古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:民主化

 古村治彦です。

 

 ジョージ・ソロスがダヴォス会議で、トランプ大統領とインターネット業界の大企業フェイスブック、グーグル、ツイッターを攻撃したということです。盗人猛々しいとはまさにこのことです。ソロスのためにある言葉です。

 

 ソロスがトランプ大統領を攻撃するのは分かります。ソロスのようなグローバリストからすればトランプのようなポピュリストは自分にとっての大きな脅威になります。トランプは世界のことなどどうでもいい、と考えています。「アメリカ・ファースト」「アイソレーショニズム」ということを簡単に言ってしまえばそうなります。

 

 興味深いのは、ジョージ・ソロスがツイッターやフェイスブック、グーグルに対して、「情報の流れを独占しているのだから、もうインフラのようなものだ。それならばより厳しい規制をかけるべきだ」と発言したことです。2016年の米大統領選挙で「フェイクニュース」がこうしたSNSで拡散されて、ヒラリーが負けたと言いたいのでしょう。ロシア政府の介入もあったということも言いたいのでしょう。

 

 拙著『アメリカ政治の秘密』でも書きましたが、2011年のアラブの春では、「民主化」のために、フェイスブックやツイッター、グーグルが利用されました。アラブ諸国で起きた民主化運動の主体となった「若者たちの反体制グループ」がアメリカ国務省で研修を受けていたり、資金援助を受けていた李ということはあまり知られていません。下の記事に出てくるソロスの財団オープン・ソサエティ財団もこうした団体に資金援助を行っていました。

 

 民主化と言えば素晴らしい活動、文句も言えない活動です。しかし、実態は、各国を強制的に民主国家にする、資本主義自由経済を導入させて、ソロスたちのような大富豪たちの投資先を作る、莫大な利益を上げるということでしかありません。

 

 そのためにツイッターやフェイスブックを利用してきたくせに、それに文句をつける、規制をしろなどというのはおかしな話です。自分は市場で規制などされずに金儲けをしているくせに、他人は規制しろなどと言うのは狂っているとしか言いようがありません。

 

(貼り付けはじめ)

 

ダヴォスにおけるジョージ・ソロス:トランプは「世界にとって危険」(George Soros at Davos: Trump 'a danger to the world'

 

ブレット・サミュエルズ筆

2018年1月25日

『ザ・ヒル』誌

http://thehill.com/policy/technology/370757-soros-calls-for-stricter-regulations-on-facebook-google

 

大富豪で、民主党に莫大な献金を続けているジョージ・ソロスは木曜日、スイスのダヴォスで開催されている世界経済フォーラムに出席し、トランプ大統領とテクノロジー産業の大企業を攻撃した。

 

『ブルームバーグ』誌によると、ソロスは次のように発言した。「私はトランプ政権が世界にとって危険だと考えている。しかし、トランプ政権などというものは一時的な現象に過ぎず、2020年には、もしくはそれよりも早い段階で消えてなくなっているだろうとも考えている」。

 

ソロスは続けて次のように述べた。「私は、トランプ大統領が彼の熱心な支持者たちをうまく動員したことに関しては評価している。しかし、熱心な支持者を1人生み出しても、それよりも数の多い熱心な反対者を生み出す結果となっている。反対者たちは賛成者たちと同じ程度に動かされる。私は2018年の中間選挙で民主党が地滑り的大勝利をすると予測している理由はこれだ」。

 

『バズフィード』誌によると、ソロスは気候変動は文明に対する脅威だと述べた。また、特にフェイスブックとグーグルの名前を挙げて、これらに対してより厳しい規制を求めた。

 

ソロスは次のように語った。「フェイスブックやグーグルは、自分たちはただ情報を配っているだけに過ぎないと主張している。しかし、事実としては、彼らはほぼ独占的な情報の分配者となっている。彼らは公共のインフラのようになっている。彼らはより厳しい規制の下に置かれるべきだ。それは、競争、技術革新、公平で開かれた誰でも情報にアクセスできる状態を維持するために必要なことだ」。

 

フェイスブック、グーグル、ツイッターは2016年の大統領選挙後に、それぞれのプラットフォームでフェイクニュースが垂れ流された、プロパガンダに利用されたとして批判にさらされてきた。

 

それぞれの代表者は昨年末、米議会に呼びだされ、ロシア政府がアメリカ大統領選挙に介入するためにこれらのプラットフォームをどのように利用したかについて証言した。

 

木曜日、ソロスは、フェイスブックやグーグルは、中国のような権威主義体制諸国と妥協して、情報に関しての全面的なコントロールに協力していると述べた。

 

ソロスはリベラル派の大口献金者として有名だ。ソロスはオープン・ソサエティ財団を通じて世界中の進歩派の非営利団体に資金援助をしている。

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)







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 古村治彦です。

 

 今回は1970年代以降の「民主化」の動きを時系列的にまとめた記事をご紹介します。この記事で書かれている「第三の波」とは、政治学者の故サミュエル・ハンティントンが唱えた考え方で、世界の民主化の流れは、第一の波、第一の逆の波、第二の波、第二の逆の波と来て、1970年代から第三の波が起きて世界各地で民主化が進んだというものです。

 

 この記事の著者のラリー・ダイアモンドは、民主政治体制や民主化を専門に研究している政治学者で、スタンフォード大学フーヴァー研究所の上席研究員を務めています。そして、アメリカ政府が行っている世界各地の民主化プログラムにも参加している人物で、私の予想では、ヒラリー・クリントンが大統領になった場合には、政府内である程度の高い職分に招聘されるのではないかと思われます。

 

 ここに挙げた民主化の事例の多くに実はアメリカが大きく関わっている、もしくは介入しているという事実を考えると、ダイアモンドがシナリオを書いた「舞台」がこの中に含まれているということも考えられます。

 

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時間の流れ:民主政治体制の退潮(Timeline: Democracy in Recession

 

ラリー・ダイアモンド筆

2015年9月15日

『ニューヨーク・タイムズ』紙

http://www.nytimes.com/interactive/2015/09/13/opinion/larry-diamond-democracy-in-recession-timeline.html?_r=0

 

1974年、ポルトガルでカーネーション革命が起き、ほぼ半世紀にわたった独裁政治が転覆させられた。これが世界的な民主化の動きである「第三の波」の始まりとなった。

 

 民主化の「第一の波」はアメリカ独立革命とフランス革命によって始まり、1922年までに29カ国が民主政治体制国家(democracy、デモクラシー)となった。この数字は共産主義、ファシズム、ナチズムの台頭によって12にまで減った。

 

 民主化の「第二の波」は第二次世界大戦の終焉とともに始まった。植民地からの独立によって、インドやスリランカといった国々が民主政体国家となった。しかし、1964年のボリヴィアとブラジル、1966年のアルゼンチンで起きた軍事クーデターのような事件が象徴しているように、民主化の波はその後退潮した。

 

 カーネーション革命からの30年間、民主政治体制はこれまでにないほどの規模で世界中に拡大した。しかし、2006年あたりを境にしてその動きが止まってしまった。民主政体国家の数は著しく減少している訳ではないが、市民社会の活動範囲は狭まりつつある。自由と民主政治体制は減退しつつある。この時系列表は、過去40年間に渡る民主政治体制の拡大、減退、時には崩壊を示しているものである。

 

●1974年4月25日:カーネーション革命と「第三の波」の発生

 

 1974年4月、国軍運動(MFA)に属していた左翼の将校たちがポルトガルで48年間続いたナショナリストの独裁政治を軍事クーデターで打ち倒した。この事件は、世界規模の民主化における「第三の波」の最初の民主化となった。

 

 それから2年間、政治工作、度重なる労働者のストライク、クーデター計画と対クーデター計画が次々と起きる緊張感のある、不確実な時期が続いた。そして、1976年4月、議会選挙が行われ、マリオ・ソアレスと彼が率いる社会党が連立政権を樹立した。ソアレスは、独裁体制下に12回も投獄されても節を曲げなかった不屈の闘士であった。ソアレスは、ポルトガル語で「起き上がりこぼし」というあだ名で呼ばれていた。このおもちゃは、叩かれてもすぐに起き上がるもので、彼の不屈の闘士ぶりにこのあだ名が奉られた。

 

●1974年11月17日:ギリシア、民主政治体制に復帰

 

1974年7月、ギリシアの軍事政権は崩壊した。それまで7年にわたり政権を維持していた。ギリシアの軍事政権は、キプロスのギリシア系住民たちがクーデターで政権を掌握することを支持した。しかし、クーデターの発生後に、トルコ軍がキプロスに進攻する結果になった。

 

ニューヨーク・タイムズ紙は、7月24日付で、「多くの人々が憲法広場に集まり、“今夜、ファシズムは死ぬんだ!”“これ以上の流血はいらない!”と叫んだ」と報じた。

 

 コンスタンティノス・カラマニリスと保守派の新民主党は、11月に議会選挙で「圧勝」した。

 

●1977年6月:スペイン、民主政体への移行

 

スペインで、1975年に長期にわたり独裁制を敷いたフランシスコ・フランコが死去した。1977年に選挙が実施され、民主的政治体制への移行が終了した。

 

●1980年8月4日:自主管理労働組合「連帯」はポーランドに改革をもたらす

 

「職業学校で教育を受け、大衆政治を熟知した」電気技師レス・ワレサは、共産圏で初めて独立した労働組合を設立した。ポーランドのグダニスク造船所で自主管理労働組合「連帯」が結成された。「連帯」は規模を拡大し、900万以上の組合員を獲得するまでになった。そして、「連帯」は、ポーランドの共産党政権に対する、多くの人々が参加する非暴力の抵抗運動の先駆的なそしてシンボル的な存在となっていった。ポーランドの共産党政権は、「連帯」を潰すために1981年に戒厳令を発令した。

 

 しかし、長年にわたる政治的な抑圧を持ってしても、拡大し続ける人々の抵抗を鎮圧することはできなかった。ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍率いる政府は、社会全体を巻き込む抗議を受けて、1989年2月6日に「連帯」との交渉を行う円卓会議を開催した。

 

 1989年1月21日付のニューヨーク・タイムズ紙の論説記事には、「ポーランドの共産党政権は、自分たちのことを自分たちで決める労働者たちの参加なしに改革を進めることはできないということを認める準備が整ったようだ」と書かれた。

 

 話し合いの結果、1989年6月に民主的な議会選挙を開催することが合意された。これは1947年以降で最も自由な選挙となった。選挙の結果、連帯は連立政権を樹立し、1990年、ワレサは大統領選挙に勝利し、大統領に就任した。

 

●1983年10月30日:アルゼンチンの軍事政権が終焉

 

1980年、ニューヨーク・タイムズ紙は、「現代アルゼンチンの悲しいパラドックスについて考えてみよう」というタイトルの論説を掲載した。その中に次のようないい説があった。「食糧とエネルギーを含む豊富な天然資源と先進性と教育水準の高さは南米諸国の羨望の的となり、繁栄する社会は構築可能だという夢を与えている。アルゼンチンはそれだけの影響力を持っているが、野蛮な政治がその夢をぶち壊している」。

 

 アルゼンチンの軍事独裁政権は1983年に崩壊した。それは前年のフォークランド諸島を巡るイギリスとの間の短期間の戦争に敗北したことが引き金となった。急進的市民連合の指導者ラウル・アルフォンシンは1983年に行われた大統領選挙に勝利し、1976年以来となる民主的な政権を樹立した。これによって7年続いた抑圧は終焉を迎えた。この7年の間に1万人以上(一説には3万人)の人々が軍事政権によって「行方知れず」とされ、より多くの人々が亡命を余儀なくされた。

 

●1985年1月15日:ブラジルの「開放」

 

 長年にわたり民主化運動の指導者であったタンクレード・ネーヴェスは、間接選挙に勝利して、民主政治体制が復活して以降の初の大統領になった。これによって20年にわたる軍事政権は最終的に終焉を迎え、ポルトガル語で「開設」と呼ばれる更なる政治的な民主化プロセスが進むことになった。

 

●1986年2月22-25日:フィリピンの「ピープルズ・パワー」

 

 1983年8月にカリスマ民主化指導者ベニグノ・アキノが暗殺された。アキノはアメリカでの3年に渡る亡命生活からの帰国し、マニラ空港に到着した直後に殺害された。その後、フィリピンでは抗議運動と衝突が起こり、混乱状況になった。1986年2月、故アキノの妻コラソン・アキノが大統領選挙に勝利したが、その結果を守るために多くの人々が非暴力の抵抗運動に参加した。この運動は四日間続いた。そして、20年以上にわたり政権の座にいたフェルディナンド・マルコス大統領は亡命した。コラソン・アキノはその後、大統領に就任した。

 

●1987年6月10―29日:韓国における民主反乱

 

 大学生と拡大していた市民社会の主導する大規模な抗議運動の発生から19日後、軍事政権は、独裁者・全斗煥大統領の後継者を決定するための大統領直接選挙の開催を渋々ながら受け入れた。

 

韓国は第三の波で民主化した国々の中の成功例となり、今日に至っている。

 

●1988年10月5日:チリ国民は、ピノチェトに更なる8年間を与えることを拒否

 

 1988年、15年にわたり抑圧的な軍事支配を続けたアウグスト・ピノチェット将軍は、民主的な指導者としてチリを統治できるかどうか賭けてみようとして、選挙を実施することにした。国民に対して、これから8年間、自分を大統領として選んでくれるかどうかを決めてもらおうとした。

 

 広範な野党勢力が結集し、ピノチェトに対抗して選挙戦を行い、そして55%の得票率を得た。翌年、民主的な選挙が次々と行われ、連立政権が成立した。チリは南米において、最も成功した自由主義的民主国家に変貌を遂げた。

 

●1989年6月4日:北京の天安門広場で民主化運動が破壊される

 

 この日、数千の人民解放軍兵士と数百台の武装した軍車両が学生たちの民主化運動を破壊した。弾圧による死者数は今でも明らかにされていない。しかし、その日だけで数百、恐らく数千の人々が殺害さ、それから数週間の間に数千の人々が拘束され、拷問を受け、処刑されたと考えられている。これ以降、中国における政治改革の大義は姿を消し、1989年の天安門での民主化運動と弾圧について人々が議論することは法律で禁止されている。

 

●1989年秋:ベルリンの壁崩壊

 

 1989年、ハンガリーはオーストリア国境の防衛線を取り払い始めた。その後、数千の東ドイツ国民がハンガリーを経由してオーストリアに脱出した。11月までに東ドイツ国民の脱出は洪水のようになり、11月9日、両ドイツ国民はベルリンの壁を排し始めた。

 

 翌年、東ドイツは、ドイツの再統一を交渉するための移行的な臨時政府を樹立するための民主的な選挙を実施した。

 

 中央ヨーロッパと東ヨーロッパで共産党支配が崩壊した。そして、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア(後に2つの国に分離)をはじめとするほとんどの国が民主政治体制に移行した。

 

●1990年2月11日:南アフリカ初の複数の人種が参加した民主的な選挙が実施

 

 1990年、F・W・デクラーク大統領はネルソン・マンデラ率いるアフリカ国民会議やその他に野党に対する活動禁止を解除した。それから1週間後、マンデラは27年に渡る投獄が釈放された。

 

 1994年4月、アフリカ国民会議は、南アフリカ初の複数の人種が参加した民主的な選挙で圧勝し、ネルソン・マンデラが任期5年の大統領に就任し、民主化移行を進める政府の実権を掌握した。

 

●1991年12月25日:ソヴィエト連邦解体

 

 1991年12月25日、それまで6年半にわたりソヴィエト共産党の書記長として自由化を進めてきたミハエル・ゴルバチョフがソヴィエト社会主義共和国連邦の大統領職を辞任し、ソ連の平和的な解体を宣言した。1990年5月に選挙によってソヴィエト・ロシアの大統領に選ばれたボリス・エリツィンはロシア連邦初の自由な選挙で選ばれた指導者となった。

 

●1996年3月23日:台湾の選挙

 

台湾、中華民国は10年に渡る漸進的な民主化プロセスを終了し、初めての総統選出の為の民主的な直接選挙を実施した。与党・国民党の李登輝総統が、中国の台湾海峡におけるミサイル試射という妨害にもかかわらず、選挙に勝利した。中国はミサイル試射を行うことで、台湾の有権者威嚇し、選挙結果に影響を与えようとしたと見られている。

 

●1999年10月12日:パキスタンでクーデターが発生し、軍事政権が誕生

 

パキスタン軍は、ナワーズ・シャリーフ首相率いる政府を転覆させた。このクーデターは52年のパキスタンの歴史で3度目のクーデターとなった。クーデターは、シャリーフ首相が参謀総長であったパルヴェーズ・ムシャラフ将軍を更迭し四つとして発生した。無血クーデターによって、ムシャラフ将軍が政権に就き、それ以降、長期にわたって軍事政権が続いている。

 

 2008年の選挙で文民による憲法に基づいた統治が復活した。しかし、文民統制に対して軍部の優越は続いている。2007年12月27日には、ベーナズィール・ブット元首相が、議会議員選挙運動中に暗殺されるという事件が起きた。

 

●1999年12月15日:ウーゴー・チャヴェスがヴェネズエラで政権掌握の度合いを強化

 

 1998年、ヴェネズエラの有権者たちはウーゴー・チャヴェスに対して、大統領の権限を強化した内容の憲法を与えた。チャヴェスはそれから遡ること6年前に、クーデターで政権を獲得しようとして失敗した人物であった。新憲法では、大統領の任期は長くなり、再選が認められ、議会の力は弱められ、既存の議会と最高裁判所は廃止されることになった。

 

 2000年7月、チャヴェスが大統領に再選された。議会はチャヴェスに対して、1年間限定で布告のみで支配ができる権限を与えた。そして、チャヴェスは権威主義的な統治体制を強化し、確立していった。

 

●2000年3月26日:プーティンの下、ロシアにおける民主化はストップした

 

 深刻なそして多くの異常な出来事が続いた後、ウラジミール・プーティンは大統領選挙に勝利した。その後、エリティンが指名した後継者プーティンはクレムリンへの権力の集中を進め、ロシア国内に残っていた分裂した自由主義的な反対勢力を抑圧した。

 

 2000年3月26日付ニューヨーク・タイムズ紙は論説で次のように書いた。「プーティン氏は民主的で効果的な統治を行うための機会を手にしている。もし彼がKGBの手法をそのまま踏襲し、クレムリンを要塞とするならば、それはロシアと世界にとって大きな損失になる。」。

 

 2000年以降、プーティンは、連邦システムの権力と説明責任の基礎となる全ての要素である議会、メディア、実業界、そして市民社会を破壊した。そして、盗賊政治を行う、抑圧的な権威主義的政治体制を確立した。

 

●2003~2011年:イラク戦争によって、「民主政治体制の促進」に対してアメリカ国民の世論は硬化した。

 

 アメリカと同盟諸国は、「イラクを非武装化し、人々を解放し、世界を脅威から守るために」イラクに侵攻した。

 

 サダム・フセインの独裁体制はあっけなく崩壊した。しかし、連合国軍はイラク国内に大量破壊兵器が存在する証拠を見つけることが出来なかった。アメリカはイラクにおける民主政治体制の促進戦略へと転換した。戦争とその後の占領によってイラクは分裂した。暴力を伴う宗派対立のためにイラクの状況は不安定のままだ。

 

 汚職、無法状態、不安定さによって現在までイラク国内の統治は機能不全に陥っており、軍事力を行使しての「自由」の達成という考え方に対して多くの人々が疑問を持つようになっている。

 

●2004年11月:ウクライナのオレンジ革命

 

 2004年11月の大統領選挙での大規模な不正を受けて、多くのウクライナ国民はキエフの独立広場に集まり、ソ連崩壊後の支配階級を代表する候補者ヴィクトル・ヤヌコイッチによる選挙結果に対する不正行為への激しい抗議活動を開始した。

 

 野党側の候補者ヴィクトル・ユスチェンコとユリア・ティモシェンコは一緒になって、選挙結果を尊重するように求める運動をウクライナ全土で展開した。抗議をする人々は厳しい寒さの中で座り込みとストライキに敢然と参加した。2004年12月3日、ウクライナの最高裁判所は、選挙結果の無効を決定した。そしてやり直し選挙の結果、ユスチェンコが得票率52%で勝利し、2005年1月23日に大統領に就任した。

 

ウクライナの民主化は、ユスチェンコとティモシェンコが反目し合い、2010年の大統領選挙でヤヌコヴィッチが勝利したことで止まってしまった。ヤヌコヴィッチはウクライナを権威主義体制に引き戻し、ヨーロッパから離れることを選択した。これに対して、二度目の人々の抗議運動が発生した。これが2014年2月に起きたウクライナ政変だ。そして、ウクライナで民主政治体制が機能するための機会が再び生まれたのである。

 

●2011年1月14日、チュニジアでベン・アリが追い落とされ、楽観主義が拡大したがそれは急速にしぼんでしまった

 

チュニジアの独裁者ザイン・ベン・アリ大統領は23年にわたり独裁政治を行った。それが1か月間にわたる草の根の抗議活動を受けて亡命する結果となった。権威主義政治体制に対する人々の抗議活動はエジプトに拡大した。2011年2月11日、29年間政権を維持したホスニ・ムバラク大統領は、人々の抗議活動を受けて、辞任した。

 

 同様の抗議運動がバーレーン、リビア、シリア、イエメンでも発生した。「アラブの春」によって独裁政治が倒され、地域を民主化されるという初期の楽天主義は、革命が宗派争いと抑圧を生み出していく中で消えていった。

 

(終わり)

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