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 古村治彦です。

 


 本日は『巨魁』(清武英利著、ワック、2012年)を皆様にご紹介いたします。清武英利氏(1950年~)は、プロ野球セントラル・リーグに所属する日本最古のプロ野球球団である読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の球団代表、ジェネラル・マネージャー(
GM)、オーナー代行などを務めた人物です。球団代表、GM、オーナー代行などといった職務は、「フロント」と呼ばれ、球団の運営を行っています。

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渡邉恒雄(左)と清武英利

 

 清武氏は読売新聞社会部記者を長年務め、2004年に読売巨人軍球団代表兼編成本部長に就任しました。清武氏が球団代表に就任した2004年、読売ジャイアンツは堀内恒夫監督(現役時代は巨人のエース背番号18番を背負い、通算203勝を挙げたV9時代の大エース)が率いながら優勝を逃し、シーズン中に大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの合併が発表され、球界再編の嵐が引き荒れた動乱の年でした。

 

 新聞記者からプロ野球空団のフロント幹部に転身した清武氏は、何も知らない状況で球界再編に直面しつつ、巨人軍の強化と覇権奪還(セ・リーグ制覇、日本一)を目指すことになりました。また、彼の上司になる渡邉恒雄(1926年~)にも対応しなければなりませんでした。渡邉恒雄と言えば、プロ野球好きには、「ナベツネ」の愛称でよく知られた人物です。巨人軍のオーナーで、辛辣で率直な物言いで巨人ファン、アンチ巨人ファンの心を騒がせる人物です。渡邉恒雄は、読売新聞の世界最大の発行部数「1000万部」を守り、発展させるために巨人軍があるという考えで、そのためには巨人軍が常勝球団でなければならない、そのためには大金を投じて補強をしなければならなないという考えでした。これは今も変わっていないでしょう。

 

 清武氏は、スター軍団であるだけでは巨人は強くならない、自前の選手を球団で育ててスターにすること、そして、若者たちがプロ野球に挑戦しやすくし、「一芸に秀でた」「異能」の選手をプロ野球に迎えるために「育成選手制度」を導入しました。この育成制度によってプロとなり、活躍している代表例が巨人軍の山口鉄也投手と松本哲也外野手で、2人とも新人王に選ばれました。また、スカウト制度や選手評価を近代化するために、大リーグのニューヨーク・ヤンキースで研修を行い、ベースボール・オペレーション・システム(Baseball Operation System)を導入しています。また、2011年には野村克也監督時代にヤクルトで活躍し、その後、野村氏が東北楽天ゴールデンイーグルス監督時代にはコーチとなった橋上秀樹を戦略担当コーチとして招聘しています。結果、2007年から2009年までセ・リーグ3連覇を達成していますし、2012年、2013年も連覇しています。清武氏の改革が巨人軍の強さを取り戻したということが言えます。

 

 清武氏がこのような改革を進める中で、その対処に一番困ったのが渡邉恒雄です。「二塁手と遊撃手でどちらが一塁に近いのか」ということを知らないほどの野球音痴の人物が巨人軍の最高意志決定者、独裁者であるために、様々なことが起こります。また、選手の衰えが見えると途端に悪口雑言を投げかけ、球団から追い出そうとする人物であるということも清武氏は書いています。

 

 清武氏が渡邉氏に最終的に反抗したのは、巨人の次のシーズンのコーチ陣の陣容が決まった段階で、それを鶴の一声で覆し、岡崎郁ヘッドコーチがいながら、江川卓氏をヘッドコーチとして招聘するということを勝手に決めたことが理由となっています。清武氏は、巨人軍内部のコンプライアンスを守るために、敢えてこのことを記者会見で発表することで、渡邉氏に反抗し、巨人軍から、そして読売全体から追い出されることになりました。

 

 本書『巨魁』は、読売巨人軍の改革、渡邉恒雄の独裁者ぶり、読売新聞内部にある政治部と社会部の対立といったことも分かって大変面白い内容です。また、現場の指揮官である原辰徳監督の話はあまり出てきませんが、清武氏と原監督との間に遭った不和といったことも読み取ることができます。

 

 清武氏は、本書のあとがきの中で、37歳で急逝した、宮崎県立宮崎南高校の後輩であった木村拓也コーチのことを書いています。木村拓也は投手以外のどのポジションでもこなせるユーティリティー・プレイヤーとして、日本ハムファイターズ、広島東洋カープ、読売ジャイアンツでプレーしました。2009年に現役引退後、一軍守備内やコーチに就任しましたが、2010年4月2日に広島での試合前にノックを打っている途中に脳内出血で倒れ、意識不明となり、4月7日に亡くなりました。

 

木村拓也はドラフト外(練習生扱い)で進学校である宮崎南高校から日本ハムに入団し、広島に移籍してから才能が開花し、巨人でも活躍しました。通算で1500試合に出場し、1000本以上の安打を記録した、一流選手でもありました。また、広島時代の2000年にはアテネオリンピックに野球日本代表として出場し、銅メダルを獲得しました。

 

 清武氏は、野球エリート出身ではない木村選手のようなたくましい選手を巨人に生み出そうとして、選手の育成やスカウトの改革を行ったと書いています。清武氏も立命館大学を学生運動に関わったせいで5年かけて卒業し、読売新聞にも本社採用ではない記者としてエリートではない道を進んだということです。また、読売新聞社会部に所属し、巨悪と戦うという生活をしていたということもあって、反骨精神が宿っている人物であるということが分かります。

 

 面白いのは、清武氏も彼が闘うことになった渡邉恒雄氏も共に学生運動出身であるという点です。清武氏ははっきりとは書いていませんが、立命館大学で学生運動の組織に入っていたかのような書きぶりです。一方、渡邉恒雄氏は、セゾングループの故堤清二、日本テレビ社長の故氏家斉一郎といった人々と東大時代に共産党細胞として活動していたことは有名な話です。

 

 彼らの動きを見ていると、学生運動を通じてに培ったであろう正義感と反骨心、そして人々を動かすマキャベリズムいったものが見て取れます。

 現在、野球人気は低下していると言われています。巨人と言うと、今の小学生たちはアニメの「進撃の巨人」の巨人を思い出すとさえ言われています。野球の人気復活には巨人の人気復活が不可欠だとも言われています。しかし、V9だ、読売の1000万部確保のための尖兵だといった感覚で巨人軍が運営されている限り、それは難しいのではないかと私は考えています。 

 

(終わり)