f4357?page=2

バイデン氏は、インフレ高進、ガソリン価格急騰、経済アジェンダの議会での行き詰まりなど、11月の中間選挙を前に国内の課題が山積している。そうした中で危険を招きかねないプーチン大統領との対立をさらにあおることはリスクを伴う。

バイデン氏の発言に対するロシア大統領府の公のコメントはほとんど出ていない。ただ、米国と同盟国はウクライナ侵攻をやめさせるだけではなく、プーチン政権の排除も目指しているとするロシア側の主張を後押ししかねないと、欧州の同盟国は警告した。

マクロン仏大統領は「言葉や行動で事態をエスカレートさせるべきではない」とフランスのテレビで発言。ザハウィ英教育相も、プーチン氏の将来は「ロシア国民が決めることだ」と述べた。

米外交問題評議会(CFR)のリチャード・ハース会長はツイッター投稿で、バイデン氏の発言が「難しい状況をさらに難しくし、危険な状況をさらに危険にした」と指摘。大統領はダメージの修復に動く必要があると述べた。

NBCニュースの世論調査によると、バイデン氏の支持率は欧州訪問前に過去最低の40%に低下。ウクライナ情勢に対するバイデン氏の対応を大いに信頼すると回答したのは12%にとどまった。80%余りはウクライナでの戦争が核兵器の使用につながるのではないかと心配しており、74%は米国がウクライナに戦闘部隊を派遣する可能性を懸念している。調査は成人1000人を対象に1822日に行われ、誤差率はプラスマイナス3.1ポイント。

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●「演説草稿になかった「権力の座に」発言 直後に波紋、軌道修正の実情」

3/27() 8:32配信

朝日新聞デジタル

https://news.yahoo.co.jp/articles/0950b1dcba7ce624c251e773770a5959b031d6e4

 ロシアのウクライナ侵攻をめぐり、バイデン米大統領は26日、訪問先のポーランドの首都ワルシャワで演説した。バイデン氏は「非難されるべき人物は、ウラジーミル・プーチンだ」などとロシアのプーチン大統領を厳しく批判したうえで、「この男が権力の座にとどまり続けてはいけない」と語った。

 バイデン氏は演説で、「帝国を再建しようと決心している独裁者であっても、人々の自由に対する愛を消し去ることは決してできない。ウクライナはロシアに絶対に敗北しない」と強調。「我々には民主主義に根差した明るい未来がある」と述べたうえで、プーチン氏について「権力の座にとどまり続けてはいけない」と語気を強めた。

 バイデン氏のこの発言は、米政権がプーチン政権の体制転換を目指しているとも受け取られかねず、演説直後から波紋が広がった。ロシアのペスコフ大統領報道官は、ロイター通信の取材に対し、プーチン氏が権力の座にとどまり続けるかどうかについては「バイデン氏が決めることではない。ロシア大統領はロシア人によって選ばれる」と反発した。

■「第3次世界大戦を招きかねない」

 米政権はウクライナを軍事支援しているものの、ロシアと直接対峙(たいじ)すれば第3次世界大戦が起きかねないとして米軍をウクライナに派遣していない。プーチン政権の体制転換も目指していないのが実情だ。

 波紋を広げた演説の直後、米ホワイトハウス当局者は声明を発表し、「バイデン氏の論点は、『プーチン氏は彼の隣国や地域で権力を行使することは許されていない』という点だった。バイデン氏は、プーチン氏の権力や体制転換について話していない」と軌道修正を図った。

 米メディアによると、バイデン氏の「この男が権力の座にとどまり続けてはいけない」という発言は、事前に用意されていた演説草稿にはなかったという。バイデン氏が故意で発言したのか、失言したのかは不明だが、ロシア側に「米政権はロシアの体制転換を図っている」という口実を与え、今後政治利用される恐れがある。

 バイデン氏は最近、プーチン氏への非難を強めており、「人殺しの独裁者」「悪党」「戦争犯罪人」と発言している。26日の演説に先立ち、ウクライナから逃れた難民たちが滞在しているワルシャワ国立競技場を訪問した際も、プーチン氏を「虐殺者(butcher)だ」と非難した。

(貼り付け終わり)

(終わり)


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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 今年に入り、ミャンマーで国軍がクーデターを起こし、軍事政権の力が強化された。一時は民主化が進むと思われていたが、これではまた昔に逆戻りではないかという失望感が広がった。「せっかく民主化ができたはずなのに」というところだ。

 民主化とは難しいプロセスだ。民主化(democratization)にとって恐らく一番難しい作業は、民主的な制度の確立・強化(consolidation)だ。人々が選挙などの民主的な制度だけが正当性のある制度であると認めること(only game in town)ということにならねばならない。ここがなかなか難しい。特に外国からの介入で行われた民主化は人々の支持を集めにくいために難しくなる。民主化については、拙著『アメリカ政治の秘密 日本人が知らない世界支配の構造』を読んでいただきたい。

 ミャンマーの民主化にとっての最大最高の象徴はアウンサンスーチー女史だ。アウンサンスーチーがまとうイメージは最高のものであり、ノーベル平和賞まで受賞した。更には、2011年にはヒラリー・クリントン国務長官がミャンマーを訪問し、アウンサンスーチーと会談を持ち、2012年にはバラク・オバマ大統領がミャンマーを訪問し、同じくアウンサンスーチーと会談を持った。この頃が彼女にとっての最高の時期であっただろう。 

 その後は、ミャンマーの少数民族ロヒンギャ族に対する弾圧で、ミャンマー国軍を擁護したことで、アウンサンスーチーの評価はがた落ちとなった。彼女また、薄汚れた政治家でしかなかったことが明らかにされた。それと共に、アウンサンスーチーは忘れられた存在となってしまった。

 今年初めのミャンマー国軍によるクーデターは米中の影響権争いの一環であり、ミャンマー国軍は中国側についたということになるだろう。以下に最近の報道記事を貼り付ける。

(貼り付けはじめ)

●「中国、先月ミャンマーに特使派遣 軍トップらと会談」

202191 14:15 

https://www.afpbb.com/articles/-/3364250

91 AFP】中国政府は831日、孫国祥(Sun Guoxiang)アジア問題担当特使が1週間の日程でミャンマーを訪問していたと発表した。同氏の訪問はこれまで公表されておらず、訪問中には軍事政権トップのミン・アウン・フライン(Min Aung Hlaing)国軍総司令官ら幹部たちと協議を行った。

 ミャンマーは今年2月、国軍がクーデターでアウン・サン・スー・チー(Aung San Suu Kyi)国家顧問を拘束し、同氏が率いる国民民主連盟(NLD)から政権を奪取して以来、武力行使による反体制派弾圧が行われるなど政治的混乱に陥っている。

 弾圧を阻止するための国際社会の取り組みは実を結んでいない。欧州連合(EU)は、ミャンマー軍部と同盟関係にあるロシアと中国が、国連安全保障理事会(UN Security Council)でのミャンマーに対する武器禁輸決議の可決を阻止していると非難している。

 在ミャンマー中国大使館の発表によると、孫氏は先月21日から28日までミャンマーを訪問。ミン・アウン・フライン国軍総司令官と会談し、ミャンマーの政治情勢について「意見交換した」。

 孫氏は以前、ミャンマー軍と多数の民族集団間で行われた和平交渉の調整役となった経験がある。中国は、一部の民族集団と同盟関係を築いているとアナリストは指摘している。

 中国は発表で、「社会的安定を回復し、早期に民主的変革を再開しようとするミャンマーの取り組みを支持する」としている。ただし、追放後も自らの政権の正当性を主張するNLDの元閣僚らとの会談については一切触れなかった。

 ミャンマーに多大な影響力を持つ中国は、軍部の行動をクーデターとみなしていない。また、ミャンマーは、中国の巨大経済圏構想「一帯一路(Belt and Road)」の重要な構成国の一つとなっている。

 中国の習近平(Xi Jinping)国家主席は昨年ミャンマーを訪問した際、「ミャンマーの国情に合った」発展の道を歩めるよう支援すると約束した。

 中国国営メディアは先月31日、中国南西部からミャンマー経由でインド洋に至る新たな海運・道路・鉄道ルートの貨物の試験輸送が成功したと報じた。(c)AFP

(貼り付け終わり)

 ミャンマーは一帯一路計画でインド洋に向かうために重要な位置にある。一帯一路計画については、米中関係の最前線としての分析は、拙著『悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める』で説明している。是非読んでいただきたい。

 ミャンマーのクーデターから分かることは、アメリカの影響圏の衰退と中国の影響圏の拡大、一帯一路計画の足固めが進んでいるということだ。これからは、アメリカの衰退ということを頭に入れて物事を見るようにしなければならない。

(貼り付けはじめ)

誰がミャンマーを失ったのか?(Who Lost Myanmar?

-政権発足後初めての大きな危機に直面し、バイデン政権は10年前とほぼ同じメンバーが集まってアメリカ外交の失敗に対峙しなければならない。

マイケル・ハーシュ筆

2021年2月2日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2021/02/02/myanmar-coup-us-failure-biden/

ヒラリー・クリントンにとって、2011年のアウンサンスーチーとの会談は国務長官としての職業上の大勝利と個人としての喜びの最高潮の瞬間だった。

当時、米国務長官だったヒラリー・クリントンはミャンマーの首都ヤンゴンを訪問し、ヒラリー自身が「鼓舞してくれる存在」と呼んだ女性の隣に座った。この訪問は、長く孤立状態にあったミャンマーをはじめとする中国の周辺諸国と中国との間を分裂させようとするアメリカのより広範な戦略の一部であった。この戦略はオバマ政権のアジアへの「ピヴォット」の一環であった。国務長官在任中、ヒラリー・クリントンは厳しい調子の演説や「ソフト」な外交以上の成果を上げられなかったが、ミャンマーとの関係改善は珍しく外交上の勝利となった。それから1年後、バラク・オバマは現職のアメリカ大統領として初めてミャンマーを訪問した。その表向きの目的は民主政治を促進することであったが、実際には、ミャンマーをアメリカの影響圏(sphere of influence)に置くというものだった。

10年後、この戦略は消え去った。ノーベル平和賞を受賞した民主活動家アウンサンスーチーはヒラリーを迎え、その後は国家の運営にも参画したが、現在は囚われの身に再び戻ってしまった。それは月曜日にミャンマーの軍部が再びクーデターを起こしたからだ。ミャンマーでは民主政治体制が確立していない。外交面でも進捗はほとんど見られない。アウンサンスーチーとアメリカ政府はすっかり疎遠になってしまっていた。アウンサンスーチーの逮捕の1週間前、バイデン政権は彼女が逮捕されてしまうのではないかという懸念から、アウンサンスーチーに連絡を取ろうとして失敗してしまった。

アメリカの戦略が失敗すれば、アウンサンスーチーの評価も下がってしまうのは当然だ。西側諸国の多くの人々は彼女の釈放を求めているが、アウンサンスーチーはかつてのようなヒロインでもないし、人権保護にとってのスターでもない。アウンサンスーチーは、マイノリティのロヒンギャ族のイスラム教に対するミャンマー国軍の虐殺について、冷血な態度で同意を与えた。これによって世界中で持たれていた彼女のイメージは悪化した。民主化運動家の中からはノルウェー政府に対して彼女へ授与されたノーベル平和賞のはく奪を求める嘆願書が届けられたほどだった。かつては海外からミャンマーへの人権保護の圧力の力を一身に集めていたアウンサンスーチーも、国際的に孤立している状況となった。

今回のクーデターによってミャンマーは30年前に戻ってしまったようだ。今回のクーデターによってもたらされた、21世紀における苦い教訓は、民主政治体制確立の難しさと権威主義(authoritarianism)の権力掌握、そしてこれら2つの間を橋渡しする外交の限界ということであった。

アメリカを含む西洋諸国のほとんどはミャンマーの軍事行動を非難した。中国をはじめとする権威主義体制国家のほとんどは非難しなかった。中国政府は長年にわたり、東南アジアにおける従属国(client states)づくりを進めるアメリカの政策に抵抗してきた。中国政府はクーデターを「内閣改造(cabinet reshuffle)」と呼んだ。先月、中国政府の外交官トップである王毅外交部長はミャンマーを訪問し、アウンサンスーチーの難敵である軍最高司令官ミン・アウン・フライン(Min Aung Hlaing)と会談を持った。ミン・アウン・フラインは今週、ミャンマーの支配者となった。

ジョー・バイデン米大統領の外交政策ティームはミャンマーの挑戦についてよく知っている。なぜならティームのメンバーの多くはミャンマーの挑戦が始まった時点で政府に入っていたからだ。国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めるジェイク・サリヴァンは2011年当時、ヒラリー・クリントン国務長官の次席補佐官を務めた。また、国務省政策企画本部長を務めた。バイデン政権で国家安全保障会議のメンバーに入ったカート・キャンベルはヒラリー・クリントン国務長官の下で、国務省のアジア政策担当のトップを務めた。そして、新しい戦略を統合する重要な役割を果たした。

しかし、10年前の状況とは異なり、バイデン政権の外交政策ティームは、トランプがバイデンの大統領選挙での大勝利を貶めようと試みたことについての奇妙な反響に対応しなければならなくなっている。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(National League for DemocracyNLD)は、2020年の選挙で、2015年の選挙よりも、より多くの議席を獲得した。その後、ミャンマー軍部はトランプと同様、証拠を提示することなく、選挙不正を宣言した。そして、ミャンマー軍部はアウンサンスーチーを逮捕した。

善かれ悪しかれ、2011年とは異なり、現在のアメリカにアウンサンスーチーが持つアピール力に匹敵する力はない。ミャンマーが民主政治体制への移行を始めた時、ミャンマー国内でのアウンサンスーチーの高い人気は軍事政権(military junta)にとって長期的な脅威であった。アメリカの外交官たちはこのことに気付いており、経済制裁の解除には、自由で公正な選挙の実施を条件に入れようとした。アウンサンスーチーもそうであったと報道されているが、ヒラリー・クリントンも軍事政権側と良好な関係を築こうという熱意を持っており、国連主導の戦争犯罪捜査の要求を取り下げ、即座に援助を提供し、軍事政権による選挙管理を容認した。

アメリカのミャンマーへの関与のペースと範囲はアウンサンスーチーによって動かされてきたということになる。2011年のBBCとのインタヴューの中で、ヒラリー・クリントンは、譲歩し過ぎではないかと質問された。それに対して、ヒラリーは、アメリカ政府はアウンサンスーチーの同意に依存していると答え、「アウンサンスーチーの観点からすると、政治プロセスを検証することが重要だということになる」と述べた。

オバマ政権内で経済制裁緩和について白熱した議論が数度にわたり行われたが、制裁は継続した。2016年にオバマはミャンマーに対する制裁の終了を約束した、また、「ビルマの人々がビジネスの方法と統治の方法を新しくすることで褒章を得ることができるのだと確信するように行動することは正しいことなのだ」と宣言した。アウンサンスーチーは制裁解除を認めた。アウンサンスーチーは 「私たちを経済面で苦しめてきた制裁全てを解除する時期が来たと私たちは考えている」と述べ、これによって、ミャンマーがアメリカの示す民主政治体制に向けたロードマップ通りに進まないにしても、外国企業はミャンマーに投資が可能となるとした。2015年に彼女が率いる国民民主連盟が総選挙で勝利を収めた後(それでも国会の議席の4分の1は軍部のために確保されていたが)、大統領就任は拒絶された。その理由は彼女が外国人と結婚し、子供たちが外国籍だったことだ。

バイデン政権はサイクル全体を再びスタートさせる準備ができているようになっている。ホワイトハウス報道官ジェン・サキは制裁の緩和を「元に戻す」と発言している。これはつまり、新しい制裁が実施されることを示唆している。しかし、バイデン政権は最初に、軍部による政権掌握をクーデターと呼ぶことについて一時しのぎを行った、と報道された。

また、以前の方法が実行された実績があるからと言って、その古い方法が再び効果を発揮するかどうかは明確ではない。アメリカと複数の西洋諸国は数十年にわたりミャンマーに制裁を科してきたが、民主政治体制に向けてほとんど進んでいないのが現状だ。オバマ政権のアプローチを擁護している人々は次のように主張している。バイデン政権の外交ティームの中にはがオバマ政権の外交ティームに参加した人物たちがいるのは事実だが、トランプ政権下の4年間で、世界中野独裁者の力が強まり、外交がより困難になっているのが現状であり、アウンサンスーチーが権力を民主的な方法で獲得しようとする努力がより見えにくくなっている。

しかし、アウンサンスーチーが過去そうであったように、解決策になるのかどうか明確ではない。ミャンマーの専門家の中には、彼女のミャンマー国内での人気は確かであるが、彼女自身が自分の政治的な強さを過大評価し、軍事政権、特に新しい支配者ミン・アウン・フラインに対して過大な要求をしているようだと考えている人々がいる。

ジョージ・ワシントン大学のミャンマー専門家クリスティナ・フィンクは「アウンサンスーチーが軍事政権とある程度の妥協をしていればクーデターを避けることができただろうと私は考えている」と語っている。ミン・アウン・フラインを軍最高司令官、もしくは名目上の大統領に留まることを認めていれば、クーデターは起きなかっただろうということだ。フィンクは「しかし、NLDは交渉をしたいとは考えなかった」と述べている。

他の専門家たちは、アウンサンスーチーは良い結果を得られない無謀な戦いを挑んだと述べている。ロバート・リーバーマンはコーネル大学物理学教授で、映画監督、2011年に「人々はそれをミャンマーと呼ぶ:カーテンを開ける」という映画を撮影した。また、NLDの指導者たちに幅広くインタヴューを行った。リーバーマンは次のように語った。「人々はアウンサンスーチーについて実際の彼女とは違う、あるイメージを常に持っている。彼女はいつも“私は政治家で、それ以上のものではない”と語っている。彼女には選択肢がない。常に細い綱を綱渡りで渡っている。軍部と世界との間でバランスを保っているのだ」。

アウンサンスーチーが2019年に国連国際司法裁判所の証人喚問でロヒンギャ族に対するミャンマー国軍の残虐行為を隠蔽しようとした後、世界中がアウンサンスーチーを玉座に据えておくことを止めてしまったのだ。

新しい軍事政権(junta)は現在、かつては祭り上げられていた反対運動の支援者だった人々からの批判が少ないことと、トランプ政権下で4年間にわたり世界の権威主義的政府が力をつけることを奨励されてきたという居心地の良さに期待をかけている。バイデン政権の外交ティームはかつて、ミャンマーの頭の固い将軍たちを懐柔しようとした。しかし、かつてに比べて、ミャンマーに変革をもたらすための道具の数は少なくなっている。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 

 南米大陸の北に位置するヴェネズエラは、ウーゴ・チャベス前大統領から引き継いだニコラス・マドゥロ現大統領が反米路線、社会主義を前政権に引き続いて採用しています。ヴェネズエラは豊富な石油埋蔵量に恵まれていますが、現在は経済状態が悪く、チャベス政権から続く路線に対する批判が国内にもあります。


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ニコラス・マドゥロ

 

 アメリカの一部、共和党内のネオコン派と民主党内の人道的介入主義派としては、チャベス政権以来、ヴェネズエラの独裁政権を転覆させたい、というのが悲願になっています。自分たちの裏庭である中南米で、アメリカに逆らう、社会主義政権(これを独裁政権とレッテル貼りしています)を打倒したい、ということになります。


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フアン・グアイド

 

 ヴェネズエラでは反体制派の指導者であるフアン・グアイド(アメリカのワシントンDCにあるジョージワシントン大学卒業)が暫定大統領である、とアメリカをはじめ先進諸国が認め、分裂状態になっています。これは、アメリカお得意の「民主化(democratization)」「政権、政体の変更(regime change)」であり、「非民主的な政権の打倒(breakdown of nondemocratic regime)」から「民主政治への移行(democratic transition)」です。



 

 マドゥロ大統領はアメリカのABCテレビとの単独インタヴューに応じ、その中で、「トランプ大統領を取り巻いて助言をしている中に悪い人間たちがいる」と述べ、4名の名前を挙げました。ジョン・ボルトン国家安全保障問題担当大統領補佐官、エリオット・エイブラムス国務省ヴェネズエラ問題担当特別代表、マイク・ポンぺオ国務長官、マイク・ペンス副大統領です。この4人組はネオコン派です。

 

 マドゥロ大統領は、トランプ大統領を非難するのではなく、トランプ大統領の周りにいるネオコン派が悪いのだ(彼らを周囲に置くという決定はトランプ大統領がしているのですが)、ということで、トランプ大統領と彼を選んだアメリカ国民を責めてはいないという論法です。

 

 トランプ大統領は政府機能一時閉鎖、それを引き起こした国境の壁建設予算要求、一般教書演説の遅れての実施、更には国家非常事態宣言、ロシアゲート疑惑と国内では厳しい問題を抱えています。そこで外交に目を向け、そこで得点をすると考えるのは自然です。

 

 しかし、北朝鮮との非核化交渉は進展せず、中国との貿易交渉もうまくいかない(期限を延長しました)、となると、ヴェネズエラ問題は超党派で支持を得やすい問題となります。

 

 ボルトンは記者たちの取材を受ける際に、わざとらくしメモパッドに「ヴェネズエラにアメリカ軍5000名を送る」と書いて、それを写真に撮影させました。そうやって脅しをかけています。

 

 ヴェネズエラでマドゥロ大統領を追い落とし、アメリカの息がかかったグアイドを大統領に据えて、親米国にしてしまう、というのは甘美なシナリオに見えるでしょう。しかし、アラブの春の失敗、イラクやアフガニスタンでの状況などを批判して大統領になったトランプ大統領が、このシナリオに乗ってヴェネズエラに介入するのは危険であり、アメリカとヴェネズエラにとって不幸です。

 

(貼り付けはじめ)

 

ヴェネズエラのマドゥロ大統領は、トランプ大統領を取り巻く「悪い」人々を恐れていると発言(Venezuela's Maduro says he fears 'bad' people around Trump

 

タル・アクセルロッド筆

2019年2月26日

『ザ・ヒル』誌

https://thehill.com/latino/431751-venezuelas-maduro-says-he-fears-bad-people-around-trump

 

ヴェネズエラ大統領ニコラス・マドゥロは、トランプ大統領は「悪い」政治高官たちに取り囲まれている、この人物たちがヴェネズエラ国内の政治上、人道上の危機が起きている間に、トランプ大統領に助言を行っている、と発言した。

 

マドゥロはABCとの独占インタヴューの中で、「私は彼の周囲にいる人々に危険を感じている」と述べた。

 

マドゥロは次のように述べた。「トランプ大統領を取り巻きヴェネズエラ政治について彼に助言を行っているこれらの人々は悪い人間たちだと思う。トランプ大統領は“待て待て、ヴェネズエラの立場に立って何が起きているかを見守らねばならない”と注意をしなければならない。そして彼の政治姿勢を変更しなければならない」。

 

トランプ政権は、マドゥロを辞任させ、アメリカとその他の大国がヴェネズエラの暫定大統領として認めた反対勢力の指導者フアン・グアイドに権力を掌握させるために経済制裁を強めた。マドゥロの発言はこのアメリカ政府の決定の翌日に行われた。今年初め、マドゥロは第2期目の大統領(任期は6年間)就任の宣誓を行ったが、アメリカはマドゥロが当選した選挙結果は正当ではない、無効だと宣言した。

 

路上における暴力的なデモに発展したヴェネズエラの指導者の地位をめぐる戦いについて、ホワイトハウスは平和的な解決を求めた。しかしながら、トランプ大統領はマドゥロを権力の座から追放するために軍事力を行使するという手段を選択肢から除外していない。

 

マドゥロは、トランプ政権の幹部たちの名前を挙げ、この人々がトランプ大統領に誤った助言を行っていると非難した。マドゥロは国家安全保障問題担当大統領補佐官ジョン・ボルトン、国務省のヴェネズエラ問題のキーパーソン(訳者註:ヴェネズエラ問題担当特別代表)であるエリオット・エイブラムス、前CIA長官で現在は国務長官を務めるマイク・ポンぺオ、副大統領マイク・ペンスの名前を挙げた。

 

「ジョン・ボルトンは過激派で冷戦の専門家だ。エリオット・エイブラムスは嘘つきで中央アメリカと世界を舞台にして武器と麻薬の密輸を行い、アメリカに戦争をもたらした。私はマイク・ポンぺオを恐れている。CIAの工作員で、冷戦時代から続く伝統的な諜報活動のやり方を時代遅れのものにした。私はマイク・ペンスを恐れている。世界政治の何たるかを知らず、ラテンアメリカ政治について全くの無知だ」。

 

マドゥロは辞任する意思など全くないとし、自分はヴェネズエラ軍を監督下に置いていると述べた。軍隊の掌握は指導者の地位をめぐる戦いにとって重要な要素となる。国際社会との関係断絶の規模が拡大する中で、ヴェネズエラ国内で正式に指導者の地位を守るためには軍隊の掌握が不可欠となる。

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)



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 古村治彦です。

 

 ジョージ・ソロスがダヴォス会議で、トランプ大統領とインターネット業界の大企業フェイスブック、グーグル、ツイッターを攻撃したということです。盗人猛々しいとはまさにこのことです。ソロスのためにある言葉です。

 

 ソロスがトランプ大統領を攻撃するのは分かります。ソロスのようなグローバリストからすればトランプのようなポピュリストは自分にとっての大きな脅威になります。トランプは世界のことなどどうでもいい、と考えています。「アメリカ・ファースト」「アイソレーショニズム」ということを簡単に言ってしまえばそうなります。

 

 興味深いのは、ジョージ・ソロスがツイッターやフェイスブック、グーグルに対して、「情報の流れを独占しているのだから、もうインフラのようなものだ。それならばより厳しい規制をかけるべきだ」と発言したことです。2016年の米大統領選挙で「フェイクニュース」がこうしたSNSで拡散されて、ヒラリーが負けたと言いたいのでしょう。ロシア政府の介入もあったということも言いたいのでしょう。

 

 拙著『アメリカ政治の秘密』でも書きましたが、2011年のアラブの春では、「民主化」のために、フェイスブックやツイッター、グーグルが利用されました。アラブ諸国で起きた民主化運動の主体となった「若者たちの反体制グループ」がアメリカ国務省で研修を受けていたり、資金援助を受けていた李ということはあまり知られていません。下の記事に出てくるソロスの財団オープン・ソサエティ財団もこうした団体に資金援助を行っていました。

 

 民主化と言えば素晴らしい活動、文句も言えない活動です。しかし、実態は、各国を強制的に民主国家にする、資本主義自由経済を導入させて、ソロスたちのような大富豪たちの投資先を作る、莫大な利益を上げるということでしかありません。

 

 そのためにツイッターやフェイスブックを利用してきたくせに、それに文句をつける、規制をしろなどというのはおかしな話です。自分は市場で規制などされずに金儲けをしているくせに、他人は規制しろなどと言うのは狂っているとしか言いようがありません。

 

(貼り付けはじめ)

 

ダヴォスにおけるジョージ・ソロス:トランプは「世界にとって危険」(George Soros at Davos: Trump 'a danger to the world'

 

ブレット・サミュエルズ筆

2018年1月25日

『ザ・ヒル』誌

http://thehill.com/policy/technology/370757-soros-calls-for-stricter-regulations-on-facebook-google

 

大富豪で、民主党に莫大な献金を続けているジョージ・ソロスは木曜日、スイスのダヴォスで開催されている世界経済フォーラムに出席し、トランプ大統領とテクノロジー産業の大企業を攻撃した。

 

『ブルームバーグ』誌によると、ソロスは次のように発言した。「私はトランプ政権が世界にとって危険だと考えている。しかし、トランプ政権などというものは一時的な現象に過ぎず、2020年には、もしくはそれよりも早い段階で消えてなくなっているだろうとも考えている」。

 

ソロスは続けて次のように述べた。「私は、トランプ大統領が彼の熱心な支持者たちをうまく動員したことに関しては評価している。しかし、熱心な支持者を1人生み出しても、それよりも数の多い熱心な反対者を生み出す結果となっている。反対者たちは賛成者たちと同じ程度に動かされる。私は2018年の中間選挙で民主党が地滑り的大勝利をすると予測している理由はこれだ」。

 

『バズフィード』誌によると、ソロスは気候変動は文明に対する脅威だと述べた。また、特にフェイスブックとグーグルの名前を挙げて、これらに対してより厳しい規制を求めた。

 

ソロスは次のように語った。「フェイスブックやグーグルは、自分たちはただ情報を配っているだけに過ぎないと主張している。しかし、事実としては、彼らはほぼ独占的な情報の分配者となっている。彼らは公共のインフラのようになっている。彼らはより厳しい規制の下に置かれるべきだ。それは、競争、技術革新、公平で開かれた誰でも情報にアクセスできる状態を維持するために必要なことだ」。

 

フェイスブック、グーグル、ツイッターは2016年の大統領選挙後に、それぞれのプラットフォームでフェイクニュースが垂れ流された、プロパガンダに利用されたとして批判にさらされてきた。

 

それぞれの代表者は昨年末、米議会に呼びだされ、ロシア政府がアメリカ大統領選挙に介入するためにこれらのプラットフォームをどのように利用したかについて証言した。

 

木曜日、ソロスは、フェイスブックやグーグルは、中国のような権威主義体制諸国と妥協して、情報に関しての全面的なコントロールに協力していると述べた。

 

ソロスはリベラル派の大口献金者として有名だ。ソロスはオープン・ソサエティ財団を通じて世界中の進歩派の非営利団体に資金援助をしている。

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)







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 古村治彦です。

 

 今回は1970年代以降の「民主化」の動きを時系列的にまとめた記事をご紹介します。この記事で書かれている「第三の波」とは、政治学者の故サミュエル・ハンティントンが唱えた考え方で、世界の民主化の流れは、第一の波、第一の逆の波、第二の波、第二の逆の波と来て、1970年代から第三の波が起きて世界各地で民主化が進んだというものです。

 

 この記事の著者のラリー・ダイアモンドは、民主政治体制や民主化を専門に研究している政治学者で、スタンフォード大学フーヴァー研究所の上席研究員を務めています。そして、アメリカ政府が行っている世界各地の民主化プログラムにも参加している人物で、私の予想では、ヒラリー・クリントンが大統領になった場合には、政府内である程度の高い職分に招聘されるのではないかと思われます。

 

 ここに挙げた民主化の事例の多くに実はアメリカが大きく関わっている、もしくは介入しているという事実を考えると、ダイアモンドがシナリオを書いた「舞台」がこの中に含まれているということも考えられます。

 

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時間の流れ:民主政治体制の退潮(Timeline: Democracy in Recession

 

ラリー・ダイアモンド筆

2015年9月15日

『ニューヨーク・タイムズ』紙

http://www.nytimes.com/interactive/2015/09/13/opinion/larry-diamond-democracy-in-recession-timeline.html?_r=0

 

1974年、ポルトガルでカーネーション革命が起き、ほぼ半世紀にわたった独裁政治が転覆させられた。これが世界的な民主化の動きである「第三の波」の始まりとなった。

 

 民主化の「第一の波」はアメリカ独立革命とフランス革命によって始まり、1922年までに29カ国が民主政治体制国家(democracy、デモクラシー)となった。この数字は共産主義、ファシズム、ナチズムの台頭によって12にまで減った。

 

 民主化の「第二の波」は第二次世界大戦の終焉とともに始まった。植民地からの独立によって、インドやスリランカといった国々が民主政体国家となった。しかし、1964年のボリヴィアとブラジル、1966年のアルゼンチンで起きた軍事クーデターのような事件が象徴しているように、民主化の波はその後退潮した。

 

 カーネーション革命からの30年間、民主政治体制はこれまでにないほどの規模で世界中に拡大した。しかし、2006年あたりを境にしてその動きが止まってしまった。民主政体国家の数は著しく減少している訳ではないが、市民社会の活動範囲は狭まりつつある。自由と民主政治体制は減退しつつある。この時系列表は、過去40年間に渡る民主政治体制の拡大、減退、時には崩壊を示しているものである。

 

●1974年4月25日:カーネーション革命と「第三の波」の発生

 

 1974年4月、国軍運動(MFA)に属していた左翼の将校たちがポルトガルで48年間続いたナショナリストの独裁政治を軍事クーデターで打ち倒した。この事件は、世界規模の民主化における「第三の波」の最初の民主化となった。

 

 それから2年間、政治工作、度重なる労働者のストライク、クーデター計画と対クーデター計画が次々と起きる緊張感のある、不確実な時期が続いた。そして、1976年4月、議会選挙が行われ、マリオ・ソアレスと彼が率いる社会党が連立政権を樹立した。ソアレスは、独裁体制下に12回も投獄されても節を曲げなかった不屈の闘士であった。ソアレスは、ポルトガル語で「起き上がりこぼし」というあだ名で呼ばれていた。このおもちゃは、叩かれてもすぐに起き上がるもので、彼の不屈の闘士ぶりにこのあだ名が奉られた。

 

●1974年11月17日:ギリシア、民主政治体制に復帰

 

1974年7月、ギリシアの軍事政権は崩壊した。それまで7年にわたり政権を維持していた。ギリシアの軍事政権は、キプロスのギリシア系住民たちがクーデターで政権を掌握することを支持した。しかし、クーデターの発生後に、トルコ軍がキプロスに進攻する結果になった。

 

ニューヨーク・タイムズ紙は、7月24日付で、「多くの人々が憲法広場に集まり、“今夜、ファシズムは死ぬんだ!”“これ以上の流血はいらない!”と叫んだ」と報じた。

 

 コンスタンティノス・カラマニリスと保守派の新民主党は、11月に議会選挙で「圧勝」した。

 

●1977年6月:スペイン、民主政体への移行

 

スペインで、1975年に長期にわたり独裁制を敷いたフランシスコ・フランコが死去した。1977年に選挙が実施され、民主的政治体制への移行が終了した。

 

●1980年8月4日:自主管理労働組合「連帯」はポーランドに改革をもたらす

 

「職業学校で教育を受け、大衆政治を熟知した」電気技師レス・ワレサは、共産圏で初めて独立した労働組合を設立した。ポーランドのグダニスク造船所で自主管理労働組合「連帯」が結成された。「連帯」は規模を拡大し、900万以上の組合員を獲得するまでになった。そして、「連帯」は、ポーランドの共産党政権に対する、多くの人々が参加する非暴力の抵抗運動の先駆的なそしてシンボル的な存在となっていった。ポーランドの共産党政権は、「連帯」を潰すために1981年に戒厳令を発令した。

 

 しかし、長年にわたる政治的な抑圧を持ってしても、拡大し続ける人々の抵抗を鎮圧することはできなかった。ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍率いる政府は、社会全体を巻き込む抗議を受けて、1989年2月6日に「連帯」との交渉を行う円卓会議を開催した。

 

 1989年1月21日付のニューヨーク・タイムズ紙の論説記事には、「ポーランドの共産党政権は、自分たちのことを自分たちで決める労働者たちの参加なしに改革を進めることはできないということを認める準備が整ったようだ」と書かれた。

 

 話し合いの結果、1989年6月に民主的な議会選挙を開催することが合意された。これは1947年以降で最も自由な選挙となった。選挙の結果、連帯は連立政権を樹立し、1990年、ワレサは大統領選挙に勝利し、大統領に就任した。

 

●1983年10月30日:アルゼンチンの軍事政権が終焉

 

1980年、ニューヨーク・タイムズ紙は、「現代アルゼンチンの悲しいパラドックスについて考えてみよう」というタイトルの論説を掲載した。その中に次のようないい説があった。「食糧とエネルギーを含む豊富な天然資源と先進性と教育水準の高さは南米諸国の羨望の的となり、繁栄する社会は構築可能だという夢を与えている。アルゼンチンはそれだけの影響力を持っているが、野蛮な政治がその夢をぶち壊している」。

 

 アルゼンチンの軍事独裁政権は1983年に崩壊した。それは前年のフォークランド諸島を巡るイギリスとの間の短期間の戦争に敗北したことが引き金となった。急進的市民連合の指導者ラウル・アルフォンシンは1983年に行われた大統領選挙に勝利し、1976年以来となる民主的な政権を樹立した。これによって7年続いた抑圧は終焉を迎えた。この7年の間に1万人以上(一説には3万人)の人々が軍事政権によって「行方知れず」とされ、より多くの人々が亡命を余儀なくされた。

 

●1985年1月15日:ブラジルの「開放」

 

 長年にわたり民主化運動の指導者であったタンクレード・ネーヴェスは、間接選挙に勝利して、民主政治体制が復活して以降の初の大統領になった。これによって20年にわたる軍事政権は最終的に終焉を迎え、ポルトガル語で「開設」と呼ばれる更なる政治的な民主化プロセスが進むことになった。

 

●1986年2月22-25日:フィリピンの「ピープルズ・パワー」

 

 1983年8月にカリスマ民主化指導者ベニグノ・アキノが暗殺された。アキノはアメリカでの3年に渡る亡命生活からの帰国し、マニラ空港に到着した直後に殺害された。その後、フィリピンでは抗議運動と衝突が起こり、混乱状況になった。1986年2月、故アキノの妻コラソン・アキノが大統領選挙に勝利したが、その結果を守るために多くの人々が非暴力の抵抗運動に参加した。この運動は四日間続いた。そして、20年以上にわたり政権の座にいたフェルディナンド・マルコス大統領は亡命した。コラソン・アキノはその後、大統領に就任した。

 

●1987年6月10―29日:韓国における民主反乱

 

 大学生と拡大していた市民社会の主導する大規模な抗議運動の発生から19日後、軍事政権は、独裁者・全斗煥大統領の後継者を決定するための大統領直接選挙の開催を渋々ながら受け入れた。

 

韓国は第三の波で民主化した国々の中の成功例となり、今日に至っている。

 

●1988年10月5日:チリ国民は、ピノチェトに更なる8年間を与えることを拒否

 

 1988年、15年にわたり抑圧的な軍事支配を続けたアウグスト・ピノチェット将軍は、民主的な指導者としてチリを統治できるかどうか賭けてみようとして、選挙を実施することにした。国民に対して、これから8年間、自分を大統領として選んでくれるかどうかを決めてもらおうとした。

 

 広範な野党勢力が結集し、ピノチェトに対抗して選挙戦を行い、そして55%の得票率を得た。翌年、民主的な選挙が次々と行われ、連立政権が成立した。チリは南米において、最も成功した自由主義的民主国家に変貌を遂げた。

 

●1989年6月4日:北京の天安門広場で民主化運動が破壊される

 

 この日、数千の人民解放軍兵士と数百台の武装した軍車両が学生たちの民主化運動を破壊した。弾圧による死者数は今でも明らかにされていない。しかし、その日だけで数百、恐らく数千の人々が殺害さ、それから数週間の間に数千の人々が拘束され、拷問を受け、処刑されたと考えられている。これ以降、中国における政治改革の大義は姿を消し、1989年の天安門での民主化運動と弾圧について人々が議論することは法律で禁止されている。

 

●1989年秋:ベルリンの壁崩壊

 

 1989年、ハンガリーはオーストリア国境の防衛線を取り払い始めた。その後、数千の東ドイツ国民がハンガリーを経由してオーストリアに脱出した。11月までに東ドイツ国民の脱出は洪水のようになり、11月9日、両ドイツ国民はベルリンの壁を排し始めた。

 

 翌年、東ドイツは、ドイツの再統一を交渉するための移行的な臨時政府を樹立するための民主的な選挙を実施した。

 

 中央ヨーロッパと東ヨーロッパで共産党支配が崩壊した。そして、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア(後に2つの国に分離)をはじめとするほとんどの国が民主政治体制に移行した。

 

●1990年2月11日:南アフリカ初の複数の人種が参加した民主的な選挙が実施

 

 1990年、F・W・デクラーク大統領はネルソン・マンデラ率いるアフリカ国民会議やその他に野党に対する活動禁止を解除した。それから1週間後、マンデラは27年に渡る投獄が釈放された。

 

 1994年4月、アフリカ国民会議は、南アフリカ初の複数の人種が参加した民主的な選挙で圧勝し、ネルソン・マンデラが任期5年の大統領に就任し、民主化移行を進める政府の実権を掌握した。

 

●1991年12月25日:ソヴィエト連邦解体

 

 1991年12月25日、それまで6年半にわたりソヴィエト共産党の書記長として自由化を進めてきたミハエル・ゴルバチョフがソヴィエト社会主義共和国連邦の大統領職を辞任し、ソ連の平和的な解体を宣言した。1990年5月に選挙によってソヴィエト・ロシアの大統領に選ばれたボリス・エリツィンはロシア連邦初の自由な選挙で選ばれた指導者となった。

 

●1996年3月23日:台湾の選挙

 

台湾、中華民国は10年に渡る漸進的な民主化プロセスを終了し、初めての総統選出の為の民主的な直接選挙を実施した。与党・国民党の李登輝総統が、中国の台湾海峡におけるミサイル試射という妨害にもかかわらず、選挙に勝利した。中国はミサイル試射を行うことで、台湾の有権者威嚇し、選挙結果に影響を与えようとしたと見られている。

 

●1999年10月12日:パキスタンでクーデターが発生し、軍事政権が誕生

 

パキスタン軍は、ナワーズ・シャリーフ首相率いる政府を転覆させた。このクーデターは52年のパキスタンの歴史で3度目のクーデターとなった。クーデターは、シャリーフ首相が参謀総長であったパルヴェーズ・ムシャラフ将軍を更迭し四つとして発生した。無血クーデターによって、ムシャラフ将軍が政権に就き、それ以降、長期にわたって軍事政権が続いている。

 

 2008年の選挙で文民による憲法に基づいた統治が復活した。しかし、文民統制に対して軍部の優越は続いている。2007年12月27日には、ベーナズィール・ブット元首相が、議会議員選挙運動中に暗殺されるという事件が起きた。

 

●1999年12月15日:ウーゴー・チャヴェスがヴェネズエラで政権掌握の度合いを強化

 

 1998年、ヴェネズエラの有権者たちはウーゴー・チャヴェスに対して、大統領の権限を強化した内容の憲法を与えた。チャヴェスはそれから遡ること6年前に、クーデターで政権を獲得しようとして失敗した人物であった。新憲法では、大統領の任期は長くなり、再選が認められ、議会の力は弱められ、既存の議会と最高裁判所は廃止されることになった。

 

 2000年7月、チャヴェスが大統領に再選された。議会はチャヴェスに対して、1年間限定で布告のみで支配ができる権限を与えた。そして、チャヴェスは権威主義的な統治体制を強化し、確立していった。

 

●2000年3月26日:プーティンの下、ロシアにおける民主化はストップした

 

 深刻なそして多くの異常な出来事が続いた後、ウラジミール・プーティンは大統領選挙に勝利した。その後、エリティンが指名した後継者プーティンはクレムリンへの権力の集中を進め、ロシア国内に残っていた分裂した自由主義的な反対勢力を抑圧した。

 

 2000年3月26日付ニューヨーク・タイムズ紙は論説で次のように書いた。「プーティン氏は民主的で効果的な統治を行うための機会を手にしている。もし彼がKGBの手法をそのまま踏襲し、クレムリンを要塞とするならば、それはロシアと世界にとって大きな損失になる。」。

 

 2000年以降、プーティンは、連邦システムの権力と説明責任の基礎となる全ての要素である議会、メディア、実業界、そして市民社会を破壊した。そして、盗賊政治を行う、抑圧的な権威主義的政治体制を確立した。

 

●2003~2011年:イラク戦争によって、「民主政治体制の促進」に対してアメリカ国民の世論は硬化した。

 

 アメリカと同盟諸国は、「イラクを非武装化し、人々を解放し、世界を脅威から守るために」イラクに侵攻した。

 

 サダム・フセインの独裁体制はあっけなく崩壊した。しかし、連合国軍はイラク国内に大量破壊兵器が存在する証拠を見つけることが出来なかった。アメリカはイラクにおける民主政治体制の促進戦略へと転換した。戦争とその後の占領によってイラクは分裂した。暴力を伴う宗派対立のためにイラクの状況は不安定のままだ。

 

 汚職、無法状態、不安定さによって現在までイラク国内の統治は機能不全に陥っており、軍事力を行使しての「自由」の達成という考え方に対して多くの人々が疑問を持つようになっている。

 

●2004年11月:ウクライナのオレンジ革命

 

 2004年11月の大統領選挙での大規模な不正を受けて、多くのウクライナ国民はキエフの独立広場に集まり、ソ連崩壊後の支配階級を代表する候補者ヴィクトル・ヤヌコイッチによる選挙結果に対する不正行為への激しい抗議活動を開始した。

 

 野党側の候補者ヴィクトル・ユスチェンコとユリア・ティモシェンコは一緒になって、選挙結果を尊重するように求める運動をウクライナ全土で展開した。抗議をする人々は厳しい寒さの中で座り込みとストライキに敢然と参加した。2004年12月3日、ウクライナの最高裁判所は、選挙結果の無効を決定した。そしてやり直し選挙の結果、ユスチェンコが得票率52%で勝利し、2005年1月23日に大統領に就任した。

 

ウクライナの民主化は、ユスチェンコとティモシェンコが反目し合い、2010年の大統領選挙でヤヌコヴィッチが勝利したことで止まってしまった。ヤヌコヴィッチはウクライナを権威主義体制に引き戻し、ヨーロッパから離れることを選択した。これに対して、二度目の人々の抗議運動が発生した。これが2014年2月に起きたウクライナ政変だ。そして、ウクライナで民主政治体制が機能するための機会が再び生まれたのである。

 

●2011年1月14日、チュニジアでベン・アリが追い落とされ、楽観主義が拡大したがそれは急速にしぼんでしまった

 

チュニジアの独裁者ザイン・ベン・アリ大統領は23年にわたり独裁政治を行った。それが1か月間にわたる草の根の抗議活動を受けて亡命する結果となった。権威主義政治体制に対する人々の抗議活動はエジプトに拡大した。2011年2月11日、29年間政権を維持したホスニ・ムバラク大統領は、人々の抗議活動を受けて、辞任した。

 

 同様の抗議運動がバーレーン、リビア、シリア、イエメンでも発生した。「アラブの春」によって独裁政治が倒され、地域を民主化されるという初期の楽天主義は、革命が宗派争いと抑圧を生み出していく中で消えていった。

 

(終わり)

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