ダニエル・シュルマン
講談社
2015-11-25



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12





 古村治彦です。

 

 2015年9月27日深夜に左耳に違和感が生じ、吐き気やめまいも感じたために、28日に病院を受診したところ、突発性難聴と診断されました。すぐに入院となり、本日10月6日に退院となりました。突発性難聴という病気は、誰にでも起こりうる病気で、原因が特定されていない難病の1つです。たいていの場合は治る病気ですが、さすがになった時にはとても驚きました。

 

 本日まで病院で治療をし、お世話になりました。社会保障制度の基礎として、相互共助があります。皆様からの負担金で運営されている社会保障制度によって今回お世話になることが出来たことに、深く感謝し、病気を治し、次は自分が支えられるようにしていきたいと考えます。

 

 今回、このような病気になりましたが、安心感を持って過ごすことが出来たことは、日本の社会保障制度のお蔭だと思います。私もしばらく生活したアメリカでは、このような訳にはいかなかっただろうと思います。高額の医療負担とにらっめこしながら、病気の不安と戦いながら、たとえ治療が途中になってもお金が無くなれば病院から追い出されたことだと思います。資本主義の論理を突き詰めていけば、人間の存在とはそのようなものになるのだと思います。

 

 社会福祉、社会保障にお金(公的資金、税金)がかかる問題は先進国では深刻な問題です。それを解決するために資本の論理の導入が進められようとしています。しかし、その最先端国であるアメリカでは、資本の「剥き出し」の論理によって、お金のない人間がゴミ屑のように扱われているという現実があります。もちろん、福祉に「たかって」生きることは悪です。社会保障費の増大を進め、社会保障制度、ひいては国家の破綻にまでつながってしまいます。この難しい問題をどのように解決すべきか、私自身は答えを見つけられません。しかし、少なくとも、現在の日本の社会保障体制の根幹は維持しながらの漸進的な改良こそが道筋ではないかと考えます。

 

 私の入院中、ラグビーの日本代表がワールドカップの三戦目でこれまで分の悪かったサモア代表に勝つという嬉しいニュースがありました。小学生の時に、今泉、堀越の一年生コンビが活躍した早稲田のラグビーに憧れて以降、30年近く、ただのラグビーファンでしかありませんでしたが、日本ラグビーの進歩には感激しています。

 

 ラグビーティームは1ティーム15名編成ですがフォーワードとバックスの選手に分かれます。様々な体型や能力の選手たちがいて、彼らが適材適所のポジションでティームとして機能しています。良いティームとは個々の能力を活かしながら、個々の献身を引き出し、それぞれをうまくオーガナイズしていくものです。誰か一人スターがいるからと言って勝てるものではありません。また、上から引っ張るような、個を潰すような日本にありがちなリーダーシップではラグビーティームはオーガナイズされません。私たちは、今回のラグビー日本代表ティームの姿に、これまでの日本型ではない新しいティームの形を見ており、それに新鮮な驚きを持っているのだと思います。

 

 安倍晋三首相は先日の記者会見で、「一億総活躍社会」なる、「国家総動員」という言葉とよく似たコンセプトを打ち出しました。安倍首相の祖父である岸信介が革新官僚として商工省や満州で活躍し、東條英機内閣の商工大臣となって太平洋戦争に突入する訳ですが、国防国家のための総動員という概念を打ち出しました。これは、日本的な上からの、個を潰すような形のリーダーシップでありました。私は、安倍首相の今回の「一億総活躍社会」という言葉遣いにもそのような匂いを感じます。もっと言えば、「活躍」という言葉の定義が曖昧であり、何を持って活躍というのか、そもそも安倍首相や自民党の面々はそれなら「活躍」しているのか、偉そうに国民に対して「活躍せよ」と言えるのかと私は思います。

 

 このような管理型の匂いがする「一億総活躍社会」がうまくいくとは思えません。それは、日本国民の多くが「個」の重要性に気付きながら、かつ「共」との両立、更には新たなリーダーシップに関して気付き始めていると思うからです。そのようなときに、「一億総活躍」などという定義も曖昧なことを言われても、国民は「はいはい、また税金の無駄遣いがあるのね」くらいにしか思わないでしょう。

 

 社会における「個」と「共」の関係は人類永遠のテーマだと思います。政治思想の潮流で言えば、個を優先する考えがリバータリアニズムとなり、共を優先する考えが共産主義となります。それぞれが2つのベクトルの先にあるとすると、現実はその中間にあると思います。それぞれが実現した社会は恐らく地獄のようになるでしょう。それはどちらの考えも「個」と「共」のバランスを著しく欠いた極端なものであるからです。

 

 私は「個」と「共」のバランスを決める要素は多くあり、かつそれらは複雑に絡み合っています。また、個を活かす要素が共をダメにすることがありますし、その逆もまたあります。最善のバランスは永遠に見つからないかもしれません。それでも、過剰を起こしながら、頭をあちこちにぶつけながら、人類は少しずつ進んでいくんだろうと思います。漸進的改良主義は常に批判されてきましたが、結局これで行くしかないという大変平凡な話になってしまいます。「お前の話は面白みがない」という批判を受けますが、まさにその通りだと思います。

 

 以上、とりとめもなくなりましたが、今回人生初の入院を経験して、私が考えたことを書きました。


(終わり)





野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23